「古代の歌と氏族を探ねて」

出雲神社 (掛川市上内田)
 2014年6月3日。先月、葛城へ行き、「賀茂」「加茂」「鴨」に興味を持ちました。検索したら、御前崎に賀茂神社があり、静岡県で唯一の極相林に指定されているとわかったので社叢好きの血が騒ぎ、出掛けることに。
 新幹線で掛川へ行き、まずはタクシーで10分ほどの出雲神社へ。運転手さんに「古い神社なら見どころも多いのですけれど、明治以降に勧請されている場合もありますからねぇ、行ってみるまでわかりません」なんて話してたら、「昭和9年8月5日出雲大社より分霊を迎え盛大なる鎮座際を行い…」との由緒書きがありました。
 とはいえ、落胆したわけではありません。バス道からすぐの参道を上ると小さいながら池があり、境内からは静岡県らしく茶畑が見えて、自然の豊かさを感じました。徒歩1分でバス道に出る立地とは思えないほど静かな神社でした。参道の入り口にバス停があったので、ここからバスに乗り、終点の浜岡営業所を目指します。
 


賀茂神社 (御前崎市浜岡町比木)
 2014年6月3日、原発の町 浜岡へ。ホテルへ荷物をおき、タクシーで御前崎の神社をまわることに。
 まずは極相林を目指しましたが、房総半島というか銚子の渡海神社ほどのスケール感はありませんでした。銚子や八丈島には、そうと名乗らずとも普通に極相林がありましたので。
 賀茂神社の由緒書きに、「当神社は和銅元年葵祭で有名な京都の賀茂別雷神社より勧請したと伝承されている」とのみありましたが、賀茂神社の左に貴布神社(祭神 闇オカミ神)があったので、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と貴船神社(高オカミ神と闇オカミ神は「呼び名は違っていても同じ神なり」と社記にあるとか)が相殿で並んでいるということになりましょうか?
 


天王神社 (牧之原市新庄遠渡)
 2014年6月3日。駿河湾を見たくて、賀茂神社から海沿いの道に出て貰いましたが、堤防などがあってよく見えませんでした。御前崎中学校の南にあるという天王神社を目指したところ、なぜか住所が牧之原市。天王神社というくらいだから祭神は牛頭天王かと思いますが、わかりません。この日最初に行った出雲神社よりも社地が狭く、由緒書きもありませんが、茶畑に隣接しているところは同じ。そして社殿の右手を見ると、実にユニークな形をした御神木がありました。御神木だけなら、さっきの出雲神社より確実に古い?!
 


駒形神社 (御前崎市御前崎)
 2014年6月3日。さらに南下し、御前崎灯台に近い駒形神社へ。タクシーの中に倭琴を置いたまま鳥居をくぐりましたが、なかなか雰囲気の良い神社ではありませんか!? ということで、社務所にお声掛けしてみたら「どうぞ」と言われたので、慌てて「玉串料をもって参ります」と言い残し、タクシーの精算を。もたもたしていたら、宮司さん(2000年〜駒形神社・白羽神社兼務)が見に来て下さり、「私がお白羽さままで送りますよ」と仰って下さいます。「海を見に来たので、タクシーを呼んで灯台へ行ってから白羽神社へまいります」と申し上げたのですが、結局、灯台経由で乗せて行って下さいました!! お蔭さまで 2回も演奏修行が出来ました。感謝いたします。
 ところで、宮司さんにお尋ねするのを忘れたのですが、左の画像にある「世界人類が平和でありますように」という杭は何でしょうか? 以前、遠賀(をか)の高倉神社でも見ました。
 


白羽神社 (御前崎市白羽)
 2014年6月3日。駒形神社から白羽(しろわ)神社へ移動。馬が「御前崎」の地名のもととされる「厩崎(うまやざき)」の発祥に関わると言われているそうで、この馬、すごく勢いがありますよね。宮司さんのお話によれば、往古、天皇の乗る白馬を新羅から輸送中に沖で船が遭難し、90頭の馬のうち1頭だけが岸に辿り着いたので「厩崎」の地名がつき、駒形神社が創建されたと伝えられているそうです。
 当社は、838年(仁明天皇承和4年)2月、元宮である岬の駒形神社より遷座。かつては、龍神信仰によって海辺で名馬が育つと信じられていたため、馬が祀られていましたが、現在の祭神は駒形神社ともども、山幸彦とその妻 豊玉毘賣命、その妹 玉依毘賣命なのだそうです。
 


桜ヶ池・池宮神社 (御前崎市佐倉)
 2014年6月3日。桜ヶ池まで送って下さるとの仰せを鄭重にお断りし、池宮(いけのみや)神社へ。もう18時を過ぎていたので、楽器も持たず、足早に池と社殿を見てからタクシーに戻りました。
 社伝によれば「584年(敏達天皇13年)に瀬織津比当スが出現し、社殿の造営がなされた。のち、平安時代初めには衰退し、社殿は大破した」とのことです。
 県指定無形民俗文化財として有名な「おひつ納め」は、1169年(嘉応元年)に比叡山の名僧皇円阿闍梨が、末法思想に悩む人々を救済するためには56億7千万年後の弥勒菩薩の出現を待つ外ないとし、身を龍蛇と化して桜ヶ池に入定されたため、数年後に桜ヶ池を訪ねた高弟の法然上人が桧づくりのお櫃に赤飯をつめ、池宮神社と皇円阿闍梨に捧げようと池に沈めたことに始まるとか。現在では全国の崇敬者によって毎年のように百を超えるお櫃が納められ、数日後には再び空になって浮いてくることから、遠州七不思議に数えられているそうです。
 


桜ヶ池・池宮神社 (御前崎市佐倉)
 2014年6月4日朝9時過ぎ。浜岡営業所から出るバスが1時間に1本しかなく、時間を潰すためにタクシーで5分ほどの桜ヶ池を再訪しました。昨日の印象と同じく、やっぱりここはテーマパークですねぇ…。しかし、どこででも練習を積むことが大事!! 植物で作ったらしい龍の花飾り(?!)を見ながら池へ行き、ささっと調絃をして始めようとしたら、タクシーの運転手さんがやって来ました。三味線を嗜んでおられるため三味線ケースの中身を見たかったのだそうで、「それなら2,3枚撮って下さい」とお願いしてしまいました。
 あとで、「こんな楽器や楽譜は初めて見たなぁ」と驚いておられました。私は時間を有効に使えて大満足。
 


稲荷大明神 (掛川市日坂)
 2014年6月4日。西から天気が崩れて来ているというので早々に岡山行きを断念し、掛川駅周辺をまわることに。遠江國一ノ宮事任(ことのまま)八幡宮は「ことだまの神」として有名です。その大祭の神輿渡御は数年前まで本宮山から事任八幡宮へ下がる際の御旅所として日乃坂神社に一泊していたと知り、探してみました。
 ところが、バイパスをくぐり、旧東海道の難所で遠州七不思議の一つでもある「小夜の中山」へと向かう日坂(中山の西にしざかにっさか)を登る途中、気づかずに通り過ぎてしまったようで、行けども行けども神社などないと思ったら、「正一位」と書かれた稲荷大明神の幟が翻っていました?! いやあ、いくら何でも最高位の「正一位」を授けられるような神社とも思えないので調べたら、単なる「稲荷神社の別称」だそうで…、勉強になりました。
 


日乃坂神社 (掛川市日坂沓掛)
 2014年6月4日。狭い急坂を上がって行ったものの、地図で見た感じより距離があったため、茶畑で仕事をしている方に「日乃坂神社はどこですか?」と訊いてみました。すると、かなり手前の連続して「く」の字に曲がる二の曲りの途中から側道に入ったところにあるとのこと。タクシーで下るのは無理だからバックして遠回りした方がよい、と言われましたが、その道を上がってきたんですと言い、強行しました。そのあとに車輪が泥濘地に填まって動けなくなるという不幸を予測できず…。
 いま思い出しても恐ろしいほどの急坂(↑ここから更に上ったところ)を一気に下って二の曲りの一つ目に差し掛かったところで「事件」が起きました。「事故」にならずに幸いでしたが。とても一度では曲がり切れず、舗装されていない場所まで突っ込んだため、前からタクシーを押し戻しました。そこから一人で歩いて行ったのが、扁額がずっこけた神社です。御旅所でなくなって数年で、ここまで寂れるものなのでしょうか…?
 


事任八幡宮 (掛川市八坂)
 2014年6月4日。なんでも、807年(大同2年)に坂上田村麻呂がすぐ北の本宮山から里宮へ遷したのだそうで、平安時代後期に八幡信仰が広まったため、1062年(康平5年)に源頼義が石清水八幡宮から八幡神を勧請し、日坂八幡宮(にっさかはちまんぐう)とか八幡神社と称されたとか。しかし、よくわかりませんが、ここに「本宮遙拝所」なるものがあるのは、本宮山との間に道路(旧国道1号線)が出来たからではないのでしょうか? こう行く先々で、境内を分断する線路や道路、社地の中にある電波塔などを見ると、日本は神なき国なんだと思うしかありませんよね…。この「本宮遙拝所」の下には真っ赤に塗られた歩道橋、この上にはいわゆる「パワースポット」があると言うのですが、私にパワーは不要です。というか、私は神社や社叢は人間が守り続けるべきものであり、自分勝手な願い事をすべきではないと考えているため、もう一ヶ所の「パワースポット」たる御神木を見て、掛川駅へ戻ることに。
 そうそう、当社の祭神己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は忌部の神 玉主命(たまぬしのみこと)の娘神で、中臣の祖である興台産命(こことむすびのみこと)の后神なのだそうです。言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われていると書かれていますが、清少納言はさすがに揶揄していますね。

 布留(ふる)の社。龍田(たつた)の社。花ふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらんとをかし、ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき。
 


大名持神社 (掛川市久保)
 2014年6月4日。掛川駅へ戻ると、まだ30分ほど待ち時間があったので住所をメモしておいた大名持神社を探して貰いました。これが難航したのは、例の如く、道路を通すために社地が奪われて住宅地の行きどまりに鎮座していたためです。昭和42年2月建立の石碑を読めば、「東名高速自動車道路工事の為 社地の大半を割譲 樹林の伐採 境内の整美 社殿改築等の止むなきに至れり」とのこと。
 川もあり、かつては社叢もあったかと思うと残念でなりません。が、これが日本を知るための旅の成果です。
 


尾針神社 (岡山市北区京山)
 2014年6月6日。無事に母の通院を済ませての帰途、岡山駅で降り、かつての尾張神社を目指しました。現在の表記は尾針神社ですが、日本語の場合は表記より発音が大事なので(尾治→尾張→尾針?)。
 この神社を目指した理由の第一は、「吉備國御野郡伊福郷」にあったこと。「御野」は「美濃」と発音が同じで、祭神が尾張氏の始祖とされる天火明命(あめのほあかりのみこと)とくれば、「美濃國不破郡藍川郷」に伊富岐神社があるのと逆のパターンです。当社の北には同じく尾張氏ゆかりの尾治針名眞若比盗_社が鎮座し、奥に七つぐろ古墳があります。伊福部氏の系図の第八代を初代とする尾張氏との関係は神官も認めておられました。
 第二は、鎮座地の丘の東斜面から土師器や須恵器が出土しているだけでなく、社殿背後の台地に高さ1〜2mほどもある巨石群が現存すること。これは天津磐境(あまついはさか)と呼ばれる古代祭祀の遺跡です。
 式内社尾針神社は、江戸時代には所在不明になっており、酒折宮(現岡山神社)の社地が元の境内と記す文献もあるそうで、現在も岡山神社の末社として尾針神社が祀られていますが、私は平安時代の「延喜式」よりも古代の祭祀場に興味をひかれて足を運びました。
 


尾治針名眞若比盗_社 (岡山市北区津島本町)
 2014年6月6日。地図を見てもよくわからなかったので、明誠学院の奥とだけ頭に入れて行きました。が、道が狭い上、人家が密集し、タクシーの運転手さんも初めてということで右折できずに遠回りしたりしながら到着。
 まず、神社名が岡山県神社庁のページなどで「おじはりなまわかひめ神社」となっていることに疑問を抱きました。尾張氏の系図に、「始祖から十三世の孫、尻綱根命が品太天皇(應神天皇)の御世に尾治(おはり)連の姓を賜った」とあることから、「おはりはりなまわかひめ神社」でないとおかしいと思います。のちに、『日本書紀』の天武十三年十二月戊寅朔己卯の条に「尾張の連に姓を賜い、宿禰とした」とあり、尾治が姓である以上、「おじ(ぢ)」になることは考えられません。
 また『新撰姓氏録』に「伊福部宿禰は尾張連と同祖、火明命の子孫」とあることから、「吉備國御野郡伊福郷」に天火明命を祭神とする尾針神社があったことは納得できます。なお、備前國邑久郡に尾張郷があり、尾張國愛智郡に針名神社、尾張國海部郡に伊福郷があるそうです。
 さて、尾治針名眞若比盗_社ですが、大正4年には愛嬌のある狛犬も奉納されていたのに、本殿まで行く人が減ったのか、遙拝所(画像左)がありました。小高い丘なのに昼でも怖いほど山深い感じ…。そして遙拝所手前にある七つぐろ古墳への道はほとんど獣道と化していたので行くことを断念しました。当社の住所が津島、尾針神社が伊福町に隣接していることから、海人族の古墳であることはほぼ間違いないように思うのですが。
 


伊尾木八幡宮 (安芸市伊尾木)
 2014年6月22日雨。前夜、高知龍馬空港着。前日に続く雨で予定を少し変更し、伊尾木駅からタクシーで見事な玉石を敷いた石段が有名な伊尾木八幡宮経由で神峯神社のある神峯山へ向かうことに。
 残念ながら、玉石の階段からではなく、タクシーで小高い丘を上り、裏口から境内に入る道を探しました。晴れた日なら、階段上の境内から撮った右の画像の先に海が見えるはず。コンパクトな社殿の八幡宮でした。
 すぐ近くには伊尾木洞があり、この小高い丘自体がちょっとした要塞のようにも感じられました。
 


神峯神社 (安芸郡安田町唐浜)
 2014年6月22日。四国霊場27番札所神峯寺のある神峯山(620m)へ。新しい参道が出来て車で神社まで行けるようになったときいていましたが、さすがに「真っ縦」と言われた急斜面だけあって、タクシーがガリガリ音を立てながらカーブを曲がるのには閉口…。しかし、雨にけぶる神峯(こうのみね)神社は神々しいほどでした。
 神峯神社では社殿より有名かもしれない燈明巖。次のような由緒書がありました。

 太古から夜半になるとこの岩が青白く輝き光を放っていたのでこの名が起ったといわれる。また数々の困難や異変が起る前兆にこの燈明巖が光るとも語り伝えられており、近世では、日清、日露戦争、関東大震災、日支事変、太平洋戦争、南海大震災等にみられた。
 


御崎神社 (安芸郡東洋町生見)
 2014年6月22日。神峯山を降りて、安田というバス停から約2時間。室戸岬を通過して生見のバス停を目指しました。が、タクシー会社がなく、手前の野根で降りました。それにしても安芸郡って広いんですねぇ。
 地図に載っていない神社を探していたら農道から社殿らしきものが見えましたが、周囲に溝があって入れません。来た道を戻ると運転手さんの知り合いの家があったので尋ねたら、御崎(おんざき)神社と教えて下さいました。画像ではわかりませんが、社殿も燈籠も狛犬もかなりサイズが小さく、これが古い形なのかもしれないなぁと感じました。社殿の脇には磐座もあって、日本人好みの箱庭的な神社のしつらえを見せていただきました。
 


野根八幡宮 (安芸郡東洋町野根小字中ノ坂)
 2014年6月22日。わざわざ生見まで行ったのに目指す神社は見つからず終い…。室戸岬へ戻る道々、運転手さんの独断で野根を連れ回されました。思わぬ収穫といったところです。
 まずは鎌倉時代より続く流鏑馬(やぶさめ)で有名な野根八幡宮へ。当社は九州宇佐八幡宮の分社で祭神は応神天皇だとか。国道55号線沿いにある拝殿と、奥の弊殿および本殿のギャップがかなりありました。
 「旧暦9月17日には名留川の春日神社でも流鏑馬が行なわれる」とあって、次は春日神社へ。
 


春日神社 (安芸郡東洋町大字野根乙)
 2014年6月22日。いったん国道55号線からはずれ、野根川沿いの名留川地区へ入ると、鹿が車を見てはピョンピョン跳びながら茂みに隠れます。それを見た運転手さんが突然、「メスが1頭1万円、オスが1頭8千円…」なんて話し始めました。「この辺の人間は鹿なんて不味いから喰わんのですよ、耳をもって行けばお金くれるからほかしたままです」…、怒りがこみ上げてくるのを抑えながらタクシーを降りると、農道から社殿が見えました。
 鳥居まで行くと、巨杉と巨杉をつなぐように注連縄が?! 由緒書によれば、「境内に聳える四本の巨杉は何れも樹令約一千年」とのこと。当社の創建は1704年で、「奈良の春日大社より分社」とありました。春日大社なら、武甕槌命が白鹿に乗ってきたとして、鹿を神使としているはずですが…?
 


佐喜浜八幡宮 (室戸市佐喜浜町)
 2014年6月22日。やっと予定に入れていた神社へ到着。ここは「にわか」で有名な佐喜浜八幡宮です。佐喜浜中学校の隣にあって境内地が広く、参道も長い。巨木もあります。が、本殿後方の柵の向こうに国道55号線が通ったことで奥の御神体山と遮断されています。こういう神社がかなり多いところを見ると、日本人は明治の国家神道の折に一斉に洗脳されただけなのかな…と感じざるを得ません。テーマパーク、ハリボテ vs 産土、氏神 ?
 


杉尾神社 (室戸市高岡)
 2014年6月22日。運転手さんの采配で動いていたら、またしても国道55号線沿いに神社があると言われ、立ち寄ったのがここ。下から見ただけでは想像もつかない本殿でした。手前の建物は壁が無く、何やら岩石をぎっしりと詰め込んでいる様子。あやしいなぁ…と凝視していたら、突然タクシーの運転手さんが階段を上がってきて、「もう野根に帰らんといけんです」と仰るので、精算をしました。
 はぁ…頼みもしない所をグルグルまわった挙句に置き去りですかぁ? やっぱり日本は神なき国だな…。
 


五所神社 (室戸市室戸岬町)
 2014年6月22日。捨てる神あれば拾う神あり(←違う!?)、ホテルに電話をしたら迎えに来てくれたので、無事チェックインしてから徒歩5分の御厨人窟(左の画像左側の鳥居)へ。「うわぁ、これは花の窟より迫力がある〜」と思わず口々に叫んでいました。意外なことに御厨人窟には鳥居があって五所神社と書かれていました。祭神は大国主神だそうです。空海が修行したこの御厨人窟から見えたのは空と海のみだったことから「空海」と名乗るようになったとか(ホントかな?)。いま見えるのは国道55号線です…。
 隣の神明窟には神明宮があって、祭神は大日靈貴(オホヒルメノムチ)。空海が神明窟で修行をしていたら明星が口に飛び込んできて悟りが開けたと伝えられていますが、こちらは落石のため、2012年秋から立入禁止。
 波と風の音が凄まじく、突端に来たなぁという気がしました。
 


韮生山祇神社 (香美市香北町大屋敷西畝)
 2014年6月23日。前日まで続いた雨が上がり、22日に登る予定だった御在所山(1079m)へ。運転手さん曰く「一の鳥居までタクシーで行っても、頂上まで40分はかかりますよ」、「えっ、地図では1kmほどでしたが…」というわけで、楽器を背負った私は「真っ縦」の急勾配でリタイア。右の画像は「やまとうたのふるさと」の参加者の方から頂きました。私がリタイアした地点では霧は出ませんでしたが、くさり場の手前で視界2mほどになったそうで、かなり怖かったとか。そこまで考えておらず、申し訳ありません。狭い一本道なので何とか無事に下山できました。
 人は、なぜ、こんな高所に神社をつくるんでしょう…? 住所の「大屋敷」は「王屋敷」なのだそうで、平家の落人伝説がありました。四国の山中には多いですね。
 


厳島神社 (香美市香北町朴ノ木宮ノ谷)
 2014年6月23日。御在所山から下りて、物部(ものべ)川を渡らず、217号線から少し山裾に入るとやなせたかしさんの墓所でもある「やなせたかし朴ノ木公園」があります。アンパンマンミュージアムから離れたこの場所を知っていたわけではありません。当初から土佐山田駅でタクシーに乗る予定でしたが、ごめん・なはり線の中で、御在所山へ登るなら地元のタクシーの方がよかろうと考えて、在所タクシーを予約したのでした。お蔭で、とてもスムーズだった上、通り道だからと案内してくれた「やなせたかし朴ノ木公園」の手前にこの厳島神社がありました。社地が狭いのに物凄く存在感があり、地元の方たちが大切にされていることが伝わってきました。鳥ののった燈籠(なぜか右側にしかないのですが)、これまでに見たことが無く、珍しくも美しくも感じました。
 


大川上美良布神社 (香美市香北町韮生野大宮)
 2014年6月23日。新在所橋を渡って、韮生郷総鎮守たる大川上美良布神社へ。朴ノ木の厳島神社の数十倍もあろうかという神社で、境内社として若宮神社、琴平神社、秋葉神社、御崎神社がありました。ただし社殿は修復工事中…。本殿のみ工事が入っていなかったので撮りました。御神木は樹齢1000年の杉。
 今回は物部川沿いに、加茂、吉野といった地名があったので出掛けてみました。ただ、あまりに資料が無く、運転手さんから「市役所に郷土史家の書いた本があるか訊いて、もう一度いらっしゃい」と言われました。
 


御市川若一大王子宮 (香美市香北町五百蔵市川)
 2014年6月23日。大川上美良布神社で、川の反対側にある五百蔵(いほろい)へ行ってないことに気づき、運転手さんに忘れていませんかと尋ねると、この先の橋を渡りますからと仰り、少し上流に戻る形になりました。何でも、大川上美良布神社側の三社は祭を一緒にやるけれど、川を隔てた地区とは接点がないのだそうです。
 私は単に「いほろい」という地名に惹かれて行っただけでしたが、実際に足を運ぶと、物部川の重要性や手つかずの自然の美しさを感じ、人と暮らし、そして神について改めて考えてみようという気になりました。
 


土佐神社(土佐高賀茂大社) (高知市一宮町しなね)
 2014年6月23日。五百蔵からさらにタクシーに40分ほど乗って土佐一宮(いっく)へ。さすがに立派です。山から下りてきたばかりなので、ちょっとしたオノボリサン気分。運転手さんに「しなね様って何ですか?」と尋ねると、「稔ると頭を垂れる稲のことですよ」と教えてくれました。そう、かつては二毛作でしたね、稲の国=高知県。
 高鴨神と雄略天皇の関係、土佐から再び大和の高鴨神社へ戻ったとの伝承についてはこれから考えます。
 土佐神社で興味をもったのは、画像右の「礫(つぶて)石」でした。以下、石の前にあった「謂れ」です。

 古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はずとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
 この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学会では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。
 


白山洞門・白山神社 (土佐清水市足摺岬)
 2014年6月24日。私の旅の目的は白山洞門!! 前日、土佐一宮で皆さんと別れ、一人で特急あしずりに乗って中村へ。そこからさらに路線バスで2時間近くかかる終点の足摺岬を目指し、足摺岬にはタクシーが無いと聞いたため白山洞門まで徒歩10分の宿に泊まりました。ここまで来たのだから金剛福寺へも…と思いましたが、暑い中、楽器を背負ってキャリーバッグをひきずって歩くのは大変なので、ゆっくりと朝食とコーヒーを頂いて、11時のバス発車時刻まで白山洞門で寛ぎました。海沿いの町で育った私は潮の香りや波の音でリフレッシュできます。
 白山洞門は花崗岩の海蝕洞としては日本一の規模と知り、足を運びましたが、宿の女将さんに「洞門の上の白山神社は女人禁制だから絶対に登っちゃいけませんよ」ときつく言われたため、我慢して高さ16m、幅17mの洞門の中から海を見てました。女性が行けるのは左の画像の左(こんもりした緑のV字の谷)にある鳥居まで。
 


静神社 (那珂市静)
 2014年7月15日。鹿島神宮、香取神宮とともに東国の三守護神として崇敬されていたという静神社へ。当社は水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造した際に本殿脇の大きな桧の根本から見つかった『静神宮印』の銅印を社宝としているそうです。「しづ」の名の通り、古くから織物の里として有名だったと知り、急遽訪問しました。
 ところが行ってみると、エエェ〜?! ゴミ屋敷? とビックリ。拝殿への渡り廊下の下から、目の入ってないダルマとか、ギプスのミイラ?!…とかが見えましたが、織物とは無関係でしょ? いったいどうなってるの?
 どうやら境内社に「手接足尾神社」があり、それがギプスにつながったようで、手足の怪我などの快癒祈願? かと思われますが、社務所が閉まっていたので訊けませんでした。
 また、当社は常陸國二ノ宮で、一ノ宮たる鹿島神宮との関わりが深いようです。何でも、鹿島神宮の境内には高房社として静神社が祀られているとか。しかも、鹿島神宮の奥宮建立の際には静神社の木がわざわざ鹿島の下津(おりつ)港まで運ばれたそうです。静神社の祭神「建葉槌命」と鹿島神宮の祭神「武甕槌命」とくれば、「甕星香香背男」の征伐じゃありませんか?! というわけで、もう一つの「しづ」神社大甕倭文神宮を目指しました。
 


大甕神社(大甕倭文神宮) (日立市大みか町)
 2014年7月15日。常陸國の「しづ」神社2社目。大甕倭文(しづ)神宮の祭神も静神社と同じ「建葉槌命」でした。『日本書紀』の葦原ノ中ツ国平定に登場する天津甕星または天香香背男と呼ばれる悪神を平らげた英雄なのだそうです。武甕槌命(鹿島明神)と経津主命(香取明神)が高天原から派遣されて日本列島の先住民族を征服して巡っていたところ、大甕の里の石那坂で頑強に抵抗して二神の軍を退けた者が居ったとか。そこで、倭文(しづ)の里で女たちに倭文織を教えていた建葉槌命が筬(をさ)を捨てて立ち上がり、大甕山(現社地ではない)にて甕星香香背男の変じたる巨岩を金の沓(くつ)で蹴飛ばすと四散して息絶えたと伝えられています。
 ところが、突然行くことに決めた私は予習をしておらず、岩の名前が出てきません。大鳥居の下で話をされていた方に「すみません、この神社に宿曜石があると聞いたのですが…」とお訊ねすると、「ああ、宿魂石ですね」と言われ、「あ、それです」と申し上げた次第(お恥ずかしい限りです)。何と、この方が宮司さんで、三味線ケースを背負った私を見るや、「こちらからどうぞ」と比較的歩きやすい道なき道を案内して下さって本殿へ到着。御一緒くださった総代さんが「一つの石ではなく、この丘全体が宿魂石なんです」と教えて下さったので、「登ったら失礼でしたね」と言いつつ、神楽歌を奏上させて頂きました。普段は必ず持って出る玉串料の封筒を用意していなかったので、「次は必ずゆっくりと時間をとってまいります」と御挨拶をしてタクシーに飛び乗りました。
 僅か半日の2社をまわる旅でしたが、私の印象としては、「しづ」は「」だと感じました。古代歌謡とはわざうたであり、言葉に二重三重の意味を持たせています。その美学を継承しようとしたのが野口雨情であり、谷川雁でした。谷川雁の言う「三代の歌」を祖父母・父母・子の三世代ととらえるだけでは芸がありません。時代を重ね、意味を重ねてこそのわざうたです。「茲都歌」のとらえ方に、大きなヒントを与えて貰った気がします。
 


朝山神社 (出雲市朝山町)
 2014年7月20日午後、21日の「やまとうたのふるさと」のため、羽田から出雲へ移動。今日は一人なので、大国主命が妻問したと言われる(『出雲国風土記』神門郡条の朝山郷の項に「神魂命御子 眞玉著玉之邑日女命坐之 爾時 所造天下大神 大穴持命 娶給而 毎朝通坐」とある)眞玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ)を祀る朝山神社へ行ってみました。当社は『出雲國風土記』所載の宇比多伎(ウヒタキ)山に比定される山上に鎮座しています。旧暦10月1日〜10日に神在祭が行われ、ここに集った神々が11日に出雲大社に向かうそうです。
 神話は凡人には理解できませんが、山上にあるため空気がきれい!! ともかくのびのびとリラックスできる空間でした。ただ、社地がおそろしく広く、風土記に記載されているくらいですから、古代には国主がお伺いを立てに来るような土地だったということでしょうか。
 一つ気になるのは社紋が「笹」だったことで、「アサ山」ではなく「ササ山」だった可能性はないのか? と思い、調べてみましたが、今のところそういう記述はありません。御存知でしたら、ご教示くださいませ。
追記:教えて頂きました。社紋は「笹」ではなく「百合の葉」だそうです。これで「ササ山」説は消えました。
 


富能加神社 (出雲市所原町城山)
 2014年7月20日夕方、朝山神社から富能加(ほのか)神社へ。こちらはかなり急な階段の上に同じような随神門が?! これが出雲スタイルなのでしょうか? タクシーの運転手さん曰く「ここも朝山神社とは別だけれど、同じように美人の神様が祀られていると聞いた」とのことで調べたら、私には理解できない神話がありました。
 第11代 垂仁天皇の御子 本牟智和気命はロがきけなかった。ある日、垂仁天皇の夢占いに「出雲大社に参詣せよ」とあり、出雲へ行った本牟智和気命は肥河の檳榔の長穂宮で肥長比売と結ばれた。ところが、よく見ると肥長比売は蛇だったので、本牟智和気命は驚き慌てて逃げ帰り、その後、口がきけるようになった。
 ただし、富能加神社は明治4年に所原の産土神社に指定され、同44年に小野神社の社地に遷座して同社を合祀したのであって、元は現社地の北約1kmにある星神山の中腹の磐窟の中に社殿がありました。もしかすると垂仁天皇がその子・本牟智和気命を出雲大社に参拝させたことと結びつけたのはずっと後ではないのでしょうか。
 なお、現社地の奥には出雲最高峰の王院山(553m)があって史跡めぐりのハイキングコースになっており、山頂の王院が墓は、朝山郷や塩冶郷の吉祥姫の伝説と深い関わりがあると言われています。
 


日御碕神社 (出雲市大社町日御碕)
 2014年7月21日。出雲市駅からバスで日御碕を目指しました。が、対向車もいないのにバスが10分遅れ、25分後のバスで出雲大社へ行く計画はオジャン。日御碕にはタクシーがいないため、出雲大社から20分かけて来て貰うしかありません。まずは日御碕神社へ行ってから、海に向かいました。
 あ、あの島へ上がりたい!! と思って、じっと周囲を見ても上がれる様子はありません。港につながれている漁船に乗せて貰えないかなぁ…と考えていたら、一人のおじいさんがバイクでやってきました。「どこから来たの?」と二度、三度と訊かれつつタクシー会社の電話番号を訊ねると、「家へ帰らないとわからないねぇ」とのこと。「あの近の島に上がりたいのですが、どうやったら行けますか?」と訊ねると、「それはダメだ。あそこは日御碕神社があった場所だから」と教えてくれました。メガネをかけると確かに平らな天辺に小さな鳥居が見えます。ならば…と、昨日のタクシー会社に電話をして大社ハイヤーの番号をきき、すぐ来て貰えるよう頼んでから神楽歌を一曲演奏しました。バス乗り場へ戻るとタクシーが来てくれていて、時間のロスなく出雲大社へ移動できました。
 


北島国造館 (出雲市大社町杵築)
 2014年7月21日。日御碕まで来てくれたタクシーの運転手さんは元気の良い女性でした。「お客さん、凄くパワーがありますね」「いえいえ、運転手さんほどではありません」「出雲大社は初めてですか」「二度目ですが、今日はこれから松江へ行くため時間がなく、混んでいる場所へ行くのは無理。摂社を二、三まわりたいのですが」「たとえばどこですか」「命主社(いのちのぬしのやしろ)とか」「それなら北島国造館の近くですね、短時間でまわれますよ」ということになり、宗教法人「出雲教」の北島国造館へ。現出雲大社の社殿の後方にあった北島国造館は、寛文年間(1661-72)の杵築大社造替にあたり、現在地へ遷されたそうです。
 ちなみに出雲国造(いづものくにのみやつこ、いづもこくそう)は第10代崇神天皇の御世に天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫たる宇賀都久怒(うかつくぬ)を初代とし、康永年間(1340年頃)以降は、千家氏(せんげし)と北島氏の二氏がそれぞれ出雲国造を名乗っているそうです。宗教法人としては、北島氏の「出雲教」、千家氏の「出雲大社(おほやしろ)」があるらしい。
 出雲国造が新任時に朝廷で奏上したという出雲国造神賀詞には「大穴持命(大国主大神) 杵築宮(杵築大社、明治4年に出雲大社に改称)に静まり坐しき」と記載があるため平安時代前期までの祭神が大国主大神であったのは確実ですが、その後、天台宗の鰐淵寺との関係が深まり、杵築大社(出雲大社)の神宮寺を兼ねた鰐淵寺の縁起(中世出雲神話)では出雲の国引き・国作りの神は素戔嗚尊になっているそうです。亀岡の出雲大神宮から和銅年間(708-715)に「大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり」とあり、鰐淵寺が第3代天台座主慈覚大師(794-864)によって天台宗に改宗させられたのだとしたら、大国主命が祭神だった期間は僅か100年余りということになるのでしょうか?
 画像左は出雲大社神域内では最も古い建造物とされる北島国造家「四脚門」、右は「亀の尾の滝」です。

【追記】 情報をいただきました。
「杵築御神領北島分目録の事」

   一、百四拾壱石七斗五升        杵築宮廻
   一、弐百五石八升            千家村
   一、弐百六拾七石八斗三升      北島村
   一、五百三拾石八斗五合        富村
   ・・・
合 千百九拾石七斗五升          慶長九年(1604) 拾月二拾三日

 千家=205石、北島家=267石を合わせても、富家の領地 530石には及びません。富家とは…?
 


命主社 (出雲市大社町真名井)
 2014年7月21日。ほとんど移動距離なく北島国造館から命主社へ。樹齢千年以上の ムクノキが人気のようです。正式名称は「神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)」で天地開闢の造化三神の一柱、神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られているそうです。
 杵築大社造営にあたり、1665年(寛文5年)に命主社裏の大石を石材として切り出したところ、銅戈(どうくわ)と硬玉製勾玉(まがたま)が出土したとか。現在は「眞名井遺跡」と称されているようでした。
 


出雲井社 (出雲市大社町修理免)
 2014年7月21日。命主社から真名井の清水を左手に見ながら車1台がやっと通れる道を東へ進むと、狭い角に「出雲井社まで約30m」の表示がありました。タクシーは入れないため、10mほど歩くと約495mの弥山(みせん)の西南麓に鎮座する社殿が見えました。「出雲井社(出雲路社)」とあり、祭神は岐神。私には想像がつかないため下の説明を読んだら余計わからなくなりました。最近は神話や神名を覚えようとの気力も失せてきた感じ…。

 岐神(くなとのかみ)は勇武にして地理に明るく、大國主大神が國譲りの際、大神の命によって経津主神に随伴して諸国をめぐり不逞の者を平げ帰順せしめて天の下を統一せられた功神であります。
 

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