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容量不足により「ピピ(2007-2015)日記」は削除しました
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日付 | メ モ |
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'25.06.30 |
いわゆる軍歌や戦時歌謡を研究していた頃、 藝大時代の指導教官から「ユミは歌とつけば 何でも歌ってみたいんだからしようがない」 と言われていました。「破門されるかも?」と 思いつつも、依頼した側(NHKや新聞社etc.)の 責任よりも、作詞・作曲や歌唱を行なった側の 戦争責任が問われたことが納得できず、その 「しくみ」が知りたくて足を踏み入れました。 意外なことに、右か左かに二分すると、左?と 言える谷川雁さんや伊福部昭先生が「どんどん やりなさい。悲惨な戦争を続ける中で、あのよ うな歌謡を作って国民に歌わせた事実を後世 に伝える必要がある。風化させてはならない」 と後押しして下さいました。私はただ事実を 知りたい一心で楽譜を見つけ、歌ってました。 もちろんクラシック畑からはバッシングの嵐 でしたが、生まれつき「知りたい病」に冒され ている私は、「殺されても歌う」覚悟でした。 藝大時代の指導教官は、「研究者としての姿勢 は評価するが、私は実際に戦争へ行ったから、 今さら戦争にまつわる歌を聴きたくはない」と 仰りつつ、一度だけコンサートにお運び下さい ました。「演奏のことだけ言えば、良く歌えて いると思うけれど、個人的にはやはり聴きたく なかった…」と言われ、私は考え込みました。 ただ、ほぼ同時期に友人から「戦争に行ってた 父にコロムビアから出たあなたの『古関裕而』 と『国民歌謡』のCDをプレゼントしたら、殆ど 知らない歌ばかりだと驚いてた」と教えて頂き、 鈍い私にもやっと「しくみ」が見えてきました。 軍部が作った軍歌はともかく、NHKや新聞社など が新作した夥しい数の戦時歌謡は、徴兵された 人々のためというより、銃後を守る国民を洗脳 するための「しくみ」だったと気づいたのです。 捻じれに捻じれた屁理屈の辻褄を合わせるため 正しい情報を隠し、国民をミスリードする役割 を担わせる末端に音楽家が位置づけられていた としたら、「しくみ」に嵌ることなく生き切れる 強靭な精神を養わねば…と強く思いました。 恩師のお蔭で戦時歌謡の「しくみ」に気づけた 以上、もう戦時歌謡を歌うことはありません。 神楽歌も「しくみ」がわかるまで頑張ります。 |
'25.06.29 |
安曇磯良(アヅミノイソラ)を書いたことで さっき閃きました。私なりの結論ですが、 なんでこんなことをやってるんだろう? への答えが見えてきたので加筆したら、 もともと長いブログが、6,000字超えに!? 結局、私は「しくみ」を知りたかっただけ なんだと気づき、藝大の指導教官に言われ た言葉を思い出しました。ちょっと長く なるので日付が変わってから書きます。 あと、今更ながら、2/27に三原のポポロで 収録した翌日、Facebookに書いて下さって いたことを知りました。ただ、Facebookに 登録していないからか私にはページが表示 されません。YouTubeのカウンターの件は 不可解なので見ないようにしていますが、 相変わらず数字は変わらないそうです。 |
'25.06.28 |
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'25.06.26 |
19年間探し続けていた神楽歌について、偶然 折口信夫博士の講義をお弟子さんが記録した 冊子を見つけ、その中で言及されていたので 興奮しました。とは申せ、折口説で確定とは 思っていません。取り敢えず、このメモ欄に 残しておこうと書き始めたら、なかなか本題 に到達せず、かなり長くなりそうなので、メモ ではなくブログに書こうと決めました。ただ 10世紀以上前のことなので、時間かかりそう。 昨日はエレベータのメンテナンス前に掃除、 作業中に洗濯(4回)、終了後バイクでスーパー のハシゴ、食事の支度…で熱中症っぽい感じ になったというか、ダウンしてしまいました。 家中のどこにでも空き缶や本を置きっぱなし にする人が居る為、掃除も一筋縄では終わり ません。これでは老後が思いやられますね。 |
'25.06.25 |
6/19に、宮廷の御神楽へ「磯良舞」が入ったのは 奈良朝以前だろうとの説を書きました。その 「磯良舞」の担い手=志賀の海人は、安曇磯良を 神霊として斎く安曇族です。安曇族は、渥美、 熱海、安曇野など広範囲に分布しています。 志賀の海人の本拠地たる北部九州のコトは 5絃、さきたま古墳群など関東のコトは4絃。 紀元前後、日本には100以上のクニがあって それぞれ独自の本数のコトをもっていたと されています。そのコトの絃をヤマト王権が 日本統一の証として6本に統一したのです。 その上で、言霊によって各地方を掌握しようと した天武天皇は、地方豪族の子女を舎人・采女 として出仕させ、彼らの地方で伝承されていた 土着の風俗(ふぞく)歌を神楽歌や催馬楽に採り 入れるために奏上させて蒐集してゆきました。 また大嘗祭で「悠紀(ゆき)」「主基(すき)」の国に 選ばれた地方が奉納した歌も、催馬楽や小前張 (こさいばり)として集成され、宮中で演奏され るようになったそうです。そんな歌の一つに 安曇族の象徴を歌った『磯良』があります。 この曲について『日本古典文学全集』に次の 注釈がありました。「或説ニ云ハク、此ノ歌ハ 貞観ノ神宴之時ニ撰定ノ歌ナリ。次之日忌諱 有ルニ依リテ停止セルト云々。其ノ説未詳」 「貞観ノ神宴」とは清和天皇貞観元年(859)11月 17日の大嘗祭ではないかと言われ、何か変事が 起きたのをこの歌のせいにしたのだろうか? と疑われているものの、歌詞は極めてシンプル で、演奏されない理由がわからないとのこと。 私自身、対馬や志賀島など安曇の本拠地で度々 演奏し、宮中で歌われなくなった理由を考える ため資料にあたっているのに不可解なまま!? 磯良が崎に 鯛釣る海人の 鯛釣る子海人の 我妹子がためと 鯛釣る海人の 鯛釣る海人の |
'25.06.24 |
ふつうのお宅なら、いつ誰方が訪ねてきても 大丈夫だと思われるのですが、拙宅の場合は 玄関を入ると、エレベータ前に本が山積み なので、宅配便の皆さんに驚かれてます。 今年2月、エレベータのカゴ以外の電気系統 すべてを新調する工事を行なった際、玄関の 本を何日もかけて片づけてもらいましたが、 1ヶ月経てば元の木阿弥。段ボールが届く度 エレベータ前に本が積まれてゆくのです!? 明日は年1回のエレベータのメンテナンスが あります。1ヶ月前にスケジュールを決め、 家人に伝えましたが、「大丈夫、余裕だよ」と 言うばかりで片づける気配がありません。 というか、そもそも旅が続いて不在でした。 旅から戻ったばかりの人にプレッシャーを かけたくはないものの、現状でパナソニック ホームエレベータの技術者さんがいらしても メンテナンスどころか、歩く場所すらない!! 「25日がエレベータのメンテナンスだけど?」 「え?! 忘れてた」という次第で、日中は大学へ 行かなくてはならないため、疲労困憊のなか 昨夜から未明にかけて片づけて貰いました。 私は今朝までに資源ゴミを出す必要があった ため、瓶を色ごとに分けたり、ペットボトルや 缶を袋に詰めたりしてバイクで運びました。 昨日、母のところへ行くと、プリンや水羊羹を 食べたいと言われたので、買って届けました。 厳しい暑さが続くので、冷菓が良いようです。 |
'25.06.22 |
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'25.06.21 |
昨日の成果を確かめたくて、40分ほど走って 演奏修行してきました。歌唱法だけでなく、 19年間探し続けていた歌詞も見つかったので 威力があるかどうか試したら、凄かったです。 今、晩ご飯を作りながらブログを書いてます。 |
'25.06.20 |
6/9に椎葉村下福良の十根川神社(八村大明神)で 演奏修行した折、これまで一度も鳥の鳴き声と 合致しなかったユリがピタッと填りました。 それでコト(合いの手)のタイミングを見直し、 イメージ通りの譜面を作ってみた次第です。 先ほど初めてその譜面通りに演奏したところ 音の構成が変わっていないのに、まるで別の 曲を演奏しているようでした。6/16の譜面に ある波線は日本的メリスマですが、二千年前は 即興的に歌われていた可能性が高いのでは? それが、明治以降、大勢の楽師が一斉に神楽歌 を歌うことになったため、最低限の決まりを 作る必要が生じたのでしょう。同じ波線でも テンポの速い曲は、遅い曲よりユリの反復を 減らして歌われているように聴こえます。 ただ、もし波線のユリが「ケキョケキョ」という 鳴き声の模倣ならば、音符の数を減らすことで 特徴や魅力が半減するのはないでしょうか。 そこで今日からテンポが速い曲も遅めの曲も ユリの数を変えずに歌う練習を始めました。 19年もの間、ここを打開できませんでした…。 さすがにもう先が無いので本気を出さないと いけません。こんな私にまだお声がけ下さる 方が居られるのも不思議なことですが、昨日 頂いたTV出演の依頼は今朝お断りしました。 収録日に女子会が予定されていることよりも 老醜をさらすことの方が憚られましたので。 人知れず、古代歌謡を追究するのみです。 |
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日付 | 過 去 の メ モ | ||
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'24.06.12 |
YouTube「伊福部昭室内楽作品」
1.【荻野綾子に献呈】「平安朝の秋に寄する三つの詩」(1933) 2025年2月 2.『SUITE JAPONAISE (Piano Suite)』4曲 (1934/38) 3.『ギリヤーク族の古き吟誦歌』4曲 (1946) ハープ版 4.『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』3曲 (1949) ハープ版 5.『アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌』3曲 (1955) シントコ版 6.【Stefano Kinaiに献呈】「シレトコ半島の漁夫の歌」(1960) 7.【Amsterdam Duoに献呈】『二つの性格舞曲』(1955/61) 2025年2月 8.【小林武史に献呈】『ヴァイオリンソナタ』(1985) 2025年2月 9.【藍川由美に献呈】頌詩「オホーツクの海」(1958/88) 2025年2月 10.【木村茉莉に献呈】ハープのための「箜篌歌」(1968/1990) 11.【藍川由美に献呈】「摩周湖」(1992) ハープ版 12.【藍川由美に献呈】「蒼鷺」(2000) | ||
'23.07.20 |
『古事記』(ふることふみ/712)と『日本書紀』(やまとふみ/720)では 神話の扱いが異なりますが、『古事記』にあった和琴にまつわる神話は 私が和琴の威力いかばかりかと疑ったことで、古代歌謡の道に 入る"きっかけ"となりました。 仲哀天皇が筑紫の香椎宮巡幸の折り、熊襲を討つための御神託を 乞うべく、武内宿禰を審神者(さには)として天皇自ら琴を弾くと、 神功皇后が神懸りして熊襲征伐よりも三韓征伐に行くべきとの 御託宣を仲哀天皇に伝えました。 が、仲哀天皇は「偽りを言う神だ」と聞く耳をもちませんでした。 そこで審神者の武内宿禰が、仲哀天皇に今一度、琴を弾くよう 進言すると、しぶしぶ弾き始めたものの、ほどなく音が絶えました。 すぐに火を掲げて見ると、仲哀天皇は崩御していたとの神話です。 この神話は、ヤマト王権が和琴を重視していたことを伝えています。 12世紀には後白河法皇が編纂したとされる『梁塵秘抄 口伝集』に 「和琴は和国の器にして、日本の音曲の頭としるべし」とあります。 その真意は『古事記』の和琴神話を紐解くことで得られるでしょう。 大国主が須佐之男の娘・須勢理毘売と根の堅州国から遁げ出す際、 スサノヲの宝物たる太刀、弓矢、琴を持ったのはなぜなのか? 伊福部氏が大国主の家系であるだけに、深意を探りたくなります。 伊福部昭先生が雅楽で最も古い歴史を持つ御神楽歌や伴奏楽器の 和琴に興味を示されたこととも無関係ではないでしょう。 なお、和琴(やまとこと)は御琴(みこと)とも呼ばれていました。 宮中と一般では「御」の読み方(もちろん内容も!!)が違います。 「御(お)神楽」に対し、宮中は「御(み)神楽」、「御(お)琴」は「御(み)琴」。 御託宣の「詔(みことのり)」は、御琴(みこと)宣(のり)かと。 | ||
'21.07.27 |
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![]() Yumi Aikawa a Segesta - 2015/10/01放送分 →youtube.com |
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