「古代歌謡の世界」探訪

天の岩戸 (志摩市磯部町)
 2013年7月30日、伊勢市から32号線で志摩市磯部方面へ向かう途中、約15kmほどで右手に天の岩戸があるというので行ってみました。駐車場から歩く山道は何の変哲もありませんが、小さな滝が見えて小さな橋を渡ると空気がまるで違います。ミストはやはり暑さを吹き飛ばしてくれますね。
 山や磐への原始的な信仰は紀元前からあったと思われますが、その場所が新興宗教に利用されているような印象を多数の人工的な置き物から受けました。まあ私とて正気の沙汰には見えませんが…(古代歌謡は自然の中から生まれたため、コンサートホールで演奏するよりはまともかと)。
 右の画像をクリックすると天の岩戸の拡大画像が見られます。
【8/15 追記】
 天の岩戸について、小さくて人間が入れそうにないけど? との御質問をいただきました。
 その通り、大人が入るのは無理です。『日本書紀』に出てくる吉野の「井氷鹿の井戸」も僅か数10cmの窪みだそうですから。オペラの舞台装置? 或いは箱庭好きの日本人がこしらえたミニチュア?
 日本人は『源氏物語』の登場人物のお墓を造ってお参りするなど、夢と現を同期させて楽しむ民族らしいです。
 


伊雜宮 (皇大神宮別宮)
 2013年7月30日、志摩國一宮たる伊雜宮(いさわのみや)へ。「いざわのみや」と発音されるようですが、日本語の仮名は清音で表記しても濁音で発音する場合があって難しい…。
 神宮は、内宮(ないくう)と外宮(げくう)、14の別宮と109の摂社、末社、所管社、合わせて125の宮社から成るそうです。神社初心者たる私は、先ず、古くから皇大神宮の遙宮(とほのみや)と称されている伊雜宮からまわることにしました。天照大御~御魂(あまてらすおほみかみのみたま)が祭神だそうです。
【8/3 追記】
 今更…ですが、↑に天の岩戸があるから7km先に天照大御~を祀った!? 逆かも知れませんが、ものがたりはここから始まった? いやいや天武天皇は都城だって2ヶ所3ヶ所に作らなくてはならないと仰せなので…。
 


佐美長神社 (伊雜宮所管社)
 2013年7月30日、伊雜宮から同じ志摩の佐美長(さみなが)神社まで約1km。
 祭神は五穀豊穣を司る大歳神(おほとしのかみ)。古く穂落社(ほおとしのやしろ)と呼ばれたのは、祭神が真名鶴となって稲穂を運び落としたからだとか。そして稲が生じた地を千田(ちた)と伝えています。
 たしか対馬にも鶴が稲穂を運んできたとする神社がありましたね。大歳神は稲をもたらしたので渡来神とされているのでしょうか。
 


宇久良行宮旧跡 (南伊勢町慥柄浦)
 2013年7月30日、仙宮神社への道すがら立ち寄りました。慥柄浦という地名は、「たしから」の発音から、「天手力男」(あめのたぢからを)を連想される方もあり、伊勢なので皇大神宮の祭神と関連のある地名がつけられる可能性はありそうです。また、志摩という地名は「志賀」と、志摩、度会郡、多気郡などに住んでいた磯部氏(後の渡相→度会氏)の姓は「阿度部磯良」と重なることから、北部九州の海人族との関連を探りたくなります。
 宇久良行宮は、建治・弘安(1275-1288)頃に外宮の神官・渡会行忠(わたらひゆきただ)が編纂したとされる『倭姫命世記』に出てくる行宮(かりみや)です。これは倭姫命が天照大神の鎮座地を探し求めて巡幸したとする話ですが、斎宮歴史博物館では、『倭姫命世記』は史実どころか「古代の伝説」でもなく、「中世の伝説」として意味があるので、『倭姫命世記』にのみ見られる倭姫命伝説は歴史史料としては扱っていないとのことです。
 


仙宮神社 (南伊勢町河内)
 2013年7月30日。仙宮神社は、『天照皇大~御天降記』にある志摩國多古志宮の旧跡とされ、往古よりこの地に鎮座していたそうです。祭神は猿田彦命。
 山頂の本殿までは360段ほどの石段が続いていて、三味線ケースを背負って上るにはキツかったため、私のみ100段ほどで遙拝所まで下りて大歌を歌いました。この画像は演奏終了直前に下りてきた方の撮影です。よって左の本殿扁額の画像も拝借しました。本殿背後の磐座が、古くからの祭祀の対象だとか。
 


瀧原宮 (皇大神宮別宮)
 2013年7月30日、二社目の別宮です。リュックを背負って歩いていたら警備員さんに「職務質問」されました。内宮、外宮、そして別宮に警備員さんがおられるようです。私とて背負って歩きたくはないので預かってくれる場所があれば嬉しいのですが(修行の身は大変なので早く卒業したい!!)。
 祭神は天照大御~御魂伊雜宮と同じ(だから別宮なのか?)。式内社瀧原宮に比定されている古社で、「天照大~遙宮」とも記されているそうです(あ、これも伊雜宮と同じ!!)。
 


多岐原神社 (皇大神宮摂社)
 2013年7月30日、瀧原宮から3kmほど北の多岐原神社へ。なぜ文字が違うのかはわかりませんが、こちらは式内社多岐原神社に比定されていて、瀧原神の御子神との説がある麻奈胡神が祭神なのだそうです。
 またしても『倭姫命世記』によりますと、倭姫命が相鹿瀬より宮川を遡っていて、ここの早瀬で難渋していたところ、真奈胡の神の案内で無事に通過できたと伝えられています。
 曰く因縁はさておき、この日訪れた中でもっとも清々しい神社で、気持ちが晴れ晴れとしました。
 


饗土橋姫神社 (皇大神宮所管社)
 2013年7月31日、平日なのに内宮の駐車場は朝9時から空き待ちでした。そこで、車組と分かれ、徒歩でまわることに。タクシーの駐車場で饗土橋姫(あへどはしひめ)神社の場所を訊いたら「知らない」と言われ、「勢乃國屋神代餅の近くと書いてありましたが」と言うと、「じゃあ、ここかな?」とすぐ裏手を指差されました。ここでずっと仕事をされているのに知らないってどういうことでしょう?!
 祭神は宇治橋鎮守神、「饗土」とは内宮の宮域四方の境に鬼魅が入らぬよう御饗を捧げてもてなし、帰っていただくための祭り道饗祭をするところという意味だそうです。
 近年、内宮入り口である宇治橋からの日の出が注目されていますが、太陽−大鳥居−宇治橋が一直線になる冬至の日(12/22)を挟んでの2ヶ月間、大鳥居の中から太陽が昇るそうです。それは即ち饗土橋姫神社が真正面から朝日を浴びるということです。
 


津長神社 (皇大神宮摂社)
 2013年7月31日、饗土橋姫神社に向かって右手の石段をのぼり隣接する津長神社へ。むかし五十鈴川にあった津長原という船着き場が社名の由来のようです。祭神は栖長比賣命(すながひめのみこと)で、ここでも「つなが」「すなが」という音韻の変化が見られます。
 末社新川神社(にひかはじんじゃ)と、末社石井神社(いはゐじんじゃ)が同座しているそうです。
 


大水神社(皇大神宮摂社)
 2013年7月31日、饗土橋姫神社の右手に津長神社があったので左手にも神社があるのでは? と思い、石段をのぼると巨きな御神木がありました。その向うに何かありそうです。さらに進むと、外側に向かって鳥居がありました。かなり特徴的な地形です。饗土橋姫神社の正面に立つと、大きな逆U字の真ん中(もともとの地形か或いは丘の前面を切り崩したか?)が饗土橋姫神社で、左右の二社は階段を上った場所にあります。
 いずれも、水にまつわる神を祀っているようで、大水神社は大山祗御祖命(おほやまづみのみおやのみこと)、末社川相神社と、末社熊淵神社が同座しています。
 


宇賀神社 (多度町柚井)
 2013年7月31日、五十鈴川駅から近鉄に乗って桑名へ移動し、養老鉄道に乗りました。多度駅ではタクシーが一台しかおらず、20分待ちで、宇賀神社から多度大社を目指しました。
 宇賀神社の祭神は宇賀御魂神とありますが、「宇賀」はもしかすると「豊宇賀能売神(トヨウカノメノカミ)」ではないのかと、素人は考えてしまいます。古くは天田社とされていたのも「高天原」の視点から興味深く、またタクシーの運転手さんが、普通なら通ることがないという神社裏手の山道を抜けて多度大社まで行ってくれたので、素晴らしい眺望を楽しめました。今度は多度山に登ってみたいと思ったほどです。
 


多度大社 (多度町多度)
 2013年7月31日、俗謡に「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われた多度大社へ。
 かの「上げ馬神事」で知られることから勇壮なイメージがありましたが、御神体の多度山から流れ落ちる水の社でした。境内では8月11,12日の「ちょうちん祭」の準備が始まっていましたが、本殿の近くは静かで、しばし橋の上で滝のミストを浴びながら涼みました。
 


尾津神社 (多度町御衣野)
 2013年7月31日。再び同じ運転手さんを呼び、野志里神社までと言うと、「遠方から見に来る人が多い神社がありますよ」と教えられました。行った先は延喜式神名帳の小社尾津神社で、多度町には同名の候補社が三社あるようです。かつてヤマトタケルの子孫と称する神官・草薙氏の名をとって草薙神社と呼ばれていた神社は、現在、道路に面した場所に「日本武尊御遺蹟尾津崎」の石碑を建てています。
 『古事記』に、伊吹山で痛手を負った日本武尊が尾津の前なる一つ松の許に到りませるに、先に御食したまへる時に、其地に忘れたまへる御刀、失せずて、猶ありき。爾、御歌曰みしたまひけらく、
 尾張に ただに向かへる 尾津の前なる 一つ松あせを 一つ松 人にありせば 刀佩けましを 衣着せましを 一つ松あせを(袁波理邇 多陀邇牟加幣流 袁綾能佐岐那流 比登綾揺綾阿勢袁 比登綾揺綾 比登邇阿理勢婆 多知波氣揺斯袁 岐奴岐勢揺斯袁 比登綾揺綾阿勢袁)
 其地より幸でまして、三重の村に到りませる時に、亦詔りたまひけらく、「吾が足、三重の勾如して、甚く疲れぬ。」と、のりたまひき。故、其地を号づけて、三重と謂ふ。とあります。
 


野志里神社 (多度町下野代)
 2013年7月31日、多度大社から野志里(のしり)神社に寄って桑名へ出ようと計画していたら、思いがけず尾津神社へ行くことができました。私にとって非常に重要な古事記歌謡(30番)に関わる神社だったので、運転手さんに感謝!! です。その後、ヤマトタケルは能褒野(現・亀山市?)で亡くなったとされ、1879年(明治12年)に内務省が「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳をヤマトタケルの墓「能褒野陵」と比定したことで、1895年(明治28年)に能褒野神社が創建されています。
 ヤマトタケルは伊勢で齊王をつとめる叔母倭姫命より草薙剣(天叢雲剣)を賜りますが、その倭姫命は、どうやら第11代垂仁天皇の皇女で、第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の後を継いで皇大御神(すめおほみかみ)に奉仕し、皇大御神(鏡?)を戴いて大和国から伊賀・近江・美濃等の諸国を経て伊勢の国で皇大神宮を創建した倭姫命と同一人物とされているようです。しかし、倭姫命を祀る皇大神宮別宮の創立が許可されたのが大正10年1月4日で、鎮座祭が行なわれたのが大正12年11月5日というところが謎ですね。
 ともあれ、その倭姫命巡幸の物語に出てくる「伊勢桑名野代宮」に比定されているのが野志里神社です。
 


花の窟神社 (熊野市)
 2013年8月16日、前々から見たかった70mもあるという窟(いはや)へ行くために熊野市で下車。予約していたタクシーで花の窟神社を目指しました(翌日の花火大会に向けて大勢の方が降りられたので予約して正解)。
 入口は普通の神社? と思いつつ二の鳥居をくぐったら別世界!! 素人写真に全景が収まるはずもなく、ただただ圧倒されて窟をあとにしました。これならイザナミのお墓にしたくなるかも…と、古代人の感覚に妙な共感を覚えつつ次駅へ向かいました(自販機も涼む場所もない無人駅で、暑い中ひたすら鈍行列車を待ちました…)。
 


熊野速玉大社 (新宮)
 2013年8月16日、熊野市から新宮へ。21年前に熊野本宮大社へ行って以来、熊野三山をまわりたいと願っていましたが、今回は時間的に那智へ行くのは無理とわかり、先ずは熊野速玉大社を正式参拝させて頂くことに。
 一歩足を踏み入れただけで、丹念に清められた美しさに圧倒されました。そして地図で見ると300mは離れているはずなのに、すぐそこに熊野川が流れていると感じるほどの水音が聞こえてきます。罪穢れを祓い浄める御社とはこういうところを指すのかしら…と感じた瞬間、汗だくで疲れ果てていたことなど忘れてしまいました。
 演奏しつつ、いつの間にこんなに上手くなったんだろう? この演奏は上手すぎる。私の信条は上手さを消すことだったはずなのに(こんな風に感じていること自体が未熟すぎるわけですが)…と感じた通り、宮司様からも「上手すぎる」とのお言葉を頂戴し畏れ入りました。理屈ではなく、本質をつかんでおられる方の言葉には揺らぎがありません。縄文の音、私も探しています。鯨の町との御縁は、鯨筋を弾く私にとって有り難い限りです。
 


神倉神社 (新宮)
 2013年8月16日、熊野速玉大社から、元宮たる神倉神社へ。市内から見える巨大なごとびき岩に熊野三山の神が降り立ったとされ、そこが神社になっています。それにしても、磐に掛けられた巨大な注連縄は、どこで綯い、どうやってかけるのでしょうか? 熊野速玉大社のお祭では、この細くて急な階段を御神輿が駆け降りるそうで、とても人間業とは思えません。是非とも一度、拝見したいものです。
 


阿須賀神社 (新宮)
 2013年8月17日、熊野神は神倉神社ごとびき岩から阿須賀神社、そして熊野速玉大社へお遷りになったとされているため、本宮へ向かう前に阿須賀神社へ行ってみました。潮の香りがするのでタクシーの運転手さんに訊くと、熊野川の河口に近いためで、徐福が着いたとされる上陸記念碑もあるとか。はたして、その証拠は?
 


熊野本宮大社・大齋原 (田辺市本宮町)
 2013年8月17日、21年ぶりの熊野本宮大社です。周辺にお店が増えていてビックリしました。大齋原の日本一高い大鳥居? なども21年前にはありませんでした。和歌山での本番のあと、なぜか共演者と別れて一人で田辺からバスに乗り、終点に着く前にボタンを押してどんどん歩いて行った川の土手で歌ってみました。やっぱり自然の中で演奏するのは最高です(夏の太陽が容赦なく降り注いでいましたが)。人間、変われば変わるものです。当時はゲンダイオンガクを歌っていましたが、今は古代歌謡です。
 なお、熊野については、『和名抄』石見の国邑智郡と淡路の三原郡に神稲郷(くましろのさと)が見えることから、カミクマは同じもので音韻の変化にすぎないとの説があります。
 


玉置神社 (十津川)
 2013年8月18日、熊野本宮大社奥宮と言われる玉置神社へ。去年の4月、神社をまわり始めるきっかけとなった玉置山に、今回は案内人としてやってきました。境内には樹齢3000年なんていう木が普通に生えていて、本殿の横には、かの南方熊楠も幼少から口ずさんでいた歌に出てくる弓神楽を奉納する神楽殿があります。

     「熊野なる 玉置の山の 弓神楽 弦音(つるおと)すれば 悪魔 退散(しりぞ)

 苔むした参道を歩き、久しぶりにきれいな空気を吸ったなあ…という気がしました。
 


船木三島神社 (新居浜)
 2013年8月19日、新居浜行きも数回目となり、空き時間を神社めぐりにまわすことに。以前より気になっていた船木神社ですが、新居浜には少なくとも2社あるようです。船木氏の祖は大田田神とされ、全国展開していた多氏に関係していたと見られています。
 まずは「船木甲」にある船木三島神社へ。住所の「船木」に続く「甲」とは、平安初期にこの地の領主だった甲祖五郎通敦が大三島から大山祇命を勧請合祀して船木三島神社と称したことに由来するそうです。周囲の風景と不釣り合いなほど大きな鳥居に圧倒されましたが、社地の一部が道路になったのか、すぐ上にバイパスが通っていて静けさからは程遠い環境。後方の神体山と分離されたためか、本殿のうしろが奥社でした。奥社には元寇で活躍した伊予水軍の将・河野対馬守通有六世の祖たる甲祖五郎通敦の墳墓も合祀されていました。
 


船木神社 (新居浜)
 2013年8月19日、新居浜での2社目は池田池に隣接する船木神社。「船木」という地名が古墳に関係するとの説を裏付けるかのように古墳がありました。創建は貞観2年で宇佐八幡より勧請した八幡神社だったそうで、明治41年に長野三島神社、長川神社、客谷神社、弓曾神社、大多羅神社、吉備津神社、高智神社を合祀(明治39年の一村一社の令による?)、船木神社と称したとあるため、やはり古墳との関連で名づけられたのかもしれません。
 池田池は新居浜最大の池として知られ、池側、古墳側など、数ヶ所の登り口に鳥居があるという独特の作りです。同じく古墳の上に建っている三ヶ日の只木神明宮と似ています。池が見える、開放的な神社です。
 


水婆女神社 (美馬)
 2013年8月20日、むかし父がよく連れて行ってくれた美霞洞温泉、現「エピアみかど」へ行くことに。実家から約1時間ほどの国道438号線沿いにビレッジ美合という温泉宿泊施設があり、その先が美霞洞温泉、徳島との県境です。近くに讃岐龍王・阿波龍王が並ぶ龍王山(1060m)があり、眺望が素晴らしいと聞いて行ってみると、かつて青少年野外活動センターがあったためか道路は舗装されていました。ナビで見た「龍王神社」は現地の立て看板に水婆女神社とあり、かねてより折口信夫の『水の女』中の「阿波の国美馬郡の「美都波迺売神社」は、注意すべき神である」の一文がずっと気になっていた私の探究心に火がつきました。以下、『水の女』より。

宮廷の大祓式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎてゐた。祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱へた傾きが多い。一方又、神祇官の卜部を媒にして、陰陽道は、知らず悟らぬ中に、古式を飜案して行つて居た。出雲国造の奏寿の為に上京する際の禊ぎは、出雲風土記の記述によると、わりに古い型を守つてゐたものと見てよい。さうして尠くとも、此にはあつて、宮廷の行事及び呪詞にない一つは、みぬまに絡んだ部分である。大祓詞及び節折(ヨヲ)りの呪詞の秘密な部分として、発表せられないでゐたのかも知れない。だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うた事を示してゐる。禊ぎに関して発生した神々を説く段があつて、其後新しい生活を祝福する詞を述べたに違ひない。そして大直日の祭りと其祝詞とが神楽化し、祭文化し、祭文化する以前には、みぬまと言ふ名も出て来たかも知れない。

 「美馬の郡名は、みぬま或はみつま・みるめと音価の動揺してゐたらしい地名である。地名も神の名から出たに違ひない」とも書かれていたので、もしかすると、この小さな水婆女神社は重要な神社なのかも? と眺めていたら、奥の電波塔に居た数人に「何しに来たんですか、ここは国有地ですよ。たまたま点検に来たからチェーンが外れていますが、普段は入れません。早く出て行くように」と追い出されてしまいました。
 コクユウチになる前から神社はあったと思うけど…?
 


船玉神社 (美馬)
 2013年8月20日、美馬市で偶然通りかかった船玉神社。かつて橋の無かった時代、剣山側への渡し船があった場所で、「史跡 喜来渡し跡」の石碑がありました。真向かいの階段を上って四国三郎の異名を持つ吉野川を見ましたが、今年は異常な水不足で水量は多くありませんでした。往時は日本三大暴れ川として名高かったので、渡しの無事を祈る神社が作られたのでしょう。それが現役で大切にされている様子に、ほっこりしました。
 


天王宮 (美馬)
 2013年8月20日、温泉に行きがてら美馬市脇町のうだつのある町でお昼ご飯を食べようと計画していましたが、龍王山で水婆女神社を見つけたことで宗旨替え!? 昼食後、本屋を探して地図を購入し、まずは宮脇書店の向かいにあった天王宮の鳥居をくぐりました。ところが、階段を上がってみると建神社でした。社殿はくずれかかっているし、狛犬は道の無い崖に向けて置かれているし、おかし過ぎる…環境の中で演奏してみました。
 あとで調べたら、折口博士が重視する「美都波迺売神社」の論社の一つでした。
 


大國敷神社 (美馬)
 2013年8月20日、美馬の大國敷神社へ。延喜式(巻九・十)に、阿波國美馬郡(やまと)大國玉神大國敷神社二座、大和國山辺郡大和(おほやまと)坐大國魂神社三座とある古社で、中央政権の大和に対する倭國のという意味で書き分けられていたのでしょうか?
 このあたりは車一台がやっと通れるほどの道ばかりで、対向車がきたらアウトなのですが、強気で走って到達できました。が、来た道を戻ることは車を反せず不可能でした(だから対向車が来なかったのかな?)。
 


伊射奈美神社 (美馬)
 2013年8月20日、突然、美馬探訪の機会を得たものの、地図を見てもわからない所ばかりなのでインターネット接続を試みるも山が多いためか、なかなか繋がりません。しかし、美馬市のHPに繋がっても、この地図で辿り着くのは難しいかと…。何度も同じ道を往来してやっと道路の下に鎮座する伊射奈美神社を見つけました。
 あとで調べたら、「美都波迺売神社」も「伊射奈美神社」も明確な証拠がなく確定されていませんでした。実際に足を運んで痛感させられるのは社名や祭神が変更されている神社があまりにも多いということ。
 ここは現在、日本で唯一のイザナミ神社なのだそうです。すでに朽ち果て忘れ去られてしまったイザナミ神社がなかったということにはなりませんし、今後イザナミ神社と改称する神社がないとも限りませんが。
 


倭大國魂神社 (美馬)
 2013年8月20日、伊射奈美神社から近い重清西小学校の北に大國魂古墳があります。倭の諸国の国主の墳墓は各地で発掘されているため、こちらは美馬の国主の墳墓と考えてよいのでしょうか? その古墳の上に建っているのが倭大國魂神社。何の説明書きもないので訳がわかりませんが、修行中の身なので、強い日差しをものともせず演奏してみました。汗だくになり、温泉を楽しむのに最高の条件が整いました。
 


六甲比女大神 (六甲山)
 2013年8月21日、神戸にある妹の家に立ち寄るため、宇多津から新神戸へ。六甲山は神功皇后が三韓征伐後に兜を置いたとの伝説から武庫(むこ)=六甲(むこ)の字をあて、甲山(かぶとやま)も同義とされていますが、万葉の時代には「牟古山」「六児山」「武庫の山」などと書き、「ろっこう」と呼ばれ始めたのは江戸時代になってから。ちなみに、攝津國の「牟古」は「百濟國人片禮吉志之後也」と『新撰姓氏録』にあります。
 のちに、この山の縄文時代からの神を百濟式(?)に六甲比女(むこひめ)と呼ぶようになったらしいと知り、妹に車で案内してもらいました。企業の山荘が点在する六甲山ですが、今はほとんど閉鎖されてしまい、獣道のような道は前が見通せません。「行きどまりになると困るから」と渋る妹に「進め〜!!」と檄を飛ばしつつUターンできる場所まで行って車を停めました。↑元坂高登山部の成れの果て(ギックリ腰再発の危険を抱えてのヘッピリ腰)!?
 標識のある場所から道なき道を登ってゆくと、巨大な岩が重なり合っている一角に出ます。のっかっている岩の方が大きかったり、斜めになってずり落ちそうにはみ出ていたりして、迫力満点でした。なぜ崩れないんだろう?
 


山津照神社 (米原)
 2013年8月22日、午前中に甲山神呪寺へ行ってから新幹線で米原へ。タクシーで山津照神社古墳へ向かいました。4月に遠賀の大国主神社へ行った折、私は古代史を知らないので古墳群へ足を運ぶ必要があると感じたからです。画像左が古墳、右が神社ですが、拝殿は修復工事中…。
 明治15年に↓の現青木神社の社地から遷座するにあたって横穴式石室が見つかった山津照神社古墳は、明治44年に全長約63kmの前方後円墳として滋賀県指定史跡になった上、天野川下流の古代「朝妻」郷内の息長古墳群とつながる首長系譜が明らかにされていました。息長氏といえば、実在を疑われている神功皇后の実家で、何とこの山津照神社青木神社の間にある古墳は神功皇后の父息長宿禰王の墳墓とされていました。
 『琴歌譜』2曲目の歌詞「朝妻の御井」を考える上で、当然、息長氏に関わる米原の「朝妻筑摩」は視野に入っていましたし、歌の内容が神功皇后應神天皇に関係しているように感じたので、久留米の「御井」「朝妻」との関連を模索してきました。う〜む、あと一歩…というところですね。それにしても、古代「朝妻」郷というか息長氏の本拠地には、志賀谷、大鹿、多和田など海人族関連の地名が多く見られます。そして「志賀」は『新撰姓氏録』に「後漢孝獻帝之後也」とある。「朝妻」や「志賀」といった名称が神功皇后や海人族が渡来系といわれる所以でしょうか。
 


青木神社 (米原)
 2013年8月22日、『延喜式神名帳』にある山津照神社の鎮座地青木神社へ。ここから約80m移遷した明治15年に山津照神社古墳が見つかったのは↑の通りです。江戸時代に「青木梵天王」「青木大明神」と呼ばれていたのは、式内社山津照神社の別当職が青木氏だったからと考えられているようです。現住所「滋賀県米原市能登瀬390」に対し、『佐々木南北諸士帳』に「青木庄能登瀬住 佐々木浅井随氏青木筑後守」の名があるとか。
 


日撫神社 (米原)
 2013年8月22日、三韓征伐から凱旋した神功皇后が創建したと伝わる日撫神社へ。日撫神社は『延喜式神名帳』にある社名で社地の移転もないようです。祭神は小毘古命・息長宿禰王、のちに後鳥羽上皇がしばしば参詣されて應神天皇を奉斎したとありますが、『神名帳考証』の祭神は阿知使主命。『神祇志料』に、「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢需帝四世の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先を祀れるか」とあることから、渡来系とされているようです。『新撰姓氏録』にはまた、「山田 造」は「山田 宿禰」と同じく「周靈王太子晉之後也」、「朝妻 造」は「韓國人都留使主之後也」とあります。
 中古は朝妻荘11ヶ村の大社として数棟の大伽藍および19の社坊、数多くの社僧を抱えていたそうですが、織田信長の叡山焼打ちの報に接した神官や僧侶らが自ら古記録等を焼いた(←なぜ?)と伝えられています。
 


坂田神明宮 (米原)
 2013年8月22日、坂田駅近くの坂田神明宮へ行くと、社地の中を北陸本線が走っていました。私のように信仰心のない人間でも、信じられない光景です。どうしても電車を走らせる必要があれば、人家なら立ち退き、神社なら遷座を迫られると思うのですが…。無神経に日本の文化を破壊することも、無関心でいることも恐ろしい限り。
 さて、当社はいわゆる「元伊勢」の一つです。 『延喜式神名帳』の岡神社の論社の一つでもあり、江戸時代は「岡天王社」と称していたそうです。
 本社ノ地、垂仁天皇ノ御宇天照太神ノ大和国ヨリ近江国ヲ経テ伊勢ニ御遷幸アラセ給ヒシ時ノ大宮処ノ一ニシテ皇太神宮儀式帳ニ「淡海坂田宮」ト云ヒ倭姫命世記ニ「淡海国坂田宮二年奉斉于時坂田君等進地口御田」トアル地是ニシテ本社ノ坂田郡ニ在リ且ツ坂田君ノ本拠地ニシテ同鎮座地ヲ宇賀野ト云ヒ本社名ヲ坂田宮ト名付クハ実ニ是ヲ示セルモノニシテ。
 

@2012/4-10 A2012/11-2013/3 B2013/4-6 D2013/10-11 E2013/11-2014/2
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K2015/2-4 L2015/4-5 M2015/5-6 N2015/6-7 O2015/7-10