Topページへ
アコの部屋
容量の関係で「アコの部屋」は縮小しました。
容量不足により「ピピ(2007-2015)日記」は削除しました。



やまとうたのふるさと


HP容量不足のため旅の記録
YAHOO! ブログにUPしています
画像を↓クリックして下さい


↑愛車TYPHOON!!
言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国のうた in さぬき
無伴奏の「和歌披講」& 足踏みオルガンで歌う「唱歌」と「童謡」
不定期開催・参加費無料・駐車場なし (場所・日程等のお問い合わせはトップページの「Contact Us」よりどうぞ)

近      況
日付メ   モ
'17.04.24
 明治に忌部神社が新設されたのはWikipediaによればこういうことらしいですね…。
 明治以降の国家神道は神社のあり方を激しく変えてしまったようです。
 もちろん江戸時代にも水戸光圀公のように日本を儒教の国にしようとした人がいたわけですが。

 直接の御縁は全くありませんでしたが、天皇の国師直伝録にこうあります。
 「神道とは、各々その民族の原始共同祖先を祀り拝む事である」
 よくわかりませんが、権力闘争や集金システムとして機能することではないらしい…。
 稚拙ながら私は「祖先を神として祀っていた縄文時代」を範としたいと考えてきました。
 磐座信仰にはお金がかかりませんが、社殿を建て替えるとなると巨額の寄付金が必要となります。
 お金=おが絡むと何かと厄介です。悪しきことに巻き込まれないよう逃げを鍛えねば。

 何でもコロコロ変わる日本にあって「古事記」「日本書紀」以前から変わらないとされるうたの歌詞。
 今や悪いイメージに貶められてしまった感のある言霊思想に日本人の特性があるように思います。
 民族の美感を通過したものだけが真のインターナショナルに到達できるとの言葉を理解するには
 先ず民族の美感とやらを見極め、体得せねばなりません。
 容易に達成できないので死ぬまでの暇つぶしとしては最上の課題に違いないと喜んでおります。
 
'17.04.23
 徳島へ行くなら香川県へも…と考えていたためスケジュールがなかなか組めませんでした。
 国内を旅して感じるのは「すべての道は東京に通ず」で隣県へも東京からの方が便利だったりします。
 結局、今回は徳島往復と決めたら、すんなりプランが完成しました。
 しかし、阿波は厄介です。徳島ではこんな主張が堂々と…

   古事記の話は、徳島に当てはめていけば、ジグゾーパズルが完成していくのです。
   「イズモ(イツモ)」も「コシ(コシラ)」も「スワ」も阿波の地名なのでした。
   カワチ・スイタ・アワミ・カモ・ヤマシロ・ギオン・ケタ・ミマ・ミノ・ヨシノ・クマノ・ナラ・イセ
   その他いろいろ。徳島の地名は、そのまま古事記か畿内を見ているようです。
   しかも自然にストーリーと位置関係が一致するのだからリアルです。

 残念ながら↑こういう場所は日本中に幾つも存在します。
 第一に『古事記』に沿って神社が作られていった経緯から。
 第二に「都は一ヶ所ではなく二ヶ所、三ヶ所につくれ」との天武天皇の言葉から。

 邪馬台国も三輪山大物主も諏訪大社も…みんなルーツは阿波にある!と主張する方々は恐らく
 大同2年(807)に斎部(忌部)広成が著した『古語拾遺』に拠っておられるのでしょう。
 けれどそれは中臣氏の勢力に押されて表舞台から消えんとする忌部氏が自らを誇張して書いたもの。
 しかも松岡正剛氏も書いておられるように「度会氏のことは捨象されている」のです。
 伊勢神宮の祭祀について語るのなら伊勢度会信仰や外宮の起源は無視できないはずですが?
 一般に客観性を欠くとして本書を鵜呑みにする人は少ないようです。

 また、阿波忌部の本拠地として何かにつけて忌部が出てきますが、忌部の歴史っていつからですか?
 たとえ弥生時代に渡来した人々が活躍できる土壌があったとしても日本はまだ統一されていません。
 大化の改新以前に忌部があったとしても、8世紀半ばまで北部九州の戸籍は提出されていないのです。
 801年に陸奥へ向かい蝦夷討伏を成功させた坂上田村麻呂(758-811)は空海と同時代の人でした。
 (坂上田村麻呂はともかく空海をも忌部と決めつける人たちまで!? 根拠は必ず明示して下さいね)

 まだ日本が完全に統一されていない時代、忌部の役目は朝廷への献上品などの調達でした。
 出雲(玉)・紀伊(材木)・阿波(大麻)・讃岐(盾)等に設置されていた品部の掌握と物資の徴収です。
 安房国で書いた事例と同じく、徳島県にある古墳の主を阿波忌部氏としたのではないでしょうね?
 天皇家以前の歴史に興味がある私とは接点の無い主張だし、取り上げたい問題でもありません。
 が、海人族の動きや勢力圏を把握するために、歪められた主張は崩してゆかなくてはなりません。
 このところずっと地図を眺めていたのでおおよその見当はつきました。
 わざわざ行かなくてもよさそうなものですが、実際に現場を見ないと私自身が納得できないため。
 他方、山歩きは本当に楽しみです。一人だと許可されないため、M先生ご夫妻のお世話になります。
 
'17.04.22
 本日ようやく倭琴が戻ってきました。絲の締め直しをお願いしていたのです。
 と申しますのも、4/13に福島へ行った際、絹糸を束ねた葦津緒が外れたのです!!
 10年ほど弾いてきて初めてです。五絃のうち4番目の絃を引っ張って支えている葦津緒でした。
 倭琴の絲は10時間のレコーディングを何日やってもビクともしないのが普通です。
 切れることは先ず無く、何年か経って緩んでくると絲締めに出すという感じです。
 その日は5ヶ所で弾き、あの甲子大国社でケースから出したら葦津緒が外れていたのです!?
 物凄い張力ですから、力任せに外そうとしても外れるものではありません。
 しかも、その絃は昨夏新しい鯨筋に張り替えたばかりでした。
 絲締めは一週間ずっと琴柱を立てて緩み具合を調節しつつ音程を合わせてゆきます。
 一週間琴柱を立てておいても切れたり緩んだりしない状態になってから戻ってくるわけです。
 現在、和琴&倭琴を七面もっていますが、10年間一度も絲を締め直していないものもあります。
 それが、触ってもいないのにパンパンに引っ張られている葦津緒が外れるとは…(信じられません)。
 かといってオカルト的な妄想は禁物です。原因は探らないといけませんが。

 倭琴がなかった一週間、私にとっては大変な収穫がありました。
 歌だけをチェックでき、いかに発音や発声のポイントが揺らいでいたかを痛感させられたのです。
 琴とのバランスをとるには声が歩み寄る方が簡単というのが弾き歌いの宿命なのかもしれません。
 そのためか、最初に歌だけで演奏した時には平均台から何度も落下しそうなポジションでした。
 これは、いわゆる日本のポピュラーソングやヨーロッパのオペラなら問題ありません。
 むしろ外連味たっぷりにやることを望む観客も多いのでは?
 でも日本の古代歌謡の場合、「二河白道」的な発声法でなくてはならないと感じます。
 宗教に興味はありませんが、以前高岡の善興寺で大好きな棟方志功の作品を見せて頂きました。
 このイメージ(どちらに落ちても地獄!?)で歌ったら平均台から落ちない歌い方になりました。
 今日からは倭琴の弾き歌いでも「1時間うたっても動かないポジション」を身につけます!
 それはそれで大変な超絶技巧だと思います(精神的にも)。
 ポジション移動の妙を追究する世界にいたのに、この10年でずいぶん考え方が変わったものです。
 「聞かせる歌」「大向うを唸らせる演奏」は全く通用しない世界なのだと心から納得できました。
 
'17.04.21
 ごはんにはヌカ漬け! 簡単にできるのに、外ではなぜ市販の漬け物ばかり出てくるのでしょうか?
 実は5月の徳島行きも食事がネックになっています。またまたM先生ご夫妻に御面倒をおかけするのですが、第一希望のプランだと泊まれる宿がありませんでした。5,000円で夕食をつけられると書いてあったので小麦アレルギーの件をお願いしてみたら「仕出し屋から持ってくるので対応できません」との返事!? 冷凍のフライとか蟹の甲羅を使ったグラタンとか!? 勘弁して下さい…ということでプランを練り直していますが、行きたい場所が離れているため、なかなかルートが決まりません。M先生、今しばらくお待ち下さいませ!!
'17.04.20
 旅のあいだヌカ床をまぜてくれる人がいないため何度も冷蔵庫内で爆発!! させてしまい、しばらく休んでいましたが、高知産の野菜が入荷したので迷わず買いました。5月の旅でダメにすると思いますが、鷹の爪などを入れてヌカ床を完成させました。ホテルや旅館で添加物だらけの漬け物を出される昨今、ヌカ床の大切さを痛感しています。
 さて、己を整えようとしない人が連日「病院を変わりたい」と言うので困り果てています。その言に従って何度も転院させましたが、骨が折れ始めてからの30年間、ちゃんとリハビリをした日は数えるほどしかありません。自分がやるべきことをやらないで脳に記憶された痛みを注射でとろうなんて…。
'17.04.19
 私はよほど今の宗教の形が嫌いなんだなと思います。第一に縄文の祖先崇拝は金銭を伴いません。
 社叢には心奪われますが、征服と合祀・遷座の歴史には心が萎みます。
 ちなみに、4/15の天皇の国師直伝録は
 「宗教とは己を極める事であって、何か特定の神仏を信仰する事では無い」でした。
 また何度か書かれていた言葉に
 釈迦曰く「人は誰もが生・老・病・死に直面する」、ゆえに「最後はよく整えし己以外に無い」(国師)
 がありまして私も己を鍛えようとしているわけですが?
 修行とは言え、神社に行くと考えただけで身の毛がよだつというか、イヤ〜な感じがするのです。
 しかし、楽しいことをやっていては修行にはなりません。嫌なことを乗り越えてこそ修行です!
 にも拘わらず、宗教にハマってる?! なんて心配されたりすると返す言葉がありません。
 信じてさえいなければ何をやっても大丈夫…と考えているフシはあります。思考停止は嫌なので。

 それで学問的な興味に主眼を置いているのですけれど、机上の空論になっても困ります。
 そのためには、神社と記紀との関係を探るべく現地へ足を運び、神紋や祭神や遷座の有無を確かめ、
 祭神に合った古代歌謡を演奏し、場違いでないかどうかを確認せねばなりません。

 実はイセ・イソの地を歩く前にアサクラへ行こうと考えていました。金明竹を見に。
 それがどうしても実行に移せないので不思議に思っていましたが、祭神に合わせた古代歌謡を選ぶ
 必要があるとしたら私にはアサクラで演奏できる歌がない!?
 というわけで神楽歌「朝倉」を練習しようと久々に文献を紐解きました。
 すると「朝倉―筑前国(福岡県北部)」と解説されていてズッコケました。筑前国は福岡県西部です。
 その筑前国最南端に百済を援護しに行った斉明天皇の朝倉橘広庭宮(現朝倉市)がありました。

 神楽歌「朝倉」については「筑前国ノ風俗ナリ。延喜21年ニ神楽ニ加ヘラル」との説があるものの、
 『新古今集』には皇太子として朝倉へ同行していた天智天皇の御製として収められています。
 また、歌詞に「神楽ノ遊ニ仕ツル時ハノ音振(ネブリ)ニ唱フ」との添書きがありますが、現在は
 別の曲で歌われているため、それを「」の曲と歌い比べたりしています。
 雅楽寮が設置されたのが701年、「延喜21年」に風俗(ふぞく)歌「朝倉」が神楽になってから千年余。
 内容に齟齬をきたしたりしていないか、たしかめつつ進んでゆきたく思います。
 
'17.04.18
 こちらも書こうか書くまいか迷ったのですけれど、私自身のメモなのでやはり書いておきます。
 件の御僧侶に写真を見せて頂き、現場に足を運んで聞いた話。
 (この方は地区ごとに人口が何人、亡くなられた方が何人、行方不明者が何人と暗記されてます)

 今年の3月に立入禁止が解除された地区に「許可証」を持って通われていた時のこと。
 人が居なくなった地区で目にしたのは鎖に繋がれたまま白骨化した犬、犬小屋から出られないまま
 餓死して白骨化した犬、そして牛や馬…。「許可証」が出るまで数年を要した地区だったそうです。
 首輪のある骨はその地に埋葬して読経。犬舎や牛舎にあった骨は外へ出してから埋葬して読経。
 連日、被災地に泊まりがけで行なわれたそうです。
 すると、取材等は一切お断りしていたのに、人伝に「この住所へ行って様子を見てきて欲しい」とか、
 「お墓参りをして読経して貰いたい」といった依頼が寄せられるようになったそうです。
 と同時に、無料で供養をされては困るとの苦情も舞い込んできたというのですから言葉もありません。

 いかに生きるか…という選択は本人に任されています。そして生きた結果は自己責任です。
 どんな局面をもビジネスにしてしまおうとする人には何をかいわんやの心境にならざるを得ません。
 しかし、欲にかられた人々からの口撃をモノともせず一人で淡々と歩き続ける僧侶が居られます。
 その姿を忘れることはできませんし、心の指針とさせていただきたく肝に銘じました。
 

トップページへ


日付過 去 の メ モ
'17.01.15
 二十歳から現代音楽を演奏していた私は作曲家は演奏されるために曲を書くのだと思っていました。
 ところが、伊福部先生に御指導を仰ぐと実に驚くべき言葉が返ってきたのです。

 「いやぁ…誰かに演奏されるなんてことは微塵も考えずに作曲したものですから…」
 「ここをこうしてほしいという希望はありません。釣り針の見える音楽ほど下品なものはないので」
 「下手に演奏されるくらいなら演奏されない方がずっといい」 等々(…ひたすら畏まり絶句!?)

 また、先生はレッスンのマクラに、お茶を飲みながら示唆に富んだ逸話を聞かせて下さいました。
 最も印象に残っているのが舞踊家 石井漠さん(作曲家 石井眞木さんのお父上)のお話です。

 「地方公演へ行くと駅でよく見ず知らずの人に『先生、先生』と大袈裟に声をかけられたそうです。
 すると漠さんは、ここにも幽霊弟子が居たなとピンと来て、調子を合わせてあげると言うんですね」
 「私は嫌です、そういうの。はっきり『誰なんだ君は』と仰れば良いのに」
 「そこが人間の幅というか思いやりと言うか、その人にも生活があるでしょ? 石井漠の弟子としての」
 「でも嘘をついてるわけですから」
 「ま、そこが私などにも難しいわけで、漠さんは立派なもんだと思いましたねぇ」

 このお話を何十回聞かせて頂いたことか…と思ったら、先生が帰幽されたとたん幽霊弟子が!?
 そして、突然、たくさんのコンサートが企画され、CDが量産されました。
 伊福部先生は「皆さんにも生活というものがあるから」と仰せかしら?
 
'16.03.25
 木下忠司先生の百壽記念として前代未聞の素晴らしい企画が発表されました。
 東京国立近代美術館フィルムセンターにおける「木下忠司の映画音楽」!!
 フィルムセンターでは映画監督の特集は行なわれていますが、作曲家を特集したことはなかったのではないでしょうか? それが4月5日〜6月12日という長期間、基本的に作曲家ご自身が480本をこえる映画作品から選ばれた60プログラムという贅沢さ。この機会に私も未だ拝見していない作品を観ます(父が生きていたら毎日通ったことでしょう…)。
 ともかく4月9日に木下忠司先生がお元気に百歳を迎えて下さることを心より願い、お目にかからせて頂けることを楽しみにしています。フィルムセンターのHPにも書かれておりますように「僕は作曲家じゃなく、映画音楽家なんだよ」と仰る先生は、ご自身でアニメ作品をプロデュースされ、ミラノ国際映画祭でグランプリに輝いたほどの映画人でいらっしゃいます。映画上映という形で百壽をお祝いする機会に同席させて頂けることは謦咳に接してきた私共にとって最上の喜びです。フィルムセンターや関係者の皆様に感謝申し上げるばかりです。
 また、4月9日(土)には(まだ詳細は発表されていませんが)NHK-FMでも木下忠司作品が放送されます。放送時間は21-22時ではないかと思います。
'16.02.12
 日本は戦争には敗けたかもしれないけれど、文化では敗けていない。
 日本古来の美感を通過させていない音楽は真のインターナショナルには到達し得ない


 伊福部昭先生は、二十代の私に、こう御指導くださいました。
 ただし藝大的優等生の私にはチンプンカンプン…。江戸期の邦楽すら理解できていなかったので。
 伊福部先生に「日本的な歌い方を教えて下さい」とお願いしても「日本人ならわかる」の一点張り。
 自力で幼少から受けてきた音楽教育のキミョウキテレツさを自覚せよということだったのでしょう。

 三善晃先生は、「明治以降の歌にあなたが一生をかけてやるような音楽はないよ」と仰いました。
 時代の中で突出している作曲家には古代の音楽の姿、近代の音楽の姿が見えていたのでしょう。

 作曲家ならずとも谷川雁さんほどの思想家になると古今東西の文学や音楽に通じておられました。

【2017.1.16.追記】
 1994年2月25日、『白いうた 青いうた』コンサートの帰り途、暗い上野公園を歩きながら雁さんは
 「日本のうたをどう思う?」と言われました。
 「近代の、明治以降に五線譜で作曲された歌に関しては暗いものが多いと思います」
 「ほう、どんな風に?」
 「歌い手として感じるのは、結婚式で演奏を頼まれても忌言葉が多くて歌える曲がほとんど無い」
 「なら『梁塵秘抄』をどう思う?」
 「それを歌いたくて藝大に入ってから教えてくれる人を探しまわりましたが居ないんです」

 と、全く手も足も出ませんでしたが、2006年の宮中歌会始に招かれ首席楽長と出会えました。
 今ならちゃんと答えられます。
 「古代歌謡には言霊を大切にしたハレの歌が多いと思います」
 人は、その時その時の自分のレベルでしか物事を見られないし語れないんですねぇ…。
 幾つもの得難い御縁を頂いて古代歌謡の師を探し求めた二十歳の私を取り戻せました。
 
'16.02.03
 昨日なぜか突然前向きな気持ちになり、書かないと言い続けた本を書こうと決心しました。
 いえ、決心しても書けるとは限りません。なにしろ大き過ぎるテーマなのですから。

 「編年体コンサート」で「♪紀元は二千六百年〜」と歌った通り、天皇家の歴史は今年で2676年
 これに対し、縄文時代は約1万3000年の歴史をもつとされています。
 そんな縄文時代から日本列島に住んでいた海人族の船が約5300年前の遺跡から出土しました。
 シベリアとの交易の痕跡も認められた縄文人の「海の文化」の歴史は約1万年と推察されています。

 世界から注目を浴びた縄文土器でもわかるように縄文文化は決して粗野なものではありません。
 現代まで続く日本人の繊細な感性に裏打ちされた仕事ぶりは、その出土品からも窺われます。
 日本固有のコトも縄文遺跡の出土品の一つで、板に装飾が施されていました。

 ここまで書いて、ふと、多くの日本人が江戸時代にできた俗箏(おこと)を日本の楽器だと思い込みかねない教育を受けていることに気づく(教育レベル低すぎ。フェルマータを長く延ばさせないで下さい)。
 蛇足ながら、おことは雅楽で使われる大陸渡来の
楽箏を一般向けの俗箏として実用化したもの。

 日本固有のコトは、紀元前後、日本に百余りの小国があったことから弦の本数が異なっていました。
 それを6本に統一したのは、日本に律令制度を導入しようとしたヤマト王権です。
 統一国家を目指すヤマト王権は、縄文時代からあったコトを「天皇の楽器」と決めました。
 そして、日本列島にあった国々の国主たちが伝承してきた歌を舎人や采女に献上させたのです。
 それらは宮中で保護されたために一般民衆が接する機会はほとんどありませんでした。
 言い換えれば、天皇家の保護により楽器や楽譜が現代まで形を変えずに残ったのかもしれません。

 この世界最古の現存音楽を演奏し、書き残すことが私の最後の仕事なのだろうと思います。
 まだまだ研究が足りませんし、演奏の腕も磨かなくてはなりません。
 足腰を鍛えるためにも、時間を見つけて山へ登り、演奏することを続けたいと思います。
 


Yumi Aikawa a Segesta - 2015/10/01放送分