養老・千歳楼

千歳楼2階大広間・三条実美公の書

 ひょんなことから養老との御縁が生まれ、2001年に「藍川郷」を訪ねて以来の美濃行きとなった。送って頂いた資料を読むと、宿は1764年創業の老舗で、大正天皇をはじめとする皇族方や、横山大観、東郷青児、岡本太郎、北原白秋、谷崎潤一郎、西條八十、白洲正子など多くの芸術家・文化人が訪れている。お薦めは竹内栖鳳が大正時代に長期滞在した際に設計を手掛けた客間での本格懐石なのだとか。
 建物は明治13年以来、大正、昭和と増築を重ねた総ヒノキ造り。玄関右手のロビーで冷たいお茶と冷菓を頂く。泊まったのは大正天皇の御寝所に使われた部屋「繍錦居」の一角で、どの部屋にも緑を楽しめる空間が。しかし部屋に鍵がかからないことに愕然とする私は、いけない現代人?

南宮大社



 2006年7月13日朝、養老の滝。お昼は地元の皆様からの絶大な信頼を得ている垂井町の「井つつ」へ。食いしん坊の私はここに惹かれて旅に参加(!?)、冷凍や養殖を扱わないという信念の大将が出して下さるお料理に舌鼓を打った。とくにお刺身は大好物のサバがメインだったので欣喜雀躍(ほとんど一人で平らげた?!)、お野菜の炊き合わせも絶品!
 そのあと、このお店の紹介者・84歳の女医さんが南宮大社の宮司さんに会わせて下さった。さすがは美濃国一宮! 国の重要文化財に指定された寛永19年再建の本殿、拝殿、高舞殿など15棟の社殿と、巨大な石鳥居や石橋などの壮麗さに心を打たれた。名乗った際、宮司さんに「木偏の?」と訊かれ、「古代美濃國不破郡十三郷の一つ」と申し上げたら、すぐに「藍川郷
(あいかわのごう)」と仰って下さった。当たり前だが、垂井町役場の対応とは違う。
 楽しく興味深いお話を伺っているうちに、京都行きの電車に乗る時間が近づいてきた。最後に女医さんが「何かお宝のような物を見せて頂けませんか?」と仰ると、「すぐに出せるのはこれだけですが」と、後一条天皇が即位された1017年に諸国の大社48社に奉献されたという「駅鈴
(えきれい)」を見せて下さり、私は飛び上がるほど驚いた。万葉集【巻一・五】に作曲した「いにしへのうた」に、四角くて深緑色の土鈴ではない鈴を入れたいと思い描いていて、外観がそのイメージとピッタリ一致していたからだ。二つある「駅鈴」はピッチが異なるため、単独で鳴らすより同時に鳴らした方が不思議な美しい音になる。
【2006年10月31日、紀尾井小ホールでの初演の折に宮司さんがわざわざ御持参くださり、使わせて頂きました。感謝感激!】
 帰りに「金山彦大神」ならではの非常に切れ味のよさそうな包丁を賜った4人は、垂井駅までのタクシーの中で「近々改めて伺いましょう」と約束し、私は一人京都へ向かった。

伊冨岐神社


美濃國二之宮 伊冨岐神社

岐阜県不破郡垂井町伊吹1484-1
 藍川という姓については『和名抄』に「美濃國不破郡に藍川郷を収む」とある。藍川郷を『日本歴史地名大系』で調べると、「関ヶ原盆地を出て垂井町に入る扇状地の先端部左岸に開けた現垂井町岩手(いわで)・伊吹・大石地区に比定するのが一般的である(中略)。古墳も多数分布し、(中略)岩手にある菩提寺は伊福部氏の氏寺と伝えられる。また伊吹には伊冨岐(いぶき)神社があって、これも同氏と強い関連性をもつとされる」とあった。
 菩提寺については、天長年間
(824〜834年)に真言宗布教のためにこの地にやってきた空海に依頼して、伊福部氏が個人の菩提寺として創建したと伝えられている。
 わが国を代表する作曲家・伊福部昭先生は因幡国一宮・宇倍神社の神官の家系
(系図上では第六十七代目)だが、何か関係があるのだろうか(初対面の折、開口一番「あなたは美濃ですよね?」と訊かれたけれど…?)
 2001年11月19日、ともかく垂井町へ行ってみることにした。



地方豪族 伊福(部)氏の祖神を祀る伊冨岐神社
仁寿2年(852)に官社になった
と垂井町のHPにありました。
 宇多津で時刻表と中部地方の地図を買って岡山で新幹線に乗り換え、米原から東海道線に乗った。かつての藍川郷とされる岩手・伊吹・大石地区は、地図を見ると垂井より関ヶ原の駅に近いため、そこからタクシーに乗ることに。しかし、運転手さんは菩提寺伊冨岐神社も知らないと仰る。持っていた地図で場所を説明し、やっと伊冨岐神社に辿り着いたものの、やはり菩提寺がわからないというので、垂井町役場まで行くが、藍川郷菩提寺もわからないと言われた。「垂井町史に載っていたのですが…」と言ってみても埒が明かない。
 今度は垂井駅に行ってタクシーに乗り、「喪山までお願いします」と言うと、この地で30年タクシーに乗っているという運転手さんですら知らないと言い張る。ふと座席の前のポケットを見ると古ぼけた観光地図が入っていた。
 「あのォ、この地図の28番なんですけど…」
 何だか力が抜けてきた。今日はこの辺で引き揚げるとしよう…。

 上の文章をUPした直後、伊冨岐神社と宇倍神社の関係が気になり、谷川健一(谷川雁氏の兄)『青銅の神の足跡』(1979年/集英社)を再読してみた。以前、宇倍神社の伊福部氏に関する記述を拾い読みしただけなので、恥ずかしいことに冒頭から出てくる岐阜県不破郡垂井町の伊富岐(書物により「伊冨岐」と「伊富岐」が混在)神社のことは記憶になかった。
 谷川氏は、銅鐸の出土地と鋳銅技術をもつ伊福部氏の居住地とが重なり合うという事実、伊福部氏が尾張氏の系譜に属することなどに注目し、たとえば出雲の斐伊川流域で製鉄の仕事に従事していた伊福部氏は、山陽側の吉備あたりから出雲に入ったのかも知れないなどと推測している。
 また、因幡國一宮で、銅壺が出土した宮下の地にある宇倍神社については『姓氏家系大辞典』の太田亮説を支持している。
――「宇倍神社はもともと伊福部の神社だったから、その部の神の伊福貴大明神を祭っていたのが、後世になって社家の祖神と混同し、武内宿禰をあやまって祭り伝えるようになった」と太田亮は推測している。ここにかつて伊福貴大明神がまつられ、それが美濃不破の伊富岐神社と密接な関係をもつとされてきたという指摘は重要である。(谷川健一)――

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