「古代歌謡の世界」探訪-2

籠神社 (宮津市大垣)
 2013年10月12日。「やまとうたのふるさと」前日に宮津入り。天橋立駅に着くや観光船乗り場へ直行し、カモメと一緒に一宮へ。荷物を持ち倭琴を背負ったまま天橋立を45分歩いてゆく選択肢はありません。
 前年5月9日に訪れた籠神社を再訪したのは、社家の海部(あまべ)氏の始祖とされる祭神の彦火明命(ニギハヤヒ)の母神を祭神とする神社が対岸にあると知ったからです。やはり丹波は非常に重要な土地なんですね。713年に丹後國が誕生するまで、ここは丹波國でした。7世紀に丹波國の与射(よさ)評となった与謝郡の地名の初見は、雄略天皇22年の「餘社郡」とされ、祟神天皇の御代に天照大神が大和國笠縫邑から遷された際に吉佐宮(よさのみや)と称して当社の豊受大神と一緒に祀ったことと関係があるようです。
 吉佐宮籠宮(このみや)と改められたのは671年(白鳳11年)で、彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほぢ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名変更したそうです。現存する日本最古の系図(国宝)をもつ海部氏が、天皇家の祖神とされるニニギのみことより先に天降っていたニギハヤヒを始祖とする海人族であることから、龍宮の「龍」にカゴを編む竹をプラスして「籠」にしたとみれば筋が通ります。
 右の画像は、伊勢の神宮御正殿と元伊勢籠神社本殿の高欄でしか拝せない五色(青・黄・赤・白・黒)座玉です。もちろん、和琴の調弦法とも深く関わっています。五行思想を活用した天武帝が大海人(おほしあまの)皇子で、伊勢の神宮を造り、娘の大来皇女を齋王としたこととも無関係とは思えません。
 


眞名井神社 (宮津市大垣)
 2013年10月12日。竹で囲まれた龍宮たる籠神社奥宮眞名井神社へ。入口右手には匏宮(よさのみや)の石碑もあります。天照大神を主祭神とし、日之小宮と称する画像右の磐座は、祖神イザナキ・イザナミ両神が奥宮の眞名井原に降臨して天橋立(天地通行の梯)を造ったとの伝承を具象化(?)したもののようです。
 匏宮は、祭神が(天磐船じゃなく)に乗って雪の中に現れたという伝承によって26代目の海部伍佰道が社名を籠宮と改め、彦火火出見尊を祀った後、27代海部愛志(えし)が719年(養老3年)に眞名井原から現在地に遷した際に主祭神を海部氏始祖の彦火明命に改めています。現在、籠神社の主祭神は彦火明命、さらに伊勢の内宮へ遷った天照大神、外宮へ遷った豊受大神の両神が相殿に祀られています。
 『古事記』の成立が712年、『日本書紀』が720年とすれば、この時期の遷座や改称にはビミョーな背景があるのではないかと邪推してしまいそうになります。
 


獅子姫神社 (獅子堂垣)
 2013年10月12日。籠神社から天橋立を挟んだ対岸の獅子姫(ちしひめ)神社へ。地元のタクシー運転手さんが知らないと仰るので湾岸を適当に走ってもらったら見つかりました。神社から天橋立が見えます!!
 漢字を見ると、私はつい意味を考えてしまうのですけれど、またしても、字面にとらわれてはいけないと気づかされました。発音が重要なのです。『古事記』での表記は栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)。ニギハヤヒとニニギの母神との説もあるそうです。そして、翌日行く予定の大江山の内宮および外宮には、丹後國一之宮たる籠神社や、奥宮眞名井神社、さらに獅子姫神社などと同じ祭神が祀られているようです。
 どちらかが本家本元になるのか、大國主のように、それぞれの地域の主として並立していたのか、私には見当がつきません。
 


高津日神社 (獅子崎)
 2013年10月12日。三連休なのに「はしだて」の指定席をとっておらず、一本早い「きのさき」で行かざるを得なくなったおかげで、夕方5時前に獅子崎の海辺のペンションに到着。ふと反対側を見ると、こんもりとした古墳?
 神社の社叢だときき、荷物を置いて、散歩がてら行ってみました。扁額には高津日神社とあります。地元では獅子姫の父神とされているそうです。きっと『古事記』や『日本書紀』には別名で登場しているのでしょうね。もしかして高皇産霊命??
 階段を登ると、すっきりとした空間に小ぢんまりとした社殿がありました。もちろんパンフレットなどあるはずもなく、詳しいことはわかりません。
 


皇大神社 (大江町内宮)
 2013年10月13日。北近畿タンゴ鉄道宮福線で、宮津から大江山口内宮駅まで所要時間14分。ですが、次の上りが2時間半後にしか来ないため、福知山のタクシー会社に1時間半後に皇大神社駐車場まで来てくれるよう依頼してから階段と山道を登りました。
 案内板によると、元伊勢信仰については、「庶民の参拝がはじまったのは鎌倉・室町・戦国の頃からと推定され、徳川時代には参勤交代の通路になったため、急に広く崇敬の輪をひろげた。明治期まで、年間の参拝者8万人」と記されており、明治以降衰退した元伊勢信仰が再び盛んになったのは昭和40年代後半ごろからだとか。
 元伊勢ブームの火付け役たる『倭姫命世記』が編纂されたのが建治・弘安(1275-1288)頃だとしたら、鎌倉末期に元伊勢信仰が始まったと考えるのは不自然ではないでしょう。
 「単純な観光客よりも、熱心な崇敬者の参拝が圧倒的に多く、宗教団体や教祖的信仰者のお参りが非常に多いのも特色のひとつである。」との記載にも納得。本殿左右の榎は、大直日榎が大本教の献木、変若水榎が世界救世教の献木で、わざわざ(伊勢)神宮からヘリコプターで遷したのだそうです。
 


天岩戸神社 (佛性寺日浦ケ嶽)
 2013年10月13日。皇大神社から0.4kmとも0.6kmとも表示されている天岩戸神社へ向かいましたが、どう考えてもそんな距離じゃないよね? と言い合っていたら、崖下に鳥居が見える場所(左の画像)に0.9kmと表示されていました…。山道を歩かなくてはならないのに、なぜ正確に表記しないんでしょうか? そんな場所には二度と行く気がしないし、人に紹介しようとも思いませんが、皇大神社の案内板によれば「単純な観光客」など期待していないみたいだから一般人が文句を言っても関係ないんでしょうね。
 重い鞄を持って下の岩場まで降りるべきかどうか迷いましたが、「せっかくここまで来たので」ということになり、急な階段をおりました。私は、岩場での音響を確かめる意味と、一人しか攀じ登れない社殿への鎖場で順番を待つ方々の邪魔にならないようにと、平たい岩を見つけて演奏してみました。太古の舞台…ですが、鎖場を攀じ登る「教祖的信仰者」の皆様も真っ青?! という感じで、すみません。なにせ古代歌謡の修業中なので…。
 なお、住所の佛性寺は、ここより4,5km奥にある「如来院(高野山真言宗佛性寺)の鎮守として祀られ、如来院の住職が代々別当として当社を管理したといわれる」ことに由来するようで、来月高野山へ行ったら、神仏習合について学んでこなくてはと感じました(知らないことが多すぎる…)。
 


豊受大神社 (大江町天田内)
 2013年10月13日。内宮皇大神社駐車場からタクシーで外宮豊受(とゆけ)大神社へ。木の鳥居に風情を感じたので、帰りに内側から撮ってみました。
 当社に関する資料は江戸時代以降のものばかりで、1682年(天和2年)の『丹後國寺社帳』に「神主 外宮 河田備前」とあるのが一番古いと言われています。すると、『加佐郡誌』の「雄略天皇22年、天皇が神誨を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく当地舟岡山に鎮座したのに始まる」とか、『宮津府志』の「用明天皇第三皇子麿子親王が鬼賊退治の報賽として建立した」との記述の根拠はどこにあるのでしょうか?
 また、鎌倉時代に、伊勢神道が丹波与佐宮を伊勢の外宮に遷したとしているのに対し、豊受大神社社伝では、当社こそが丹波与佐宮にあたるとしています。
 


熊野神社 (大江町公庄)
 2013年10月13日。豊受大神社から福知山へ向かう道すがら熊野神社を見つけたので立ち寄ってみました。8月に、全国に数千社あるという熊野神社の総本宮・熊野速玉大社へ行ったばかりだったので。
 一の鳥居をくぐったら階段が急で、対馬の神社みたいな感じがしました。木造の二の鳥居をくぐって社殿から下を見ると由良川があり、今でこそ川沿いを北近畿タンゴ鉄道宮福線が走っているけれど、かつては川から舟で参拝していたのでは? とイメージがふくらみました。
 やはり、いくら地図を眺めても、地形や風景や植物などは現地へ行って見ないとわかりませんね。
 


阿光照神社 (福知山市半田)
 2013年10月13日。由良川の支流・和久川沿いにくねくね進むと、幟を片付けようとしている人々が見えました。阿光照神社と書いてあります。タクシーの運転手さんに読み方を訊いてもわかりません。「あこうてる」かしら? と話しつつ階段をあがると左手の方に竹林があり散歩道のようになっています。あとで調べたら、福知山の和久川沿いには城館群の遺構があるのだそうです。この阿光照神社は半田城の東端にあたるようです。
 ふと狛犬を見ると、うちのアコが抱かれているではありませんか?! シーズーは獅子ですから、獅子舞もするし、狛獅子にもなります(←ほんと?)。幟を片づけていた氏子の方に「ここは何という神社ですか?」と訊ねたら、「アコショーじんじゃです」と教えて下さいました。ほら、やっぱりアコの神社だったじゃない?
 という冗談はさておき、なぜここに立ち寄ったかと言うと、天橋立から籠神社の祭神ニギハヤヒを勧請したとの資料を見つけたためです。ニギハヤヒは、ここからさらに天照玉命神社へと遷されたことになっています。
 


天照玉命神社 (福知山市今安)
 2013年10月13日。阿光照神社からさらにタクシーで天照玉命神社へ。こちらは拝殿もあり、今でいう神社らしい神社なのではないでしょうか。ところが、最初は運転手さんに「あまてるたまのみこと神社」と言っても全く通じませんでした。住所を言うと、「ああ、テンショーさんね」とのこと!?
 「アコショー」と言い、「テンショー」と言い、音読み地域なんですね。ただ、祭神がニギハヤヒなら「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」なので、「あまてるたまのみこと」ではないかと…。
 この地で詠まれた和歌に、延慶2年(1309)の『夫木集』(藤原長清撰)に収められた丹波忠茂朝臣の「丹波國天照る乃社にて」と題する歌があります。よもや「テンショーシン」と披講することはないでしょう。

大江山 昔のあとの絶せぬは 天照神も あはれとや見む


出雲大神宮 (千歳出雲無番地)
 2013年10月13日。出雲大神宮を再訪しました。社殿の修復工事が終わったのか、「皇祖より壱萬年以前」の立看板も新しくなっていました。
 10月中旬だというのに禁足地たる御蔭(みかげ)山は緑濃く、御蔭の瀧も美しく輝いていました。ここは本当に空気がきれいなので、何度でも足を運びたくなります。ここが古代出雲王国だよと言われたら納得してしまうでしょうね。けれど、まだまだ出雲の謎は解けません。
 


厳島神社 (宮島)
 2013年10月14日。香川県からほど近い景勝地なのに行ったことがなかった宮島へ。2005年まで佐伯郡だった島です。1996年(平成8年)に嚴島神社とその背後の彌山(みせん)一帯が世界文化遺産に登録されました。
 嚴島神社は、593年(推古元年)、佐伯部(さへきべ)の有力者であった佐伯鞍職(くらもと)が現在地に創建。806年(大同元年)には唐から帰朝した僧空海(諡号:弘法大師)が宮島に立ち寄り、彌山を開山したと伝えられています。空海の名は佐伯眞魚です。佐伯氏は『新撰姓氏録』に「天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、大伴室屋の時に大伴氏から別れた神別氏族」とあります。やはり神話はさほど単純なものではなさそうです。政治的背景がなければ時の為政者が気を遣う理由などありませんので。
 宮島は、小さな島とはいえ、彌山の高さは535mで、毎年遭難する人が出ているそうです。今回は遭難を恐れて(?!)大聖院コースをとったら舗装路と石段で足を痛めてしまいました。次回は自然道を探して歩こうと思います。
 


白山比盗_社 (白山市三宮)
 2013年10月26日。加賀國一之宮たる白山比(しらやまひめ)神社へ。今年6月15日、新居浜で空き時間を利用して立ち寄った「白山神社」の由緒書きに、「697年(文武元年)8月に加賀國一之宮たる白山比盗_社の御分霊を此地に勧請した」とあったことに興味をひかれていました。もちろん、泰澄が初めて白山の頂上に登って朝鮮の菊理媛を祀ったのが717年(養老元年)、山上の奥宮創建が翌718年(養老2年)とされていたからです。
 白山比盗_社の略年表には、紀元前91年、崇神天皇の御代に「船岡山に白山の『まつりの庭』として白山比盗_社の社殿を創建」とあり、この時点では菊理媛を祀っていたわけではなさそうです。古代人がエネルギーを感じた磐座とか土地とかが御神体とされていたのでしょうか。自国のことですから、やはり知りたくなりますね。
 


能登國總社 (七尾市古府)
 2013年10月27日朝、能登國總社へ。前日、白山市から西金沢へ出て、鈍行(約90分)で七尾へ移動しました。最初、金沢に泊まるつもりでしたが、調べてみると、能登國一之宮氣多大社の元宮が七尾駅から1kmほどの場所にあるとわかったので。今回の旅の本命は「石動山」で、七尾から近い。とはいえ、氣多本宮に行くだけでは効率が悪いので検索し、能登國總社を見つけました。社名はもちろん、「古府町白山」という住所にも歴史が感じられます。白山比盗_社と同じく、創祀は崇神天皇の御代で、「往古、大穴持命が能登國を平定した際に座った石を御神体として社殿を建立。のち円融天皇(959-991/在位969-984)の980年に能登國司となった源順(911-983)が社殿を再建。能登國中の延喜式内43座の神を勧請して總社とした」そうです。
 


能登生國玉比古神社 (七尾)
 2013年10月27日朝、能登國總社から能登生國玉比古神社へ。社名は読めません。第8代孝元天皇の創祀といわれ、第10代崇神天皇の御代に、当社の祭神を羽咋郡に分霊したのが現在の能登國一之宮氣多神社(大社)とされています。それで当社は氣多(けた)本宮と称しているのだとか。
 社紋は「桜」と書かれていたのに「梅鉢」だったので神官の方にお訊きしたら、「加賀前田家の紋です」とのことでした。そうだ、加賀前田氏は菅原家の末裔と称していましたね。そういえば拝殿に向かって左手に境内末社「天満宮」があったような気が!?
 


伊須流岐比古神社 (石動山)
 2013年10月27日午後、石動山(565m)へ。やっぱり私は自然の中に身を置きに行ってるんだと感じます。というか、日本人はそういう民族なのではないでしょうか(もちろん都会の喧騒が好きと言う人も身近に居りますが)。
 石動山(せきどうさん)もまた、泰澄が717年(養老元年)に山頂で壇を開いたのち白山系天台宗として隆盛を極めたとされ、多くの僧兵を擁する武力集団でした。その石動山宗徒が、1335年(建武2年)に能登の国司中院定清に味方して越中の普門蔵人利清の軍政と戦って敗れたことで全山の寺殿堂塔は悉く焼失したそうです。
 1341年(興国2年)、足利氏によって再建され、京都山科の真言宗勧修寺の末寺として多くの僧坊や堂塔伽藍が点在する山岳信仰の霊場になったそうですが、明治の廃仏毀釈によって瓦解、多くの寺院が廃絶しました。
 残った伊須流岐比古(いするぎひこ)神社は、別当寺天平寺(てんぺいじ)ともども現在は無住となっていますが、車道が整備されていて、徒歩約15分で山頂へ到達する鳥居のところまで車で行けました。
 


奈豆美比盗_社 (志賀町安津見)
 2013年10月27日。伊須流岐比古から延喜式神名帳の奈豆美比(なつみひめ)神社のある「志賀町安津見」へ。去年から始めた神社めぐりで最初の課題とした海人族探訪の一環です。信州安曇野へ行き、琵琶湖西岸の安曇川を渡り、そして中能登安津見です。次は「あつうみ」たる熱海でしょうか?
 「あつみ」→「なつみ」の転訛は非常にわかりやすいのですけれど、祭神を安曇=安津見(海人族)の女神豊玉姫としている点が謎です。明治以前は「鴨大明神」と称していたとのことなので、玉依姫になるのではないでしょうか。こういうことに詳しくないので、教えて頂けると有り難い限りです。
 社殿から見える連山(台地に見える)は非常に長く、数百基ほどの古墳が確認されているそうです。中でも有名なのが雨の宮古墳群(鹿島郡中能登町)で、「あめの」は「天の」「海人の」を連想させてくれます。
 


氣多大社 (羽咋)
 2013年10月27日。能登國一之宮氣多(けた)大社へ。近年、裁判などで世間を騒がせていたようですが、日曜日とあって大変な人出。それでも、お目当ての原生林「いらずの森」は喧騒とは程遠く、人間が自然を壊していることを再認識させられました。「いらずの森」の奥には一般人は参拝できない奥宮があるそうです。
 社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入って国土を開拓し、崇神天皇の時に造営された社殿に守護神として鎮まったとされていますが、上述のように、七尾の氣多本宮では孝元天皇の時に創祀された神社の祭神を、崇神天皇の御代に羽咋郡に分霊したとのスタンスをとっています。
 「出雲から舟で能登に入った」神は、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり」(『丹波國風土記』)とある出雲大社の神の先代になるのかしら?
 


大穴持像石神社 (羽咋)
 2013年10月27日。能登國一之宮氣多大社から約300mほどの大穴持像石(おほなむちかたいし)神社へ。式内社「能登国羽咋郡 大穴持像石神社」とされ、古来より氣多大社の摂社であったと伝えられているそうです。
 像石のお約束通り、「地震石」なるものが置かれています。いつ置かれたのかはわかりませんが、古式ゆかしい佇まいの清々しいお社です。それもそのはず。尊敬する折口信夫博士が昭和3年に訪れて折口民俗学の象徴ともされるタブノキの大樹に覆われた社叢の写真を撮り、論文集『古代研究』の口絵に使われていました。
 


羽咋神社 (羽咋)
 2013年10月28日。羽咋駅から特急に乗る前に徒歩数分で行ける羽咋神社へ。いかにも町中の神社、という風情です。羽咋七塚と称される古墳の配置図があり、境内にも古墳があるようでしたが、言われなくては気づかない感じです。祭神は第11代垂仁天皇の第10皇子・磐撞別命(いはつくわけのみこと)とされ、その后であった三足比当スの御墓姫塚が現在の羽咋駅の場所にあったとされています。子の磐城別命(石城別王・伊波智和気)は羽咋君・三尾君の祖とされ、女(娘)の水歯郎媛は景行天皇の妃(五百野皇女の母)なのだそうです。
 う…ん、これだけでは神話が歴史的事実なのかどうか判断がつきません。いっそ「集落の国主の墳墓で、名前はわかりません」と言われた方がいいかな…。右の御神木はなぜか半分が黒焦げでした!?
 


白山中居神社 (石徹白)
 2013年10月28日。能登半島から大移動をして白山中居(はくさんちゅうきょ)神社へ。途中駅も難読地名ばかりでしたが、「石徹白」も「いとしろ」とは読めませんでした。しかし、ともかく白山神社の中では有名な(?)三社へ行ってみよう、と頑張りました。いったい、ここは何県だろう? と思って調べたら、石徹白村が昭和33年に福井県から岐阜県に越県編入して郡上郡(現郡上市)白鳥町石徹白になっていました。
 ここは山大好き人間にとっては最高の神社です。いわゆる禊川「宮川」がありまして、これが結構な川幅がある上に水がきれいなのです。自然石の織りなす流れに見入ってしまうほどの「宮川橋」からの眺め!! 橋を渡りおえたら苔むした石の階段を登ります。まず目に入るのが注連縄で囲われた磐座で、その右手の高く石組みされた土台の上にあるのが本殿です。何時間でも森林浴をしていたい空間でした。
 


長滝白山神社 (白山長滝)
 2013年10月28日。白山中居神社から長滝白山神社のある白鳥まで下りる途中、こんなきれいな景色が見られました。長滝白山神社は神社というよりもお寺のようでした。明治以降、白山比盗_社が全国に2,600社(平成21年調査)を数える白山神社の総本社になる前はここから勧請された白山神社が7割以上だったとの記述を目にしましたが、本当でしょうか。
 いずれにせよ、加賀(石川県)・越前(福井県)・美濃(岐阜県)の国境いに聳える霊峰・白山の支配権(?)争いが熾烈を極めたであろうことが想像されます。いつの世も、自然を奪い合って人が争うのが理?
 


皇大神宮 荒祭宮 (別宮)
 2013年10月30日。起床後、突然伊勢神宮へ行くことに。日帰りでも2時間ほど滞在できますが、平日だというのに大変な人出です。帰りの足を心配していたら、ハイヤーの運転手さんが「30分程度なら待ってあげる」と仰って下さったので荒祭宮から引き返し、伊勢で最も好きな饗土橋姫神社へ走りました。運良く目の前に件のハイヤーが停まっていたので、全く時間の無駄がありませんでした。タクシー乗り場にも荒祭宮にも行列が出来ていて、二拝二拍手一拝したのは饗土橋姫神社のみ。この神社を見ると、なぜか、スポレートの12,3世紀頃のカテドラル「St. Maria Assunta」を思い出すんですよね…。
 


朝熊神社 (皇大神宮第一摂社)
 2013年10月30日。内宮から五十鈴川下流の朝熊神社へ。皇大神宮の摂社は、まだ多岐原神社津長神社大水神社の3社しか行ったことが無く、朝熊神社が第一だということすら知りませんでした。ハイヤーの運転手さんが、五十鈴川駅から電車に乗るのに便利なようにと配慮して下さったのです。初対面なのに、とても親切にして頂いた上、朝熊神社も周辺の景色も素晴らしく、感謝感激でした。ただ一つ残念なのは、五十鈴川と朝熊川が合流する三角州を見ながら右手の石段をあがった時、左手の三角州に皇大神宮末社鏡宮神社があるとは想像だにしなかったことです。もう二度と行けないかも知れないのに…(地図で見ると丁度夕日のあたり?)。
 


室生龍穴神社 (天の岩戸)
 2013年11月18日。20年前に女人高野たる室生寺へ行って以来、ずっと行きたいと思っていた室生龍穴神社へ行ってまいりました。室生口大野駅に集合し、タクシーで約20分の吉祥龍穴を目指して室生山に入ると、右手に奇岩が!? 運転手さんは平然と通り過ぎましたが、「止めて下さい」と言ってバックして貰いました。すると、ちゃんと鳥居まであるではないですか。もしかして奥の祠が善女龍王かも? と思い、取り敢えず写真を撮りました。
 しかし、いったい人生で幾つめの天の岩戸なんだろう?
 


室生龍穴神社 (吉祥龍穴)
 2013年11月18日。天の岩戸を過ぎたら1分ほどで「吉祥竜穴」の看板が見えたので階段を下りてゆくと、来訪者が川底を覗いたり祝詞をあげたりするための(?)四阿(あづまや)がありました。眼前には目を疑うほどの磐の壁が!? 熊野の花窟は高さ約70mとのことですが、吉祥龍穴のある岩盤も勝るとも劣らない大きさで、岩壁の全容をカメラ画像におさめるのは不可能でした。
 また、この日は水が少なく、見た目は小さな瀧なのに、瀧音が異常に大きいことにも驚かされました。私の演奏などほとんど聴こえない感じでしたが、波音をイメージしつつ神楽歌『さざなみ』を弾き歌いさせていただきました。自然の前に、人は無力です。
 


室生龍穴神社 (善如龍王社)
 2013年11月18日。室生龍穴神社とは、吉祥龍穴および天の岩戸と、室生川沿いの28号線に面した善如龍王社の総称なのかしら? との疑問が生じました。もしかして他にも見どころがあるやも知れませんが、メータを稼ぐ気が無い運転手さんだったので、訊いてもわかりませんでした。実はあやうく善如龍王社を素通りされそうだったのですが、「写真を撮らせて下さい」とお願いして下車した次第。
 これだけの敷地、巨大な御神木からみて、かつては非常に多くの方々の尊崇を受けていたに違いないと感じました。実際に、室生寺は当社の神宮寺で、「龍王寺」と呼ばれた時代があったそうです。
 善如(女)龍王とは、空海が雨乞いを行なった際に現れた龍王とされていますが、龍を指しているのではなく、龍を統べる女神を指すとの考え方もあるようです。
 


海神社 (室生村大野)
 2013年11月18日。室生龍穴神社から駅へ戻ると、電車まで少し時間があったので、室生口大野駅前(徒歩3分ほど)に鎮座する(かい)神社へ行ってみました。その名の通り海人族の豐玉姫を祭神としています(が、音読みはどうも…)。
 摂社に紀ノ宮神社があり、祭神が「家都御子大神」。どこかで聞いたことがあると思ったら、熊野本宮大社の祭神が「家都美御子命」でした。紀ノ宮の名称通り、紀伊の國を司る神をお祀りしているということでしょうか。
 


若桜神社 (桜井)
 2013年11月18日。室生口大野から桜井へ移動。駅を出たら雨が降っていたので、これまで使ったことのないカッパを出してタクシーに乗りました。歩いても10分ほどの距離なのですが、楽器ケースが防水ではないため。
 若桜神社というのは大和に何社かあるようですが、古代歌謡をやっている私としては推古天皇の御世(612年)に初めて百済渡来の伎楽(ぎがく)を奏したという土舞台へ行きたく、伊勢路に面した若桜神社を訪ねました。古代、稚(若)櫻部氏の勢力範囲だったと思われますが、今は社地が狭くなってしまい、周囲の民家のどこに土舞台への古道があるのかわからず、ぐるっと一周して正面へ戻る途中に最近復元された「桜井」発祥の地とされる井戸櫻の井を見つけました。
 


土舞台 (桜井)
 2013年11月18日。若桜神社へ着くと、車では遠回りになるため若桜神社から歩いて行くよう勧められた土舞台に、結局タクシーで行くことに。びっしりと民家が並ぶ細い坂道をくねくねと曲がり、土舞台の下でタクシーを降りて階段を登ると、左手に滑り止めを施したゆるやかな道が土舞台へと続いています。
 落ち葉の絨毯が敷かれた土舞台は、かなり広い台地で、数百人規模の人が踊れる自然の大舞台でした。伎楽を日本に伝えたのは、飛鳥時代に帰化した百済の味摩之であると書かれた看板に、「それまで日本には神楽があったが、このとき以来、宮廷に伎楽が伝わって日本の芸能はバラエティ豊かなものとなった」とありました。
 


伊太祁曾神社 (伊太祈曽)
 2013年11月19日。和歌山からスーパー駅長たまで有名な和歌山電鐵「貴志川線」に乗りました。「いちご電車」初体験です。カプチーノをテーブルに置き、ベンチにまったりと座って伊太祈曽へ。そうか、駅名が「いだきそ」と濁るから、飛騨の同名社などでも「日抱尊」の訛りと言われているわけですね…。
 そもそも祭神の五十猛神からして、私にはよくわかりません。スサノヲの子と言われ、ソシモリに降りたとか、韓鍛冶の祀る神であるとか、これから調べなくては。あ、写真左は(伊勢)神宮遥拝所です。
 『永享文書』によると、「大和王権の伸長の中で紀氏は自らを天孫系とすべく、伊太祁曾三神を追いやり、日前國懸神を祀るようになった」らしく、当初は現在の日前神宮・國懸神宮の社地に鎮座していたそうです。
 『日本書紀』の「わが子の治める国」との表現から、スサノヲの後を継いだ五十猛が倭国の王であったとの伝承が、7世紀末から8世紀初頭にかけての日本書紀編纂時にあったと考える向きもあるようです。
 


ときは古墳 (伊太祈曽)
 2013年11月19日。伊太祁曾神社へ着くと、まず左手のこんもりとした古墳に興味を惹かれました。直径16mの円墳で、奈良時代初期の横穴式石室がありました。ここから伊太祁曾神社を見て配置を確認しました。
 


丹生酒殿神社 (伊都郡)
 2013年11月19日。伊太祈曽から和歌山へ戻り、JRで妙寺へ。2012年4月、高野山からタクシーで丹生都比賣神社へ行き、妙寺で電車に乗ったのですけれど、このあたりの運転手さんは社寺に興味がないのか、近くに丹生酒殿神社があるとは教えて下さらず、今回も地図を見せても場所がわからず、うんと迷われました…。着いてみると大きな看板があり、ふだん通っている道なのになぜ目に入らないのか不思議でした。
 丹生酒殿神社の石碑に刻まれた丹生津姫大神降臨舊蹟にはビックリ!! こういうの、全く理解できません。
 


鎌八幡宮 (丹生酒殿神社境内社)
 2013年11月19日。丹生酒殿神社へ行こうと思ったのは、本殿の真後ろにある、御神木イチイガシの幹に鎌を突き刺した鎌八幡宮の画像に衝撃を受けたからです。何のためにこんなことするんですか? こわすぎる…。
 丹生都比売が天照大神の妹あるいは和魂(にぎみたま)と言われてきた以上、丹生氏が大和王権樹立にあたって非常に重要な氏族であったことに間違いはないのでしょう。しかし、丹生と名のつく神社は丹(朱)塗りなのかと思っていたら、丹生酒殿神社は違うんですね。しかも鎌八幡…?!
 


丹生官省符神社 (九度山)
 2013年11月19日。丹生酒殿神社から九度山町慈尊院の南にある丹生官省符(かんしょうぶ)神社へ。社伝によると、816年(弘仁7年)に高野山の領する官省符荘の鎮守として空海(774-835)により創建されたそうです。社号は慈尊院丹生高野明神社丹生七社大明神丹生神社丹生官省符神社と変遷しています。空海を高野山へと導いた猟師(狩場明神)と2頭の犬の話は丹生官省符神社のHPに詳しいので一部引用させて頂きます。

 真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出立し各地を行脚された空海が大和國宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。此処は実に天下無双の霊地であり、空海は、此処を教えた猟師は、神が姿を猟師に現し、化現狩場明神となり神託として一山を与え下さったものだと想念の内に感得されました。その事を嵯峨天皇に上奏すると、天皇は深く感銘を受け、高野山を空海に下賜されたのでした。
 


善女龍王社 (高野山伽藍蓮池)
 2013年11月19日。高野山での宿坊は金剛峯寺の北に位置する龍泉院でした。当院は真慶律師によって931年頃開創され、かつて空海が祈雨の修法を行なった善女龍王の池が傍にあったことから寺号を龍泉院としたそうです。ただし、その池はとうに無く、現在ある善女龍王社は、時代が下って明和年間に度々干ばつが起こったため、1771年(明和8年)に瑞相院の僧 慈光が高野山金剛峯寺「蓮池」の中島に善女龍王像と仏舎利を小さな祠に祀ると忽ち霊験が現れたことで残されたもののようです。
 空海の祈雨の修法として有名なのは、824年(天長元年)の長引く干ばつに対し、淳和天皇が興福寺(西寺)の守敏と東寺の空海に命じたものです。1週間にわたる守敏の修法は効果なく、次に空海が神泉苑にて修法を行なうも降雨はありませんでした。原因を調べると、空海の名声を妬む守敏により国中の龍神が瓶に閉じ込められていたのですが、唯一、守敏の手を逃れて天竺の無熱池(むねっち)に居た善女龍王を呼び寄せて国中に大雨を降らせることに成功したと伝えられています。
 

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