「古代の歌と氏族を探ねて」

古四王神社 (秋田市寺内児桜)
 2015年6月28日朝、前夜チェックインした秋田駅近くのホテルから古四王(こしわう)神社へ。当初、すぐに羽後境へ移動する予定でしたが、東北を中心とする「こし(胡四・越・巨四・高志・小四etc.)王神社」の元宮との見方があることを知り、立ち寄りました。北に秋田城址…とはいえ、境内に鎮座する田村神社(住吉神社・今木神社を合祀)でもわかるように坂上田村麿ゆかりの古社ですから、年代にはかなりの隔たりがあります。最近、戦国時代などの山城は、古代から山頂にあった神社を利用して造られた場合が少なくないのでは? と感じています。
 古四王神社は秋田県最古の神社として明治に県内唯一の国幣社に列せられたようです。社伝によれば、四道将軍の一人・大比古命(別名:こし王)が蝦夷平定、北門鎮護のために武甕槌命を「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじまりで、阿部比羅夫征夷大将軍下向の折に先の大比古命を合祀して越王(古四王)と称したそうです。こんもりとした丘陵にあり、雨上がりの木々の呼吸が朝の清々しい空気を醸していました。
 


唐松神社・元宮 (大仙市唐松山)
 2015年6月28日。秋田→羽後境を鈍行で移動し、前々から行こうと決めていた唐松神社へ。先ずは元宮のある唐松山へ登りました。が、僅か2週間前にダンノダイラへ行ったばかりなのに足が重く、早くも身体が鈍ってしまったことに気づかされました。山頂近くに中世の唐松城址、更に登ると小ぢんまりとした元宮があります。
 小高い丘陵ですが、要塞に相応しい急勾配で、木々の間からぐるりと眺望がきき、唐松神社の現社地も見えました。やはり城を築くのに御誂え向きの場所として選ばれたのでしょう。
 そもそも秋田へ来たかったのは「物部」について考えるためでした。本を読むと諸説あって、東北から南下したとか、大和と東北の「物部」は別ものだとか、「出雲」の場合と同じく、さっぱり訳がわかりません。
 現唐松神社内にある天日宮には「物部」の祖神たる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が祀られています。通称ニギハヤヒで、『先代旧辞本紀』は天孫ニニギの兄ニギハヤヒが河内國哮峰(現大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天降ったとし、唐松神社に伝わるという「物部文書」には豊葦原中ツ国千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山(鳥海山?)の山上に降臨したのち、逆合川の日殿山に日の宮を造営したとあり、その神官に、物部守屋の戦死後、東北「物部」の地へと落ちのびた子の那加世がついたとも伝えられています。
 


唐松神社 (大仙市協和境)
 2015年6月28日。登りがキツかった唐松山を走るように下り、橋を渡って現唐松神社へ。わざわざ「現」と書いたのは、神功皇后を祭神とする唐松神社よりも、東の池の築山の上に鎮座している唐松山天日宮の方が有名だからです。最初に天日宮の画像を見た時、海人族の神社かしら? と思い、行ってみたくなりました。
 秋田物部家に伝わる「物部文書」には、神功皇后の三韓征伐に随行した物部膽咋連が、皇后の腹帯を拝受し、「出野」に唐松神社を創建とあるそうで、ニギハヤヒの日の宮が「殿山」に造営されたと伝わることから、日月のセットになっているとも言われています。
 


藥師神社 (大仙市蛭川字熊野山)
 2015年6月28日。羽後境→大曲を鈍行で移動。4駅目なのに34分もかかるのでおかしいと思っていたら、各駅で「5分停車します」とアナウンスが!? それでもこれが最も効率のよいスケジュールでした。
 大曲で予約していたタクシーに乗ると、出発前に59分後の新幹線に乗ることと行き先とを伝えていたにも拘わらず、運転手さんが山の登り口がわからないと仰います。近くの方に訊いても同じ道を行ったり来たり。「あの採石場に入るしかないんじゃありませんか?」と申し上げると「あり得ない」と言われましたが、とうとう試さざるを得なくなり採石場に入ると登山口がありました(ああぁ、時間が…!?)。ほどなく鳥居が見えましたが、太平山中腹に鎮座しているとのことで、かなり登らなくてはならない様子。社殿は全く見えません。
 タクシー会社に電話をした際、「参道が長いので、歩くとなると時間的に無理ですが、車で鳥居下の駐車場まで行けば徒歩5分程度ですよ」と言われましたが、道がぬかるんでいて無理な感じ。滑らないようにゆっくり登ってゆくと、苔、苔、苔。画像左が古来眼病に効くと有名な湧き水の霊泉で、鳥居の奥は神明社でした。ここを折れてさらに登ると大同2年(807)創建の古社藥師神社です。明治以前は一大修験場だったのではないかと想像されました。社叢大好き人間の私ですが、これはもう社叢などというレベルではなく、ただただ圧倒されました。
 


伊豆神社 (遠野市上郷町来内)
 2015年6月28日。大曲→盛岡→新花巻と新幹線で移動し、胡四王山へ行ってから、釜石線で新花巻→綾織。石上神社へ行くため綾織駅で下車し、ちょうど2時間後に遠野駅から花巻駅まで戻るべく、タクシーを予約しました。伊豆神社は遠野駅の南6kmに鎮座しているため、石上神社からいったん綾織駅まで戻って遠野駅まで行って南下するといったコースをとりました。途中で他の神社に立ち寄る余裕がないため無駄が多いのですが。
 このあたりの地図は大雑把なものしかなく、想像とはまるで違っていました。民家が密集していて、やっと鳥居が見えるという状態です。民家の隙間に参道があるという感じながら、石段を登りつめた先は自然の山道なので、急に人里離れた森に入ったという気になりました。
 当社の祭神は瀬織津姫で俗名は「おない」、遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の姫神の母神だそうです。『綾織村郷土誌』に前九年の役で敗れた安倍宗任の妻「おない」が「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を連れて当地に隠れ、難産難儀の治療にあたって人命を助けた功により祀られたとの伝承が記載されています。
 『遠野物語』には「大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛石神とを得たり」とあります。そこで今回は、当社伊豆権現石神石上神社六角牛六神石神社へ行きました。早池峰神社は4社ほどあるようですが、取り敢えず1社のみ行きましたので。
 しかし、「おいし=石神」「おろく=六角牛」だとしたら、牽強付会っぽいネーミングですよね。
 


六神石神社 (遠野市青笹町中沢)
 2015年6月28日。六角牛山(1,294m)にも山頂に奥宮、山麓に里宮があります。里宮たる六角牛神社は大草里や赤沢にあり、表記の異なる当社六神石(ろっこうし)神社は里宮ではないそうです。
 六角牛山は大同元年(806)に開山され、奥宮に薬師如来、山麓に不動明王と住吉三神が祀られたそうです。山麓の社は嘉祥年代(848-851)に元住吉に遷座したのち現在地に移されたとか。その後、文治5年(1189)までに再三山火事の被害に遭っていた山頂の奥宮を新山宮として祀った阿曽沼公石洞が合祀されました。それゆえ、里宮ではなく、新山宮として扱われているのでしょう。拝殿の扁額は「六角牛新山宮」、社殿の左後方の石碑には「六角牛大神」と刻まれていました。
 広大な社地を有つ神社で、道路沿いの鳥居前の草地に牛が放牧されていたのが印象的でした。
 


荒神神社 (遠野市青笹町中沢)
 2015年6月28日。六神石神社へ行く途中、「荒神神社」への道標を見かけました。運転手さんに「帰りに寄って下さい」とお願いしておきましたが、忘れて通り過ぎようとされたので、「左折して下さい」とお願いして行ったのがこちら。幸運なことに、降水確率90%の予報が出ていた岩手県で雨に降られず、長い一日の終わり(18:30頃)に心安らぐ風景に出合えました。日本の水田は何と美しいのでしょう。子供時代からずっと見てきた風景です。そこに坐すアラガミサマ。ほっと一息つけました。

 遠野の民話によれば、「このアラガミサマは某家で祀られているゴンゲンサマと喧嘩をし、片耳を食いちぎってしまったそうな。アラガミサマの名の由来もここから来ている。このアラガミサマはふだんは某家で祀られているそうだ。昔、この地に大きな杉の木があったのを気に入って、家人の夢の中に登場して『あの杉の木のところに住みたい! 住みたい!』と駄々をこねるので、今の場所にお宮を建てて祀ったのだそうな…」。
 


丹内山神社 (花巻市東和町谷内)
 2015年6月29日。前日、胡四王神社へ行くために新花巻駅から乗ったタクシーの運転手さんが、私の演奏修行をご覧になり「是非おらっちの神社でも演ってもらいたい」と仰るので、「どちらの神社ですか?」と尋ねると、「タンナイサン神社だ」とのこと。まさしく私が行きたくて何日も検討した神社です。が、なにしろ釜石線の本数が少ない上、周囲に何もなく、Mapfanで調べた新花巻駅から往復2時間(演奏時間を含む)というのは現実的ではありませんでした。渋々諦めたところへ運転手さんから進言され、俄然行く気になった私。仙台での待ち合わせのために新花巻10:19発の新幹線に乗らなくてはならないため、その2時間前にホテルに来て下さるようお願いしました。とは申せ、当の運転手さんは遅番で別の運転手さんでした。「おらも氏子だ」とのことで舗装されていない凸凹道をも走って下さり、通りすがりの立石神社で写真を撮ったのに、30分以上早く新花巻駅に着きました。
 画像で胎内石(アラハバキ大神の巨石)を見て行きたいと思った私ですが、実物は想像をはるかに超えた迫力で、私の中では他社を圧倒して「度肝を抜かれた神社No.1」に輝きました!! 高さ4〜5mともいわれる胎内石は、1,300年以上前から霊域の御神体として大切に祀られ、坂上田村麿、藤原氏、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であったと書かれていました。
 当社の創建は当然ながら胎内石よりも新しく、約1,200年前とのことです。祭神はこの地方開拓の祖多邇知比古神で、承和年間(834-848)に空海の弟子日弘が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称したそうです。社地の広さからも大霊場であったことが想像されます。また当地の繁栄ぶりは、本殿左側の山頂付近の経塚(県指定史跡)から全国で数個しか発見されていない影青四耳壺(白磁無紋の壺、北宋の花瓶)、湖州鏡、中國古銭、経筒などの県指定文化財が出土していることからもわかります。
 


立石神社 (花巻市東和町舘迫)
 2015年6月29日。山梨でも巨石をたくさん見ましたが、「岩手」だけに大きな岩がたくさんあるようです。丹内山神社から新花巻駅へと向かう車中、運転手さんに「せっかくここまで来たので他に神社があれば立ち寄って下さい」と言うと、「村村にあるけど、小さいのばっかりだよ」と仰るので、「そりゃあ丹内山神社のような神社は他にないでしょうけど…」と話していたら神社らしき建物に差しかかりました。扁額を見ると立石神社。「ここで写真を撮らせて下さい。きっと珍しい岩があるに違いありません」と運転手さんに待って頂きました。
 すると、有る有る。境内は岩だらけです。ただ配置がバラバラでおかしいので由緒を読むと、「宝治元年(1247)6月の早池峰白鬚水といわれる大洪水で猿ヶ石川近くの高舘に鎮座していた社殿が流出。その後は祠を建てて祀っていたが、393年後の寛永17年(1640)、舘迫村の郷士 長徳小次郎により長徳の館内に遷され、長徳稲荷として崇拝された。正徳5年(1715)9月に村の鎮守として現在地に遷宮。歴代南部藩主の崇拝を受け、舘迫稲荷神社の社号を授けられた。明治38年(1905)、現社名に改められた」とありました。道理で狛ではなく狛が置かれていたはずです。境内には巨石のほか「早池峰権現」などと刻まれた石碑がたくさん。社殿は旧社地を臨むように建てられているそうです。あ、神楽殿もありましたね。
 


蔵王連峰・熊野岳 1,841m (山形蔵王)
 2015年6月29日。仙台駅からホテルの送迎バスで蔵王温泉へ。ホテルに荷物を置き、14:00発のロープウェイに乗りました。2本のロープウェイを乗り継ぎ、14:30に地蔵岳(1,736m)山頂へ向かう最初のガタガタ石段を撮影。これがキツくて(危なくて)参りました。人が積んだ歪な石の上ではなく、自然の山道を歩くつもりで来たのに…。
 14:40、地蔵岳山頂から風景を撮影。休まずに尾根を歩くも足元が悪く、楽器ケースを背負っているため腰が痛くなってきました。16:45にはロープウェイの最終に乗らねばならず、逆算すると15:40には下り始めないといけません。第一、私は演奏修行に来ているため、必ずしも熊野岳山頂に立つことが目的ではありません。15:15、九合目あたりで自由行動に切り替えることにしました。「私はここで演奏したいので、参加者の皆さんは山頂へ向かい、遅くともこの場所に15:40までに戻ってきて下さい」と申し上げましたが、道が悪いため、皆さんそれぞれ写真撮影などをされていました(私の演奏写真も撮って下さいました)。
 楽器を片づけてから高山植物を撮りつつ下山したら、16:15にロープウェイ山頂駅に着きました。
 この時点でホテルに何度も電話をして(すぐ切れてしまうため)山麓駅にタクシーをつけてくれるよう手配を頼みました。お釜を見て和歌を詠むことが目的だったので、どうしても参加者の皆さんと一緒にお釜を見なくてはなりません。もともと信仰心などないため、山頂の神社まで行かずとも熊野岳で演奏できただけで満足でした。
 


蔵王連峰・刈田岳 1,758m (宮城蔵王)
 2015年6月29日。蔵王連峰・熊野岳&地蔵岳から下りてタクシーで刈田(かった)岳へ向かいました。吉野山から蔵王権現を勧請した場合、「金峰山」「金峯神社」などと称することが多いように思いますが、蔵王連峰は本家を凌ぎ(?)「蔵王」の代名詞のようになっていますね。刈田岳山頂にある刈田嶺神社奥宮の伝承によれば、「蔵王」の名は、白鳳8年(679)に役小角が大和國吉野山から蔵王権現を現在の不忘山(宮城県側)に奉遷し、周辺の奥羽山脈を修験道の行場としての「蔵王山」と称したことに由来するとのことです。
 なお、刈田岳の蔵王権現に対し、熊野岳では708年に「熊野神社」が建立され、のちに熊野権現白山権現が勧請されたとのことですが、昭和27年(1952)に「蔵王山神社」に改称されています。内容まではわかりません。
 ともかく、刈田岳は山頂近くまで車で行ける。そしてお釜が見える!! 平日の夕方なればこそ名物の車数珠つなぎ(ラッシュ)にも遭わず快適に走れました。
 


由豆佐賣神社 (鶴岡市湯田川岩清水)
 2015年6月30日。当初は素直に仙台経由で戻る予定でしたが、ここまで来たら一日を最大限に活用して帰宅したい。ということで私のみタクシーで山形駅へ。ホテルの送迎バスはチェックアウト時間に合わせているため乗りたい新幹線に間に合いません。ところが、幸いにも運転手さんから鶴岡行きのバスがあると教わり、新幹線で行くより30分も早く着くため、諦めていた由豆佐賣(ゆづさめ)神社へ立ち寄ることが出来ました。
 一之鳥居の横に「映画『たそがれ清兵衛』撮影記念碑」がありました。藤沢周平氏は山形師範学校を卒業後、教師として湯田川中学校に赴任されていたんですね。
 さて、当社は白雉元年(650)創建とされ、『三代実録』や『延喜式神名帳』にも記載された古社です。由豆佐賣湯出沢のこととされ、「湯蔵」「龍蔵権現」とも呼ばれていたそうです。ド迫力の県天然記念物「乳イチョウ」の巨木を眺めながら階段を上がると、物凄い黴の臭いが!? 埃・ダニ・カビアレルギーの私がここで演奏するとどうなることか? と一瞬ひるみましたが、折角バスに乗って来たのですから座って楽器を出しました。その後は一日中、何度アレルギー用の目薬を点しても左目が痛痒くて不安でした。温泉地の神社なので、こういうこともあります。
 一之鳥居を入ると、本殿への階段下左側に上山出身の歌人 斎藤茂吉の歌碑がありました。

  式内の 由豆佐賣の神 ここにいまし 透きとほる湯は 湧きでて止まず
 


六所神社 (鶴岡市青龍寺金峯)
 2015年6月30日。鶴岡へ行こうと思ったのは、蔵王山と同じ「蔵王権現」を勧請している金峯(きんぼう)神社を見るためでした。ただし中の宮までタクシーで行っても山頂の金峯神社本殿(蔵王権現堂)までは徒歩45分。この往復だけで当初の鶴岡滞在時間になってしまいます。しかも30分早く着いたので由豆佐賣神社へも行きました。運転手さんは「中の宮までタクシーで行きましょう」と仰って下さいますが、登り口に差しかかった時、「金峰神社」の石柱を見つけたのです。国指定名勝「金峯山」の看板には「金峯山(458m)の歴史は古く、天智天皇の時代(670年)、役の行者が金剛蔵王権現を祀ったのが始まり」とあります。山頂に本殿が創建されたのは大同年間(806-810)だそうです。「峰」と「峯」の違いは、承暦年間(1077-81)に大和國宇多の城主丹波の守盛宗が移ってきた際、氏神である吉野の金峯山から分霊を勧請して金峯蔵王権現を祀り、山名を金峯山と改めたためだとか。
 信仰心のない私は、金峰神社と書いてあるこの地に創建されたようだし、隣に青龍寺があるし、金峯神社養鯉池たる龍ヶ池も見たし、駅へ行くことにしました(この時間短縮により鶴岡駅でサクランボを食べられた!?)。
 ちなみに、正面は粟嶋神社、その右手に六所神社の鳥居があり、階段を登ると、神仏習合の姿のまま時を重ね、観音菩薩(稲荷)、薬師如来(祇園)、阿弥陀如来(八幡)、勢至菩薩(加茂)、地蔵菩薩(愛宕)、釈迦如来(春日)の六体の仏像が安置された六所神社が鎮座していました。六所神社の創建は金峯神社より古いそうです。
 


飛澤神社 (酒田市麓楯ノ腰)
 2015年6月30日。鶴岡→遊佐を特急で30分。ここから吹浦までの移動がうまく行かず、吹浦→象潟が鈍行で19分なので、タクシーを2時間予約して吹浦まで道なりに4社をまわることにしました。
 まずは酒田へ戻る形になりますが、清和天皇貞観13年(871)の鳥海山大噴火に際し、御神霊を鎮め奉るために「天降堂」を創建したことに始まる飛澤神社。おおぉ、いよいよ鳥海山の霊域に入りました。当社は式内社小物忌(をものいみ)神社の論社の一つで、かつては小物忌神社と称していたそうです。
 参道から本殿への道が直角に左折するため、奥行きがわかりませんが、階段を登ったら参道の左手に古四王神社がありました。28日朝に行った秋田の古四王神社から勧請されたのかしら? 左折すると右手に大きな八坂神社。普通の神社の社殿としても通用する境内社です。
 なお、当社は観音寺城主 来次氏の崇敬が篤く、来次出雲守氏房の居住跡でもあるそうです。
 


鳥海山大物忌神社 (遊佐町蕨岡・口ノ宮)
 2015年6月30日。扁額に「出羽一之宮」とある鳥海山大物忌(おほものいみ)神社です。鳥海山は古代日本の北の境界に位置し、夷狄に対し神力を放って国家を守護し、穢れを浄める神とされてきました。当社は鳥海修験としての歴史が長く、往時は33の坊を有していたとか。社伝によると、景行天皇の御代に顕現し、欽明天皇25年に鳥海山上に鎮座したとされています。他説では、欽明天皇7年鎮座とも。祭神大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とする考えがあるそうです。
 当社も飛澤神社と同じく、鳥居を入ってから直角に左折したところに拝殿・本殿があります。画像ではわかりづらいのですが、とても大きな社殿でした。実は鳥海山の大きさと裾野の広さにも驚いたのでした。
 


劒龍神社 (遊佐町当山上戸)
 2015年6月30日。こちらも小物忌神社の論社で、拝殿の扁額のみ真新しい劒龍神社。社殿からかなり離れた場所に一之鳥居がありましたが、参道だったはずの道の周辺には家が密集していました。小高い場所に鎮座しているから住所が「上戸」なのでしょうか?
 創建は、一説に平城天皇大同元年(806)。社名から想像できるように御神体は剣一振+奇石二個で、剣は、大同年間に鳥海山より飛んできて旧境内に止まったという宝剣。光格天皇の御代(1780-1817)、火災に遭った際、自ら箱を飛び出して境内社の中に入り雲のようなものに包まれていたという派手な伝承をもっています。
 由緒書に、「往古より劔龍山大権現と称し、口碑に小物忌神社と称せり。鳥海山稲倉嶽の劔龍山小物忌社の御神体の宝劔は余程早き頃飛出たり。劔龍神社の御神体の宝劔はこの小物忌社の霊劔なりと伝ふ。劔龍山修験者は一山を守り五十数代連綿として奉職し現在に至る。宿坊6戸現存す。明治3年劔龍山大権現の称号を劔龍神社と改める。鳥海山麓に高瀬峡あり劔龍神社山伏の修験場なり」とありました。高瀬峡…行きたい。
 


鳥海山大物忌神社 (遊佐町吹浦布倉・口ノ宮)
 2015年6月30日。遊佐に3社ある鳥海山大物忌神社の2社目。あと1社は鳥海山頂上の本社なので恐らく行けないと思います。当社と、役行者が初めて登頂した際「鳥の海」を見たことから鳥海山と名づけたとの開山譚をもつ蕨岡口ノ宮は長らく「一之宮争い」を続けていました。それが、松方正義氏の采配により、明治13年(1880)8月7日、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦(ふくら)と蕨岡の大物忌神社をそれぞれ里宮(後に口ノ宮)とする旨の通達が左大臣有栖川宮熾仁親王から出され、明治14年に実施されるに至って収束したそうです。
 吹浦の『大日本國大物忌大明~縁起』(成立年代不明)の内容は地元のさまざまな伝承の融合体と考えられているようですが、実にユニークです。
 「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇の時、二神が出羽國に現れ、仲哀天皇の時、三韓征伐で功績をたてたので正一位を授かり勲一等を得た。用明天皇の時、師安元年(私年号・564)6月15日に二神は飽海郡飛沢に鎮まった」。
 「飛沢」とは小物忌神社の論社の社名ではありませんか!? そう意識すると、飛澤神社の祭神は豊受姫命稲倉魂命月夜見命が配祀され、吹浦鳥海山大物忌神社の祭神は大物忌大神月山神で、いずれにも月の神が入っています。もしかすると、大物忌神小物忌神のワンセットなのでしょうか? まだ何もわかりません。
 吹浦鳥海山大物忌神社大物忌大神月山神の2つの本殿は拝殿の上に並んでいます。ともに延喜式神名帳に収載された貞観4年(862)11月に名神大社となった大物忌神社と、吹浦鎮座の月山神社ということになりましょうか。本殿が2つなら拝殿も2つ、階段上と階段途中にありました。こういう神社を見たのは初めてです。
 


金峰神社 (象潟町小滝奈曽沢)
 2015年6月30日。吹浦(山形県飽海郡)→象潟(秋田県にかほ市)へ移動。海沿いを走る電車なので日本海を堪能できました。予約しておいたタクシーに乗って走り始めた時、迂闊にも「こういう景色は初めて見ました」と口にしてしまった私。運転手さんは無知丸出しな発言にギョッとされたものの、平静を装って「島ですから」と仰いました。そこでやっと「芭蕉が訪れた時代(1689)とは地形が違うんですよね」と気づき、話を継いだ次第…。
 1804年の鳥海山の大噴火により、太平洋側の景勝「松島」に対し、日本海側の「西の松島」と呼ばれた土地が180cmほど隆起して象潟の島々は陸地となり、「九十九島」と呼ばれています。
 芭蕉が訪れた際、入江のほとりに神功皇后の御陵があり、寺の名を「干満珠寺」と言うが、当地に神功皇后がお越しになったとは聞いていないと疑問を呈した現「蚶満寺(かんまんじ)」の住所は、まさに「象潟島」です。そこにある八島(やつしま)神社へ行こうとしたら、運転手さんが無理だと仰るので(実はあとで時間が余ったのですが)奈曽の白滝(国指定名勝)へ向かいました。この時にはまだ、奈曽の白滝に隣接する(全容を見られる)金峰(きんぼう)神社と山形県の鳥海山大物忌神社の関係に気づいていません。
 金峰神社なので「蔵王権現」であることは想像できましたが、社伝によれば斉衡3年(856)、円仁(慈覚大師)が鳥海山の巨人「手長足長」を退治した際に「鳥海大権現」と「蔵王権現」を奉じたとされています。鳥海山大物忌神社の別当寺であったともいわれ、鳥海修験の中心地の一つとして信仰を集めたそうです。明治2年(1869)に鳥海神社と改称した後、大正2年(1913)に境内社の熊野神明社を合祀して金峰神社となりました。
 駐車場が近くにないため観光地化しようがないと言う奈曽の白滝の轟音を聞きながら、神秘的な美しさを湛えた金峰神社への道を駈けのぼり、再び走って吊り橋を渡りタクシーまで戻りました。短時間の滞在でしたが、旅の終わりにミストをたっぷりと浴び、このままずっと放浪したいとの気持ちが湧きあがったことでした。
 


榛名神社 (高崎市榛名山町)
 2015年7 月12日。蔵王のお釜へ行ったあと、同じお釜(カルデラ)つながりで榛名湖周辺へ行ってみることに。気温36度の高崎からバスで榛名神社へ行くと、今年4月に完成したばかりのニノ鳥居をくぐっても、四輪や単車がわがもの顔で走っています。日曜とあって人出も多く、三ノ鳥居をくぐって参道に入ったら行列の流れにのって歩くほかありません。これじゃあ引かれ者のようだわ…と本殿まで5分ほどの地点で列を離れて戻りました。
 噴火でできた地形だけに、榛名神社と言えば文化3年(1806)に御姿岩と接続して建てられた本殿(本社・幣殿・拝殿)が有名です。その奇岩を一目見ようと出掛けたにも拘わらず、あっさり挫折してしまいました。
 当社は綏靖天皇の時代に可美真手命父子が山中に神籬を立て天神地祇を祀ったのが始まりとされ、中世以降は満行権現と称し元湯彦命が祭神でしたが、明治以降は主祭神が火産霊神と埴山姫神に改められています。南北朝時代には上野寛永寺系列の別当が管理し、近世は東叡山輪王寺宮兼帯所として榛名山巌殿寺満行宮となった後、明治の神仏分離…というふうに変遷していったようです。
 


大森神社 (高崎市下室田町)
 2015年7月12日。榛名神社で上りのバス停が見当たらず、下りのバス停付近にいたら上りのバスが通り過ぎてしまうというヘマをやらかしてしまい、お隣の門前そば「こまつや」さんに最も近いタクシーの電話番号を訊ねました。到着まで20分かかると言われ、お蕎麦を注文したら、いま食べているお客さんで終わってしまったとのこと。「おでんはあるよ」と言われて待っていたら、お母さんが「うちのマカナイだから無料よ」と手作りの舞茸ごはんを出してくれました!! おかわりまでしたのに(私って!?)、おでんの300円しか受け取ってくれませんでした…。
 有り難く満腹になり、妙義山へ向かう途中、変な神社を発見!! 運転手さんにUターンして貰いました。
 本殿の裏側には極彩色のペイントが施され、拝殿の前(両側)には狛犬の代わりに中国の陶器の「果売箱」(ゴミ箱)が置かれています(画像左は摂社金鑽神社前の「果売箱」)。しかも扁額には「正一位火炎大明神」の字が!? 「正一位」はこれまでの学習では「稲荷」でした。それが「火炎」とはゾロアスター教でしょうか? さっぱり訳がわからないので南側にある鳥居まで行ってみました。すると、大森神社の社号標が!! たしかに「火」ではなく「大」に見えますが、「炎」は「森」には見えません。いずれにせよ「正一位」だとしたら、大森神社ではなく「大森稲荷神社」ということになります。祭神や社名が変わるのが当たり前の日本の神社ですが、ゴミ箱まで置かなくても…。
 


妙義神社 (富岡市妙義町)
 2015年7月12日。社叢すらない火炎いや大森神社を見てショックを受けた私をのせ、女性の運転手さんは淡々と妙義神社を目指します。突然、奇妙な形の山々が見えて我に返りました。どうやら、あれが妙義山らしい。奇岩・奇峯で知られる上毛三山は、榛名山、赤城山、妙義山(白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山 etc.の総称)と言われています。そして妙義神社の御神体山は白雲山なのだそうです。運転手さんが唐突に、「1,000mそこそこの山ですけど、岩から滑落して毎年何人も亡くなるんですよ」と仰いました(怖そう…)。
 到着するなり、物凄い階段!! 一瞬このまま高崎駅まで戻ろうかと思いましたが、銅鳥居をくぐると右手に旧波己曽社殿があり、当社がかつて波己曽神社であったと知りました。急勾配の斜面に張りついたような石段は銅鳥居から165段あるそうで上がるかどうか迷っていたら右手に緩やかな参道があったので、そこから本殿まで上がり、急な階段を下りるコースをとりました。赤と黒と金の社殿を見た瞬間、あんばさまの社殿を思い出しました。
 妙義神社略記に「創建は宣化天皇の2年(537)に鎮祭せりと社記にあり、元は波己曽の大神と称し後に妙義と改められた。そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明明魏魏たる山の奇勝をめで、明魏と名づけしものを後世妙義と改めたと思われる」とありました。
 あ、HPに榛名神社と同じく、「別当である白雲山高顕院石塔寺は寛永14年(1637)に上野東叡山寛永寺の本末となる」「江戸期を通じ輪王寺宮御神祭の神社となった」とありますね。本殿後方に天狗社があるそうです。
 


斐太神社 (妙高市宮内)
 2015年7月12日。当初の予定では高崎から「はくたか」に乗ると上越妙高に着くのが19:16ゆえ、行くのを諦めた斐太神社榛名神社でバスに乗りそびれたおかげで「あさま」「はくたか」と乗り継ぎ、18:30に着いたので行けました。神社の手前に「斐太歴史の里を歩く〜豊かな里山と時代の異なる3つの国指定史跡を訪ねて〜」の看板があり、しばし画像とイラストマップに目を奪われました。3つの国指定史跡とは、古墳時代の「天神堂・観音平古墳群(前方後円墳)」と戦国時代の「鮫ヶ尾城跡」、さらに斐太神社に隣接する「斐太遺跡群斐太遺跡」のようです。「斐太遺跡」は弥生時代後期後半(3世紀、今から約1800年前)の集落遺跡で、10万平方メートルを超える低丘陵上に200軒を上回る竪穴建物跡を有する東北最大規模の遺跡とのことです。また、日本で唯一、肉眼で約1800年前の弥生時代の遺構を半埋没状態で観察できるそうです。この時代に戦火に備えるための大規模な環壕(集落を囲う防御用の空壕)をもつ山城のような集落が数多く出現したのは、中国の史書に「倭国大乱」と記された戦乱の時代であったからとされています。
 社伝によれば、斐太神社は当地に神幸した大国主命が御子神である事代主命と建御名方命を従えて民に稲作を教える等の国土経営にあたったとの故事に因んで創祀されたといい、その折、当地が越国の「日高見(ひだかみ)の国」と名付けられたことから「斐太(ひだ)」の地名が生まれたそうです。ならば「飛騨(ひだ)」も同じですよね? 「いたきそ」が「日抱尊」との説もありましたし。
 


風巻神社本宮 (上越市三和区社地山)
 2015年7月13日。今回のテーマは前回偶然にも何社か足を運んだこし王です。さまざまな説を読んだのに、どれもピンと来ず、こし王って誰? との疑問から越ノ国へやってきました。コシヒカリにもお世話になっていますし!? …で、行くなら足腰への負担が少ない(石段など人の手が入っていない)山道を歩きたいと低い山を探しました。それが標高201mの社地山です。里宮たる風巻神社の御神体山=社地山ということでしょうか?
 『中頸城郡誌』に「本社は山嶺に拜殿は中腹に在り」という風巻神社はとても大きくて立派そうでしたが、そちらは山登りのあと時間があれば立ち寄るとの方針で林道へ向かいました。この林道を車で上がったという人のブログを見せましたが、運転手さんは渋い顔…。少し上がると車を返せる平地があり、「ここで待ちます」と言われてしまいました。たしかに轍はあるのですが、道幅いっぱいなので、軽トラでないと無理な感じ。しばらく登ると、家庭菜園っぽい畑がありました。轍の主は、きっとこの畑の持ち主でしょう。そこが歩き始めてから頂上までの中間地点で、この先はもう車が通れる道幅はありません。急勾配を登り切ったところに道標があったので、迷わず本宮への細い尾根を進みました。左斜面は足を滑らせたらオシャカ!? 社殿を写そうにも正面の地面が幅1mちょっとなので全体を撮ることはできません。この日、上越市では38.5度を記録したそうですが、樹で覆われた山頂は風もよく通り、気持ちよく演奏修行できました。山裾が平野なので、標高201mでも周囲の山々がよく見えました。
 


風巻神社 (上越市三和区岡田)
 2015年7月13日。社地山から直江津駅へ向かう途中、風巻神社に立ち寄りました。参道がとても長く、車で本殿まで行ったため確認できていませんが、途中左側に出雲神社の祠があるそうです。そういえば酒田の飛澤神社には参道の左手に古四王神社がありました。両社とも、参道を左折すると拝殿が見えるという配置でした。
 当社の現在の祭神は豪華絢爛で、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)など、十二神を合祀しているそうです。案内板によれば、「村上天皇の御代、天歴2年(948)8月勅許によって、大和国生駒郡立野の龍田神社より神の分霊を迎え奉り、五穀豊穣の神とし、また風の神として崇め奉る」ことになったのが創祀のようです。すると社名通り「風の神」ですね。創建当初は山頂に鎮座していましたが、宝永2年(1705)の火災で社殿が焼失したため、宝永4年(1707)に山麓に再建され、昭和31年(1956)に現在地へ遷座しています。現在の祭礼を画像で見ると、長い参道を神職をはじめ御神輿を担ぐ人々が練り歩く様は壮麗で、昭和31年にこれだけの参道と社殿を造営できる氏子さんがおられ、今も大切に守られていることに心を動かされました。
 


杜々の森 (長岡市西中野俣)
 2015年7月13日午前、直江津から長岡へ特急で移動。目指す栃尾は長岡市になっていました。明治22年(1889)に古志郡栃尾村を中心として発足した栃尾町は古志郡の村々を編入しつつ昭和29年(1954)に栃尾市になり、平成18年(2006)1月に長岡市に編入されていたのです。が、ともかく「越・古四・古志」を知る旅です。
 「もりもりのもり」? と首をかしげていましたら「とどのもり」だそうで、「トトロの森だ!!」と喜び勇んでやってきたものの、あったのは公園? 水汲み場? 運転手さんに訊ねたら、「全国名水百選に選ばれた湧き水の水源である森は古くから神聖な土地として禁足地になっています」とのこと。だから水質が保たれているのでしょうけれど、社叢大好き人間の私としては森に入れなくては魅力半減…。というわけで、美味しい湧水を頂戴してから階段上の神社手前で杜の空気を吸っただけで先を急ぎました。ボトルも売っていましたが、ペットボトルに入れた瞬間、ただの水になるかと思うと手が出ず、冷蔵庫で冷やされていたアルプスの水を買って涼をとりました。
 


巣守神社・貴渡神社 (長岡市栃堀)
 2015年7月13日。古志郡でのもう一つのテーマは「江戸・宮彫り」です。「日本のミケランジェロ」などと、とんでもない呼び名をつけられてしまった石川雲蝶。その仕事を栃尾ではまだ肉眼で見られるというのです。しかし、2,3時間の滞在で全作品を見るのは難しい。隣の道へ出るためには山を越さねばならず、時間がかかります。まずは杜々の森から山越えをして栃堀へ行きました。
 巣守神社(画像右の二ノ鳥居を入ると階段の上)は同名の神社が栃尾に何ヶ所もありますが、当社の一ノ鳥居を入ってすぐ左手にある貴渡神社は一つです。神ではなく、植村角左衛門貴渡(たかのり)という栃尾の地場産業の開発に尽力した人を祀っています。栃尾の地場産業たる織物、中でも重要なのが縞紬の創製者オヨ女と植村角左衛門貴渡とあって、雲蝶は嘉永元年(1848)に建立された貴渡神社の社殿に養蚕の過程と機を織る織姫を絵巻物風に掘り上げています。ただし見学するには事前にカギ開けの予約が必要で、突然行った私は覆屋のアミ越しに見るしかありませんでした。それでも生命ある作品を肉眼で見られたので満足。
 


秋葉神社・奥の院 (長岡市谷内)
 2015年7月13日。次なる雲蝶は秋葉神社・奥の院(画像右)です。ここもカギ開け予約が必要でした。
 当社は、天文20年(1551)に上杉謙信が楡原(にればら)の藏王堂より遷したと伝えられ、火伏の神として名高い「火坊日本総本廟秋葉三尺坊大権現」として崇敬を集めているそうです。ん? それって静岡県の秋葉山じゃないの? と思いきや、すでに江戸時代に、越後國栃尾の秋葉神社、駿河國清水の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争っていたそうです。時の寺社奉行・大岡忠相(1736-1751)の日記に「越後常安寺から秋葉権現を勧進した深川の瑞雲寺が開帳を願い出た事件につき遠州秋葉より訴えがあり、山名因幡守が担当して吟味した」と記されており、結局、楡原の三尺坊は行法成就の地で「古来の根元」、遠州の秋葉寺は布教広風の地で「今の根元」と裁定されたとあります。
 ちなみに、楡原→矢田(寺泊)→現長岡市西蔵王へと遷された金峯(きんぷ)神社は「和銅2年(709)、元明天皇の勅願で金峯山の蔵王権現の分霊を古志郡楡原に勧請し創建したのが始まり」と伝え、秋葉山本宮秋葉神社は「創建は和銅2年(709)」とのみ伝えています。信州出身で越後國楡原の蔵王権現などで修行した三尺坊という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたとの説を否定する意図もあろうかと思いますが、調べようがないわけですから、どちらも本山であるという「大岡裁き」は適切…といえるのではないでしょうか。実際に遠州で秋葉信仰が広がったのは戦国時代後期以降との説もあり、いま最も古い記録は永禄12年(1569)なのだそうです。
 当社奥の院の雲蝶の宮彫りは火伏の秋葉三尺坊にちなむ大天狗と牛若丸でした。
 


藏王社 (長岡市楡原)
 2015年7月13日。旅の最後は和銅2年(709)に吉野金峯山から蔵王権現を勧請したという藏王社です。険しい山中にあるのかと思いきや、畑の真ん中でした。平安時代、当地楡原に本宮ほか十二坊が建ち並ぶ北陸きっての一大霊場・岩野藏王堂(蔵王権現)があったというのが信じ難い立地です。
 その岩野藏王堂の中にあった三尺坊の院住(住職)をしていたのが信州出身の周国(かねくに)で、坊の名から三尺坊と呼ばれたそうです。三尺坊は不動明王三昧秘法という難行に挑み、みごと大願を成就して飛行自在の神通力を得たといいます。「もし我名を呼べば、声に従い火災盗難を除く」と叫び、現れた白狐に跨り飛び立ったのを見た衆徒は三尺坊を「威徳大権現」と崇め奉り、社殿を建てて「般若院」としたそうです。「般若院」は、上杉謙信の常安寺開創(1551)の際、社領とともに常安寺に寄進されています。
 さて、岩野藏王堂では、三尺坊と遠州の秋葉山の関係よりも蔵王権現の行方が重要でしょう。北国鎮護のため、勅命により大和國吉野の蔵王権現を古志郡楡原に勧請したわけですから。
 金峯(きんぷ)神社の社伝によれば、岩野藏王堂の大伽藍寺院は後に蒲原の豪族に攻められて焼失。仏体を守護して三島郡矢田に隠遁し、現在の神明神社に合祀したそうです。その後、又倉村の産土神又倉神社と合祀して神仏習合の祭祀となり、仁治3年(1242)頃、地名も蔵王村へと変わった現在の長岡市西蔵王へと遷座しました。さらに明治の神仏分離により金峯神社になったということです。
 


修禅寺 奥の院 (伊豆市修善寺)
 2015年7月19日。かつて相模湾西岸の小田原市石橋から静岡県伊豆町北川まで22ヶ所の神社で行なわれていたという「鹿島踊」に興味を持っていましたが、現在は中絶している所も多く、やっと毎年7月の第3日曜開催の神奈川県無形民俗文化財指定(昭和46年)「鹿島踊」を見に行けることになりました。調べたら、朝10時〜と夕方16時半〜いずれも30分間とわかり、午前中から伊豆半島へ行き、帰りに「鹿島踊」を見ることにしました。
 伊豆半島に限らず、日本では地図上は隣にある道へ出るために山越えできる箇所が限られており、大抵はいったん交通の要衝へ戻ってから別の道を目指すことになります。それゆえ、泊まりがけで行くことが難しい私は何度も同じ場所へ足を運ぶことになります。伊豆半島は船とタクシーで行った時レンタカーで行った時、今回で3度目となります。駅はまたしても修善寺。この「しゅぜんじ」は、空海が開いた修善寺温泉にちなむ地名ですが、大同2年(807)に空海が創建したと伝わる真言宗の寺院は建長年間(1249-1255)に南宋からの渡来僧・蘭渓道隆によって臨済宗に改宗されました。その時、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名が広まったとのこと。その後、応永9年(1409)に伽藍が全焼し、荒廃していた修禅寺を北条早雲(1432-1519)が曹洞宗の寺院として再興させたそうです。今回お会いした地元の方は寺を「しゅうぜんじ」と呼び、発音で区別していました。
 こうした歴史の変遷にも拘わらず、修禅寺 奥の院には現在も石段を上がったところに空海が天魔地妖を封じ込めたという馳籠(かりごめ)の窟(いはや)が、阿吽の滝には弘法大師像と降魔壇という修行石があります。
 


葛城神社 (伊豆葛城山)
 2015年7月19日。修善寺へ向かう伊豆箱根鉄道駿豆線の車窓からロープウェイのある山が見えました。もしかすると、あれが葛城山かしら? タクシーに乗ってから質問すると、たしかに葛城山だと仰います。「伊豆長岡駅からタクシーに乗るのが近いですか?」と伺うと、「いえ、奥の院から駅へ戻らず、修善寺温泉街から高速に乗れば5分ちょっとで着きますよ」と言われビックリ!? 本当にあっという間にロープウェイ乗り場「伊豆の国パノラマパーク」に着きました。あとの予定はまったく考慮していません。あれだけ拒絶された大和葛城山ロープウェイへの恨みを伊豆葛城山で晴らさむ…の一念です(なんで「祈りの滝」へ行かなくちゃならなかったんですか?!)。
 7分乗って山頂に着くと長蛇の列!? これは、ぶ厚い雲に阻まれて「駿河湾と富士山と淡島を望みながらの富士見足湯」と「富士山展望デッキ」(画像右)からの眺望が期待外れだったため下りのロープウェイを待つ人々の列でした…。それにしても夏休み最初の日曜だけあって物凄い数の人です。駅からすぐの場所に葛城神社がありました。お母さんが幼稚園くらいの男の子に「次は富士山を見られますようにってお願いしなさい」と言うと、「嫌だ!! またロープウェイに乗れますように」ってお願いしていました(←人の意見に流されないってステキ!!)。
 標高452mの伊豆葛城山の山頂から富士山を撮った写真を見ると、とても近く見えます。これなら、約1,300年前に伊豆流罪となり、葛城山に住んだという役行者が夜になると富士山で修業を積んだとの伝説が生まれても不思議じゃないなと感じました。その役行者が登場する正史は『続日本紀』のみです。

 「文武天皇三年(699)五月丁丑」
 役君小角
(えのきみせうかく)伊豆島ニ流サル。初メ小角葛城山ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。
 外ノ従五位下韓國連廣足
(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト爲ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。故ニ遠島ニ配セラル。世ニ相ヒ伝ヘ言ク。小角能ク鬼~ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。
 


真鶴三ツ石 (足柄下郡真鶴町真鶴岬)
 2015年7月19日。ロープウェイを下りてタクシーを呼び伊豆長岡駅へ行くと、ちょうど修善寺から乗る予定だった特急が入ってきました。慌てて跳び乗り、予定通り真鶴駅を目指しますが、何となく予定していた神社へは行かなくていいか…という気持ちになり、大学1年の遠足で行った真鶴岬へ向かいました。が、すべてが初めて見る光景でした。ホントに遠足へ行ったのでしょうか? お弁当を食べた記憶はあるのですが(今は亡き長野羊奈子先生お手製のミンチを使った洋風寿司がとっても美味しかった!!)。
 というわけで、見た覚えのない三ツ石を探しました。あれだ!! と思い、写真を撮ると0.05の裸眼では見えない〆縄が掛けられています。近くまで下りてゆきたかったのですが、水辺は人、人、人。人で溢れています。水遊びをしている横を歩いて行くのも無粋なので、上から眺望を楽しみました。ふと振り向くと、こんもりした部分が古墳のようにも見えます。近づくと、こ〜んな人工的ドルメンがありました(公園のオブジェ?)。いったい、いつ作られたんだろう? 三ツ石が正面に見えるので、もしかすると計算されたストーンサークル?
 ともあれ、海辺で育った私ですので、広々とした海を見ると心が落ち着きます。三木成夫先生がよく仰っていた「潮汐リズム」ですね。このあと、「鹿島踊」を見るために2時間も立ちん坊を強いられたことを考えると、海を見られたことは本当によかったと思います。自然vs人為…、まったく勝負になりませんね。
 


寺山神社 (小田原市根府川)
 2015年7月19日。本日の最終目的地、根府川石で有名な根府川に到着。市役所に電話で「16時半開始」と聞き、16時過ぎに駅を出ると目の前に御神輿が!! これについてゆけば大丈夫!! と思い、写真を撮りながら歩くと、徒歩数分の寺山神社まで数十分!? やっと着いたと思ったら、今度は社殿に入ろうとする御神輿を中から押し返し、小一時間も競り合いが続きました。ごく僅かな見物人の方が「今年は神様がなかなか上げてくれないねぇ」と話しています。本気ですか? とも言えないので、ひたすら「鹿島踊」の開始を待つこと2時間!! 道路に面した神社で座る場所はもちろん安心して立っていられる場所もなく、苦行以外の何物でもありませんでした。
 神社の由緒書きにはなかったのですが、あとで調べたら寺山神社はJR根府川駅あたりにあったそうで、駅ができる際に現在地に遷座したとのこと。道理で狭い敷地に無理やり押し込まれたように建っているはずだ…。知っていれば、この日は同じく「鹿島踊」をやっていたはずの大美和神社へ行ったのに…(残念無念)。
 

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