「古代の歌と氏族を探ねて」

鵜乃瀬 (小浜市下根来)
 2014年10月3日。前日、直江津から若狭高浜まで移動したので、午前中は佐伎治神社、さらに須縄(すなは)熊野神社多田寺多田神社へ行きました。いよいよ待望の若狭國一ノ宮若狭彦神社若狭姫神社ですが、その前に両社を素通りして鵜乃瀬白石神社へ向かったのは、和銅7年(714)、下根来の遠敷(をにふ)川鵜乃瀬の清流の地「白石」に若狭彦と若狭姫が降臨し仮宮を営んだ「若狭比売比子神社の元宮」とされているからです。
 鵜乃瀬では毎年3月2日に若狭彦神社と神宮寺が「お水送り」の神事を行ない、約10日後にその御香水が奈良・東大寺二月堂の「若狭井」に湧き出すとされています。それを汲むのが東大寺二月堂の「お水取り」です。
 天平年間、若狭神願寺(神宮寺)から東大寺に赴いた印度僧 実忠は大佛開眼供養を指導後、天平勝宝4年(753)に二月堂を建立し、「修二会」を始めました。その2月初日に招待されたすべての神々が参列された中で、若狭の遠敷明神のみ川漁に熱中して時間を忘れてしまい、2月12日の夜半に遅参したため、お詫びを兼ねて若狭より二月堂本尊への香水「閼加井(あかゐ)」を送る約束をしたそうです。すると二月堂地下から白と黒の鵜が飛び出して泉が湧き出たため「若狭井」と名付けられ、その水を汲む行事「お水取り」が始まったとのこと。
 


白石神社 (小浜市下根来)
 2014年10月3日。鵜乃瀬の奥にある白石神社。鳥居が無い?! 若狭彦神社境外末社・若狭彦神社奥宮とされ、若狭彦神・若狭姫神を「白石大神」または「鵜乃瀬大神」として奉祀されているとのことですが、ド迫力です。ほとんど真横に生えている木は伊勢の伊雜宮(いさわのみや)でも見ました…。
 若狭比子・若狭比売降臨の地とされる「白石」から約2km北上すると上社若狭彦神社です。
 


若狭彦神社 (小浜市龍前)
 2014年10月3日。若狭彦神社は想像以上のスケール感でした。今回の旅では、一ノ宮でも弥彦神社以外は人と会うのは稀で、静かに参拝できるのは嬉しいのですが、人々の足が神社や社叢に向かないことが心配になりました。足の向くまま出掛けた2年半で、神社とはパワーや御利益を頂きに行く場所ではなく、日本人が守るべき場所(緑!!)であると感じるようになったからです。一度失われてしまうと元には戻りません。戦災に遭わなかった小浜の寺社の貴重さを思います。伝説や由緒などどうでもよい、そんな気持ちになれる清々しい空間でした。
 


若狭姫神社 (小浜市遠敷)
 2014年10月3日。「遠敷(をにふ)の千年杉」として名高い本殿瑞垣内の御神木は高さ約40mとのこと!? 若狭姫神社のシンボルですね。また本殿に向かうと右手に能舞台がありました。画像左は能舞台から見た御神木です。東小浜駅から徒歩圏内で、道路に面していながら、鳥居を一歩くぐればこのような静謐に浸れるとは…。
 和銅7年(714)に下根来の遠敷川鵜乃瀬の清流の地「白石」に降臨した若狭彦神は霊亀元年(715)に若狭彦神社へ、若狭姫神は6年後の養老5年(721)に若狭姫神社へ鎮座したそうです。『古事記』以降のことですね。
 


熊野神社 (小浜市金屋牛ノ首)
 2014年10月3日。若狭姫神社若狭彦神社からほど近い金屋の熊野神社を目指しますが、入口がわからず周囲をグルグルまわりました。「をにふ」川に「かなや」ですから古代にはかなり豊かな文化をもっていたと想像されます。当社は式内社小浴(こあみの)神社に比定されているようです。
 祭神はイザナキノミコトで、境内社に八幡神社・貴船神社・山神神社とありますが、後方の山を見ると、修験の山ではなかったのかと。 ここまでくると、今に伝わる祭神って意味があるのかしら…という気もしたりして。
 


須部神社 (若狭町末野)
 2014年10月3日。小浜線の駅名で言うと「東小浜」から2つ目の「上中」を過ぎ、丹後街道を東へ進んだ「末野」にある越前國三方郡の式内社須部(スヘノ)神社です。「すへの」の音に「末野」と「須部」が当てられています。
 ところが行ってみると、真っ赤な鳥居に恵比寿大神の扁額が!? しかも、これまで狛犬、狛龍、狛キツネ(?!)などを見てきましたが、こちらは狛鯛? もう訳がわかりません。祭神が蛭子命・大国主命・陶津耳命となっているため、ヱビスを前面に出したということでしょうか? 境内はかなり広く、本殿をぐるっと取り囲む形で境内社(大国主社・少彦名社・天満社・八幡社・日枝社・稲荷社・大神宮)が置かれ、順路が決められているようでした。
 


闇見神社 (若狭町成願寺字御手洗水)
 2014年10月3日。現在は恵比寿大神になっていた石碑だけの須部神社に対し、こちらは迫力満点の闇見(くらみ)神社。入口がわからず右往左往しました。実際には差異など無いのかも知れませんが、自然の中にひっそりと佇む神社は、商売繁盛の神社よりも清々しく感じられます。
 しかし、祭神の人形があったのには度肝を抜かれました!! 祭神は、沙本大闇見戸賣命・菅原道真公ほか15柱とあるため、扁額の字がよく読めませんが、左の「天照皇大神」(?)が沙本大闇見戸賣命で、右の「天満大神」が菅原道真ということになりましょうか。ただ、私にとっては社叢!! ともかくこれが大事で心を奪われます。
 


宇波西神社 (若狭町気山)
 2014年10月3日。東小浜から丹後街道を走るコースをとったため、小浜線の海側になる波古神社石按比古比賣神社などへは行けませんでした。闇見神社からそのまま北上し、気山駅近くの宇波西(うはせ)神社へ。若狭國三方郡の式内社宇波西神社は名神大社ということで期待し過ぎたのか、社殿を収めた覆屋が施錠されていて中が見えなかったためか、わざわざ足を運んだのに空振りに終わった感を否めませんでした。
 当社の祭神は鵜草葺不合命。社伝によると、三方五湖の北部日向湖の入口になる日向浦に垂迹した神が、後に上野谷(金向山麓)を経由して現在地に遷座したとの説がとられているようです。
 


彌美神社 (美浜町宮代)
 2014年10月3日。宇波西神社から再び丹後街道に出て、美浜駅の少し先を右折して彌美(みみ)神社へ。周囲は田園で、これといった目印もないため、農道を行ったり来たりして、やっと遠くから一の鳥居を見つけました。
 『若狭国志』によると、大宝2年(702)に伊勢の内外宮を祀った後、二十六柱の神を配祀したため、二十八所大明神と呼ばれたそうです。祭神の室比古王は、開化天皇の皇子・日子坐王が沙本之大闇見戸賣を妻として生まれた子で、若狭之耳別之祖とあります。沙本之大闇見戸賣とは、闇見神社の祭神じゃありませんか!?
 また社名を彌美神社といい、耳明神とも呼ばれ、石碑に「ニニギノミコト宮殿の郷」とくれば、日向國の美々津(耳津)との関連を想像してしまうのですが…? 神武の東征ならぬ南征の物語なんて作れませんかね?
 


氣比神宮 (敦賀市曙町)
 2014年10月3日。彌美神社から再び美浜駅前へ戻ってタクシーを降り、小浜線で敦賀駅に着いたのが17時半過ぎ。敦賀の港からは松平忠直が側室一国とともに流罪地の豊後へと出航しています。すぐにタクシーで金ヶ崎へ行き、埋め立てによって昔日の面影が失われた港を見てから氣比神宮の鳥居をくぐりました。
 当社は越前國敦賀郡の式内社氣比神社に比定される旧官幣大社で、越前國一ノ宮でもあります。霊亀元年(715)、藤原武智麻呂が霊夢により氣比神宮寺を建立したそうです。これが神宮寺の初見とか。
 薄闇の中、境内を歩いてみたら、神階正一位勲一等の名神大社としては規模が小さくて驚いていたら、戦後の都市計画で境内が大幅に削減されてしまったのだそうです。
 


唐崎神社 (大津市唐崎)
 2014年10月4日。敦賀から真っ直ぐ帰京するのも芸が無いので、行きそびれていた唐崎神社へ行くことに。米原から新幹線に乗ったため、結局、京都から往復しました。やはり新幹線は速いんですね。
 実は観光地だと思って期待していなかったのですが、唐崎の松は強烈でした。赤い柵内が1本の松とは…!!
 自然の造形と比べたら唐崎神社も見劣りがするかと思いきや、琵琶湖を背景に、見事に一体化しています。見劣りがするほどの存在感すらない私は、もっともっと修行を積まなくては!! と固く心に誓ったのでした。
 


志津若宮神社 (大津市下坂本)
 2014年10月4日。地図で唐崎神社の近くに神社はないかと探したら志津若宮神社があったのですが、運転手さんは御存知なく、「演奏している間に調べますよ」ということでスムーズに行けました。想像していたよりも立派な神社で、案内板もありました。祭神は大山祇神と菊理姫神とのこと。
 「創立は弘仁7年(816)に陰陽(おんみょう)の神を勧請したことにはじまるとも、また近隣の志津男之池(しづのをのいけ)、志津女之池(しづのめのいけ)から出現した二柱の神を祀ったことにはじまるともいう。古い農耕の、土俗的儀礼に発する水神であろう。」???
 


四社神社 (横芝光町屋形)
 2014年10月24日。一週間ほど体調がすぐれず、楽器を担いで歩けば良い汗をかいて復活できるのでは? との胸算用から、横芝光町(よこしばひかりまち)へ行ってみました。まずは横芝駅からタクシーで南下して横芝光町屋形を目指しました。九十九里屈指の社殿建築として評価の高い四社神社本殿を見るためです。
 地名の「屋形」は「館」に通じ、寛平元年(889)に臣籍降下した高望王が昌泰元年(898)9月に上総介に任じられて上総国武射郡に屋形を造営したのがはじまりとか。父に次いで上総介を勤めた高望の次男・良兼が、常陸を本拠とした兄・國香ともども下総を本拠とした弟・良將の子で娘婿でもあった將門と不仲だったことは有名です。ただし、坂東平氏一族の争いには謎が多く、それぞれの立場からさまざまに解釈されているようです。
 ともかく、その高望王流桓武平氏の祖たる高望王の「屋形」の鬼門に当たる場所に、延喜元年(901)9月29日(旧暦11月12日)に創建されたのが四社神社です。一の鳥居をくぐって直角に左折すると二の鳥居があり、正面に本殿が見えます。現存する本殿は、元禄元年(1688)11月の造営(1753年に改修されたとの記録あり)で、横芝光町指定文化財になっています。社名は、四社神社四社大明神正一位四社大明神と変遷したのち、明治2年(1869)に四社神社に戻ったそうです。
 


四社神社 (横芝光町古川)
 2014年10月24日。有名な四社神社と同名の神社が横芝駅の北にありました。なぜ近くに同名の神社が? と不思議がっていたら、運転手さんが案内して下さいました。
 これは…、驚くような佇まいです。参道の左手に広大な境内地があり、かつては幾つもの摂社があったらしい雰囲気が漂っています。長い参道を奥まで進むと、小さな本殿(?)だけがありました。小さいけれど、屋形四社神社より古い歴史をもっているのではないかと感じました。
 「四社神社は大同元年(806)に創建された」との資料もあるため、もしかすると当社のことかもしれません。が、検索しても祭神すらわかりません。ともかく、静謐な空間を歩き、リフレッシュできたことに感謝です。
 


浅間神社 (横芝光町古川)
 2014年10月24日。古川の四社神社から西へ向かうと坂田池。その近くの、標高約20mの丘陵地(岩砂丘)が町指定天然記念物のスダジイの森で、そこに浅間神社があるというので探すことにしました。タクシーの運転手さんに「わからない」と降ろされてしまったからです。
 こんもりした丘が見えたので向かっていると、「三味線ケース担いでどこへ行くの?」と訊かれました。
 「このあたりに浅間神社があると聞いたのですが?」と言うと「ああ、うちの裏だよ」と先導して下さいます。
 「だけど、79歳の今まで一度も登ったことがないんで入口がわからないんだよ」。
 「え?! でもグルッと一周すれば見つかるでしょう。あ、ほら、ありましたよ鳥居が!!」。
 ただし、その方は全く登る気がないため、鳥居のところでお別れしました。こんな道なき道を一人で登るなんて、物凄い冒険だわ。人気もないし…と思っていたのに、次第に大好きな極相林に目を奪われて怖くなくなりました。低い丘なので、ほどなく社殿が見えてきたし。房総半島の極相林では銚子の渡海神社が見事でしたが、横芝の浅間神社は独立した丘陵地だけに迫力がありました!!
 


四所神社 (横芝光町横芝)
 2014年10月24日。またまた不思議なことに、MapFanで調べたら、横芝駅の北100mほどの場所に四社神社がありました。いったい横芝には幾つ四社神社が? と思っていたら運転手さんが同僚に訊ねて下さって、行ってみると四所神社でした。帰宅後、Google Mapを見たら正しく四所神社と記載されていました。
 そもそも四社神社であれ、四所神社であれ、五所・十二社…等であれ、それぞれの数の神社を合祀したものだったり、祭神の数だったりするものらしいということもわかりました。当社の祭神は、伊波比主命(香取神宮御祭神)、須佐之男命、別雷命、菅原御霊(菅原道真公)とあり、間違いなく四神でした。
 1750年再建とある本殿は両サイドにグリーンがあしらわれるなど、庶民的な雰囲気でした。
 


小國神社 (遠江一ノ宮)
 2014年11月10日。以前、事任八幡宮へ行った際、もう一つ「遠江一宮」があると知り、行ってみました。でも、まさか鳥居横に土産物屋が並び、月曜だというのに駐車場が満杯とは想像だにしていませんでした。
 一両編成の天竜浜名湖鉄道の車窓から見える風景はとてものどかだったんですけどね…。駅名も、漢字を見ないでアナウンスを聞いていると、「戸綿」は「わだつみ」のワタ、「敷地」は「しき・しか・しこ」のシキ、「豊岡」は「豊玉彦・豊玉姫」のトヨ、「都筑」は底筒・中筒などの住吉神のツツをイメージし、妄想に耽ってしまいました。すると、海人族がつくった大国主神社ということになりましょうか? 
 社地はかなり広く、大きい池があったり参道の脇を清流が流れていたりと、紅葉のシーズンにはもっと大勢の人が訪れるんだろうな…と認識を新たにしました。ともかく、人、車、人…でいっぱいでした。
 


浅間神社 (天竜二俣)
 2014年11月10日。再び天竜浜名湖鉄道に乗り、終点の天竜二俣へ。駅長さんが親切にいろいろと教えて下さり、地図まで頂いてタクシーに乗ったのですが、連れて行かれた先は鳥居に「小角役」と書いてある岩場でした。「役小角(えんのおづぬ)」の間違いじゃない? と思うような修験もどきの場所なのに、「ここが浅間神社です」と言い張るので、「地図をよく見て下さい、橋を渡ったところにある高校の裏山ですよ」と言い返しましたが、どこまで本気なのかがわかりません。
 行ってみると階段…です。鳥居もない。でも、きっとここなんだわ…と登ってみました。浅間神社は人工の小高い山(土を盛っただけ?!)の上に建てられていることが多いのですが、ここは結構高いようで、頂上が見えてきません。しかも、イラクサのようなものが足にくっついて痛い。凄く細い道はぬかるんでいるし、一人で行くのは怖いので途中で引き返しました。タクシーまで戻ると、運転手さんがご近所さんに取材してくれていました。「浅間山は結構高さがあるため、ふだん登る人はいないけど年に一度お祭りの時には餅を投げるそうですよ」。
 


白山神社 (三ケ日町日比沢)
 2014年11月11日。奥浜名湖に一泊し、以前、豊橋からタクシーで三ケ日を目指した際、雨だったからか運転手さんが探そうとしてくれなかった白山神社へ行くことにしました。ところが、天気予報は晴れだったのに、まさかの雨!? よほど三ケ日か浜名湖と相性が悪いのかしらと思いつつ向かうと、古社の風格を湛えた神社でした。拝殿の庇が長く、雨でも濡れずに演奏できます。神門があるから、ちょっと武家っぽい雰囲気なのかな? などと根拠のないことを考えながら、演奏修行をさせていただきました。
 


浅間神社 (豊橋市嵩山町)
 2014年11月11日。日比沢川に沿ってさらに西へ。三河國一宮までタクシーで行き、豊橋へ出て新幹線で岡山を目指すプランです。地図を見たら、その途中の嵩山町(すせちょう)に浅間神社がありました。しかも、「富士社」と「原川社」の二つ。現地の案内板を見ると、「大山社」まであり、往復で約1時間かかるらしい…。まず私には無理な非情の階段!? 「750年に富士山本宮浅間大社より勧請」とあったため、富士山本宮浅間大社に行ったからいいか…と屁理屈をつけました。3ブロックほど登ってみると、階段が凸凹で、下りの方が時間がかかりました。
 案内板で、参道(登山道)が「姫街道」(本坂峠から嵩山まで1.6km)と並行しているらしいとわかり、運転手さんが旧国道(舗装された姫街道は本坂峠から嵩山まで3.4km)を走って旧「姫街道」との交差点へ行って下さいました。もしかすると、ここから浅間神社の参道へ入れるんじゃないかと思いましたが、ちゃんとした地図もないため無謀と諭され諦めました。
 


砥鹿神社 (豊川市一宮町)
 2014年11月11日。こちら砥鹿神社里宮から約40分で山頂に奥宮(豊川市上長山町)のある本宮山(豊川市・岡崎市・新城市の境、海抜789m)へ行けます。が、運転手さんに「時間的に厳しい」と言われ断念。わざわざ回っているのに妥協し過ぎですよねぇ(気づけば 9月に行った豊川稲荷の隣駅でした…!?)。
 それより、鹿ですよ鹿。神紋が「鹿卜」なんです!! 「鹿卜」(しかうら・ろくぼく)は「太占」(太兆)ともいわれる日本古代の占法の一つで、中国から亀甲を使用する「亀卜」が伝わってから衰微したとされています。鹿の肩骨を波々迦(バラ科サクラ属落葉高木の上不見桜)で焼いて生じた裂け目で吉凶を占う法で、6世紀ごろから宮廷の祭祀に組入れられていたようです。伊豆、壱岐、対馬の卜部を律令制下の三国の卜部と言い、そのほかの重要な本拠地が常陸にあったときくと、どんなに鈍くても古代海人族を想起しますよね。
 


龍王池(八大龍王) (岡山市北区下足守)
 2014年11月11日。予定通り、三河一宮(またしても無人駅…一ノ宮なのに?)から豊橋に出て新幹線で岡山へ移動し、昔から岡山駅を利用する度に耳にしていた「吉備線」に乗り換えて備中高松へ。駅前には「稲荷交通」のタクシーが2台停まっていました。そうか「最上稲荷」があるから「稲荷交通」なんだ…!? ともかくタクシーで行けるところまで行く方針で龍王山の麓の龍王池を目指しましたが、龍泉寺境内の道に鎖があって先へ進めません。
 「地図を見たら、龍王池をまわってゆく道路がありますが?」と社務所で訊くと、「その先は徒歩で、かなり急な坂を登らないといけませんよ」と言われたので、「大丈夫です、ストーンサークルを見に来たので」と言うと、「じゃあ、鎖を外して入り、帰りに閉めてって下さい」と、お許しを頂きました。
 ところで、八大龍王は「天竜八部衆に所属する竜族の八王」とあるため、善女龍王とは違うようですね…。私が興味を持ったのは祭神ではなく、発祥譚でした。吉備津彦神社に伝わる「鬼城縁起(きのじょうえんぎ)」(923年改訂)に、次のような内容の記述があったのです。

 桃太郎伝説の猿のモデルとされる樂樂森(ささもり)の舎人(とねり)は足守の豪族で、一宮(吉備津彦)の軍奉行なり。常に芦守山にいて国を守った。岩石をうがち、水を呼ぶ能力があった。龍王山の頂上に岩があり、樂樂森がこの岩を穿って水を出した。民はその水を汲んで渇きを潤した。その水は今も龍王池に湛えられている。
 


古代磐座 (岡山市北区下足守)
 2014年11月11日。「稲荷交通」の運転手さんが「最上稲荷」と「龍泉寺」の説明をしてくれましたが、宗教に興味のない私が目指しているのは寺社ではありません。わが故郷・聖通寺山に「ゆるぎ岩」があり、岡山の最上本山にも「ゆるぎ岩」がある(もしかすると、どこにでもあるのかなぁ…?)。そして宇多津の真北にあたる龍王山の麓の龍王池から登ってゆくと古代祭祀の場と考えられる磐座があり、サヌカイト(カンカン石)が出土していると知って足を運んだのです。
 ところが、ズルズル滑りながら登った古代祭祀跡には、しっかりと人の手が加えられていました。「報恩大師により天平勝宝年間(749年〜757年)に開創された」というのが定説らしいですが、明治以降は、昭和26年に日蓮宗最上教派の本山になった「最上本山 御瀧 龍泉寺」が所有しているようです。なお、『宗教年鑑』によれば、同じ日蓮宗の「最上稲荷教総本山 妙教寺」とは別の宗派(教派?)だとか。人間界のことはよくわかりませんね…。
 


瀧祭神社 (岡山市北区吉備津)
 2014年11月11日。龍王山の麓からタクシーで約1時間かけて備中國一宮たる吉備津神社へ(いかに遠廻りされたかおわかり頂けるかと…)。岡山から乗る予定の列車に間に合うように駅へ直行しようかとも思いましたが、「吉備國最古の水神」と伝わる瀧祭神社があるというので行ってみました(その結果、一本あとの特急に乗ったら宇多津に停まらなかったため、丸亀からタクシーで戻ることになりましたが…)。
 吉備津神社と言えば全長398mにも及ぶ「廻廊」。現在の「廻廊」は天正7年(1579)に再建されたもので、自然の地形(高低)に沿って建てられています。その「廻廊」の南西端にあたる本宮社(画像左)の外側、道路を隔てた川向うにあるのが瀧祭神社です。崖面に建てられており、鮮やかな色彩に目を奪われました。
 


善通寺龍王社 (善通寺市善通寺町)
 2014年11月12日。岡山の龍王山、八大龍王池、「吉備國最古の水神」を祀る瀧祭神社へ行ったので、龍王社のある「善通寺」へ久しぶりに行くことに。「善通寺」とは、江戸時代中期の『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、唐より帰朝した空海が、父の寄進した四町四方の地に、密教の師・恵果和尚が住した長安の「青龍寺」を模して建立した寺で、父の諱「善通(よしみち)」から「善通寺」と号したとされています。善女(善如)龍王は、もともと青龍寺の守護で、無熱地に住んでいましたが、天長元年(824)の京の神泉苑での西寺と東寺の雨乞いの法で、空海の呼び掛けに応じ、日本まで来て雨を降らせたので、「青龍」の字にサンズイをつけて「清瀧」としたのだそうです。すると空海亡きあと開創された醍醐寺の「清瀧権現」も善女龍王ですね。空海の御遺告によれば、善女龍王はインド神話に登場する八大竜王の一、沙掲羅(シャガーラ)の第三王女(一説に第四王女)のことだとか。
 なお、善女龍王とは言っても女神とは限らず、高野山には平安末期の絵師・定智が中国官服を着た男神として描いた善女龍王像(国宝)があるそうです。明和8年(1771)に高野山に善女龍王を勧請したのは明和年間に干ばつが続いたからで、善通寺善女龍王社も宝暦5年(1755)の『讃岐國多度郡屏風浦五岳山善通寺管界地図』には記載されているものの、空海の時代にはなかったのかも?
 


居籠塚古墳・居籠神社 (篠山市郡家)
 2014年11月14日。宇多津から新大阪、篠山口、福知山、綾部、東舞鶴と乗り換えて小浜へ向かうことに。最初は京都〜綾部〜東舞鶴〜小浜の予定でしたが、地図を見たら丹波篠山に古墳が沢山あったので。丹波篠山と言えば『デカンショ節』(デカルト、カント、ショーペンハウエル)発祥の地でもありますよね?
 新大阪から篠山口まで初「こうのとり」。駅からはタクシーですが、地元の神社がわかる運転手さんに出合うことは稀で、「営業所へ寄って地図を確認してもいいですか?」と言われたので、「2時間後の特急に乗るため時間がギリギリなんです。MapFanを見ながら、私が道案内をします」と申し上げました。「まず、篠山警察署を目指して下さい。その先にガソリンスタンドがありますよね?」「はい」「その裏が居籠(いがも)神社です」
 県考古博物館の埋蔵文化財保護の手引き「行政地区マップ」に記されている「直径23m・高さ5m 八幡神社境内」が居籠塚古墳らしいです。実際の社名は居籠神社でしたが…(八幡神社の方は石の祠のみ?)。祭神は意外にも猿田彦命で、近くを流れる藤岡川は昔は猿田川と呼ばれていたとか。
 


新宮古墳・新宮神社 (篠山市郡家)
 2014年11月14日。篠山口に到着後、タクシーで301号線を走ると、郡家の交差点から熊谷の交差点の間に居籠神社八幡神社新宮神社が並んでいました。いずれも古墳を削るようにして建てられています。このあたりは道路の左右にいわゆる碁石塚が散見され、のどかで特徴的な景色なのですが、昭和33年に「篠山市指定文化財」になった新宮神社ですら、お世辞にも整美されているとはいえません(通り過ぎてしまいました…)。
 室町時代中期・応永年間 (1394-28)創建といわれる新宮神社は、5世紀後半頃に築造された竪穴式の古墳と考えられている新宮古墳(平地に築造されたものとしては丹波最大級の円墳で直径 52.5m、頂上部径17.5m、高さ7mで全国的に見ても大型)の墳頂部に祀られ、かつて新宮大明神と呼ばれていたそうです。
 


大賣神社 (篠山市寺内)
 2014年11月14日。丹波篠山は藝大大学院時代の恩師 酒井弘先生(コロムビア時代に『あゝ紅の血は燃ゆる』『比島決戦の歌』を歌われた)の出身地なので以前から行きたいと思っていました。酒井先生には、日本の声楽界では全く無視されている発声法の基本中の基本を教えて頂きました(30年以上経った今なお日本でこの基本が認識されていないことには愕然とするほかありませんが)。
 行くと決めて地図を見たら、篠山鳳鳴高校がありました。これは、酒井先生の母校 旧制篠山鳳鳴中学校ではないかしら? と検索したら、校歌が酒井先生の作曲でした。よし、ここへ行こう。ちょうど近くに大賣神社もあるし…。で、この社名の読み方は? ふつう「おほめ」かと思いますが、「大宮比賣」のことでしょうか?
 笛吹山の丘陵西末端部の山裾に鎮座する延喜式内社で多紀郡(現 篠山市)の九座七社の一つ大賣(おほひるめ)神社とありますが、いや読めませんて。第一、主祭神は天照大神に仕えた大宮賣命(おほみやのめのみこと)となっています。「おほひるめ」だと天照大神を祀っていることになりませんか? 延喜式『神名帳』には「オホヒメノ」とありますが、長い間に「オホミヤメ」「オホヒルメ」などの読みと混同されてしまったのでしょうか…。
 私的には笛吹神社からの連想で「笛吹山」に興味を惹かれました。
 


佐々婆神社 (篠山市畑宮)
 2014年11月14日。篠山口をタクシーで出発後、こんもりとした森(古墳?)を見ながら、どんどん東へ走って行きます。運転手さんは全く神社を御存知ないので、私が地図を見ながら「畑郵便局はわかりますか?」と誘導。
 現佐々婆神社は、江戸時代までは樂々庭明神と称ばれていたようで、第七代孝霊天皇の勅命により創建されたと伝わる古社です。第十代崇神天皇の御代、丹波国を平定した日子坐王の長子佐佐君の祖神 志夫美宿彌一族を奉齋した社として、もとは神南備とされる八百里山の麓に鎮座していたそうです。
 ここでピンときました(←妄想か…?)。「ささ」とくればささもりひこ!! 鬼退治をした吉備津彦は、第七代孝霊天皇の皇子 彦五十狭芹彦命 (ひこいさせりひこのみこと)で大吉備津日子命として知られています。ちなみに讃岐で鬼退治をした倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は同母姉で、吉備を平定した二人の弟(彦五十狭芹彦命と稚武彦命)に助けてもらったようです。
 いわゆる「欠史八代」のことゆえ、「第七代孝霊天皇」とくれば「むかし昔あるところに…」と変換して読むようにしています。熊野阿須賀神社の由緒にも、「社後の森即ち蓬莱山は、第七代孝霊朝、素人徐福始皇帝の苛政を遁れ不老不死の仙薬を採り、童男女三千を卒い五穀百工を携え東海に船を浮べ当山に参つて帰らず子孫繁昌したと伝えられる徐福之宮がございます」とありました。
 いずれにせよ、とても古い時代に創建された佐々婆神社(樂々庭明神)は、かつて吉備文化圏に属していた可能性がありそうです。「畑」の地名は「秦」氏が支配した地域という意味なのかも知れません。
 


波々伯部神社 (篠山市宮ノ前)
 2014年11月14日。篠山での目的地「丹波の祇園さん」こと波々伯部(ほほかべ)神社へ。名前にひかれてここまで来たら、運転手さんが曲がり角を通り過ぎてしまい、高い樹に囲まれた↑祠に辿り着きました。帰宅後、画像を見ながら調べたら、御旅所の大歳森(おとしもり)神社だったようです。波々伯部神社例祭では山車(曳山)八基が御旅所へ渡御し、神事が行なわれるそうです。田園地帯を練る山車の行列は写真で見ても美しさに打たれます。この祭は「波々伯部神社のおやま行事」として2006年に国選択無形民俗文化財に指定されています。
 祇園祭は、申すまでもなく、貞観11年(869)に始められた祇園社(八坂神社)の祭で、薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り御霊会を執り行なったため、明治までは「祇園御霊会」と呼ばれていたそうです。疫病を鎮めるために矛を立て神輿三基を送る祭が、天徳2年(958)に八坂神社より分霊をうけた波々伯部神社にも伝わりました。
 ただ、社伝によれば当社の創建は680年とされており、八坂神社の分霊以前から、長い参道の正面にある御神体山の麓に佇んでいたと考えるのが自然ではないかと感じました。


赤國神社 (綾部市舘町宮ノ前)
 2014年11月14日。篠山口から再び「こうのとり」で福知山、そこから鈍行に乗り換えて綾部へ行きました。ここにも名前にひかれた神社があったのです。そこへ行くまでに何社かありましたが、「まいづる」に乗るまでの時間が1時間ちょっとしかないため、先ずは道沿いの赤國神社へ。不思議なことに、古い石柱には「郷社 赤國神社」と刻まれていたのに、社殿の扁額は「正一位赤(何と、ここで改行!?)國大明神」となっていました。「正一位」とは、掛川で学習した通りなら「稲荷神社」のことです。わけがわからないので先を急ぎます。

【追記】 当日の画像の中から、「綾部の文化財を守る会」の看板を見つけました。だったというのは非常に興味深い事実です。以下に抜粋します。
 何鹿郡式内社十二座の一社。丹國社、後に赤國社と記し、稲葉山の宮の段に奉祀されていたという。
 大正年間、当社近隣での石斧、鉄滓、土器の発見は、当地方考古学研究の先駆となった。(昭和60年8月)
 


須波岐部神社 (綾部市物部町横椽)
 2014年11月14日。寄り道した赤國神社からさらに北へ進み、目指すは式内社須波伎部(すはきべ/現 須波岐部)神社!! 物部町の須波伎という字(あざ)にあるということで妄想をたくましくしたのですが。
 須波伎部神社は『三代実録』の貞観11年(869)12月8日の条に「授丹波國正六位上物部簀掃神従五位下」とある古社で、かつては物部簀掃(スハキ)神と称されていたとか。簀掃とは古代の掃部寮に属した農民で、清掃具や設営具などを納めていた者達と考えられているなんて記述を見つけましたが、本当でしょうか?! 読んだまま…ではあるのですが、今一つピンときません。しかも祭神が大日例貴尊(オホヒルメムチノミコト=天照大神)で、日光大明神とも呼ばれていたなんて…(神社はふつう祖神を祀るものだときいていますが?)。ともあれ、第五十一代平城天皇の大同2年(807)に須波伎山に創建されたと言い伝えられているそうです。
 ゆるやかな参道を登ると何段かに分かれて社があり、最奥最上段が本殿ですが、裏の斜面が崩れ、横の地面が崩落していたため、奇蹟的に残った本殿を見に行ったことになります。去年・今年と豪雨に見舞われた綾部では民家や公道の復旧に追われ、神社までは手がまわらないのが実情のようです。無力でごめんなさい…。
 


大川神社 (綾部市栗町上村)
 2014年11月14日。須波岐部神社の状態に衝撃を受けて黙っていたら、運転手さんが「綾部駅へ戻る道に神社がありますよ。まだ少し余裕があるので寄ってみましょう」と仰って下さいましたが、ほとんど上の空…。ほどなく「ここですよ」と言われて我に返り、夕闇が迫る中、2,3枚撮影しました。
 大川神社は、丹波國何鹿郡の式内社佐施神社に比定されているそうです。鎮座地の字が「佐施尾」で、昔から「佐施大川明神」と称されていたそうで、社伝によると、天長2年(825)に「佐施神社」に「大川大明神」が勧請されたのとのこと。祭神は大山祇命。当社の背後には上村古墳群があるらしいのですが、時間切れ…。
 何鹿(いかるが)郡の式内社では、須波岐部神社赤國神社のほか、金河内町の阿須須伎神社、福知山市私市の佐須我神社、山家城址に近い伊也(いや)神社などへ、多紀郡では、大賣神社佐々婆神社のほか、波々伯部神社の北北西にある熊按(くまくら)神社などへも行ってみたかったのですけれど、沢山あり過ぎて一週間くらいかけないと無理だとわかりました。さすがに凄いです、丹波。
 

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