「古代の歌と氏族を探ねて」

神鉾神社 (田主丸町竹野)
 2015年2月27日、先日偶然見た神社、画像の階段の上に何があるのか知りたくなり、博多から熊本への道すがら久留米で下車。久留米駅からタクシー会社に電話で予約しましたが、詳しい情報を持っておらず、「竹野小学校の裏の山手」とだけ伝え筑後草野駅まで行きました。幸いナビに表示されたので無事に到着。写真で見た以上の急勾配の階段に一瞬ひるんだものの、わざわざ来たのだから…と登ってみました(この2枚の画像では石段がもう一区画抜けています!!)。下から見えたのは石祠の上部だけ(右の画像上部の白く光っている部分)。あがってみると人一人が座るのがやっとというほどのスペースしかありません。階段下を見るとクラクラするので取り敢えず座って演奏場所を確保。楽器を置くとお尻半分が宙に浮く恰好となりましたが何とか演奏できました。
 当社の創建は不詳。古老の口伝によれば、(すぐ近くの)今は飛塚神社の敷地になっている洞窟の中から時々光が出ていたそうです。ある夜、震動を伴う稲妻の様な光が輝き、西南山腹の岩の上で止まったので人々が驚いて見に行くと、俗に御岩様と呼ばれていた岩の上に金鉾が立っており、岩の前面は壁の様で、色は古い銅が錆びた色になっていたそうです。その時の神託により社殿を作り、神鉾大神として祀ったとのことです。
 帰宅後、よくよく↑リンク先のMapionを見たら、階段上の祠がまさにその社殿で、演奏している私の1m先に立ち塞がる岩盤が御岩様だったんだ…とわかりました。無事に下りられたからいいようなものの、冒険もいい加減にしないと命を落としかねませんね。
 


石垣神社 (田主丸町)
 2015年2月27日。神鉾神社から田主丸駅へ向かう途中、県道151号線沿いの旧竹野郡七ヶ町村の宗廟(総鎮守)石垣神社へ。明るく広々とした当社の創建は天明天皇の御代 和銅2年(709)と伝わりますが、江戸時代に久留米から高良山大菩薩を勧請したために「石垣真宮」とか「新宮」などと呼ばれたそうです。また、かつて参道で結ばれていた当社の約300m西にある石垣観音寺とは、県道151号線で分断されていました。
 さらに東の浮羽には賀茂神社があったのに、今回は九大本線の筑後草野駅で降りて次の田主丸駅から久留米へ戻る時間しか捻出できず残念です。もっとも賀茂神社の創建は正平元年(1346)と新しく、慶安4年(1651)に波多臣広庭(はたのおみひろには)の後裔にあたるという大宮司 熊懐平右馬太夫波多宿禰行直が著した旧記に、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られたので賀茂大神が八咫烏(やたがらす)となって扶け奉られた」といった内容があったようです。なお、「熊懐(くまだき)」の姓は元弘元年8月27日(1331年9月29日)に、後醍醐天皇の御座近くに侵入しようとした熊を波多臣平右馬行景が退治し、抱いて天皇に献上したことから「熊を懐し(いだきし)猛き武士(たけきもののふ)」と褒められ、梶の葉紋とともに授かったのだそうです。南朝方だったのですね。
 


金峰山神社 (熊本市河内町岳)
 2015年2月27日。田主丸駅と久留米駅で40分ずつのロスタイムがありましたが、新幹線に乗ればあっという間に熊本です(約18分)。熊本にも金峰山があるというので駅からタクシーで向かいました。淳和天皇の御代 天長9年(832)に空海が勅命により吉野の蔵王大権現を勧請したことで金峰山と改称された飽田山(665m)の山頂に金峰山神社があります。行ってみると神社横のテレビ塔に「NHK」のマークが赤々と輝いていました。
 山頂からの眺望が素晴らしいと聞いていましたが、生憎の曇り空で、それでも午後6時頃、対岸にうっすらと雲仙普賢岳が見えました(左の画像中央)。金峰山は、海の近くだからか、山頂への道に極相林っぽいところがあったり、ほとんど真横に伸びている樹があったり、伊豆半島に似ている気がしました。神社もそうですが、道も走ってみなければわかりません。今日は三社とも良い意味で予想を裏切られ、移動はハードながら楽しい一日となりました。
 


住吉神社 (下関市一の宮住吉)
 2015年2月28日。熊本駅 9:00発(普段ならまだ起きている時間帯)の新幹線で新下関へ。友人との待ち合わせ時間まで二社はまわれるとの算段ですが、またしても駅から乗ったタクシーに泣かされました。
 「どこの住吉神社?」「長門の国一ノ宮ですけど」「あ、そう。だけど豊神社はわからないなぁ」「駅から1kmほどの火ノ見山の麓ですが?」「ヒノミヤマったら、一ノ宮の向こうに見える、あれだよ」「いったん駅へ戻って下されば一本道だから説明します」「ああ、高校のある山か」「そうです」。客をからかってるんですか?
 回り道されながらも着いた住吉神社は、さすがに海人族らしい社でした。ただ、由緒書に「今から1784年前、住吉大神の御 『荒魂』を鎮祭され」とあり、拝殿には『住吉荒魂本宮』の懸額がありますが、元宮とされる吉母(よしも)の若宮神社との関係がわかりません。祭神については、『住吉開基造営等之覚書』は「応神天皇・武内宿祢・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑紫の宇美から勧請」、『長門国志』は「応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑前より勧請」としています。例のごとく、わからないことだらけでした。
 


豊神社 (下関市伊倉)
 2015年2月28日。住吉神社から新下関駅に戻る道を左折してもらい、火ノ見山の麓にある(ゆたか)神社へ。当社の名称は明治の「一村一社令」(1906年に一村一社を命じた神社合祀令)で生じたそうです。村内の熊野八幡宮稗田八幡宮伊久良八幡宮の三社を合祀したということは住所から考えて伊久良八幡宮の社地が使われているのでしょう。さすが「徐福伝説」のクニだけあってこの先も八幡ばかりでした。
 画像左が豊神社の拝殿から本殿。右は拝殿横の階段上にある奥宮と呼ばれているらしい建物。もとの伊久良八幡宮の拝殿を利用したのでしょうか。奥には社殿がありません。ということは火ノ見山を御神体としている?
 日本語の地名社名などは発音を最優先しなければならないとの鉄則を再確認した場所でもありました。伊倉の地名は、生倉、伊久倉、意久倉などと表記されてきたそうです。三代実録に「貞観15年(873)12月15日丙午、長門國意久神従五位下を授ぐ」と記されながら、いつのまにか意久神社伊久八幡宮になっていたらしい…。
 


福江八幡宮 (下関市福江)
 2015年2月28日。新下関駅は新幹線と在来線(下関駅)が十字に遮られていて友人と待ち合わせた新下関駅南口になかなか到達できず迷惑をかけた上、タクシーが一台もおらず電話で呼ぶ羽目に…(今度は大手のタクシー会社を選びました)。「黒井村まで行くので地理の良くわかる方をお願いします」なんて言葉は全く無視されていて、運転手さんに地図を見せたり、行く先を順番に書いたメモを見せたりしましたが、最終的には三社もとばされてしまい、駅で時間を持て余しました。戻ったりしたら一日に一本しかない「みすゞ潮騒」に乗れませんし…。
 午後の最初の神社福江八幡宮は、周辺に鳥居のある畑が幾つかあり、そこにあった社殿を寄せ集めたように見えました。右の画像の右の建物は「農村舞台」のように見えましたが、どこへ向いているのやら? 拝殿を正面にした最初の鳥居にあった扁額は「八幡宮」、拝殿に向かって左の鳥居は「山王社」。このほか社地を囲むように幾つもの入口と鳥居があり、参道には灯籠や狛犬がズラリ。姥捨て山みたいなものだったらコワイですね。
 


龍王神社 (下関市吉見下)
 2015年2月28日。驚くほど立派な楼門があり、広大な敷地を持つ神社ですが、何となく、遠くに見える龍王山とは関係がないように感じました。位置的に御神体山であるはずがないからです。由緒書を読むと、やはり大正5年につけられた社名でした。
 この社地は郷社乳母屋(うばや)神社のものらしく、そこに村社大綿津見神社を合祀して龍王神社としたそうです。拝殿と本殿の右に河内神社(吉見中町船越町鎮座の二社を大正6年5月に移転)、左に尾崎神社(吉見里町尾崎より大正6年5月に移転)がありました。右の画像は貴船神社(尾袋町井上より大正6年5月に移転)で、石橋を渡りたかったのですが崩れかけていて通行禁止になっていました。その右手奥には稲荷神社(吉見里町尾崎より昭和6年5月に移転)がありました。
 乳母屋神社の主祭神は玉依姫命で、「姉神豊玉姫の御子を乳母神としてお乳を授け育てられた御神徳に依り乳母屋の社名となり」とありました。龍王社だったのは移転させられた大綿津見神社の方で、「景行天皇二十年二月初申龍王山千母乎獄に御鎮座され海神大綿津見神を上中下三宮に祀った」とのことです。
 


黒嶋観音 (下関市吉母)
 2015年2月28日。行基が天平11年(739)に創建したと伝わる本州最西端の観音霊場へも立ち寄りました。行基作と言われる木造十一面観音像が御本尊らしいですが、秘仏なので拝観できそうにありません。ここ黒嶋観音は真言宗御室派西光寺の飛び地境内であり、西光寺の住職が別当を務めてきたそうです。心臓破りの階段を登り、蓋井島(ふたおいじま)を見ながら響灘の波音を聴いていると、「波音は観音大悲の音声(おんじょう)である」との看板が目に入りました。そういう感じ方があることを、信仰心とかではなく、感性で受け止めました。
 また、住吉神社の重要な祭祀が「蓋井島」に湧く御神水を汲んで奉納することから始まったと知り、記紀歌謡にうたわれる「枯野」という舟が朝夕に天皇に献上する水を淡路島まで汲みに行っていたとの話を思い出しました。これも、吉母にある若宮神社住吉神社の元宮であることを裏付ける要素の一つですね。
 展望台をぐるっとまわると、なぜか「高野山奥之院」の表示が!? ここへきて高野山ですか…御室派のはずなのに。と思いつつ、さらに階段を登ったら、空海の石像が入った祠と金毘羅大権現の社殿がありました。
 


室津八幡宮 (下関市豊浦町室津下)
 2015年2月28日。前日、一段が自分の膝よりも高い階段をのぼり、キョーフの下りで手すりにつかまって蟹歩きで右足から降りたせいで、初めて右膝の裏が(伸び切って?!)痛くなった私。その足で黒嶋観音の階段を登ったため痛みが増してきました。すぐ近くの若宮神社に着き、運転手さんに「ここですよ」と言われて見たら、またしても階段!! 私も友人も「もう無理です…」と下から社殿を仰ぎ見ただけで素通りしてしまいました。わざわざ行ったのに探究心が足りませんね。…と、ここは我々の意志でパスしましたが、続く三社は運転手さんが勝手にパスしてしまい、気づいたら「本州最西端の鎮守」室津八幡宮の前まで来ていました。「なぜですか?」と訊いても始まりません。引き返す時間は残っていないので。「このメモは行く順番に書いてあったんですか?」と言われ脱力…。
 当社の創建は応永8年(1401)、宇佐八幡宮より勧請とのことで、新しくてガッカリしました。例のごとく合祀の嵐ですし。ただ、思いもかけず「本州最西端の観音霊場」と「本州最西端の鎮守」に行けたということで…。
 


杜屋神社 (下関市豊浦町黒井)
 2015年2月28日。最終目的地は黒井村駅からほど近い杜屋神社です。長門國豊浦郡の式内社村屋神社に比定されています。龍王神社と同じく、長門國三ノ宮とも言われますが、一ノ宮・二ノ宮とも朝廷が決めたわけでも幕府が決めたわけでもなく、自称・他称さまざまなので気に留める必要はないと思います。それよりも合祀です。当社は、式内社村屋神社厚母八幡宮萩尾八幡宮が合祀されて杜屋神社になったということらしいですが、他にも、八ヶ浜の赤崎神社、一ノ瀬の日吉神社・石印寺・山王神社、市の大歳神社、原大門の八王子神社、郷の若宮神社、黒井沼の沿神社、杜屋町の事代主神、大久庵の廣幡神社、阿蔵の大歳神社、上郷下郷の龍王神社、旧杜屋の天満宮の名前がありました。
 厚母川にかかる御神橋(ごじんばし)を渡って参詣する形は、初瀬川(大和川)沿いにある村屋神社(村屋坐弥冨都比賣神社)を髣髴とさせます。こちらは延喜式内大社で、大和國一ノ宮大神(おほみわ)神社の別宮ですが、主祭神も杜屋神社と同じ三穂津姫命です。何度か位を賜って、現在も正一位森屋大明神の呼称が残っていることから、ますます杜屋神社との関係を調べたくなります。
 本殿裏に磐境があるというので、裏から撮ってみました。磐境の奥にも小さな社殿がありますね。左の画像は磐境の隣にある境内社の鳥居ですが、扁額を黒く塗って社名を消して再利用しているところが…。
 


金櫻神社 (甲府市御岳町)
 2015年3月22日、久々に和歌を詠むために「やまとうたのふるさと」で昇仙峡へ。せっかくの機会なので少し足を延ばして金櫻神社へ行ってきました。下調べをしていなかったので、「水晶発祥の神社」「火の玉・水の玉の御神宝(水晶)」「金の成る木と言われる神木・鬱金櫻(うこんざくら↑画像左)」などの由緒書きに驚きました。
 社伝によれば、約2,000年前に金峰山(2,599m)山頂に創建され、里宮へ遷座してからも1,500年以上の歴史があるとか。金峰山と称するようになったのは文武天皇2年(698)に大和國吉野の金峰山(きんぷせん)より蔵王権現を勧請したためで、以後、神仏両道の霊場として、別当以下、神職僧侶百余名が奉仕していたそうです。平安時代には空海が自筆経文を奉納し、鎌倉時代には北条時頼が大般若経を、日蓮が法華経を奉納したと言われています。金峰山の発音は全国各地で異なりますが、この地では山梨県側で「きんぷさん」、長野県側で「きんぽうさん」と呼ばれているようです。
 水晶の産地として栄えた当地には荘厳華麗を極めた13棟の建物がありましたが、昭和30年12月18日の火事で灰燼と化し、文化財も焼けてしまったそうで、当社の歴史は「広大な社有林と此處に残す樹齢1500年の7本の杉に残さるるのみとなった」と書かれていました。中でも初代左甚五郎作とされる昇龍降龍を惜しむ声が強く、現本殿が昭和35年に竣工すると、東京都の吉河孝雄博士の寄進により新たに製作奉納(画像右)されたそうです。
 鎌倉時代中期の天台宗寺門派の僧侶で歌人でもあった隆弁(1208-83)も鬱金櫻を詠んでいました。

 いにしへの 吉野をうつすや 御岳やま 金の花も さこそさくらめ


惣荒神 (出雲市斐川町神庭/諏訪神社跡)
 2015年3月29日、出雲へ。斎木雲州著『大社と向家文書(出雲と蘇我王国)』を読み、司馬遼太郎氏の出雲に関するエッセイを思い出したからです。はたして、国造家と旧出雲王家を名乗る向家および神門家との関係は?
 日本列島の歴史を考えれば出雲王家以前から人々の営みがあったはずで、それを考えるためには今に続く「日本国」のおこりを整理する必要を感じます。斎木雲州氏の記述を鵜呑みにするわけではありませんが、まずは著書のサワリ部分を整理しておきたいと思います。主張の根拠は示されていません。

 ●サイノカミの主神・クナト大神は、出雲族の指導者だった。
 ●クナトという人は、古代インドのドラビダ族の王であったが、大勢の部下を引き連れて日本へ民族移動した。
 ●ゴビ砂漠を北に進み、シベリアのアムール川を筏で下って、津軽半島に上陸したという。
 ●その後、彼らは南下しつつ広がり、クナト王の子孫が出雲に住み着いた。
 ●クナト王直系の向(むかい)家が、出雲東部の神魂神社(松江市大庭町)の丘にあった。
 ●そこから東方に、サイノカミの主神・クナト大神のこもる大神(おおがみ)山=大山(だいせん)が見える。
 ●その大庭に人々が集まり、向家が司祭となって大神山を遙拝した。結果、向家が王家と仰がれた。
 ●氏子の広がりが出雲王国となり、サイノカミ信仰が出雲王国の国教となった。
 ●神魂の丘に歴代の東出雲王墓が、その西南に家族墓がある。家族墓から南方を見ると熊野山がある。
 ●王国時代の王の葬儀は風葬だった。遺体を駕籠で熊野山へ運んでヒノキの大木の茂みに隠した。
 ●その木には締め縄が巻かれ紙幣がつけられた。それを「霊(ひ)モロギ」と呼んだ。
 ●3年後に洗骨し、頂上付近の磐座の横に埋納しても、木に締め縄を張って「霊モロギ」と呼び続けた。

 これが、あの出雲独特の締め縄の正体ですか…(霊モロギ、怖すぎる!!)。
 というわけで、再度の出雲行き。空港からタクシーで荒神谷遺跡へ向かうと、運転手さんが遠回りしているうちに方角がわからなくなったようで、「ここですよ」と言われた時、「地図では道路の右にあるはずですけど?」と言っても「絶対にここです」と言い張るので階段を昇ったら金毘羅社でした。その丘から右手を見ると、山裾に鳥居があったので行ってみました。こわごわ登ったら、さっき通った諏訪神社の旧地と書かれていました。
 


三宝荒神 (出雲市斐川町/荒神谷古墳)
 2015年3月29日。出雲空港から荒神谷遺跡へ向かったものの、到着が50分遅れだったため、すでに閉館。せめて荒神谷遺跡と命名される決め手となった三宝荒神へ行こうとしましたが、何の目印もありません。運転手さんは全く頼りにならないため、鳥居に「神庭谷惣荒神」と書かれていた諏訪神社の旧社地から下りた私は、「ともかく西へ向かって下さい」と言い、左側を意識しているとススキの広場を通り過ぎました。「あ、ここです、たしか博物館のHPに三宝荒神ひろばと書かれていました」と車を下りて奥へ進むと、道路からは見えないのですが、鳥居がありました。この道路(広域農道)「出雲ロマン街道」建設にともなう遺跡分布調査で、昭和59年(1984)にかつて例を見ない358本の銅剣が発見されたことが日本の青銅器研究に見直しを迫るきっかけとなったそうです。
 鳥居右手の看板には「荒神」とあり、祭神は「須佐男命・大地主命・健見名方命」、「伝承によれば、この地の古くは宮居の場であったということです」と書かれていました。階段の奥に祀られた(人工的磐座?)中央の石碑には「神須佐男命」と彫られていて、やはり藁で作った大蛇や幣串があしらわれていました。
 


久武神社 (出雲市斐川町出西)
 2015年3月29日。この日は空港からホテルへ向かうライン上の神社をまわることにしました。三宝荒神から更に西へ進み、久武神社出西八幡宮が一つの境内にあるという珍しい神社へ。久武神社は式内社久武神社に比定される古社で、『出雲國風土記』(733)には久牟社とあるそうです。古社地は現在地より南西の山上で、今も古木が残っているとか。現在地は4度目の遷座。
 社伝によると、八岐大蛇を退治してこの郷に戻った素盞鳴尊が稲田姫命に会うと多くの雲が立ち上り、それに歓喜された素盞鳴尊が「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに」と詠んで「雲社」を創建されたそうです。
 ただし、延喜式諸本には父武・文武と書かれたものがあり、「フムノ」と訓があることから、社伝にある「雲」から「クム」への変化、「雲社」(久武社)の根拠はいささか怪しいとされています。
 一の鳥居をくぐると、左側に出西八幡宮、真っ直ぐ奥の階段を登ると久武神社(画像右)がありました。
 


伊保神社 (出雲市斐川町出西)
 2015年3月29日。久武神社から川沿いに200mほど行くと伊保神社がありますが、このあたりで伊保神社と言えば、山を挟んで久武神社の反対側に鎮座する伊佐賀神社のことなのだそうです。『延喜式神名帳』に伊佐賀神社と記載され、加藤義成註『出雲國風土記』には加佐伽神社に比定されているとか。
 しかし、なぜ「イボ」が「イサカ」or「カサカ」? そもそも祭神の阿菩大神(あぼおほかみ)からして謎です。『播磨國風土記』に、大和三山の妻争いを仲裁するため出雲から大和へ向かった阿菩大神は、播磨國揖保(いひぼ)郡で争いが終わったと聞いて上岡の里に鎮座したとあるそうです。
 出雲地方では不満に思うこと、空振りに終わることを「イボを振る」と言うそうです。当社略記では、大和の使者から闘いが止んだと聞かされた大神が、折角やってきたのに…と不満に思われた(いぼをふった)ため、その地が伊菩となり、後に伊保となったとのことですが、逆に、揖保で用済みとなったため「イボを振る」と言うようになったとは考えられないでしょうか?
 祭神についてはよくわかりませんが、『神国島根』の伊佐賀神社の項に、阿菩大神の系統は不明だが塩冶(えんや)彦命の御子・焼太刀守大穂日子命とする古史系図があると書かれており、それは味耜高彦根命の孫神にあたるのだとか。また当社には素盞嗚命と岩長姫命が配祀されています。そして、古代の形を残すためか本殿は無く、拝殿のみ。拝殿裏の立木(画像右)が御神体だそうです。
 


鹽冶神社 (出雲市上塩冶町)
 2015年3月29日。前回、出雲郷(あだかえ)の阿太加夜神社で船上の青柴垣(あをふしがき)神事を知りました。船神事における掛け声の「ホーライエンヤ」には「蓬莱塩爺」がなまった「ホーライエッチャ」などもあり、「蓬莱」=秦からの渡来人が、倭国の「塩土老爺」=事勝国勝の神を呼んだ言葉とされているそうです。
 鹽冶神社には、塩冶八幡宮馬場之宮などの通称があります。「鹽冶」と書いて「えんや」と読みますが、本来は「やむや」で、『出雲國風土記』に「夜牟夜社」とあり、『延喜式神名帳』では「鹽沼」と誤記されているそうです。『出雲國風土記』に「夜牟夜」「止屋」の字が初めて用いられたのは神亀3年(726)とのこと。
 主祭神は大国主命の御孫神塩冶毘古命とその妻神塩冶毘賣命だそうです。創建年代は不詳。画像左の神門は、去年の7月、朝山神社で初めて見た「出雲式 隋神門」とは微妙に違いますね。画像右は、あとから付け足された稲荷社の鳥居のために正面から階段をあがっても見えない「出雲構え獅子」。本殿側から撮りました。
 


物部神社 (大田市川合町)
 2015年3月30日。当初、宍道湖畔をまわろうとタクシーを予約したら「1時間5,000円」と言われたのに、後日「1時間6,500円でした」と電話があったので、当日再び価格設定が変わるなどのトラブルがあっては困るためキャンセルし、電車で大田市へ行くことに。戦国時代には石見銀山争奪戦の舞台となった石見國一宮物部神社です。
 当社HPによれば、祭神の宇摩志麻遅命は物部氏の祖神で、十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降った饒速日命と御炊屋姫命との間に生まれたそうです。(弟?)天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定すると、天香具山命彌彦神社に鎮座。宇摩志麻遅命はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎(一瓶社の起源)して、安の国(安濃郡名の起源)とされました。次いで、鶴に乗って鶴降山に降り、国見をして、八百山が大和の天香具山に似ているとして八百山の麓に宮居を築いたとあります。
 継体天皇8年(513)、勅命により社殿を創建。それまでは神体山である八百山を崇めていたそうです。
 


大神山神社 奥宮 (鳥取県西伯郡大山町)
 2015年3月30日。大田市駅から宍道湖畔へ立ち寄ってから伯耆大山へ向かうつもりが、電車の本数が少ない上、この日も翌日も朝から電車が遅れていました。道理で大山寺行きのバスについて問い合わせた際、「電車が遅れて到着しても、バスは絶対に待たずに定刻に発車します」と強く念押しされたはずです。それで米子へ直行し、バスは止めて、タクシーで最短コース(大山口駅→大山寺)を行くために電車を乗り継ぎました。無人駅が多く、タクシーも待機していないため、予約が必須。大山情報館に荷物を預けて(300円也)参道を歩きました。
 若い修験者(?)さんが参道の真中を雪掻きしてくれていました。それでも雪を踏んだり、雪解け水の中を歩くことも多く、高い防水透湿性をもつゴアテックスのトレッキングシューズでなければ丸い自然石の上で足を滑らせたかも知れません。初めて履いても足が痛くならなかったし、次も必ず同じシューズを買います。
 大神山神社 奥宮へは日本一長い(約700m)自然石の参道を歩かなくては行けません。だからこそ味わえることがある、と感じました。祭神とか修験道とか、よくわかりませんが、それを超える何かがあるらしい…。結局、人は自分と向き合うことに尽きるのではないかとも感じました。一人の時間が持て、拝殿で奉納演奏をさせて頂き、素晴らしい弊殿も拝観でき、感謝の気持ちで下山しました。
 


本宮神社 本宮の泉 (米子市淀江町本宮)
 2015年3月30日。大田市駅に売店は無く、電車が少し遅れていたので出雲市駅でも米子駅でも乗り換え時間が2分!? 倭琴を背負い、カメラバッグを斜めがけにし、重いキャリーバッグを担いで階段を上り下りしなくてはなりません。で、お昼御飯を食べられないまま、午後3時になりました。あとは「どんぐり村」でどんぐり蕎麦を食べるしかない!! と決めて大山情報館1Fからバスに乗りました。約12分で本宮のバス停に到着。ところが、食事は午後3時までとのことで閉店していました。空腹で動けずに立っていると、お店から若者が出てきてくれて、事情を話すと「せっかく遠くから来て頂いたんですから店主に訊いてみます」と仰って下さり、有り難くも食事を頂くことができました。この間、タクシー会社に電話をしました。最初は本宮の泉本宮神社へ行ってからタクシーを呼ぼうと思っていましたが、「坂が急なので荷物を持って歩くのは大変ですよ」と教えて頂いたので車で行くことに。
 車を停める場所がないほど狭い道路でしたが、あとは運転手さんに任せて走りました。日量30,000トンを湧出する県指定の名水本宮の泉まではすぐでしたが、本宮神社がわかりません。運転手さんは「ここじゃなく、もっと先ですよ」と仰っていましたが、左手の小山を見ると鳥居が!! 下まで行くと登り口がなかったので、喫茶店の看板が投げ捨てられている建物の敷地内を声をかけながら通って辿り着きました。
 本宮神社へは万延元年(1860)に造られたサイノカミを見るために行きました。谷戸貞彦氏によれば、出雲ではクナト神たるサイノカミがサルタ彦になって鼻が高くなったそうですが、こちらは高くありませんでした。
 それにしても、県西部唯一と言われる亜熱帯植物クリハランの自生地本宮の泉はきれいですね〜。
 


佐々布久神社 (安来市広瀬町石原)
 2015年3月30日の最後は佐々布久神社です。伯耆大山駅から特急で安来駅、そこからは車しかありません。ここへ行くために、当社から徒歩10分の「さぎの湯温泉」に宿をとりました。
 「ささふく」と言えば、岡山の龍王池をつくった「ささもりひこ」です。吉備津彦に征出雲軍の司令官に任ぜられたという「ささもりひこ」は兵を募りつつ北上したため、拠点とした樂樂福(ささふく)神社が、鳥取県日野郡日南町宮内、鳥取県西伯郡伯耆町宮原、米子市上安曇などに残っています。「ささふく」は吉備の「まかねふく」からの連想だと、「砂鉄(ささ)を吹く」でしょう。そして、樂樂福神社のある伯耆町には日本最古と言われる溝口の鬼伝説がありました。鬼については「古代製鉄に関わる民」とする説が有力で、伯耆地方を流れる日野川沿いにも古代「たたら製鉄」の残滓が出土しているそうです。
 吉備軍は最終的に、出雲軍の本拠地、松江市大庭町の神魂(かもす)神社へ進軍するための、唯一ともいえる経路を確保したものと考えられます。熊野大社や天狗山(熊野山)といった拠点に対しても、広瀬町石原の佐々布久神社は扇の要の位置にあります。実際に行ってみると、こんもりとした、まさに自然の要塞。とはいえ、周囲から登れないように人工的に断崖絶壁に近づけたようにも見えます。天狗山との間には小さな山が幾つかあるため、敵方に直接動きを見られることはありません。現社殿は小さいのですけれど、可能な限り山の小高い部分を削って平坦な敷地を確保している点は社地というより陣地です。ここから山あいの道を進軍すると、去年行った磐坂神社の近く、東岩坂へ出ます。この戦いを「倭の大乱」とする人がおられますが、定説なのでしょうか?
 


賀茂神社 (安来市広瀬町石原)
 2015年3月31日朝。さぎの湯温泉から安来駅へ向かう途中、前日偶然目にして印象に残った神社へ立ち寄りました。「たぶん賀茂神社じゃないかと思うのですが」と伝えたら、ちゃんと着きました。「このあたりは昔から賀茂氏が来ていたようです」と仰います。検索したら、『出雲國風土記』の賀茂神戸(かものかむべ)の条に、「所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)の御子の阿遅須枳高日子命は葛城賀茂社(鴨都波神社?)に居られるが、この神の神戸なので鴨という。神亀3年(726)に字を鴨から賀茂と改める」というような記事があるそうです。ただし、風土記の賀茂神戸は当地から南へ約4kmほどの県道9号線沿いにある大塚という集落だったらしい…。
 ともあれ、『出雲國風土記』は阿遅須枳高日子命を出雲の神ではなく葛城の賀茂社の神と書いています。後方にはこんもりとした御神体山の城山(670m)、周囲とは異なる空気に触れ、葛城の雰囲気が蘇りました。
 


布自奈大穴持神社 (松江市玉湯町布志名宮山)
 2015年3月31日。午前11時 松江発の空港リムジンに乗る前に宍道湖が見渡せると書かれていた神社へ行くため、安来駅から特急で玉造温泉駅を目指します。有名な玉造温泉でさえ、タクシーは予約する必要があります。電話で「布自奈大穴持神社から松江駅まで」と依頼したものの、列車内で出雲空港までタクシーで行けば当初予定していた神社をまわれるかも? と思い、運転手さんに相談したら、趣味が神社巡りとのこと。さすが日本交通、ちゃんと神社通の方を派遣して下さいました。どこへ行っても「神社なんか知らない」という運転手さんが多く、地図を渡しても「どっちが北なんだよ」なんて言われる始末ですが、「地図に載っていなくても、鳥居を見かけたら入ってみる」と仰る運転手さん、心強い限りです。山の中にある布自奈大穴持神社へもスイスイ。
 階段の登り口ではまだ宍道湖は見えません。一の鳥居の前で振り向くと、海人族の大好きな地形が広がっていました。対馬の浅茅湾(あそうわん)、天橋立の阿蘇海、琵琶湖、諏訪湖…、広義には瀬戸内海も?
 鳥居の扁額は「式内布自奈神社」。境内に入ると、左手に大穴持神社の拝殿と本殿があります。が、私はどんどん一番高いところに鎮座する布自府神社へ。『延喜式神名帳』にも布自府(フシフノ)とある古社です。今でこそ大穴持神社の摂社として扱われていますが、もとは逆だったそうです。それで合体社名ですか…、こういうことが結構あるので、祭神なども鵜呑みにはできないんですよね。
 


布宇神社 (松江市玉湯町林)
 2015年3月31日午前。布自奈大穴持神社へ行った道を戻って宍道湖沿いに西へ向かいました。当初行くつもりだった布宇神社です。葛城に風の宮があったので、勝手に「風の神」と決めてゆきました。と書いてから調べたら、HPに「神風(かみかぜ)発祥の地 風の宮」とありました。元寇の際、祈祷により「神風」を起した功をもって正応6年(1293)の官符によりその称号を奉じられたのだそうです。
 また、『出雲國風土記』に「拝志ノ郷」とあり、地名の「林」は、越の国平定に向かう大己貴命が当地を通った際、樹木が繁茂した様子を自らの勇ましい心に副う「吾が心の波夜志(はやし)なり」と詔ったことによるそうです。
 旧参道沿いには古墳群もあるようです(知ってたら行ったのに…)。
 運転手さんが「こちらは最近、狛犬を新しくされたんですよ」と仰せの通り、平成25年に大修理が行なわれたようで、新旧入り混じった境内をぐるっと一周すると、お役御免となった狛犬が草むらに打ち捨てられていました。新旧の狛犬を並べている神社もあれば、隅っこに廃棄している神社もある。「魂を抜いたんでしょう」と仰る方もありますが、そんなことどうやって証明するんでしょうか?
 太古は自然崇拝だったところにヒトが社殿を建て、ヒトが居なくなれば放置されてしまう。さまざまな神社を見てゆくうちに、ヒトとヒトが作ったカミの行く末に思いを馳せることが多くなりました。
 


向津神社 (松江市宍道町東来待)
 2015年3月31日。以前から行きたかった向津神社へ行くチャンスが巡ってきました。「向津神社、御存知ですか?」、「残念ながら知りません。どの辺ですか?」、「地図で見たら来待駅の近くでしたが」、「それなら通り道です、行ってみましょう」ということに。ですが、全く見当がつかないため、パソコンから以前調べておいたデータを取り出しました。「弘長寺の近くです」「それならわかります」と、約5分で着きました。が、様子がおかしい…。
 鳥居を入ると、階段の左側がズサッと崩れ、沢山の瓦が並べて棄てられています。あ!? 既製品の社殿だ!! と、なぜかそう感じました。取り敢えず、山崩れで本殿が壊れてしまったため、仮の社殿を置いておこうという風に見えたのです。もっと早く来るべきでした。資料もなく、なぜこの地に六甲山の六甲比女(むこひめ)大神と同じ撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命が祀られているのかという謎は解けませんでした。
 社名から想像すると、百濟から渡来した人々が祀った神ということになるのでしょうか? 出雲王家たる向家と関係があるとか?
 


No.401

石宮神社 (松江市宍道町白石)
 2015年3月31日。「まだ時間がありますから、空港へ行く途中にある珍しい神社へ寄ってみませんか?」との有り難いお誘いにより、願ってもない由緒書が見られ、「宍道(しんじ)」とは何ぞや? との疑問が解けました。
 当社の鳥居の両側にある巨石が「猪岩(ししいわ)」で、後から建てられた(登り口のない)拝殿に守られているのが御神体の「犬石」だそうです。まさしく石宮(いしのみや)神社ですね。古くは武内宍道神社と呼ばれており、『延喜式神名帳』と『出雲國風土記』に出てくる宍道神社が当社に比定されているとか。
 『出雲國風土記』に、「出雲の国を治めていた大穴持命(大国主命)が犬を使って猪狩りをされ、追われていた二頭の猪と犬が石となって今でも南の山に残っているとの故事により(猪の通った道という意味から)この地域を猪の道=宍道(ししぢ)と呼ぶようになった」という内容の記載があるそうです。
 やっと「宍道」の由来がわかりましたが、それにしても巨大な石です。苔むしてもいます。ヒトが作ったものとは比較にならないほどの迫力で無言のうちに歴史の古さを物語ってくれているようです。
 ここから、催馬楽の元歌だった風俗(ふぞく)歌について考えてゆくのが私の仕事です。
 


楯縫神社 (美浦村信太)
 2015年4月7日。午後から雨がほとんど落ちてこなくなったので、田舎道を走りたくなり、屋根付きバイクでツーリング。美浦(みほ)のトレセン(JRA美浦トレーニングセンター)近くにある楯縫神社に辿り着きました。本当は美浦村郷中にあるもう一つの楯縫神社(古名は信太郡一宮)へ行くつもりだったのですが、役場周辺の道路が立体でややこしく、うまく125号線に出られませんでした。道が真っ直ぐじゃないので地図を見ても見当がつかず、勘だけで(というか、こんもりを見つけるだけですが)走っていたら突然左手に鳥居が見えて驚きました。美浦村へ向かったのは、石見の物部神社へ行き、物部って何? との疑問が湧いてきたからです。
 『常陸國風土記』の信太郡の条に、普都大神が楯を脱いだ地、すなわち「楯脱(楯縫)」の聖地とする普都神話があるそうです(『出雲國風土記』同様、鵜呑みにはできませんが)。また、『延喜式神名帳』の注釈書『特選神名牒』には「布都怒志(ふつぬし)の命、天の石楯(あめのいはたて)を縫い直し給ひき。故、楯縫といふ」とあり、但馬國養父郡(養父市)、但馬國気多郡(豊岡市)、丹波國氷上郡(丹波市)などにも楯縫神社があるとのこと。
 何か物部について考える緒でもあればと期待していましたが、境内には数多くの石祠があっただけで、由緒書などは見当りませんでした。小高い丘にあり、周囲が崖なので、1500年前はこのあたりまでが霞ケ浦だったのでは?(紀元前の地形図などを見ても細かい所まではわかりませんが)とする人もあるようです。「大作台遺跡」「信太入子ノ台遺跡」のほか、縄文時代の住居跡も見つかっており、古代の信太郡は、白雉4年(653)、物部河内・物部会津らが筑波・茨城の郡の700戸を分ちて置かれたのだそうです。
 今回は往復に時間がかかり、「志太郡惣社楯縫神社」にしか行けなかったので、次回は余裕をもって「信太郡一宮楯縫神社」および「二宮阿彌神社」をまわれるよう計画したいと思います。
 


石上神社 (京都市南区九条町)
 2015年4月12日、14日の「やまとうたのふるさと」に先駆けて関西へ。
 旅のタイトルを「古代の歌と氏族を探ねて」としながら、なかなか氏族のことを考えるに至りませんでした。そもそも、記紀歌謡を演奏するようにならなければ、神社やお寺、神仏習合などに興味を持つことなどなかった私。四国に生まれ育ちながら「四国八十八か所」をまわろうとしたことすらありません。しかし、折口信夫博士の神楽歌『阿知女法』の解説(石上の鎮魂と猿女の鎮魂と安曇=志賀海人の鎮魂を総合したような…)がピンとこないのでは話にならないため、遅ればせながら氏族について考え始めました。
 空海が論語、孝経、史伝、中国語、漢学などを学んだという阿刀大足について調べていたら、東寺執行職(しぎょうしょく)を世襲した阿刀氏の屋敷跡(東寺の境内北)に石上布留社があることがわかりました。京都市が設置した看板(由緒書)によると、当社の祭神は石上布留御魂(いそのかみふるのみたま)、相殿に阿刀大神(あとのおほかみ)が祀られているそうです。823年に真言宗の政所となって以来、1871年にそれを廃されるまで、千年以上にわたり阿刀家が宰主を務めており、歴代の世襲職となったのは阿刀大足以降とのことです。
 東寺の北総門を入ると左方向に位置し、境内に波切不動明王がありました(↑ちょっとコワイ…)。規模は小さいのですけれど、古代氏族の歴史を伝える古社です。


坐摩神社 (大阪市中央区久太郎町)
 2015年4月13日。ホテルの近くに摂津國一宮があったので、友人との待ち合わせ前に立ち寄りました。坐摩(いかすり)神社…、読めません。祭神も同じく、なんでそう読めるの? という字がありますよね…。
 生井神(いくゐのかみ)、福井神(さくゐのかみ)、綱長井神(つながゐのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)だそうです。これまでもそうですが、私はどうも都会の神社はダメみたいです。
 その理由は『高野山の秘密』(日野西眞定 著)の「あとがき」で語られた通りなので、引用させて頂きます。

 まだ、火葬場などがなく遺体を埋葬する場と、その魂を清める墓とが別々に設けられた両墓制の時代には、遺体は生活空間からは見えない山の向こう側の山麓に埋められました。そして、墓は、生活空間に隣接して見える山の斜面に設けられます。そして、この近所に寺ができます。この寺で、死んだばかりのご先祖さんの魂が清められるわけです。そして、山の頂上には神社がありました。ここが、清まったご先祖さんの魂が集合する場所だったのです。

 その氏神を生活空間にまで下ろしてきたところが…。
 


慈尊院 (伊都郡九度山町)
 2015年4月13日。難波で友人と落ち合って九度山へ向かいました。高野山開創1200年の今年、特別に空海の母堂が女人禁制の高野山へ入れないため滞在していた「女人高野」たる慈尊院にて本尊の木造弥勒仏坐像(国宝)の御開帳があると知ったためです。この弥勒仏の両脚の裳先部分には「寛平4年(892)」の墨書があり、我が国で二番目に古い仏像とされているそうです。安置された弥勒堂は鎌倉時代後期の建造で、重要文化財に指定されています。ただ、御開帳とはいっても、弥勒堂の外から、ガラス越しに国宝の弥勒仏坐像を拝むだけなので、視力0.05の私には何が何だかさっぱり…状態でした(望遠鏡が必要?!)。
 慈尊院は弘仁7年(816)に空海によって開かれた当初、慈氏寺と呼ばれていたとか。空海は高野山を開くにあたり、庶務を司る高野政所をここに置き、高野山参詣の玄関口として整備していったそうです。高野政所は藤原道長や鳥羽上皇・後宇多上皇などが高野参詣の際の宿として利用されていました。ただし、当初の紀ノ川の河川敷に位置していた広大な境内は洪水によって伽藍が流され、本尊のみが現在地に保管されていて助かったのだそうです。それで天文9年(1540)に現在の場所に再建されたと言われています。
 なお、九度山の地名については、空海が20数kmに及ぶ山道を下って、ひと月に9度と言われるほど頻繁に母親の許を訪れていたことの比喩とする説がありますが、私はその説をとりません。
 画像右の階段上に見えるのは丹生官省符神社の鳥居です。
 


御社 (伊都郡高野町高野山)
 2015年4月13日。14日の「やまとうたのふるさと」の集合場所が高野山駅なので友人と一緒に前泊。いったい何度目の高野山なのかと呆れるほかないのですけれど、初めて御社(みやしろ)へ行きました。祭神の丹生都比売命と、白と黒の二匹の犬を連れて空海の前に現れた狩場明神については読んだことがありましたが、どこに祀られているのかを知らなかったのです。檀上伽藍を全く理解できていません。高野山開山の折、高野山を守護する山の神と地主神を祀るため、諸堂の中で最初に建立されたというのに。
 現在の社殿は1594年に再建されたもので重要文化財に指定されているそうです。
 その奥に杉木立があったので演奏していたら、外国人の親子連れがやってきました。なかなか立ち去らないなぁ…と思いつつ演奏していたら、右の画像で、お嬢さんが演奏する私の後ろにずっと張り付いていたからだとわかりました(ご両親と思しき二人は私の右手前方の視界に入っていました)。
 それにしても、気持ちの良い空間でした。
 


石上布都魂神社 (赤磐市石上風呂谷)
 2015年4月14日午前の「やまとうたのふるさと」はあいにくの雨で、早々に高野山駅をあとにしました。母の通院のため、急に宇多津戻りとなり、15日午前10時に歯科医院を予約。夕方までに帰京することに。
 わざわざ四国へ戻るのなら、前から行きたかった岡山の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社へ行こうと決め、タクシーを予約したら、不便な場所なので本来の鎮座地である山頂の本宮との往復のあいだ駐車場で待っていて下さるとのことで安堵しました。岡山から宇多津までは特急で僅か30分強。瀬戸大橋開通後は通勤圏となっています。案内板を参考に肉眼で見ると、右の画像の奥は香川県の山々です(この方角は高松市)。
 話を戻しますと、岡山から津山線に乗り換えて金川駅へ。目指すは大正4年(1915)に山の中腹に建てられた現社殿ではなく、明治40年(1907)の大火で社殿が焼失した山頂の本宮(奥の院)。赤磐市(旧吉井町)史跡に指定されています。登りが約15分と書かれていますが、道なき道の場所もあり、もっと時間がかかった気がします。
 禁足地の手前に人の手が入った磐座は、同じ岡山の尾針神社とは印象が違い、往古の姿は想像できませんでした。その流れが宮中の神楽歌に入ったと言われる「石上の鎮魂法」への道は遠いようです。
 

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