2015年3月29日、出雲へ。斎木雲州著『大社と向家文書(出雲と蘇我王国)』を読み、司馬遼太郎氏の出雲に関するエッセイを思い出したからです。はたして、国造家と旧出雲王家を名乗る向家および神門家との関係は?
日本列島の歴史を考えれば出雲王家以前から人々の営みがあったはずで、それを考えるためには今に続く「日本国」のおこりを整理する必要を感じます。斎木雲州氏の記述を鵜呑みにするわけではありませんが、まずは著書のサワリ部分を整理しておきたいと思います。主張の根拠は示されていません。
●サイノカミの主神・クナト大神は、出雲族の指導者だった。
●クナトという人は、古代インドのドラビダ族の王であったが、大勢の部下を引き連れて日本へ民族移動した。
●ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール川を筏で下って、津軽半島に上陸したという。
●その後、彼らは南下しつつ広がり、クナト王の子孫が出雲に住み着いた。
●クナト王直系の向(むかい)家が、出雲東部の神魂神社(松江市大庭町)の丘にあった。
●そこから東方に、サイノカミの主神・クナト大神のこもる大神(おおがみ)山=大山(だいせん)が見える。
●その大庭に人々が集まり、向家が司祭となって大神山を遙拝した。結果、向家が王家と仰がれた。
●氏子の広がりが出雲王国となり、サイノカミ信仰が出雲王国の国教となった。
●神魂の丘に歴代の東出雲王墓が、その西南に家族墓がある。家族墓から南方を見ると熊野山がある。
●王国時代の王の葬儀は風葬だった。遺体を駕籠で熊野山へ運んでヒノキの大木の茂みに隠した。
●その木には締め縄が巻かれ紙幣がつけられた。それを「霊(ひ)モロギ」と呼んだ。
●3年後に洗骨し、頂上付近の磐座の横に埋納しても、木に締め縄を張って「霊モロギ」と呼び続けた。
これが、あの出雲独特の締め縄の正体ですか…(霊モロギ、怖すぎる!!)。
というわけで、再度の出雲行き。空港からタクシーで荒神谷遺跡へ向かうと、運転手さんが遠回りしているうちに方角がわからなくなったようで、「ここですよ」と言われた時、「地図では道路の右にあるはずですけど?」と言っても「絶対にここです」と言い張るので階段を昇ったら金毘羅社でした。その丘から右手を見ると、山裾に鳥居があったので行ってみました。こわごわ登ったら、さっき通った諏訪神社の旧地と書かれていました。