「古代の歌と氏族を探ねて」

熊野白山瀧神社 (一関市滝沢)
 2015年4月19日朝、一ノ関へ。昨年、早池峰へ行った折、わざわざレンタカーを借りたのに、この長い名前の神社を認知しておらず素通りしてしまいました。記紀に「鬼」と書かれたアイヌ族の征討を命じられた坂上田村麻呂(758-811)は、任務達成のために日本最強の神を集めようとしたのでしょうか。
 坂上氏は応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる阿知使王(あちのおみ)の子孫で、祖父・犬養、父・刈田麻呂の時代から武をもって知られていたそうです。田村麻呂が征夷大将軍として指揮をとり、アイヌ族を追討するまでの流れは次のごとくでした。
 延暦8年(789)、紀古佐美の率いる征討軍がアテルヰ率いる蝦夷軍に大敗。
 延暦10年(791)、田村麻呂が大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任ぜられる。
 延暦12年(793)、田村麻呂が四人の征夷(征東改め)副使の一人として進駐。
 延暦15年(796)、陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を田村麻呂が兼任。
 延暦16年(797)、田村麻呂が征夷大将軍を拝命する。
 延暦20年(801)、田村麻呂の遠征軍が勝利を収め、夷賊(蝦夷)を討伏。
 延暦21年(802)、アテルヰ、モレ等500余人が降伏。田村麻呂が両人を伴って入京し、助命嘆願するも処刑。

 田村麻呂は延暦10年(791)に、桂峯に白山大神を、延寿原に熊野大神を奉祀したのだそうです。大同年間(806-810)にはさらに祓戸大神を勧請して神威を仰ぎ、瀧神社として奉安。後に三神を合せて一村の鎮守としています。先住民を日本の神(もしかして渡来の神?)で追討したとは、背筋が寒くなるような史実です。
 現在では近くに道路が出来たため、車で乗りつけられますが、昔ながらの参道は急勾配の石段で、小高い要塞としてこの地が選ばれたことが想像されました。
 


金峯神社 (石越町南郷とど台)
 2015年4月19日。再び一ノ関駅へ戻り、東北本線で石越へ。ここからは宮城県です。石森(いしのもり)観光タクシーさんに大変お世話になりました。神社の所在地を調べて下さっていたのでスムーズにまわれました。
 「とど台」に鎮座する金峯神社へは地図を見てもまず行きつけないでしょう。車が通れるような道ではないため省略されていて、突然ポツンと神社マークがあるのです。そもそも修験の拠点ゆえ、開けた場所にはなく、目立ちません。今は拝殿と本殿のみですが、往時は宿坊などもあり、山頂に本殿があったのかもしれません。
 「嘉祥元年(848/延暦)、僧円仁(慈覚大師)東国教化の砌り当山に来り大和国吉野郡金峯山蔵王権現を移祀し国家鎮護の祈願所とした」と伝えられているそうです。
 ただ、参道の石段右手に「平成天皇」御即位記念のモニュメントがあったのには度肝を抜かれました。私のようなド素人でも、御存命中は「今上天皇」だということくらい弁えていますが? 大丈夫ですか、神社…。
 


遠流志別石神社 (石越町北郷中沢)
 2015年4月19日。ついにやってきました、アイヌ語地名の遠流志別(オルシベツ)石神社。アイヌ語の「オルシベツ」は、「大きな川の流れのそば」という意味だそうです。
 画像右の中央にかすかに見える赤い鳥居は黄金山神社の石碑の前にあります。お花畑があって、見た目はのどかな雰囲気ですが、殺戮が繰り広げられた場所かもと思うと、足が進みません。鳥居をくぐると社殿までが薄暗く、社頭とのギャップを感じます。本殿裏の〆縄がかけられた三つの石が凄い迫力だと思ったら、当社は古くから「石神様」と呼ばれ、この磐座が御神体なのだそうです。入口に由緒を書いた石碑がありました。

 遠流志別石神社は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座し縁起式内社栗原七座の一つと言われ古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されて来た神社である
 古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し伊勢の御姨倭姫命が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上に戴き赴くべし」と授けた やがて東国を平定するに及び明玉は霊石と化したのでこれを祀った
 この霊石が子石を産み五十の数に別れた故にこの地を石子石の里と名付け後に石越となった これが石神社の起りとされ石越の名の由来となっている

 


瀧神社 (石越町東郷大根沢)
 2015年4月19日。石越駅から南郷、北郷とまわり、東郷へ。地図上にある瀧神社が見つからないというのは全く予想できない事態でした。この更地がそう?
 よくよく見ると小さな社のようなものがあり、その名も「瀧不動」。遠澤の仏師 二階堂正七(規慶)作と伝えられ、市指定の文化財になっているそうです。明治20年頃に火災で堂宇を焼失と書かれていました。いまは村人の手で救い出された御本尊だけが社の中に鎮座しています。
 今回、運転手さんはお祖母様に瀧神社のことを訊いて下さったそうです。すると、「昔は池の湧水がきれいで霊験あらたかと言うことで飲みに行っていた」とのこと。その池を探したら、鳥居の階段下にありましたが、ゴミがいっぱい投げ捨てられていて往年の面影はありませんでした。残念です。
 気になったのは社地の奥の丸い石で、その左手が土手のようになっていて石の祠があったので上がり、そこから社を撮ってみました。彫られた字は判然としませんが、「鹽●神」と読めます。「鹽竈」なのか、「鹽椎」なのか?
 


柳津虚空蔵尊 (登米市津山町柳津)
 2015年4月19日。まだ全線が開通していない気仙沼線ですが、柳津まで行けるとのことで計画を立てました。が、小牛田からは日に4本。石越から東北本線で行くと接続が悪く、うまく往復できないため、行きをタクシーにしました。石越の今はなき瀧神社から小一時間で柳津虚空蔵尊へ。ここは社地が広く、中をくまなく回ると電車に間に合いません。ならばと空海が21日間籠ったという「大師堂」を目指しますが、どこにも「大師堂」という文字はなく、「奥の院」と書かれてある山道を登ることに。ところが、道なき道で、380mと書かれていたのに15分登っても何も見えず、時間が残り15分に迫ったので断念して下りました。いったい何をしに行ったのでしょう?
 御本尊たる虚空蔵菩薩は、天皇の勅により東国を巡行していた行基が、神亀3年(726/第45代聖武天皇)9月、当地で21日間の修法をつとめて彫ったとされ、天下泰平、国家安穏を祈って黄土山(大土山)の山頂に一宇を創健。さらに弘仁9年(818/第52代嵯峨天皇)5月3日、弘法大師が当山の堂に籠り、21日間の密行を勤めて大黒天と毘沙門天の2体を刻し、本尊の左右に安置する形で、本堂を山麓の現在地に遷されたそうです。
 


富神明神社 (山形市柏倉)
 2015年4月20日。スピリチュアルな方々が日本のピラミッドとか仰っている「トカミ山」へ。私自身とくに興味はないのですが、ホテルの送迎バスの時間が12時、14時…で、2時間近く待ち時間があったので行ってみました。富神(とかみ)明神社への道は地図で見ても狭く、知らなければ行けないだろうな…と思ったら、案の定、運転手さんも御存知ない。ここはナビに頼って何とか到着。
 山形駅から向かって最初に見えた時の形は確かにピラミッド。名前の漢字は、元は「富神」ではなく「利神(とかみ)」だったとか。やはりピラミッドとして有名な青森県の十和利山にも「利」が使われていますね。
 「富神山」は縄文時代からの祭祀場で、山麓の富神明神社は縄文時代の環状列石の遺跡の中央に建っていると書かれていましたが、行ってみるとその痕跡は全くありません。何か騙されたような気分ですが、桜を見に行ったということで…。
 


両所神社 (上山市権現堂)
 2015年4月21日。20日に初めて蔵王へ行きましたが、強風でロープウェイが運行中止になって「樹氷高原」駅から下ろされるし、温泉神社は階段が通行止になっているし、さんざんでした。21日朝、山形駅までの送迎を断り、タクシーで「かみのやま温泉」駅へ行くことにして再度ロープウエイに挑戦しましたが、前日よりも酷い天気で視界がほとんどない…!? 「地蔵山頂」駅を一歩出ると、膝上までズボッと雪に埋まり、歩くこともできません。往復2,600円也を払って雪と靄だけを見て下山したのでした。
 しかし悪いことばかりは続きません。「かみのやま温泉」駅へ向かう途中、有名な権現堂のふりそで桜を見ることができました。さらに下ると、また、しだれ桜が目に飛び込んできました。おそらく、この道路ができる前は山懐に抱かれていたのでしょう。ひっそりとした美しい神社でした。拝殿の前に磐境のようなものがあり、石碑に「蔵王 湯殿 両所宮」と彫られていました。本殿裏の 敷地は段々に石組みされており、かつては修験者の宿坊などがあったのだろうと想像されました。蔵王では何も見られなかったので、上山方面へ下りてきてラッキーでした。
 そうそう、「蔵王山」のもともとの名称は「不忘(わすれず)山」で、吉野から蔵王権現を勧請したことで「蔵王」になったのだそうです。私など、「なぜ吉野に蔵王権現が?」と、まるで逆に考えていたため不思議でなりませんでした。こんな初歩的な考え違いをしている限り、何も理解できませんよね…。
 


桙衝神社 (須賀川市桙衝)
 2015年4月21日。わざわざ山形まで行ったのですから、もう少し寄り道をしないと帰れません。そこで地図を眺めていたら「鏡石」駅からタクシーで往復50分ほどの場所に桙衝(ほこつき)神社がありました。こういう機会に行っておかないと、一生行けない位置にある? という気がしてタクシーを予約しました。「絶対に1時間後の電車に乗らないと困るんです」と申し上げているのに、運転手さんは上の空…?! 高齢の運転手さんだったのでよく聞こえていなかったらしく、帰りに「14:06に間に合いますか?」と訊いたら、「えっ?! たった1時間の予定だったの?」と驚かれてしまいました。それでも3分前には駅に着き、無事「新白河」からやまびこに乗れました。
 桙衝神社は広大な社地を有しており、かつては大勢の修験者が拠点としていたのではないかという印象を受けました。明治に修験が禁止されたことで「山」が力を失ってしまったのでしょうか。このあたりのことは、まだ修験道について学んでいないので全くわかりません。印象のみで書いています。
 『白河風土記』によれば、空海が訪れた時、亀居山(神居山)の下の沖の塚が輝いているのを不思議に思って、その塚の下で三日三晩修念すると光が止まり、塚の中から神鉾が現れたのだとか。当社はその桙塚の社であり、岩瀬郡の総社として人々の尊崇を集めていたそうです。
 なお、養老2年(718)に常陸國鹿島大明神を勧請しており、明治までは桙衝鹿島神宮と称していました。随神門(画像左)の扁額には「磐瀬郡一座 鹿嶋太神宮 惣社惣鎮守」とありました。
 


御射山神社 (諏訪郡富士見町原村)
 2015年4月26日。久しぶりに作曲家 木下忠司先生の別荘にお邪魔したついでに近くの神社を探したら、「小淵沢」から3駅目の「すずらんの里」の近くに御射山(みさやま)神社がありました。それで駅を出たら、公衆電話以外、何もない!? いや、ありました、大きな鳥居が!! 山に上がってゆく階段もありました。が、ちょっと怪しい…。何となく鳥居だけ? という気がしてタクシー会社に電話しました。すると、山を一つ越えたところに神社があると言われたので、タクシーで行くことに。
 いらして下さった運転手さんは、若い頃、御柱の木やり唄を歌っておられたそうで、神社にも詳しい御様子。「御射山神社には社殿がないんですよ」とお聞きし、これは古い形の神社らしいと期待しました。そもそも「御射山」に興味をもったのは、3月末の出雲行きで、空港から荒神谷遺跡へ行く途中にある御射山神社諏訪神社を見つけた時でした。なぜペアになっているんだろう? 実際に行って調べたく思いましたが、時間的余裕がなく諦めました。その翌月、本家本元と思しき御射山神社へ行けたというわけです。
 Wikipedia を見ると、「諏訪地方に於いては太古の昔からのミシャグジ信仰に後から来た建御名方神が習合、同一視されるに到ったともいわれる」そうで、「柳田國男によれば塞の神(サイノカミ)であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰」とあります。石神(シャクジ)は必ずしも石神(いしがみ)とは限らず、伝承は多岐に及んでいるそうです。ミシャグジ、ミシャグチ、オシャモジ、シャクチ、サクチ等の呼称に対し、御石神、御社宮司、御左口といった漢字が当てられています。御射はミサやミシャの発音に対する当て字なのでしょう。
 『諏訪史』第二巻(宮地直一著)では、虚空蔵菩薩を祀る国常立命社が本来の御射山に鎮まる山宮の神であるとの見解が示されているようです。
 演奏したというよりは、森林浴をしたという感じでリフレッシュできました。ミシャグチを知ったこともよかった。
 


酒室神社 (茅野市坂室)
 2015年4月26日。運転手さんオススメの酒室(さかむろ)神社です。曰く「御射山神社〜酒室神社〜諏訪大社(上社)前宮が一直線になるそうです」とのことでしたが、あとで地図を見たら、諏訪大社(上社)前宮は少し凹んでいました。ともかく、諏訪大社と結びつきの強い神社だということなのでしょう。
 当社では、早速、御石神(ミシャクジ)? と感じました。拝殿・本殿の参道にあたる延長線上に大石があります。そして、社頭にも。どうやら御神体も高さ約1.5mの磐座のようです。
 「御射山祭り」に濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行なった神聖な地に祀られた酒室神社は、酒解子(さけとくね)之神を祭神としているそうです。
 


葛井神社 (茅野市ちの)
 2015年4月26日。この日の最後はホテルに近い葛井神社(九頭井明神)です。地図を見たら、「御射山神社〜酒室神社」の直線上にあるのは、むしろ当社でした。『諏訪神社祭典古式』によれば、この葛井池には、「十月晦日一年中の神事の幣帛と机飯一膳御酒御穀をそえて、雅楽一人にかつがせ、午前零時に御室と九頭井明神のみあかしを合図として拝殿の背面から神池に投げ入れると、翌朝遠州のサナギの池に浮かびあがる」という伝説があるそうです。上社の年中神事の最後を飾る「御手幣送神事(みてぐらおくりしんじ)」です。
 ん? どこかで聞いた話だな…と思ったら記憶が蘇りました。御前崎の桜ヶ池の「おひつ納め」神事です。彼岸の中日に赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて龍神に供えるという奇祭ですが、このお櫃が同じ龍神伝説の残る諏訪湖に浮いたことがあるとされ、諏訪湖と地底でつながっていると言い伝えられています。諏訪湖に近い葛井池の九頭井明神は九頭龍とも繋がりますから、この池に投げ込まれた幣帛や榊・柳の枝、柏の葉等が遠州のサナギの池に浮かび上がるとの譚はルーツを伝えるためのものかもしれませんね。
 そんなことを考えながら写真を撮っていたら、拝殿の反対側でバーベキューをしていたグループの中から一人の若者が近づいてきて、「この木(左の画像の右)の裂け目にタンポポが咲いてますよ」と教えてくれました。
 


物部守屋神社 (伊那市高遠町藤澤)
 2015年4月27日。2012年に諏訪大社へ行った際には何の興味も持たなかったのに、物部氏を調べ始めたら、諏訪大社上社の御神体山が守屋山だとの記述を見つけました。頂上に守屋神社奥宮と磐境があるようですが、何の準備もせず、ふらっと標高1,651mの山に登るわけにもいきませんので、タクシーで里宮を目指しました。里宮とはいえ、杖突峠を通ってかなり登った気がします。ここより南に守屋山への登山ルートの一つ「立石コース」の入山口があり、高遠町片倉の守屋源一さん一人の手によって1999年に開通したそうです(スゴイ!!)。
 茅野市と伊那市高遠町を結ぶ国道152号線に面した社頭は明るい感じですが、鳥居をくぐると高い木々に日光が遮られます。茅葺から新建材に衣替えされた拝殿の奥に細く長い階段があり、その上にぶ厚い茅葺の妻入りの屋根が見えました。こういう本殿は初めてです。吹く風も心地よく、わざわざ来た甲斐がありました。
 鳥居の扁額に「物部守屋神社 従六位物部連比良麿謹書」とありましたが、物部守屋を祀っているというわけではなく、守屋さんちの氏神という感じを受けました。揮毫した「比良麿」氏は、物部神社石見国造金子家の「有卿」男爵(従五位)の弟とのことです。物部神社HPによれば、明治初年、金子家は千年以上神職として奉仕した功により出雲の千家・北島の両家と共に男爵の称号を授けられたそうです。
 


千鹿頭神社 (茅野市ちの上原)
 2015年4月27日。諏訪大社の神体山は守屋山とする一般論に対し、諏訪大社の神職が「本宮の御神体は守屋山ではない」としているとの話を見つけました。それで諏訪大社と守屋山の見える神社から写真を撮ることにしました。が、タクシーの運転手さんに「上原の千鹿頭神社へ行って下さい」と頼んだら、「足長神社に着きました」と言われてしまいました。今さら戻るわけにもいかないし、と思いつつ写真を撮っているうちにタクシーが行方不明に!? 時間に追われていたので、運転手さんとの連絡をタクシー会社に頼み、別のタクシーを呼びました。もちろん行き先は上原の梅林の中の千鹿頭神社です。諏訪周辺には千鹿頭神社が5社あり、その発音は『根元記』(1235-)に「有賀郷にチカト、上原郷にチカト、埴原田にチカト」とあるように、「チカト」だそうです。
 谷川健一先生の著作『不死と再生の象徴〔蛇〕』に、「洩矢神の三代目の神を祀る千鹿頭神社が信州、関東、福島などにひろく分布している。この千鹿頭神社をたんねんに調べた今井野菊氏によると、千鹿頭が訛って都々古別(つつこわけ)となっている神社がかなりまじっており、その祭神はアジスキタカヒコネとなっている場合が少なくない。アジスキタカヒコネが蛇体の神であり、「ツツ」(筒)ということばが、古語で蛇を意味する以上、守矢という諏訪の専従勢力の奉斎する神はおそらく蛇神であったろうと私は想像する」とあります。
 千鹿頭洩矢神の孫と記載されていますが、古くは諏訪大社上社の祭礼の御頭祭に75個の鹿の頭を供えたことを知ると、千鹿頭の名が何かを暗示しているのではないかと空恐ろしい気持ちになります。
 そして、守屋山が諏訪大社の御神体山であるはずがないと思えてきます。実際に中世の文献では「上社の神体は大祝」となっているそうです。「大祝制」の下では神体山や磐座などは必要ありませんが、明治以降は生神としての「大祝」が否定されたため「御山」「宮山」の名称を用いたという事情もあったようです。
 これを踏まえて左の画像を見ると、一番左の平坦な頂上らしき出っ張りが守屋山であり、諏訪大社上社からは絶対に見えないことがわかります。そんな御神体山はあり得ないと納得しました。
 


手長神社 (諏訪市茶臼山)
 2015年4月27日。2012年に諏訪大社へ行った際、下社から上社までタクシーで移動中に、運転手さんに「左手に見える階段が手長神社への参道ですよ」と言われ、「とても上がれません…」と素通りした当社へタクシーで行きました。「手長」というだけあって、両腕を横に広げたように社殿が並んでいます。拝殿の前に立って振り向くと諏訪湖が見えました。2012年の諏訪行きで演奏させて貰った津島神社からの眺望が思い出されました。
 足長神社でタクシーと連絡が取れなくなって、乗るべき上りの特急に間に合わなかったため、突然決めた「上諏訪」行きでした。そのため発車時刻を「茅野」からの12:30と勘違いしており、あやうく12:25発に乗り遅れそうになりましたが、特急が5分遅れていたため事なきを得ました。僅か25分間の「上諏訪」滞在でした。
 しかし、Wikipedia によれば、手長・足長ともに「諏訪大社上社末社」で、「建御名方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた神とされる」のに、「諏訪大社の祭神・建御名方神に随従する神」とあり、わけがわかりません。…あ、完全に滅ぼされないために宗旨替えしたわけですか。
 


物部神社 (笛吹市石和町松本)
 2015年4月27日午後、「上諏訪」から「石和温泉」へ。そもそも計画性のない旅だったため甲州タクシーさんとの予約時間に到着できず、「塩山」から裂石を見に行くのを断念して「石和温泉」で拾って貰いました。甲州では珍しい巨石を見たいと思い、裂石を見に行くのが第一の目的だったのですが。
 大蔵経寺山南麓の甲府盆地北縁一帯には古墳時代後期の渡来人墓制である積石塚が見られ、山梨岡神社や天狗神社などもあって、古代甲斐國の政治や宗教の中心だったと考えられているそうです。「石和温泉」駅のすぐ北に物部神社、隣が大蔵経寺、後ろが大蔵経寺山ということで、昔の神仏習合の形が残っていると考えてよいのでしょうか。私は物部神社の社殿や竜宮城のような鳥居よりも、その奥の斜面に点在する大石小石に目を奪われました。もしかして、これも積石塚の一種というか、お墓ってことはありませんよね?
 


金桜神社 (山梨市万力)
 2015年4月27日。石和の物部神社から、現大石神社(もと物部神社)へ行く途中に金桜神社がありました。運転手さんが「御岳にも金櫻神社がありますよ」と仰るので、「先月行ってきました」と申し上げると、「あと牧丘にもあるんです」と言われビックリ!? 「金峰山を囲んで何社もあるんですね…」と言うと、「そちらは奥宮もあるんですよ」と教えて下さいました。これは、すぐにも甲州を再訪せねば。
 という次第で、話しているうちに金桜神社に着きました。運転手さんがよく御存知で、階段下ではなく、直接社殿の前に車をつけて下さったので時短になり助かりました。地図に「金桜公園」と書いてあったので、あまり期待していませんでしたが、とても静かで心落ち着く空間でした。拝殿に扁額はなく、甲斐らしく武田信玄?
 


大石神社 (山梨市西)
 2015年4月27日。大石神社に着くと、案内板に「大石山には大山祇命を祀る大石神社がある」と書いてありました。え? もとは物部神社じゃなかったの?
 何でもアリのこの国で昔のというか原初の形を知ろうとするのは無茶というものです。現在の御神体は境内にある大きな御影石(花崗岩)で、高さ12m、周囲が67mもあるそうです。なんて書いていると境内まで行ってないことがバレてしまいますね。何だかとてつもなく広く、階段が長かったので、画像左の2/3地点まで行って下りました。この時点ですでに巨石が2つ見えていますので(全部まわると何時間かかることやら…)。
 由緒もわからず、岩があるだけで、わざわざ足を運ぶのは難しいのではないでしょうか。古代に物部氏がこのあたりを治めていたのかどうか、ちゃんと調べて行かないからカラ振りに終わってしまいました。
 帰宅後、調べたら、『甲斐國志』に「村ノ西北山中ニ鎮坐ス、(略) 社中ノ御影石高四丈二尺、周圍三七間餘、形像全然トシテ首鎧ニ似タリ(略) 高峯ヲ物部山ト稱ス故ニ物部神社ナリト云フ」とありました。
 


飛大神社 (甲州市塩山千野)
 2015年4月27日。「塩山」駅から特急に乗るため、最後は飛大(飛の宮)神社へ。なぜか飛大を「トビノミヤ」と読むようです。…と思いきや、拝殿の扁額の字が擦られている?! 画像を拡大してみると、どうやら「正一位飛大明神」と書かれているようです。これまでの学習に拠れば、「正一位=稲荷」ですよね? なんとなく怪しい?
 当社の創建は不明。祭神は「第12代景行天皇の皇子 日本武尊」と書かれていますが? 裏へまわると塩ノ山が見えました。御神木も大きく、社頭とはまるで印象が違います。塩ノ山は臨済宗向嶽寺派総本山「向嶽庵(向嶽寺)」の所有で、徳川時代には「御朱印領」として幕府の保護下にあったそうです。
 当社には十一面観音立像が安置されていましたが、安永9年(1780)に社殿とともに焼失。22年後に社殿、33年後に随神門が再建され、本殿右に豊磐間戸命(とよいはまどのみこと)、左に奇磐間戸命(くしいはまどのみこと)が祀られています。つまり、『古語拾遺』に天照大神が岩戸から新殿に遷座したのち「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあるように、御神体山たる塩ノ山の入口に「御門の神」を祀ったのでしょう。
 現在は隣が甲州市社会福祉協議会で、私が調絃しようとした時にはカラオケが聴こえていましたが、演奏し始めたら音が聴こえなくなり、終わった瞬間、「これは宮中でやるアレじゃないの?」(男声)、「そうよ雅楽よ」(女声)との会話が聞こえたので右手を見ると、ベンチに座られた10人ほどの方がこちらを見ていました。静かにお聴き下さり、有り難うございました。塩ノ山は想像より小さくて驚きましたが、とてもきれいな山でした。
 


横倉神社 (越知町)
 2015年5月1日。横倉山へ登るため、濁らない町「佐川」(さかわ)駅で下車。手荷物は山から戻るまでタクシー会社で預かっておいて貰えるようお願いしてあります。真夏のような陽気の中、越知町へ。
 横倉山の横倉宮については、明治4年(1871)に御嶽神社、昭和24年(1949)に御祭神の安徳天皇崩御750年祭の折に横倉宮と改められたとあるので、山麓にある当社も、戦後、横倉神社に改称されたものと考えていましたが、何と伊邪那美命を祭神としているそうです。「安徳帝の里」「平家の里」と謳う越知なので、国道沿いの便利な場所に里宮を作ったのではないかと思ったのですが、当社は平家とは関係がないとの説があります(?)。
 


杉原神社 (横倉山)
 2015年5月1日。横倉神社裏を登り始めてすぐに自生している藤の花を見つけました。白が2本、紫が1本、見事な花を咲かせています。藤棚の藤を見慣れてしまっていたため、空高く伸びている様子に驚きを隠せませんでした。やはり野におけ藤の花…? わくわく気分で第三駐車場に到着、山頂を目指します。
 最初に見えるのは杉原神社のはずですが、すぐ手前に平家之宮と顕彰碑がありました。かつて横倉山一帯に散らばっていた平家一門の墓をまとめてお祀りしたものだそうです。真っ赤な幟に白抜きされた「安徳帝の里」の文字に越知平家会の誇りを感じます。越知平家会は昭和57年(1982)に平家之宮を創建し、安徳天皇に随行してきた83名のうち氏名が判った78名を顕彰したとあります。
 当社は安徳天皇横倉山潜幸の文治3年(1187)8月に勧請された中の宮とのことで、しばし800年余り前の歴史の中に身を置きました。その後、明治4年(1871)に杉原神社と改称されています。
 さあ、いよいよ安徳天皇を擁する平家一門が行在所を旧仁淀村別枝(べっし)都から横倉山に移した際の道「三嶽古道」を歩きます。「みたけ」は「御嶽」にも通じ、幕末の志士らが通ったことでも知られています。
 


横倉宮 (横倉山)
 2015年5月1日。歩けども歩けどもお目当てのバイカオウレンの花に出合えません。牧野富太郎博士が命名されたヨコグラノキもわかりません。山歩きを楽しんでいるうちに横倉宮に着きました。あっけなかったというか、何のために来たのかわからない状態で道標を見ると、100mほどの「岩屋神社」「平家穴」方面と少し遠い「畝傍山眺望所」「空池」方面がありました。私はもちろん近い方を選び、下り始めました。それが断崖絶壁に建てられた横倉宮の真裏にある「馬鹿だめし」の下方に位置するとは知らず。
 横倉山の不思議は古い三角点に「金峰山」と刻まれていることです。明治以前は横倉権現と呼ばれていたことからも、吉野金峰山の蔵王権現を勧請していたと想像されます。それが、いつのまにか安徳天皇を祀る宮になったということでしょうか?
 案内板はそうした歴史に一切触れておらず、考える手がかりが得られません。今、横倉宮の祭神は、正治2年(1200)8月8日に23歳で生涯を閉じ横倉山鞠ヶ奈路に奉葬された安徳天皇で、同年9月8日に平知盛が御神号を奉じ玉室大明神と崇めて山上に祭祀したとあるのみです。
 


岩屋神社 (横倉山)
 2015年5月1日。詳しい案内がなく、わけがわからぬまま「平家穴」の方へ歩き出すと岩盤がずっと下まで続いていました。熊野の花の窟みたいだなあと思いながら下っていたら、突然、小さな赤い屋根が見えました。これが岩屋神社で、ここから三種の神器のひとつの剣が発見されたそうです(どこで見られるのでしょう?)。
 高さ80mほどの断崖絶壁は4億年以上前の石灰岩で、命知らずでなければその突端までは行けない、馬鹿より外にはない、ということから「馬鹿だめし」と呼ばれています。岩屋神社から50mほど下った崖の下にある「平家穴」は、敵の来襲に備える避難所だったとか、武器を住居に置かずまとめて隠す場所だったとか言われています。この「平家穴」の真上、断崖絶壁に建てられた横倉宮はまさに山上の自然の要塞といえましょう。
 さて、第三駐車場から杉原神社へ向かった我々は、せっかくの機会だからと表参道を通って第二駐車場へ下りる道を選びました。調査不足としか言いようがありませんが、山から産出する石灰石を利用した急斜面にある約600段の石段は既に数百年を経ており、段数は金刀比羅宮に次いで多いとのこと。苔むしてもいるし、歩きづらいことこの上なく、登りよりも時間がかかってしまいました。上の横倉宮の鳥居は第二駐車場のものです。
 


金峰神社 (佐川)
 2015年5月1日。横倉山でバイカオウレンの花を見られなかったので、牧野富太郎博士の生家裏の金峰神社に最後の望みをかけていました。山の概要を知るために、牧野富太郎ふるさと館側から登って本殿の裏に出、拝殿側の階段を表参道の方へ下りてみました。出発前に役場の方に「社殿が焼失したそうですが?」と訊ねたら、「氏子さんたちが自力で再建されています」とのことでした。今は厳戒態勢の本殿です。
 しかしながら、バイカオウレンはやはり葉っぱだけでした。金峰神社の石段で巨大なシーボルトミミズと遭遇した我々はすごすごと、のちに牧野家の酒蔵を買い取ったという司牡丹酒ギャラリーほていさかわ観光協会の旧浜口家住宅へ立ち寄り、江戸中期より佐川で酒造業を営んでいた浜口家の邸宅を平成25年(2013)に改築したという喫茶・休憩スペースでは司牡丹酒造の仕込み水で淹れた美味しいコーヒーとシフォンケーキ、酒粕のプリンを食べました!! そこで訊ねたら、「花は3月で終わりました」とのことでした。そうそう、旧浜口家住宅の庭には牧野博士が奥様の名前を冠した「スエコザサ」や桜の原種「センダイヤザクラ」などが植えられていました。さかわ観光協会は10年計画で牧野公園をリニューアル中とか。是非また、次は3月に訪れたいものです。
 


熊野神社 (稲敷市町田)
 2015年5月6日。絶好のツーリング日和だったので地図も持たずに霞ケ浦を目指しました。以前、大生古墳へ行ったのは大和からの民族大移動について考えるためでした。なぜ関東で常陸國だけに五絃の琴が出土しているのか? でも今日は風まかせです。
 初夏の風に吹かれて走っていると、道路に面した鳥居がありました。石碑に熊野神社とあります。振り向くと、参道の彼方(水路の近く)に一之鳥居が立っていました。すると、県道5号線で参道が遮断され、道路脇に二之鳥居が建てられた可能性がありますよね? あまりに緑がきれいなので、参道を進み、その先にある60段あまりの自然石の階段を登りました。ぅわっ?! と、思わず息をのみました。こんなに瀟洒な社殿がひっそりと鎮座しているとは想像もしていませんでした。よくよく見ると、朱塗りの本殿に「熊野大神」の扁額が架かっています。
 由緒書に、「承平年間(930-939) 紀伊の熊野大神の分霊を勧請し創立したのがはじまりで神霊が竹の輿に乗り来臨されたという地は今尚小字竹の越として存在する。以来常洲信太郡東庄荘高田郷町田村の鎮守として地方民の崇敬厚く現在に到る」、「明治維新までは熊野大権現と称し神仏分離の制により熊野神社と改称」、「現在の神殿は元和五年(1619)の造営」とありました。ホントですか?! 400年近く経ってるって凄過ぎます。でも扁額の字が左から右へ書かれているので、修復の手が入っていますね。石碑の画像を確認すると、平成3年(1991)に本殿屋根銅板葺替塗装が行われたと書いてあるため、その折に掛け替えられたのでしょうか。
 


大宮大神 (稲敷市伊佐部阿波崎下須田入会)
 2015年5月6日。あとから地図で探すのが大変でしたが、熊野神社を過ぎて県道5号線から125号線に入り少し走ると新利根川沿いに出ます。前回と同じく釣り舟が何隻も出ていたのでコンビニの駐車場に入って写真を撮りました。ふと左手をみると、こんもり(森)が見えます。社叢に違いありません。農道をくねくねと走って辿り着きました。神社の近くに社家の墳墓らしきものもあり、古社のようです。鳥居の横に「大宮大神(おほみやだいじん)」の看板がありました。しかし参道を阻むクセ者が?! 平成22年(2010)建立の風神・雷神だそうです。左の画像は、赤い拝殿から見た随神門ですから、表と裏でまるで印象が違います。新旧のパッチワークが当社の特徴?
 住所もみごとなパッチワークで、西の伊佐部、北の阿波崎、東南の下須田が入れ合った土地です。
 社伝によれば、創建は天智天皇元年(668)、豊葦原東方の荒ぶる神を征討する一拠点となった大神の里を大宮の大神と崇め奉り祀ったのが始まりだとか。正徳5年(1715)以前の社名は根崎大宮大明神、正徳5年7月13日以降は正一位大宮大明神、明治2年(1869)以降は大宮大神となり、現在は椿の宮大宮大神と通称されています。約20種類、200本の椿が咲く2月中頃〜3月下旬まで「椿祭り」が開催されているそうです。
 


大杉神社 (稲敷市阿波)
 2015年5月6日。方向音痴の私は、南下すべきところを北上してしまったようで、交差点に入ると突然、極彩色の社殿が目に飛び込んできました!! これが「あんばさま」か…。銚子へ行った折に、渡海神社の跡がここから勧請された大杉神社になっていたので興味をもってはいましたが、よもや眼前に現れるとは!?
 平成8年(1996)から10年に及ぶ平成の大造営が行われたそうで、境内にはきんきらきんの社殿がたくさん並んでいました。これも日本の神社建築だとすれば、海人族とは違う種族なのか、海人族にも様々な種族が含まれていたのか、まったく見当がつきません。この地区が阿波なので「あんばさま」と呼ばれているとしたら、阿波の忌部でしょうか? 千葉・茨城あたりには鷲神社が多く、祭神の天日鷲命=阿波忌部とされることから、阿波忌部氏が房総半島に移り住んで安房忌部氏になったとの説を裏づける形となっています。
 神護景雲元年(767)創始といわれる大杉神社の主祭神は倭大物主櫛甕玉大神(やまとのおほものぬしくしみかたまのおほかみ)とのことで、たしか美馬に倭大國魂神社がありました。やはり阿波つながりでしょうか?
 左の画像は社殿北側にある御神木、幹周り7.5m、樹高28mの大杉三郎(三郎杉)です。大杉太郎(太郎杉)は寛政10年(1878)に焼失したそうです。あ、それで大杉神社なのか…。横倉山の杉原神社と同じ発想ですね。
 


高田神社 (稲敷市高田)
 2015年5月6日。かつて前を通ったことのある神社なのですが、思い出せません。先月2つの楯縫神社を探していて迷った時にせよ、2012年12月21日の鹿島神宮からの帰途にせよ、方角が甚だしくずれてしまっています…。ただ、日が暮れていたので入るのを諦めましたが、長い参道の奥に何があるのかが気にかかっていました。もし社名が高田神社でなく熊野神社ならバイクを停めて入ったかもしれません(個人の神社かと思い…)。
 高田神社は平將門の乱平定を祈願するため、朱雀天皇の勅命により承平年間(931-937)に紀伊國熊野大社の分霊を勧請し創建されたそうです。ん? これは往路に通った「信太郡東庄荘高田郷町田村」の熊野神社と同じですよね。そう思って見ると、高田郷には幾つもの熊野神社があります。石祠のみの場合もあるようですが。
 当社は残念なことに享保18年(1733)に建てられた社殿が平成2年(1990)11月13日深夜に不審火により焼失。平成9年(1997)に再建されています。また高田神社境内および周辺は、自然林と人工林が織りなす植生と、数種のアゲハ類が生息する豊かな自然環境により、県の自然環境保全地域に指定されていました。約140mの参道に立ち並ぶ杉の巨木は壮観です。上の画像はほぼ同じ位置から180°向きを変えて撮りました。
 近くにある神宮寺という地名は高田神社の別当寺であった神宮寺からきたものらしく、南北朝時代の延元3年(1338)9月には北畠親房が神宮寺に籠城したことで神官などが南朝方に味方したため、神領が北朝方に没収されてしまったそうです。思いもかけず遠い歴史の一端に触れることができました。
 


舩宮神社 (甲州市塩山平沢)
 2015年5月10日。先月、諏訪でのタクシートラブルにより甲州滞在が1時間短縮されたため行けなかった2社をまわることに。前回たいへん親切にして頂いた甲州タクシーの古川さんにお願いしました。先ずはタクシー会社の方も御存知なかった舩宮神社へ。玉宮ざぜん草公園に隣接しているはずと思い、炎天下の中、つい公園の駐車場から帽子もかぶらずに歩いてしまいました。遠い遠い…。諦めて引き返そうとした時、道標が!? 道なき道を歩いてやっと到着すると、運転手さんが「車を回し、神社裏の車道につけておきます」と仰って下さいました。
 そもそもここへ来たのは県指定天然記念物の大ヒノキ(根周り7.1m/高さ30m)を見るためでした。そしてカタクリの道を歩くこと。ですが、カタクリは盗掘されてしまっていました。当社までの道すがら立ち寄った玉諸神社奥宮の御神体たる約2mの水晶も盗掘されてしまったとのこと。神も仏もない国ニッポン…。
 


飛尾神社 (山梨市三富下釜口)
 2015年5月10日。もう一社は、社殿の北側に上下を綺麗に切った石舞台が有る飛尾神社です。隣に三富小学校が建っているため、すんなり行けました。塩山駅から行くと有名な恵林寺の先にあります。
 案内板に「飛尾神社 下釜口氏神」「祭神 大山祇命・日本武尊」とあります。そして東西約5.4m、南北約3.6m、厚さ約1mの板状の自然石は「日本武尊の腰掛石」と言われているそうです。どこまで本気なのでしょうか…? しかも社名の由来は、「当神社より西方約300mの山林内の岩の一部が欠けて飛来し、当処に留まったものと伝えられ、故に飛尾神社と云われ、今もその痕跡が伺える」と書かれています。こういう自然石がここに在ることを説明できないのだということがわかりました。
 はっきりと言えるのは、自然石の上で演奏すると(ヤマトタケルノミコトの腰掛岩に座るなんて罰アタリ?)、琴の音がクリアになり、とても歌いやすいということです。時折、「神楽石」「座禅石」などと名づけられた岩があるのは、用途をそのまま名前に使った結果ではないでしょうか。
 

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