「古代の歌と氏族を探ねて」

久多彌神社 (松江市東忌部町)
 2014年7月21日。午前中は日御碕と出雲大社周辺をまわり、お昼過ぎに松江駅着。昼食後、13時半から夕方までずっと公共の交通機関がない地域をタクシーでまわります。
 まず、『式内社調査報告』に「明治44年の悲劇合祀(忌部神社)後、大正12年3月29日 舟木龍之介等平口部落民15世帯は、山林180坪を拓き、残つてゐた社殿を地引し、新たに大國主命の御分霊を出雲大社から奉斎し、今日に至つた」との記述に衝撃を受けた出雲國意宇郡の式内社久多彌(くたみ)神社を訪ねました。この記述によれば、大正時代の出雲大社は祭神を平安期からのスサノヲ命から大國主命に戻していたことになりますが? そもそも久多彌神社は社伝および『忌部村誌』に、「聖武天皇天平年間(729-748) 大國主命(大穴牟遅神)を久多美山頂に祀る」とある古社です。それが明治39年(1906)の「一村一社」の神社合祀政策で約1km離れた他の部落(部族)の神社に合祀され、衝撃を受けた平口部落の民が新たに山林を拓いて神社を再建したというのです。
 久多彌神社への道はとてもわかりづらく、運転手さんが地元の人に行き方を尋ねると、「たいへん由緒のある神社です」と胸を張って教えて下さいました。
 


忌部神社 (松江市東忌部町)
 2014年7月21日。平口部落の久多彌神社から再び24号線に出て約1km南下すると、西忌部町に隣接する忌部神社の鳥居がありました。タクシーの運転手さんは、「ここは他所から移ってきた人たちの集落だからよくわかりません」と仰います。忌部と言えば、阿波と讃岐に多いので、もしかすると四国から来たのかしら? などと考えてもみましたが、暑すぎて、誰もあの階段を昇るとは言わないため、写真だけ撮って通過しました。
 忌部神社の由緒書に、「當社は明治末年まで大宮神社と称し、祭祀の祖神 天太玉命を主祭神とし、天照大御神は御霊現により出雲國日御碕神社より、天児屋根命は榮国利民のため大和國春日大社より勧請し奉齋せり」とあります。まさしく天太玉命を祖神とする忌部氏の神社でした。忌部は斎部とも書きます。斎部広成著『古語拾遺』によれば、忌部氏は天児屋根命を祖とする中臣氏と同様に宮廷祭祀の中心にあったけれど、後に権力が中臣氏に集中したということなのだそうです。
 天太玉命を祖神とする忌部氏が、忌部神社に天児屋根命まで合祀していたということになれば、大国主命を主祭神とする久多彌神社とはまさに水と油。これが「明治44年の悲劇合祀」の意味か…と納得した次第です。神社とはやはり部族というか種族の住み分けを示すものだったのですね。
 


須我神社 (雲南市大東町須賀)
 2014年7月21日。24号線から八雲町へ行くために農道を左折した角に「須我神社」の看板がありました。運転手さんに、「すぐ近くなら行ってみたいのですが…」と言うと、「ああ、すぐ近くですよ」と仰るので行ってみました。が、その交差点から往復15km以上ありました。15kmがすぐ近くとは…。
 これがまたテーマパークで、根拠のないことを堂々と書いて憚らないのなら、人心が離れるのは当然でしょう。右の画像は神社の右奥にあった鳥居で、御祖(みおや)神社の祭神は足名槌命と手名槌命、社日(しゃにち)神社の祭神は天照大御神と書かれています。それは、当社の祭神とされるスサノヲや稲田姫とどう関わっているのでしょうか? 関係を明かさないまま、雲南市のHPにも「出雲神話のひとつとして有名な『八岐大蛇伝説』。須佐之男命は大蛇を退治した後、稲田姫と結ばれ初めて宮作りをしました。これが『日本初之宮』とされている須我神社です」と書かれているわけですが、いったい島根県には同じ由緒の神社が幾つあるんですか?
 


磐坂神社 (松江市八雲町西岩坂)
 2014年7月21日。とんだ寄り道をしたのち、八雲小・中学校の裏山にある磐坂神社へ。これはかなり大変そう…と覚悟して山道をのぼり始めました。階段を登り切るとT字路になっていて、左が下り、右が上りです。右へ進むと、なだらかな坂道の先に鳥居が見えてきました。磐坂神社の社名から磐座があると思い込んでいたので探しましたが、ありません…。当社の祭神が、当地の開拓神・磐坂日子之命で、ここが誕生の地なのだそうです。さらに、「祭神のイワサカヒコはスサノヲの子で…」とのくだりを読んでガックリ…。「須作能呼命の御子、磐坂日子命、国巡行り坐しし時に、此処に至り坐して詔りたまひしく、『此処は、国稚く美好く有り。国形、画鞆(えとも)の如き哉。吾が宮は、是処に造事らむは』。故、恵伴と伝ふ。神亀三年、字を恵曇と改む。」
 はああ…、すがすがしき須我神社と同じノリですか。でも緑も空気も段違いでした石坂社(いはさかのやしろ)。
 


神魂神社 (松江市大庭町)
 2014年7月21日。磐坂神社から松江駅方面に向かう道に有名な神社が幾つかありますが、テーマパークは御免蒙りたいのでかなり端折りました。神魂(かもす)神社へ行ったのは、シキ・シカ・シコの理屈でゆくと、カミ・カモは同名に違いないと思ったからです。当社の読みが「カモス」であることも、その裏づけになるのではないでしょうか…。現在は伊弉冊(イザナミ)大神が主祭神で、伊弉諾(イザナキ)大神が配祀されているとのことですが、これは中世末期からで、寛文年間(1661-72)の新嘗会祝詞には熊野大神や大己貴命などの神名が見えるとか。
 


真名井神社 (松江市大庭町)
 2014年7月21日。最終的に揖屋駅へ行くプランなので、432号線を真名井神社方面に右折。山裾をさらに東へ行くと「ソーメン流し」があると言われてどんどん山へ入って行ったらケモノミチのようになり、幟も立っていなかったため、諦めて戻りました。なぜ地元の運転手さんなのに確かな情報も持たず、そんな山中まで連れて行くのでしょうか? 4時間近く乗っていたのに何の見どころも教えてくれず、無駄足ばかり踏まされたせいか、魅力に欠ける出雲路の旅になりましたが、きれいな紫陽花と緑だけは楽しませてもらいました。
 


阿太加夜神社 (松江市東出雲町出雲郷)
 2014年7月21日。真名井神社から揖屋駅へ向かう途中に「出雲郷」という地名があります。これが「アダカエ」と発音されるのですから恐れ入ります。この地名と社名の「阿太加夜(アダカヤ)」から、『出雲国造神賀詞』にある「大穴持の和魂を大物主櫛甕玉と称して大御和に、阿遅須伎高孫根を葛木の鴨の神に、事代主を宇奈堤に、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて鎮め祭る」の一節「カヤナルミ」を連想しました。
 阿太加夜神社ではまず「阿吽」の龍蛇に目を奪われました。画像右が「阿」の龍蛇を巻きつけられた御神木、その横に「吽」の龍蛇を巻きつけられた御神木が並んでいます。こういった龍蛇の装飾は真名井神社揖夜神社などでも見られました。奥には12年毎に行なわれる船神事「ホーライエンヤ」で使われる船も置かれていました。この式年神幸祭は松江城の城山稲荷神社の御神霊を約10km離れている出雲郷の当社へ水路お迎えする水上パレードで、約100隻の船が1kmにわたってつながれ、宍道湖、大橋川、中海、意宇川を往復しますが、その間、豊作や繁栄のための大祈祷が7日間にわたり行なわれるそうです。
 16時過ぎに我々が到着すると、若い神官の方がずっと太鼓を打ち鳴らしておられたのは初めての体験でした。
 


揖夜神社 (松江市東出雲町揖屋)
 2014年7月21日の最後は揖夜(いや)神社です。『出雲國風土記』に「伊布夜(いふや)」、『日本書紀』に「又狗噛置死人手臂於言屋社」とある古社で、『古事記』に「故其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也」とあるように、イザナミの黄泉の国への入口がある神社とされています。すぐ近くに「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」がありますが、磐座などは最近置かれたようで、テーマパークの可能性もあることから今回はパス。
 かつて揖屋大社揖屋大明神と呼ばれた当社は、明治以降、揖夜神社と改称したそうです。神門を入ると、左手に巨大な社殿、右手にこの地方独特の阿太加夜神社よりかなり小さい「阿吽」の龍蛇が祀られていました。
 


燒火神社 (隠岐郡西ノ島町美田焼火山)
 2014年7月22日、境港から隠岐島の別府へ。当初、21日に移動する予定でしたが、連休中とあって高速船レインボージェットが満席。やむなく22日に移動したため島後の宿はキャンセルし、島前の西ノ島町のみの滞在となりました。まずはメインの燒火(たくひ)神社へ直行です。Youtubeで見た徒歩10分は道に慣れた宮司さんならではということらしく、タクシーの運転手さんに言われた通り20分かかりました。「マムシ注意」の看板がある、歩きづらい道でした。海抜452mの焼火山七合目からの登山道にある休憩所からは知夫里島が見えました。
 『燒火山縁起』によれば、一条天皇の御代(986-1011)、海中に生じた光が数夜にわたって輝いた後、焼火山に飛び入った跡を村人が尋ねて登ると仏像のような形の岩があったため社殿を造営して奉齋したとのことです。修験道が盛んになると「燒火山大権現」と称ばれましたが、元禄16年(1703)には「燒火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日霊貴、燒火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」と『島前村々神名記』に記され、明治初頭には大日霊貴尊のみを祀る現在の形になったのだとか。
 享保17年(1732)に建立された現在の本殿は、大坂の大工鳥居甚兵衛の最晩年の作で、大坂で木造りをし、米子の大工が現地で組み立てるという方法が採られています。なお、拝殿にあたる旧雲上寺は寛文13年(1673)の建造で、南側が断崖に乗り出す形の懸造となったのは明治35年(1902)に松江市の井上国太郎の設計で拡張改築されて以降のことだそうです。これら一連の社殿が国の重要文化財になっています。
 


大山神社 (隠岐郡西ノ島町美田)
 2014年7月22日。燒火神社から下山し、焼火山麓に鎮座する大山神社へ立ち寄りました。『燒火山縁起』に「斯山往昔稱大山也」とあるように、燒火山はもともと大山と呼ばれていました。現在の大山神社を見ても、後方の山全体が神名備のようです。当社の由緒は、燒火神社の由緒と深く関係していると見られています。
 


由良比女神社 (隠岐郡西ノ島町浦郷)
 2014年7月23日午前、隠岐國一之宮たる由良比女神社へ。833年~850年までを扱った『続日本後紀』の仁明天皇承和9年(842)9月の条に「隠岐國智夫郡由良比女命神…並預官社」とある古社です。『延喜式神名帳』には名神大社として、『袖中抄』には「わたす宮」として、『土佐日記』には「ちぶりの神」として登場しています。現住所は隠岐郡ですが、かつては智夫郡だったため、知夫里島が主で西ノ島が従であった可能性が高そうですね…。
 『続日本後紀』『三代実録』に、古来より海上守護の神として崇敬篤く、外国へ使節を遣わす際、或いは外患を防ぐ際などに祈祷所とされたようです。『延喜式神名帳』に「元名 和多須神」とあるため、祭神は海童神あるいは須世理比売命とも言われてきました。現在の祭神は由良比女命です。
 


黒木御所跡 (隠岐郡西ノ島町別府)
 2014年7月23日午前、由良比女神社からタクシーで別府港近くの黒木御所跡へ。燒火神社の宮司さんが兼務されている黒木神社のある後醍醐天皇(1288-1339)の行在所です。1332年(元弘2年)、元弘の変で流罪となった後醍醐天皇は西ノ島町別府の天皇山で脱出するまでの約1年を過ごしたとされています。急な階段、狭く曲がりくねった道を歩くと、ここに幽閉されていたのだと感じざるを得ません。後醍醐天皇御製の石碑もありました。

   こころざす かたをとはばや 波の上に うきてただよふ あまのつり舟

 同じく隠岐へ流罪となった小野篁(802-853)の「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が思い出されます。
 


神谷神社 (坂出市神谷町)
 2014年7月24日、香川県の有名な景勝地「五色台」の白峰の麓に鎮座する国宝神谷神社へ。3度目の訪問で陽向石(ようごうせき)を見つけました。鬱蒼と繁っていた本殿裏の樹木が伐採され、15年前とは打って変わって明るい雰囲気です。ベンチやトイレも整備され、花見やホタル狩りの時期には重宝すること間違いなし。
 神谷神社は812年(弘仁3年)に空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍読としても活躍した阿刀大足(あとのおほたり)が創建したと伝えられています。大足は807年(大同2年)10月の親王謀反の事件に巻き込まれたとも言われ、以後の業績が残されていないため、讃岐國で活躍していたというのは興味深いことです。905年(延喜5年)成立の『延喜式神名帳』には讃岐國阿野郡「神谷神社」と記載され、式内社に列せられていました。また最高位に叙されていたことは、現在の本殿(日本最古)が建立された1219年(建保7年)の棟木に墨書された「正一位神谷大明神御宝殿、建保七年歳次己卯二月十日丁未日始之、惣官散位刑部宿祢正長」の銘でも明らかです。
 


東加茂神社 (坂出市加茂町)
 2014年7月24日晴天。国宝神谷神社からすぐの東加茂神社へ。当社は古くは葛城社と称し、大明神原という場所に鎮座していましたが、焼失により現在地へ遷座したそうです。創建したのは神谷神社と同じく空海の叔父の阿刀大足。813年(弘仁4年)に大和國高鴨社を勧請したとのことです。
 地図を見ると、当社から鴨川駅へ向かう途中に西加茂神社、通称葵神社があります。また、多度津駅の東に北鴨、南鴨の地名があり、東西南北が揃う点も気になります。阿刀大足の命名でしょうか?
 


出雲神社 (坂出市加茂町)
 2014年7月25日晴天。前日、二度までも山へ登って探したのに見つけられなかった出雲神社へ案内して下さるというのでタクシーで出掛けました。車一台がやっと通れる急峻な坂道ゆえ、運転手さんから「駐車場で待たせて下さい」と言われましたが、80代の同行者も私も炎天下を歩いて上がる自信はありません。ともかく行けるところまで行って下さいとお願いするほかありませんでした。東海道五十三次の難所日坂(にっさか)以上の急勾配で、細い道がもっと長く続き、運転手さんはさぞお疲れのことと申し訳なく思っていたら、社殿が見えてきました。誰がこのような高所へ出雲神社を創建したのか不思議でしたが、由緒書に空海の名前があり納得しました。

 弘法大師空海(774-835)が42才の大厄の年に全ての人々の大厄を必ず除けてやりたいとの願いを込めて開かれたものです。

 この近くにはもう一つの「高野山」と呼ばれた場所もあり、タカノの高野山とアマノの丹生都比売で「高天原」を形成して見せた空海が、阿刀大足とともにこの地に神仏混淆の「高天原」を作ろうとしたことが想像できました。
 もちろん、この世にはさまざまな主義主張があるわけですが、私はこの、空海が説く神仏混淆の姿から日本の神について類推し、ある着地点を見つけることができました。長いようで短かった旅の終着点が故郷の讃岐、中でもバイクで何度も通った白峰への道にあったとは、まさしく「灯台下暗し」の思いです。
 


豊川稲荷 (豊川市豊川町)
 2014年9月16日。15日に豊田市の「農村舞台」にて、これまで各地で演奏修業してきた古代歌謡を初めてお客様の前で演奏しました。木曜が母の通院日なので宇多津へ戻る道すがら、東岡崎から電車で豊川稲荷駅へ。タクシーに乗ると嫌がられましたが、荷物が多かったので「1,000円払うから」と言ったら乗せてくれました。
 大きくてビックリしました豊川稲荷!! しかも神社ではなくお寺。円福山 豊川閣 妙厳寺でした。すると、神仏習合の形が強く残っているということでしょうか? しかし、曹洞宗なのに弘法大師を祀ってる?! と思ったら、曹洞宗の東海義易という人が永享11年(1439)に豊橋市にあった真言宗の寺院・歓喜院を再建して曹洞宗に改め、2年後に豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立したためらしいです。豊川稲荷の「稲荷」とは明治の神仏分離後も境内の鎮守として祀ることを許されたダキニ天(ヒンドゥー教のダーキニー)のことなのだそうです。


東寺 (京都市南区)
 2014年9月16日。今年5月にオープンした京都で唯一の源泉?! ハトヤ瑞鳳閣に泊まろうと、友人と待ち合わせて京都へ。そこからタクシーですぐの東寺へ約30年ぶりに行きました。
 東寺は平安京鎮護のための官寺として延暦15年(796)に建立されました。その後、弘仁14年(823)に嵯峨天皇より空海に下賜され、真言密教の根本道場として整えられたそうです。南から北へ南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)と一直線に並ぶ伽藍配置は息をのむ美しさです。 平成6年(1994)には世界遺産に登録されています。
 再訪した講堂は、当たり前ですが、30年前と同じ存在感に満ち満ちていました。日光菩薩、月光菩薩のある金堂は創建当初からあったと考えられており、講堂は天長2年(825)に空海により着工され、承和2年(835)頃に完成したとされています。現在の講堂は室町時代の延徳3年(1491)に再建されたものだそうです。
 


伏見稲荷大社 (京都市伏見区)
 2014年9月16日。東寺で抹茶ソフトを食べてから伏見稲荷大社へ。和銅年間(708-715)以降、秦氏が禰宜・祝をつとめた社家には学者が多く、中でも賀茂真淵の師・荷田春満(かだのあづままろ/1669-1736)が有名です。画像右の東丸(あづままろ)神社伏見稲荷大社境内にありながら伏見稲荷の摂社ではなく独立した神社で、1903年には府社に列格されたとか。もちろん、学問の神様だそうです。ところで、荷田(カタ)ってハタの転訛ですか? 荷田の父は羽倉信詮(はくらのぶあき)だそうですから、秦姓から様々な姓が派生したんですね。
 いずれにせよ、「外国人に人気の日本の観光スポット」調査で1位を獲得しただけあって外国人観光客が物凄く多かったです。
 


下鴨神社(賀茂御祖神社) (京都市左京区)
 2014年9月17日。午前中からタクシーで10社ほどまわりたいとタクシー会社にメールしておいたら「6時間はかかる」との返信があったため、ほぼ縦の線で 4社をまわることに。有名な神社ばかりですが、昨年 7月の「やまとうたのふるさと」を中止したため残っていました。まずは駅前のホテルから下鴨神社を目指します。当社の表記だけでも、古代は発音重視で漢字は特に意味を重視せずに当てていたらしいとわかります。
 駐車場から境内に入ると先ず出雲井於(いづもゐのへの)神社。周囲に木を植えるとどんな木も葉がギザギザになるため柊=比良木社と呼ばれているそうです。
 そこから本殿の前を通り奥へ進むと、みたらし団子の語源となった御手洗(みたらし)池があるわけですが、この橋を渡ることはできませんでした。御手洗社へ特別参拝をお願いすると入れるのかしら?
 何も調べて行かなかった私がいけないのですが、タクシー会社と話した際、「糺の森を通らないと本殿へは行けませんから往復だけで30分は見て頂かないと」と言われ、「どんな神社でも参道がいくつかあり、近い場所へ車をつけられるはずですが」と申し上げたら、 「絶対に歩かないと入れません」と言われましたがウソでした。もう日本は簡単に人の言うことを信じたらダメな国になってしまったのでしょうか?
 


上賀茂神社(賀茂別雷神社) (京都市北区)
 2014年9月17日。下鴨神社から上賀茂神社へ。駐車場から本殿へ向かうまでに馬場があり、境内に入っても広々としています。曲水の宴が行なわれた場所もありました(ああ水上で演奏したい!! でもこれが現実)。
 以下、当社の祭神については、Wikipediaより。
……………
 『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓(おとくに)神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。
 大山咋神とは大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。
 「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、ともに漢人系氏族・三津首(みつのおびと)氏、秦氏に祀られるなど、共通点が多いことが指摘されている。比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、最澄によって、天台宗および延暦寺の結界を守る守護神ともされた。この理由として、最澄が、大山咋神を祀る漢人系氏族である「三津首氏」の出身であり、大山咋神の神域についての深い知識を有していたことが指摘されている。
 


貴船神社 (京都市左京区)
 2014年9月17日。上賀茂神社から貴船神社へ。やっと吉野の丹生川上神社とともに白馬黒馬を奉斎されていた貴船神社に参詣できました。当社HPに「炎旱(黒馬)、霖雨(白馬又は赤馬)、国家有事、疫病流行等の際には、貴船神社と丹生川上神社に天皇のお遣いである勅使が派遣され、度々祈願したことが古い文献に出ています。『丹貴二社には白馬黒馬を奉れ』と書かれており、丹とは丹生川上神社、貴とは貴船神社のことです」とあります。社伝によれば、神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まるそうです。すなわち社名の由来は「黄船」であり、奥宮境内にある「御船形石」を玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝えています。ほかに「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったとの説もあるとか。
 奥宮まで往復する時間と気力がなかったので、本殿の裏道を上がってみたら、禁足地を示す看板に、ここで弁当を食べてはいけないといった付記があり、そんな人がいるのかと驚きました。どうなってるの日本?
 前日乗ったタクシーの運転手さん曰く「マナーが悪いのは外国人」なのだそうですが?
 


No.301

八坂神社 (京都市東山区)
 2014年9月17日。貴船神社で奥宮まで行かなかった我々に、運転手さんが「京都駅まで帰る途中、八坂神社へ寄りませんか?」と仰います。「八坂神社は前を通ったことがあります」と申し上げると、「そこは正式な門ではありません」と仰るので、「では正式な門から入ってみたいと思います」とお願いしました(いずれにせよ中へ入ったことはなかったので…)。ただし、西楼門(1497)は重要文化財らしいし、当社HPのトップにも画像が出ています。南楼門から入ると舞殿、本殿が一直線なんですね。
 何も調べずに行ったため、以下、Wikipediaより引用させていただきます。
……………
 慶応4年(1868)5月30日付の神祇官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。社伝によれば、斉明天皇2年(656)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。
 牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するのだという。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まる。
 祇園祭は、貞観5年(863)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、貞観11年(869)に66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身とされた牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。これが祇園祭の起源とされ、天禄元年(970)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。
 


彌彦神社 (新潟県西蒲原郡弥彦村)
 2014年10月1日。日本海側の一ノ宮をほとんどまわっていなかったと気づき、一気に彌彦(いやひこ)神社居多(こた)神社天津(あまつ)神社と、3社もある越後國一ノ宮へ行くことに。初日は彌彦神社と、越後國二ノ宮二田物部(ふただもののべ)神社がメインです。日本海側はJRの本数が少なく、接続の悪い場所が多いため、移動の合間に立ち寄れそうな神社をピックアップしてあいだを埋めました。
 弥彦駅に着くとすぐタクシーでロープウェイ乗り場へ。奥宮を目指すつもりで約500mにわたる階段を登っていましたが、荷物が重すぎて残り100mで断念…。階段の高さが悉く違うため、楽器を抱えての下りにも神経を遣いました。年間250万人もの人が訪れているとは知らず、平日なので甘く見ていたら、ロープウェイは上り下りとも満員でした。私にとって唯一の救いは眺望の素晴らしさで、天気の良い日には佐渡島まで見えるそうです。
 


物部神社 (柏崎市西山町二田)
 2014年10月1日。越後國一ノ宮から二ノ宮へ。二田(ふただ)物部神社とも二田神社とも呼ばれている物部神社です。主祭神は二田天物部命で、ニギハヤヒが天降った際に供奉した「天物部等二十五部人」の筆頭にある「二田物部」のこと。神職をつとめる三島家はニギハヤヒの天降りに従った二田物部の末裔と称しているそうです。
 しかし、江戸時代の『二田宮伝記』では、祭神の二田天物部命はニギハヤヒではなく越後國一ノ宮たる彌彦神社の祭神・天香山命に従って高志國(越國)に来臨したことになっています。
 社伝に、延暦14年(795)に坂上田村麻呂の請願により三島郡が神領に定められ、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳に越後國三島郡に「物部神社」と記載されていることからも式内社であることは間違いなさそうです。巨大な拝殿をきれいなサッシで覆うなど、きちんと整美された清々しい神社でした。
 


諏訪神社 (柏崎市西山町池浦)
 2014年10月1日。二田物部神社と同じく、越後線「礼拝(らいはい)」駅にほど近い池浦地区の諏訪神社へ。「礼拝」の駅名は、物部神社の礼拝所があったことに由来するそうです(なかなかスゴイ話ですよね?)。
 よそ者にはわかりづらい場所にありますが、集落の四つ角に絵地図があったので見つけられました。地図の謳い文句に「百段の石段」とあったものの、新しく均等な階段だったので楽々と上り下り出来ました。
 2007年の中越沖地震で大きな被害を受けたにも拘わらず、こちらの駅にある神社はきれいな覆屋で守られていて、氏子の皆様が大切にされている様子が伝わってきました。立派なお宅も多いし…と思ったら、駅前の酒屋さんが理由の一つを教えて下さいました。「礼拝」駅の南に田中角栄氏の生家と記念館があるため、未だに懐かしんで足を運ばれる方がおられるそうです。故郷を守ろうとの意気込みの賜ですね。
 


顯見前神社 (柏崎市西山町礼拝)
 2014年10月1日最後の最後に入店した「礼拝」の酒屋さんの奥様から、「物部神社よかったでしょ? うちらの神社も見て行ってよ」と言われ、社名を訊いたら「あらみさき神社」とのこと。「そこへ行ってみたいです」と言うと、「5分で行って来られるよ。あと7分あるから大丈夫」と仰るので、荷物を抱えて走りました。「ああ、これは…」、線路脇にあるため列車から見えて、行ってみたいと思った神社でした。こちらも諏訪神社と同じく小ぢんまりとしてきれいな神社ですが、鳥居の左手には観音堂がありました。
 また足を運びたいけれど、列車の本数が少な過ぎてスケジュールを組むのが難しい…。でも、そもそも神社は集落のものなのだから、よそ者が行くことの方が異常? 無宗教の私ですが、この国のあり方を考えるには神社について考えることが不可欠なんですよね。
 伝承によれば、神亀3年(726)に二田天物部命(物部神社の祭神)が土生田の岡に遷座する際、当地で礼拝したため礼拝所を建てたのが発祥だそうです。まさしくここが礼拝所!? 祭神は猿田彦命。
 


白山神社 (上越市五智)
 2014年10月2日、直江津から若狭高浜へ大移動します。北陸本線に乗る前に先ずは2つ目の越後國一ノ宮居多(こた)神社へ行くことに。ホテルから車で10分ほどですが、予定より早めに出たので「この近くに白山神社があるはずですが?」と運転手さんに訊くと「知りませんねぇ、でもあそこに鳥居が見えますよ」と言われて行ったのが愛宕神社愛宕神社は上杉謙信が春日山麓から移遷し武運を祈ったとか。その隣に鳥居のない登り口があり、運転手さんが石碑に白山神社と書いてありますと教えて下さいました。鬱蒼としていて先が見えないし、一人で登るのは怖いなぁと思っていたら、「荷物をお持ちしましょう」と運転手さんが一緒に登って下さり助かりました。
 道路に面した案内板で、春季大祭「五智まつり」の際、御神体が社殿から国分寺境内の神輿殿に移されること、祭のクライマックスとして国分寺本堂を神輿が勇壮に三周駆け巡る「堂巡り」があることがわかりました。
 


居多神社 (上越市五智)
 2014年10月2日。白山神社からすぐの越後國一ノ宮居多(こた)神社へ。何と、浄土真宗の開祖・親鸞の像がありました!! 居多神社は、後鳥羽上皇(1180-1239)による専修念仏(せんじゅねんぶつ)の停止(ちょうじ)により、建永2年(1207)に僧籍を剥奪され越後國国府に流罪となった親鸞が、上陸して最初に入った神社だとか。その後、約7年にわたり、親鸞は直江津の五智地区で過ごしたそうです。
 居多神社を越後國一ノ宮としない資料が少なくないのは、一ノ宮が公式で厳密な資格ではなく、いわば申告式のようでもあり、何となく周囲が認めればそうなるという性格によるものらしい…。
 


白山神社 (糸魚川市能生)
 2014年10月2日、直江津から北陸本線で糸魚川タクシーさんと待ち合わせている能生(のう)駅へ。まずは今回どうしても行きたかった能生白山神社へ向かいました。ずっと写真で見ていた拝殿を見た瞬間、「ぅぉぉお…」と声を上げてしまいました。演奏は無理かな? と思っていましたが、本殿横の龍頭から流れ出る清水を見たら居ても立ってもいられなくなり調絃。途中で氏子総代さんがいらっしゃり、「この水音があまりにも倭琴にピッタリだったので」と申し上げると、「この水は戸隠から来てるんですよ」と仰るので驚きました。信州戸隠・妙高関山とつながっている権現の神水と伝えられ、「新・新潟県の名水」にも選ばれているそうです。
 能生白山神社境内にある約90mの権現山(または尾山)は輝石安山岩質の集塊岩で、対馬暖流の影響で暖地性樹種が多く、暖地性シダ類(フモトシダ等)の日本海側における自生地の北限でもあるとか。
 社伝に「文武天皇大宝二年創立ト云伝フ、亦崇神天皇十一年勧請トモ伝フ」とあるように、大宝2年(702)に奴奈川神社と称した神社ながら、元正天皇の御代(715-724)、泰澄(682-767)が当社に錫をとどめて両部習合(神仏調和の神道)に改めたため、白山権現又は白山三所権現とも呼ばれています。
 但し、『訂正越後頚城郡誌稿』(豊島書房/昭和44年刊行)には、「当社古跡ハ、本権現山頂上ニ鎮座ニテ、能州石動山鎮座ノ白山権現ヲ勧請セシモノト云」と記されているそうです。祭神は伊弉那岐命・奴奈川姫命・大巳貴命と書かれていますが、なぜでしょうか? 白山権現白山比咩は別なのですか?
 


奴奈川神社 (糸魚川市田伏)
 2014年10月2日。能生白山神社から糸魚川へ向かう海岸沿いを走っていると、梶屋敷駅のすぐ西に越後國頸城郡の式内社奴奈川(ぬながわ)神社がありました。
 社伝によれば、成務天皇の御宇、越後國の国造となった市入命が当地で奴奈川姫命の子・建沼河男命の裔長比売命を娶って創祀したとのこと。祭神は奴奈川比賣命・大日霊命・八千矛命。
 


諏訪神社 (糸魚川市須沢)
 2014年10月2日。新潟入りしてから諏訪神社が多いと感じていましたが、姫川沿いには殊に集中していました。姫川沿いに点在する諏訪神社は、タケミナカタノミコトが諏訪入りした経路とも考えられていたようです。
 奴奈川神社から糸魚川駅へ向かう途中に平牛諏訪神社、糸魚川駅の西に寺島諏訪神社、その先「姫川大橋」を渡って側道へ入ると当社須沢諏訪神社がありました。ここからさらに姫川を遡ると、西中諏訪神社小滝諏訪神社、そして平岩駅の近くには古宮神社たる大網諏訪神社(奴奈川姫が諏訪神を産んだという伝説の神社)があります。「大網」という地名は産所を建てて周囲に網を張り巡らせたことに由来するそうです。
 


天津神社 (糸魚川市一の宮)
 2014年10月2日。糸魚川での〆は越後國一ノ宮たる天津(あまつ)神社です。最初、高志峯(黒姫山)山頂に鎮座し、次に梯立(橋立)村へ遷座、元暦2年(1185)には蓮台寺と平生の間にある山崎へ遷ってから現在地へ遷座とは一ノ宮らしからぬ来歴…と思ったら、地元では沼川郷の一ノ宮と考えられているとわかり納得しました。祭神にも諸説ある上、創祀年代や合祀についても不明だそうです。巨きな拝殿の奥の本殿も2つに分かれています。
 


八心大市比古神社 (黒部市三日市)
 2014年10月2日。糸魚川駅から特急北越4号に約30分乗って黒部駅到着。次の電車まで1時間しかないため、電鉄黒部駅南の八心大市比古神社へJRの駅からタクシーで往復しました。若い女性の運転手さんが神社を知らず、本社へ「はっしんだいいちひこ神社ですが」と訊ねたら「やごころさんですね」と訂正されていました。社名はやごころおほいちひこ神社で、地元では「三島明神」「三嶋さん」と通称されているそうです。
 ちょうど宮司さんが車で出掛けようとしておられたので「神楽歌を演奏させて頂きたいのですが」とお願いすると、「16時までは空いているのでどうぞ」と仰って下さいました。貸し切り状態で演奏でき感謝しています。
 

①2012/4-10 ②2012/11-2013/3 ③2013/4-6 ④2013/7-8 ⑤2013/10-11
⑥2013/11-2014/2 ⑦2014/2-5 ⑧2014/6-7 ⑩2014/10-11 ⑪2014/11-2015/2
⑫2015/2-4 ⑬2015/4-5 ⑭2015/5-6 ⑮2015/6-7 ⑯2015/7-10