「古代の歌と氏族を探ねて」

産安社 (青梅市みたけ山)
 2015年7月23日。18日より開花し始めたレンゲショウマを撮りに武蔵御嶽山へ。ケーブルカーを下りたら御嶽神社とは逆の右奥の方向へ進みます。すると右手に土の道、左手に木で作られた階段があったので、まずは右のなだらかな道を歩きました。遊歩道の左側、ロープが張られている斜面がレンゲショウマ群生地です。そのまま進むと五差路があって、「大塚山まで0.6km」と書かれていました。大塚山方面を背にすると、レンゲショウマ群生地に長い階段があったので登ってゆくと、画像左の東屋がありました。
 一人、倭琴を出して「神楽歌」と「片降」を演奏し終わったら、「あっちに神社のようなものがありますよ」との声。あれまぁ、こちらが産安社(うぶやすしゃ)でしたか…。二股になった「夫婦杉」、巨大な「安産杉」、「子授けヒノキ」まであります!! ところで、産安社って、安産を逆にしただけじゃありませんか!?
 という次第で、本来なら参拝する予定ではなかった、(平日で人出が少なく休止していた)リフトで上がれる展望食堂からすぐの産安社に立ち寄ってからロープで囲まれた遊歩道をグルグルと回りながら最初に見た階段を下りました。3時間ほどでしたが、思いがけず極力人の手が加えられていない森を貸切状態で楽しめました。
 レンゲショウマの花は、23日の登山情報にあった通り、「28輪」ほどだったと思います。画像左のロープの中は数輪開花していました。 8月中旬には満開になるそうですし、レンゲショウマフォトコンテスト(応募期間:8月1日〜9月7日)もありますので、観光客が増える前に行けて本当によかったです。次回は目指せ奥ノ宮!! ですが、もう少し足腰を鍛えないと…。行きたかった七代(ななよ)の滝は、はしごの画像を見て断念しました。
 


神山神社 (足柄上郡松田町神山)
 2015年8月9日。小田原市久野の神山(こうやま)神社へ行くことになり、検索したら当社が元宮と書かれた資料があったので立ち寄ることにしました。小田原駅で小田急線に乗り換えて新松田駅まで僅か9分。境内には由緒書もなく、沿革不明は不明ですが、私が気になっていたのは発音が異なる箱根の神山(かみやま)との関係です。小田急線の車窓から箱根最高峰の神山(1438m)らしきシルエットが見えました。
 箱根山のここ1万年間の噴火活動はカルデラ内の後期中央火口丘群に限られているそうです。約8,000年前には神山山頂付近、約5,700年前には二子山溶岩ドーム、約3,200年前には神山が噴火し、その際神山の北側が崩壊して冠ヶ岳を形成。約3,000年前の神山北西斜面での水蒸気爆発によって大涌谷が生まれ、水蒸気噴火によって引き起こされた土石流により仙石原ができ、早川の上流部が堰き止められて芦ノ湖が誕生したとか。
 その神山を遙拝するかのように松田の神山神社は建っていました。由緒は不明ながら、松田町図書館webには「建立は室町時代の正長元年(1428)、祭神は事代主命と誉田別命で、建立者は篠窪の二階堂出羽守政貞と言われています。また風土記にはイザナギ尊、イザナミ尊、天照大神が祭神とも言われています」とありました。しかし、当地が久野の神山神社の元宮だとしたら年代が合いません。久野の神山神社の創建は永延2年(988)です。また、『新編相模國風土記稿』巻之三十四に「久野村 神山権現社 祭神伊弉諾・伊弉册・大日女の三座なり」とあるため、祭神は松田町図書館webの「風土記にはイザナギ尊、イザナミ尊、天照大神が祭神」と合致しています。おそらく正長元年(1428)に二階堂出羽守政貞によって再建され、祭神が変わったのでしょう。
 


子ノ神社 (小田原市久野)
 2015年8月9日。小田原駅の待ち合わせ場所に戻り、古墳のある神社を案内していただきました。久野には古墳群があります。まずは創建等不明とされる子ノ神(ねのかみ)へ。「ねノ」は祭神の天之児屋根命(あめのこやねのみこと)からきているのでしょうか? 当社はバス停の名前になっているのに周辺の会社の方たちはご存じないようでした。道路から路地を下り、小高い丘に登る感じで鳥居も社殿も見えません。
 拝殿には和太鼓が置かれ、左手には農村舞台もありました。が、社頭に祀られている自然石といい、背後の御神体山といい、神社というより古代祭祀の場というイメージの方が強いのです。周辺の古墳の多さから考えても、古代にはこの地域(クニ)の中心だったのではないかと思えました。
 


神山神社 (小田原市久野)
 2015年8月9日。この日最初に行った松田町の神山神社の遷座先とも言われる小田原の神山(こうやま)神社へ。当社の方が元宮より立派に見えますが、どうでしょうか? 私は霊感もなければ霊視もできない、ただの演奏修行者なので、全くわかりません。取り敢えず、発音が異なる箱根の神山(1438m)との関係を宿題として小田原をあとにしました。箱根へ行ってみたら何かわかるでしょうか?
 


來宮神社 (熱海市西山町)
 2015年8月9日。まだ時間が早かったので、予定していなかった來宮(きのみや)神社へ行くことに。
 駅から近いのに遠回りしなくてはならないのにビックリ!? 参集殿が立派でビックリ!? 大勢の人が樹齢二千年以上の大楠(玉置山の御神木は三千年クラスですが?)を拝んでいたのでビックリ!? 場違い感がハンパではなく、早々に退散しました。
 「きのみや」とは何か? 「紀伊」との関係は? など、「来福スウィーツ」よりも考えなくてはならないことが沢山あります。そもそも江戸末期までは木宮明神と称し、古文書等にも来宮ではなく木宮と表記されていたとか。そして伊豆地方にはキノミヤ神社が十数社あるとのことなので、これから調査探索したいと思います。
 


葛木神社 (金剛山)
 2015年8月13日。一人で行くには遠くて不便なので「やまとうたのふるさと」で同行者を募りました。ロープウェイへの道すがら天気予報に反するドシャ降りに見舞われ、早くも後悔…? それでもメゲないのが唯一の取り柄なので、チェックイン後、雨で薄暗い山道を登りましたが、一人だったら怖くて絶対にやめたでしょう。
 われわれの声だけが響き渡る急勾配をひたすら登り、やっと着きました。が、手前にあった「矢刺神社」を探すこともなく、山頂を目指しました。参道には苔生した「福石」。風情…とかを超えた世界で、元気印の私には珍しく、やっとこさっとこ逃げるように宿へ戻りました。未だ修験場の雰囲気を湛えた空間との場違い感…、記紀の舞台を見るといった軽い気持ちで計画してしまい、参加者の皆様に申し訳ない限りでした。

 『古事記』(712)に、雄略天皇4年(460)、天皇が葛城山へ鹿狩りに行くと、天皇一行と全く同じ恰好の紅紐の付いた青摺の衣を着た一行が向かいの尾根を歩いていた。それを見た天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言で言い放つ葛城の一言主の大神なり」と答えたため、天皇は弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服まで脱がせて一言主神に差し出した。『日本書紀』(720)にはその後ともに狩りに興じたとあり、『続日本紀』(797)には一言主神(高鴨神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流されたとあります。
 


瀧藏神社 (桜井市瀧倉字権現山)
 2015年8月14日。昨日とは打って変わって夏らしい晴天。金剛山の周囲を散策する手もあったのですが、前回断念した瀧藏神社へ行っておきたいと思い、富田林からぐるっと回って長谷寺へ。なぜ金剛山ロープウェイから奈良県方面への公共の交通機関がないのでしょうか? もしかするとバスがあったのでしょうか?
 タクシーに乗るとよく運転手さんに「神社なんか行ったことがないからわからない」と言われるのですけれど、今回はよく神社を御存知の運転手さんで(それゆえ最後に「下部神社」まで連れてゆかれたわけですが)、いともあっさりと長谷寺の奥の院とも言われる瀧藏神社へ行けました。桜の季節は有名な権現桜を見るために車が数珠つなぎになるそうですが、この日は対向車も無し。
 瀧藏神社は標高430mの山上に鎮座する国史見在社で、「長谷八郷の総鎮守として飛鳥時代瀧藏権現この地に座す」と文献にあり、古来、輿喜天神とともに長谷寺を守護する地主神川上瀧藏明~瀧藏權現として崇拝されてきたそうです。
 


都祁水分神社 (都祁友田町)
 2015年8月14日。車を走らせていたら、「あっ」と声が出て、窓から見える神社を訊いたら都祁水分(つげみくまり)神社でした。さすがに遠くから見ても雰囲気がありました(画像は本殿側から撮影)。

 古来大和国の水分四社の一つで、飛鳥時代の創祀と伝えられています。最初の鎮座地は、当社より3キロ南方の小山戸カモエ谷の都祁山口神社の地でした。

 ん? 由緒書きに「最初の鎮座地が都祁山口神社の地」? 私は大和国の水分四社(葛城水分神社吉野水分神社宇太水分神社)をまわりたいと思っているのに、早くも躓いてしまいました。なんでスッ飛ばしてしまったんだろう…都祁山口神社。こうやって何度も同じ地域に足を運ぶことになります。
 ガッカリしつつも気を取り直して長い参道できれいな空気を吸い、神楽殿を見て往時をしのびました。
 


雄神神社 (都祁白石町)
 2015年8月14日。この旅のメインは「大神神社の奥の院」ともいわれ、古代信仰の中心とされる野々神岳(雄岳 550.6m/雌岳 531.5m)でしたが、禁足地のある霊山らしいので、麓の國津神社に行ったところ大々的な改修工事中…。さらに奥の雄神(をが)神社を目指しました。一見すると普通の神社ですが、いわゆる社殿がありません。遙拝所の奥を覗くと、雄神山そのものが御神体と言われる意味が少しわかった気がしました。小さな鳥居と狛犬は山頂の石室に棲むと伝わる白い大蛇を護るべく設置されたのでしょうか。
 


下部神社 (都祁吐山)
 2015年8月14日。タクシーの運転手さんが「是非うちの神社を見て欲しい」と仰るので行ってみると、明治時代に延喜式内社「大和国山辺郡 下部神社」の後裔社として下部(おりべ)神社と名乗り始めたとのこと。鎮守の杜を東隣の恵比須神社と共有しており、社地がとても狭いので車に戻ろうとしたら、春日神社の扁額が!?
 「ここは春日神社じゃありませんか?」と言うと、運転手さんが「いや式内社下部神社です。つい先日もテレビの取材が来てそう話しました」と仰るので頭を抱えました。地元の方ですら把握されていない扁額なんておかしいじゃありませんか? いったい何を取材されたんでしょうか?
 


新田神社 (薩摩川内市宮内)
 2015年8月28日。甑島への高速船を予約し、鹿児島空港から川内駅行きのバスに乗ることに。予定では待ち時間が約1時間あったので「神代三山陵」の一つ高屋山上陵まで行き、再び空港へ戻ってバスに乗るつもりでしたが、飛行機が遅れてアウト!! 川内駅では出港まで1時間以上の余裕があったのに、バスが遅れてしまい、3社まわる予定が1社のみになりました。しかも雨で可愛(えの)山陵へも行けず終い…。当社は可愛山陵のある神亀山(70m)山頂に位置しています。25日に九州へ上陸した台風15号の影響でライフラインが止まってしまい、電気もつかない中、正式参拝をさせていただき、感謝しております。一日も早い復旧を祈るばかりです。
 


瀬尾観音三滝 (下甑町青瀬)
 2015年8月28日。初めての甑島。お目当ての田ノ浦古墳への道路は台風に因る倒木で閉鎖中との連絡を貰っていたので、行く先は瀬尾(せび)観音三滝(みたき)のみです。どこに観音があるのかしらと思っていたら一番下の三番滝の横に小さな東屋がありました。見ると、これだけじゃあ弱いなぁ…という気がしました。ただ、台風の後だけあって滝の迫力は物凄かった!!
 ホテルの夕食時に、女将さんが、「夏、水量が少ない時に行ったお客様が、滝の奥の岩盤に観音像が彫られてたって教えてくれましたよ」と仰っていました。次回は是非とも見たいものです。
 


乙御子神社 (下甑町片之浦)
 2015年8月28日。田ノ浦古墳へは行けなくなったけれど、運転手さんは「2時間の予約だから乙御子神社へ行く」と仰います。「なぜ行けるのですか?田ノ浦古墳の近くにあるはずなのに」と言うと、「その集落には誰も住んでないから、このあいだ移転したんです」とのこと。「せっかくだから海も見たいのですが」とお願いすると、「神社のすぐ近くで、1分ほどで着きます」と言われました。そうして片之浦に向かって走っていたら、左手に神社が二つ見えました。「右が乙御子神社ですよ」と言っているうちに海辺に到着。防潮堤によじ登ってきれいな海や奇岩を見ました。しばらく潮風を吸ってから神社へ戻って写真を撮り、「乙御子神社は恵比寿神社の社地に遷座したのですか?」と尋ねると「そうです、よく恵比寿神社だってわかりましたね」と言われました。海辺なので、金毘羅神社か恵比寿神社だと思い、海人族の本拠地だから恵比寿神社かな? という程度の当てずっぽうです。
 それにしても旧社地へ行ってみたかったですね…。サービス精神に欠ける運転手さんで、他に案内をしてくれるわけでもなく、1時間20分で2時間の貸切料金でした。でも、下甑にはタクシーが2台しかないので…。
 


志奈尾神社 (薩摩川内市宮里)
 2015年8月29日。創建は不詳ですが、『三大実録』に「貞観2年3月20日薩摩國従五位志奈毛神に授五位上」とあり、「志奈毛神」は「志奈尾神」のこととされています。当社へ行こうと思ったのは、鹿児島県神社庁のページに「新田神が姉神で、志奈尾神が妹神ともいわれる」とあったためです。なぜそんなことが? と不思議に思いました。さらに、同ページには、「対岸宮内の八幡宮が往古当地にあった」と書かれていますが、現在宮内に八幡社はありません。運転手さんに話したら、「それは新田神社(川内八幡)のことですよ」と教えてくれました。前日、雨で可愛山陵へ行けず、正式参拝をさせて頂いた?! 両社の鎮座地が入れ替わったってことですか?
 甑島略年表に以下の記載がありました。間違いなさそうです。 
 849年、川内新田八幡の祠官宮里壱岐が分霊を奉じ、里に八幡神社を創建。(「三国名勝図会」)
 


千本楠 (日置市吹上町中原)
 2015年8月29日。昨年12月に行った千本楠を再訪。ここで演奏するのが念願でしたが、樹齢800年以上の巨木が8月25日に九州に上陸した台風15号の猛威で倒れたり折れたりしていました!? 社殿が石祠に変わるということはよくありますが、よもや社叢が無くなる危険があろうとは…。自然が元通りになることはあり得ませんが、少しでも楠が元気になってくれることを願うばかりです。
 


金峰神社 (南さつま市金峰町)
 2015年8月29日。甑島〜川内〜吹上と移動したこの日の最後は、雨の中の山登りでした。まさかこんなにキツイとは想像しておらず、倒木を片づけている方から「こんな日に登る?」と言われながら頂上を目指しました。社殿がある場所までは階段がありましたが、その先は険しい山道です。傘を差しつつ登るのは大変でした。しかも山頂まで行くと、いろいろな物が置いてあって、新興宗教っぽい?感じ。左の画像の中央辺りに突っ立っているのはツルのオブジェでした。なぜに…?
 当社の由緒を読むと、他の金峰神社よりもかなり早く吉野から勧請されたことがわかります。
 南薩の霊峰金峰山は高さ636m、本岳、東岳、北岳の三方に分かれ、古来人々が尊敬の念をもって朝夕眺め親しんでいる山で金峰山由来記によれば、推古2年(594)大和吉野(現 奈良県)の金剛蔵王の分霊を招き、10月19日にこの山に移したという。
 


射楯兵主神社 (南九州市頴娃町別府)
 2015年8月30日。地図に釜蓋神社があったので面白がって行ったら、扁額は射楯兵主神社 (イタテツハモノヌシジンジャ)でした。何となく騙された気分。だって播磨国総社の射楯兵主神社は「いたてひょうずじんじゃ」なのですから。第一、参拝者の皆さんは頭にお釜の蓋をのせて歩いていましたよ!? 釜蓋とは、活火山に蓋をして噴火を抑えたいとの願望から出たネーミングかと思った次第。やっぱり社名は釜蓋神社の方がいいのでは?
 それにしても開聞岳はどの角度から見てもきれいですね。私的には「なんきゅうフェリー」で大隅半島へ渡る時に見た海からの開聞岳が最高でした。このあと雨が強くなったので枚聞神社は車から見ました。
 


吾平山上陵 (鹿屋市吾平町上名)
 2015年8月30日。昨年の2月に続き、吾平山上陵へ行きました。季節が違うのに、お天気は全く同じ小雨。その方が緑が映えるという側面はあると思います。ほんとうに美しい緑でした。何度でも足を運びたい場所です。ウガヤフキアヘズが…とか、タマヨリビメが…とか、どうでもよい気持ちになるほど清々しい空間です。
 


御崎神社 (串間市大納)
 2015年8月30日。枕崎〜開聞岳〜なんきゅうフェリー〜吾平山上陵を経て都井岬へ。さっきまで居た大隅半島が雲海に浮かんでいるかのように見えて感動しました。写真からは想像できない雄大な風景です。国の天然記念物に指定されている御崎馬ものどかに寛いでいる様子。日本にこんな場所があったとは…!?
 豊かな緑の中でじっとしていたいのは山々ながら、せっかく突端まで来たのだから行ってみなくては。と歩を進めると、あ、あんなに高い場所に社殿が!! しかし、近くまで行くと入口が閉鎖されていて、「落石のため通行不可」でした。たしかに崩落してきそうな岩肌です。ずっと雨だったので空も海も沈んだ色合いですが、視界が開けるだけで気持ちが晴れ晴れしてきます。日暮れまでに到達できてよかった!!
 


祇園神社 (日南市梅ヶ浜)
 2015年8月31日。3泊4日の旅も最終日となりました。昨日訪れた鹿児島県の吾平山上陵は明治7年に政府が治定し、可愛山陵、高屋山上陵とともに神代三山陵と呼ばれる陵墓は全て鹿児島県にありました。ところが、『日本書紀』などに「日向国」とあることから宮崎県の日南市をはじめ高千穂や佐土原、西都市などから強い反論が出されたそうです。政府はその反論に抗しきれず明治29年に鵜戸神宮背後の速日峰山上を「鵜戸陵墓参考地」に定めました。伝承地は宮崎県と鹿児島県に数ヶ所ありますが、証明する手段はあるのでしょうか?
 そんなことを考えながら南郷からタクシーに乗ったら、運転手さんが「近くに面白い神社がありますよ」と連れて行ってくれたのが祇園神社。やっぱり洞窟か…。神社としての創祀は新しく、大正12年に油津の宮崎鉄道管理所長に着任した星野寅二氏が尽力されたとか。大正13年4月に祇園精舎の守護神である牛頭天王と同一視された素蓋鳴命(スサノヲノミコト)を主祭神とする祇園神社となりました。しかし、この洞窟は両サイドにも細い参道(?)があり、古代祭祀の場であったと言われた方が納得できます。ミニ鵜戸神宮という風情でした。
 


吾平山上陵 (鵜戸陵墓参考地)
 2015年8月31日。鹿屋の吾平山上陵へ行ったので、参考地たる鵜戸の吾平山上陵(あひらのやまのうへのみささぎ)へも行くことにしましたが、あいにくの雨。神域の最高地「速日峰」にあると知ったのは下山してからで、参道が石を無造作に置いただけの山道とは思ってもみませんでした。雨で苔むした石がツルツル滑るため、一歩一歩慎重に登りました。台風の後だからかもしれませんが、あまり人が通っていない感じの道でした。
 雨と汗でびしょびしょになりながら陵墓参考地に着くと、周囲が鬱蒼としていて眺望もありません。いずれにせよ、神話の主の墓を特定できるはずもなく、紀元前後に百余国あったと言われる倭の国々の国主の墳墓の一つと考えた方がよいのでしょう。ワンピースを着て登る場所ではありませんでした…。
 


鵜戸神宮 (日南市宮浦)
 2015年8月31日。風光明媚で知られる日向灘に面した国定公園日南海岸ですが、雨まじりの天候では青い海も青い空も見えません。それでもここまで来たのですから、主祭神たるヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコトの産殿とされる自然の海食洞(38m×29m,高さ8.5m)を見に行くことに。闇い洞窟の中できらびやかに輝く朱塗りの社殿には、ちょっとビックリしました。龍宮城のイメージなのかな?
 創始は不明ながら、延暦元年(782)、桓武天皇の勅命で天台僧の光喜坊快久が別当寺院を建立し、「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったそうです。
 鵜戸神宮の由緒に、「山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に赴かれ、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結ばれた。山幸彦が海宮から帰られた後、身重になられていた豊玉姫命は『天孫の御子を海原で生むことは出来ない』とこの鵜戸の地に参られた。霊窟に急いで産殿を造られていたが、鵜の羽で屋根を葺終わらないうちに御子(御祭神)はご誕生になった。故に、御名をひこなぎさたけうがやふきあへずのみことと申し上げる」とありました。
 


木花神社 (宮崎市熊野)
 2015年8月31日。28日からの南九州の旅の最後は宮崎空港に近い木花(きばな)神社。台風の影響なのか、寄付した人の名を刻んだ石碑が倒れていて荒れ果てた印象を受けましたが、社殿は異常ないようでした。当社の創建ははっきりわからないそうで、約400年前の『飫肥紀行』(都於郡藩主伊東三位入道義祐記)の中に「木花神社と法溝寺」のことが見られるとか。昭和45年の改築記念碑、同62年の増改築記念碑もありました。
 祭神は日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)で、邇邇藝命の行宮の跡と伝わります。佐久夜毘売が産屋に火を放って火照命(海幸彦)と火須勢理命と火遠理命(山幸彦)を出産したとの神話を再現した「無戸室」(うつむろ)の跡、産湯に汲んだ泉と伝わる「桜川」(ここにも謡曲「桜川」の舞台が!?)がありました。また、近くにある吾田屋敷跡は佐久夜毘売の生家があったと言われているそうです。
 ん? 吾田と言えば南さつま市ではありませんか?! アタ姫=木花佐久夜毘売ですよね?
 


櫻山八幡宮 (高山市桜町)
 2015年10月17日。15日に母の通院、16日に平田家にてオルガン修理ののち、帰京前に乗鞍岳へ行こうと計画。まずは高山駅で下りて「ほおのき平スキー場」を目指します。
 最初に駅近くの櫻山八幡宮へ。人出が多く、「飛騨高山は外国人観光客でもっている」と運転手さんが仰る通り、日本人より外国人の方が目立ちます。
 当社の起源は「仁徳天皇65年、飛騨国に二つの顔を持つ宿儺(すくな)という賊が現れ、その討伐のため派遣された難波根子武振熊命が戦勝祈願のために先代の応神天皇を祀ったのに始まる」とのこと。
 度肝を抜かれたのは、上の画像右の絵馬が飾られた建物奥の急な階段を80段上った場所にある秋葉神社に向かって左手にあった「狂人石」。いくら人を寄せ付けたくないための方便だったとしても幼稚過ぎやしませんか。こんなことを信じる日本人がいるとは思えませんが、英訳を読んだ外国人に日本人ってこんなことを信じる民族なんだ…って笑われないか心配。神社って「正気ですか?」とツッコミたくなる表記が多くありません?
 


本母國津神社 (高山市本母町)
 2015年10月17日。櫻山八幡宮を出て高山線沿いに北上すると、宮川が川上川と合流する手前に本母國津神社がありました。「ほんぼ?」「いえ、ほのぶです」「え…?!」というわけで由緒書きを読むと、当て字でした。
 「本母」の名称については、国府を広瀬に遷したため当地を「本府」と言ったのを「本母」と書いた説や、当地を飛騨の國の中央とする「眞(まな)秀之府(ほのぶ)」からきているとの説があるそうです。結局よくわからないのですけれど、往古はどんな漢字を当てたとしても先ず発音ありきということでしょう。
 当社の創立は不詳ながら、「政務天皇の御代(131年〜)頃に初めて大八椅命(おほやはしみこと)が斐陀(ひだ)の国造(くにのみやつこ)に任ぜられ当時国府が置かれていた」とあります。石碑に「貞観神階」とあるのは、『三代実録』巻第二十七に「清和天皇貞観十七年乙未十二月五日甲寅、授飛騨国正六位上、本母國都神(ほのぶくにつかみ)従五位下〜」を受けてのことでしょう。
 ちょうど拝殿の基礎工事でコンクリートを流し込んでおり、トラックが入れるよう鳥居を左へ寄せていました。新建材の本殿は丸見えだし、とても由緒ある古社とは思えませんでしたが、ふと社殿の左手を見ると大きなドルメンらしきものが!? こちらも隣家が丸見えながら、由緒を知りたいところ。
 


剱緒神社 (国府町三川)
 2015年10月17日。本母國津神社が工事中でガックリきたものの、伊太祁曽神社を目指すために小八賀川の下流に向かいました。すると、突然、これぞ御神体山と言うべき山の麓に渡された赤い橋が見えました。
 「ここが剱緒(たちがを)神社ですか?」「え? 何ですかソレ」「あ、つるぎをとも呼ぶそうです」「どっちも聞いたことがありませんねぇ」「でも、きっとここです。橋を渡って左へ行って下さい」「ここでいいでしょ?」「ダメです、絶対に左に鳥居があります」…と、この3年半の経験で神社の造りが少しはわかるようになった私。「では、ここで待っていて下さい」と言って鳥居をくぐると左手の山裾に拝殿と本殿、右手には何と剱緒古墳がありました!!
 当社の呼び名は、古くは「たちがを」、近年「つるぎを」と読む人が増えたと言われますが、古墳があるだけで何の説明書きもなかったため正式名はわかりません。
 


乗鞍本宮 (乗鞍山頂畳平)
 2015年10月18日。日本で最も高いところを走るバスに乗るため「ほおのき平」へ。このバスに乗れるのは10月末日までです。しかし既に13日に雪が降り、バスは13,14日と不通。真夏のように晴れ渡ったこの日も前日と同じく凍結により乗鞍スカイラインのゲートが開きません。待つこと2時間、やっと始発が出ることに。素晴らしい景色を見ながら標高2,702mの畳平を目指します。乗鞍バスターミナルに着くと、松本からの始発バスも来ていました。帰りは松本方面行きのバスで乗鞍エコーラインを走ります。
 剣ヶ峰(3,026m)山頂にある乗鞍本宮奥宮へは片道約1時間半。2時間遅れで着いたため、帰りのバスまで2時間しかなく、奥宮へは行けません。そういう人のために、乗鞍バスターミナルに乗鞍本宮があるわけですね。とはいえ、剣ヶ峰も見たいので、魔王岳(2,763m)へ登りました。画像右は恵比須岳(2,831m)。ここでしか見られない青空、刻々と変わる風景を堪能しました。
 


大室浅間神社 (伊東市大室山)
 2015年10月30日。前日、下田富士へ登れず、和歌を詠めなかった私 は大室山にかけていました!!
 標高580mの山頂にある直径300m、周囲1km、深さ70mの噴火口跡を周回する「お鉢めぐり」が最大の目的です。360度の大パノラマ。お天気が良かったのでリフトも爽快でした。毎年2月の第二日曜に冬枯れした草に火を放ち山全体を燃やしてしまうという「山焼き」も見てみたい!!
 まだまだ知らない日本の風景が山ほど。死ぬまでの暇つぶしに悩むことはないでしょう。2時間ほど散策してリフトを下りると十月桜が咲いていました。ここ「さくらの里」は昭和52年〜54年にかけて大室山山麓40,000uに約40種1,500本の桜を植えて整備したものなのだとか。9月中旬から咲き始める十月桜や兼六園冬桜、冬から春にかけての寒桜、河津桜、大寒桜、4月には染井吉野、大島桜、桜桃、一葉、松月、5月には佐野菊、兼六園菊桜など、8ヶ月にわたり絶え間なく桜が咲くそうです。
 大室山には遊園地より自然の彩りが似合いますね!! リフトは無いと困りますが…。
 


兒子神社・龍宮神 (真鶴町岩)
 2015年10月30日。前回タクシーで苦労した真鶴へは知り合いの方が車で行って下さることになり助かりました。道が狭くて駐車スペースがなく、神社へは階段で上がるしかないという不便な場所にある兒子(ちご)神社龍宮神。『神社誌』に兒子神社の境内社は「竜神社・稲荷神社・津島神社・山神社合祭殿」とあるそうです。ただし兒子神社はもともと同じ岩村の別の場所に鎮座していたところ明治26年(1893)に焼失し、昭和2年(1927)に当地へ遷座したとのこと。現社地は龍宮神のものだったと解釈する向きもあるようです。裏鳥居に「大明神」の扁額がかかっていたのも謎でした。
 小高い境内地からは岩海岸を見渡せるのかと思いきや、眼前にデンと横たわっていたのは昭和55年(1980)に完成した真鶴ブルーラインの岩大橋!! 十年以上前、「鹿島踊」を調べた時にチェックしておいた神社ながら現在は途絶えており、知りたいことはすぐ調べないと取り返しがつかないことになると痛感させられたことでした。
 


大美和神社 (小田原市江之浦)
 2015年10月30日。ひょんなことから車で御案内いただけることになり、ならばと前回「鹿島踊り」の調査のために行った根府川駅から帰ることにし、その折タクシーの手配ができずに断念した大美和(おほみわ)神社へ立ち寄りました。案内板によると「小彦名命と大物主命を祭神として寛文11年(1671)8月15日に創建。以前は蔵王(ゾーオーのルビはあり得ないかと…)神社といわれていたが、第二次大戦後大美和神社と改称された」らしい。たしかに境内に「奉納藏王大權現」と刻まれた燈籠がありましたが、『神社誌』の祭神は「伊弉冊命・大物主命」です。
 「鹿島踊」を調べた際、当社は根府川の寺山神社と同じ七月の例祭(第3日曜)に行なうというのでチェックしていましたが詳細がわからず、かえすがえすも7月19日に当社への足を見つけられなかったのが残念でなりません。それでも、坂の途中に斜面を利用して建てられた階段や社殿を見られてよかった…かな。
 

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