「古代の歌と氏族を探ねて」

蛇頭疫神社 (忍野村忍草)
 2015年5月11日朝、忍草(しぼくさ)を散策しながら蛇頭疫神社を目指しました。確信がもてませんが、「じゃとうえき」と発音するのではないかと…。こんもりとした丘陵です。かつて忍草浅間神社東円寺も当地にあったと言われています。社頭の石碑に「蛇頭疫神社の由縁」が書かれていました。

 本社は、忍草部落の北東艮(うしとら)の方表鬼門に位置し、古来から部落の安泰をみそなはしてきた。祭神は大禍津比売神と八十禍津比売神の二神である。眺めてあかぬ霊峰富士に対峙し、西からは鐘山、平山、峯山を体とし、東からは鳥居地、笹見原 湯の平を体とする二体の大蛇が、阿弥蛇で合体して蛇頭となる大自然の恵にあやかる霊蹟の由縁をもって、忍草開祖の頃より祭祀されしと伝へられる。

 難しい文章なので理解できているとは思えませんが(阿弥蛇?→┗┳┛←合体した突端が蛇頭疫神社?)、富士に対峙している点が奇異に感じられます。もし富士を遙拝するなら、社殿の向こうに富士が見えるはずですが、当社の場合は逆です。社頭からも、社殿からも、振り向けば富士!!
 さらに社殿の裏を登ってゆくと、ここが「崎・岬・鼻」であると感じます。「由縁」にもあるように、当社が鎮座する丘陵は東も西も山です。笹見原遺跡は鳥居地峠南麓の斜面にあり、その南側にはかつて湖があったそうです。すると、当社は富士を遙拝していたわけではなく、その湖の水神を祀っていたのでしょうか。本殿の手前の祠に、龍頭観音のような像が祀られていました。
 また、笹見原遺跡の地表下1mの地層からは約1,000年前の平安時代の集落が、約3m下の地層からは約9,000年前の縄文時代早期の集落跡が見つかっていますが、そこからは黒曜石の矢尻もたくさん発見されたそうです。関東周辺における黒曜石の産地は、霧ケ峰・北八ヶ岳・箱根・天城・高原山・神津島です。遠く神津島とも交易が行われていたかと思うと、居ても立ってもいられない気持ちになってきました。
 


山中浅間神社 (山中湖村山中御所11)
 2015年5月11日。山中湖から三島行きの特急バスに乗る前に、バス停から徒歩5分の山中浅間神社に立ち寄りました。平安時代の承平元年(931)に社殿を造営し、木花開耶姫命、天津彦々火瓊々杵尊、大山祇命を勧請したのが山中浅間神社の始まりだとか。社殿の裏が広々としていて、さまざまな木々や花が楽しめます。拝殿の前まで行くと、まだコイノボリが飾ってあり、八重桜も見られました。朱塗りの歩道橋の手前には「富士淺間大神」と彫られた社標。国道138号線をはさんだ北側に山中諏訪神社があるというので橋を渡りました。
 


山中諏訪神社 (山中湖村山中御所13)
 2015年5月11日。連絡橋を渡るとすぐに(えき)神社。さらに進むと朱色が鮮やかな拝殿があり、これが諏訪神社かしら? と不思議でした。それもそのはず、当社の起源は多くの諏訪神社とは異なっていたのです。
 山中諏訪神社(山中諏訪明神)の起源は人皇十代崇神天皇の御代7年(104)。国中に疫病が蔓延し、勅命によって創祀されたそうです。諏訪大明神を祀ったのは康和3年(966)と伝えられています。すると疫神社が先に祀られていたことになりましょうか。現在の祭神は建御名方命と豊玉姫命とのことです。
 社地には豊かな大自然が広がり、様々な山野草や木々などが見られるほか、野鳥のさえずりも楽しめました。そもそも山中湖は、全国で五本の指に入る野鳥の宝庫なのだそうです。
 11:45の発車時刻まで本殿裏の林から富士を仰ぎながらぼんやりと森林浴を堪能しました。
 


六軒町浅間神社 (沼津市原)
 2015年5月11日。バスは定刻に三島駅に着き、順調に東海道線に乗れました。ホームから原駅に隣接したタクシー会社に電話をしますが、予約できません。営業所に着いた順だと言われ、走って行くと車は一台もいません。10分ほど待ってやっと戻ってきたタクシーが駅前で待っていた人を乗せて走り去ると、私の次に待っていた80代の御夫婦が「ここはいつもこんな風でトラブルが多いんですよ」と仰りつつ娘さんに電話をかけて迎えを頼んだので、私も隣駅のタクシー会社に電話しました。10分ほどかかると言われたので六軒町浅間神社で待ち合わせることにし、地図上で600mほどの距離を小走りで行くとタクシーはまだ来ていません。
 当社の境内はド真中を道路が通り、踏切まであります。渡ると原中学校があり、通学路となっているようです。社殿の向きは、地図に「富士浅間神社」とあるだけに、富士山を遙拝する形になっていました。石碑にわざわざ「産土神 淺間神社」と彫られているところが謎ですが、由緒記には「紀元2193年(天文2年) 459年前創建」(1992)とあって、新しい神社だとわかりました。
 当地は、中世の紀行文等に「原中宿」として出ており、富士山の眺めは街道一とも言われたのに、「産土神」の創建が天文2年とは不思議です…。人が入れ替わって神社が変わった可能性があるということでしょうか?
 


要石神社 (沼津市一本松)
 2015年5月11日。災害に関心をもち始めた4年前、沼津市のHPで「大きな安山岩が露出していて、この石よりは高潮が来ないとか、安政の大地震の時は被害が少なかったといわれている」ことを知り、四国との往復の間に行こうと思いつつ、三島乗り換えが不便で果たせていなかった要石神社へ。原駅でのタクシートラブルで時間が押していました。地方都市では新幹線や特急にうまく接続できる列車がだいたい1時間に1本なので、私の旅は各駅での滞在時間を1時間としています。ところが、地図を見てもなかなか行きつけません。というのも、東海道沿いの草むらには幾つもの祠や墓石があって、「いったい誰の土地なんですか?」と訊きたくなるほど…。現在は市が管理しているらしいのですが、以前からあった墓石などの撤去は行なわれていないとのこと。それらしき祠を一々確認していたら、どんどん時間が無くなり、ついに乗る予定の電車を逃しました。ただし、次とその次の電車は三島で同じ電車に乗ることになるので少し余裕があるとわかった瞬間、左手に要石神社の石碑が!?
 ということで、位置を確認。東海道から左に入ると匚形に進み、背にしてきた富士山を仰ぐように鳥居があります。案内板によれば、「当区(一本松新田)の開祖 大橋家の二代目 五郎左衛門が寛永年間(1624-45)に創建したものといい、現在の社祠は天保14年(1843)に再建したものである」。
 言い伝えによれば、要石は地上に顕れたる部分はわずかながら、地中に隠れた部分が実に大きく、祠より北約300m離れた大橋源太郎氏宅地内の井戸端の辺りまで広がった一面の巌石なのだそうです。「太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石というそうである」と沼津市HPにあります。
 これだけの岩盤ですから、太古の祭祀の様子が窺えればと思いましたが、空振りに終わり残念です。
 


天地神社 (函南町平井)
 2015年5月11日。前夜、家人と電話で話していたら「函南(かんなみ)も知らないの?」と驚かれたので、よもやこれが不幸の始まりとも思わず、行ってみることに。函南というのは函(箱根)の南という意味で明治期の町村制にあわせて名づけられた新しい地名だそうです。古くは仁田(にった)の郷で、頼朝の忠臣・仁田忠常の出た土地だとか。しかし原木駅あたりから見ると、古墳群による低い丘陵があたかも壁のように並び、縄文時代から栄えていた土地とされていることから、これを「かんなび」と呼んだのでは? とも感じました。
 函南駅でもタクシーを予約できず、炎天下で20分以上待つ羽目に陥りました。函南タクシーさんの「他のタクシー会社も待機しているため予約できません」との言い分は嘘で、他社は「基本的に函南駅で待機することはありません」とのことでした。次回は伊豆箱根駿豆線を使い、伊豆箱根タクシーさんにお願いしようと思います。
 当駅から大場駅まで1時間で4社まわるというプランを立てましたが、既に1社は諦めざるを得ない時間になっていました。最初に行ったのは函南駅の南2kmほどにある天地神社です。延喜6年(1006)6月創建とされ、明治6年(1873)9月までは天地明神と称していたそうです。ここへは伊豆地方最大とも言われる大楠を見に行きました。右の画像、一番奥の樹齢約950年の巨木ですが、まだまだ勢いがありました。樹高39m、目通幹囲10.6m、根元周囲17.8m、枝張り東西30.6m×南北37.1mとのことです。由緒などはわかりませんでした。
 


初姫神社 (函南町仁田)
 2015年5月11日。天地神社から南西にある初姫神社へ。明治までは金村五百村当ス神社(「五百刀vは「五百刀vの誤記と考えられている)と称する延喜式内社かつ郷社ときけば行かないわけにはまいりません。「いほ」ですよ「五百」。ところが勇んで行くと、そこは幼稚園? 境内では子供たちが自転車を乗り回していました。それゆえ社殿が二重に囲われているのでしょう。そして拝殿の左側へまわるとユニークな由緒書が!!
 私はさらに金村五百比当ス神社と対をなす金村五百君和氣命神社へと向かうことにしました。
 


奈胡谷神社 (伊豆の国市奈古谷字宮脇)
 2015年5月11日。初姫神社から東南へ1駅分ほど走りました。途中で明らかに古墳と思われるこんもりに鳥居があったので運転手さんに「何神社ですか?」と訊いても「わかりません」との返事。あとで地図を見ると天降神社でした。このあたりは初めて聞く社名が多く、「どこを掘っても遺跡が出ますよ」との運転手さんの言葉通り、地図上に古墳マークが多いため、近々再訪するつもりです。
 さて、伊豆國田方郡の式内社金村五百君和氣命神社です。境内からは古代集落の住居跡や祭祀場の遺跡が発見されています。表参道の鳥居をくぐると「サイの神」の石像が出迎えてくれます。「サイの神」の本場はタケミナカタにまつわる諏訪と出雲だと思っていました。「イヅ」と「イヅモ」はやはり関係が深いのでしょうか?
 右の画像は裏参道の鳥居(こちらの方が本殿に近い)。祭神は金村五百君別命、御神体は縄文時代より伝わるという石像に見える石棒(?)だそうです。室町時代頃に杉崎明神と呼ばれ始め、明治11年に杉崎神社、さらに明治21年10月10日に奈胡谷神社に改称されています。…御神体を見せて頂くのは無理なのでしょうね?
 後ろ髪を引かれる思いで、「白山神社はすぐ近くですよ」との運転手さんの言葉を遮り、「大場駅16:14発の電車に乗らなくてはならないので、ここから近い原木駅まで行って下さい」とお願いしました。
 


伊豆山神社 (熱海市伊豆山上野地)
 2015年5月11日。当初は原駅から熱海駅へ移動し、タクシーで伊豆山(いづさん)神社本宮へ行く予定でした。隣駅だからという理由で函南駅で降り、時間のロスはありましたが、かなり好奇心を刺激されました。伊豆半島には「葛城山」や「賀茂郡」があり、役行者の伝承も多いことから、見聞を深めなくてはと思いつつ怠けていました。その第一歩を踏み出すために計画した伊豆山神社行きでしたが、私の手が届くテーマではなさそう…。
 古来、伊豆大権現または走湯大権現と称し、伊豆御宮走湯社伊豆山走湯山などと呼ばれていた当社は、延喜式神名帳所載の火牟須比命神社とされているそうです。最初、日金山(万葉集にいう伊豆高嶺こと久地良山)に鎮まり、次に本宮山、承和3年(836)に現在地に鎮座。
 『梁塵秘抄』に「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山」とあるように、役小角、空海のほか、数多くの山嶽仏教徒や修験者が修行を積んだ霊場として知られています。空海は835年に入滅したため、修行したとしたら本宮山ですね。その本宮へ向かう途中、きれいな空と海が見えました。
 


伊豆山 本宮社 (熱海市伊豆山)
 2015年5月11日。伊豆山神社から本宮社までは車で行けるはずでしたが、MapFanを見せても運転手さんはわからないと仰います。これまでもタクシーの運転手さんがほとんど地図を見ようとしないことを不思議に思っていました。そういう方はナビを付けていないので、何かを見ながら運転するのが苦手なのでしょう。途中にあった看板を見て、逆にどんどん下って行きます。「ここですよ」と言って停められたのは結明神(日精・月精)本社の前でした。最初に1時間後の新幹線に乗らなくてはならないと伝えてあるのに歩いて登ることになろうとは…!!
 ともかく登るしかない、と腹を決め、休まずにドンドン登ります。でも、先が見通せないので、段々不安になってきました。いったいどのくらい登ればいいんだろう? もう下りようか? と自問自答していたら鳥居が見えたので一気に石段を登り切りました。広々とした平地の奥に小さな社が鎮座しています。左奥まで進むと、やはり舗装路がありました。大移動の最後に、なぜこんなに汗をかかなくてはならなかったんだろう?
 感慨にふけっている時間はありません。落ち葉を踏みながらの下山は危険ですが、時間がないため走って下りました。すぐに熱海駅へ戻ると、発車10分前で、切符を買って余裕でホームへ到着。長くて濃い一日でした。

御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊

 伊豆大権現は江戸時代初期には陸上四里四方、海上見渡す限りといわれるほどの領地を持っておりました。そして、ここ本宮社には広さ東西五間、南北三間半の拝殿、鳥居三ヶ所、付近に求聞持堂、東西三間南北二間の建物等がありました。しかし江戸時代後期の野火により全焼し、現在は石鳥居一基、拝殿が一棟建っているのみであります。(本宮社右の看板より)
 


浅間神社 (御宿)
 2015年5月17日。「浅間」研究において前々から興味を持っていた御宿へ行くことに。浅間神社は数々あれど、御宿には道を隔てて2社の浅間神社が鎮座しているというのです。しかも祭神が美人で知られた木花咲耶姫ではなく、不細工で娶ってもらえなかった「磐長姫」?! つい親近感を持ってしまうんですよね…。
 真面目な話、長野県の浅間神社は「あさま」であることが多く、「大山祇」や「磐長姫」を祭神とする場合が多いと聞きます。富士山関係の浅間神社は「せんげん」と呼ばれますが、こちらも古くは「あさま」であり、「あそうま」「あさま」が火山の古語であるとの説をとれば当然かと思われます。
 また、浅間神社が鎮座する浅間山は人工的に土を盛った小高い山である場合が多いそうで、御宿の浅間山(袴山)もそういう山に見えます。こちらの「せんげんさん」は「男躰山」。毎年6月末に催される「七ツ子参り」に合わせて掃除や草刈りが行なわれるそうで草ボウボウだったせいか藪蚊が多く、たくさん刺されてしまいました。
 社殿の前まで行くと、なぜか赤褐色の巨大な溶岩石がデン!! と置かれていました。どなたかが箱根山の噴火の鎮めとして置かれたのかしら?
 


浅間神社 (御宿)
 2015年5月17日。「男躰山」を下りて「女躰山」を探しました。というのも、山というほどではない小高い丘が並んでいたためです。勘を頼りにコンビニの脇の細い道を入ってゆくと鳥居が見えました。でも、そこには何もありません。左側を覗き込んで撮ったのが左の画像で、巨大な岩盤が真っ二つに分かれていました。岩盤だから「磐長姫」? かどうかはわかりませんが、先に階段らしきものがあったので上ってみました。こんなに小さな山(?!)なのに、どうしてどうして…立派な極相林です。しかし、社殿はボロボロ…。由緒書きなども見当たりません。
 駅まで戻ると観光案内所があり、何種類もの印刷物が置かれていたので、「浅間神社に関する資料はありますか?」と訊くと、あっさり「ありません」。入口に貼ってある地図にも載っていませんでした。地元では「七ツ子参り」のみ知られているのか、運転手さんは「妊婦は両方お参りすると良いと言われています」と仰っていました。
 発音は「せんげん」だそうで、伊豆半島では同じく「磐長姫」を祭神とする雲見浅間神社も「せんげん」でした。やはり本家本元の浅間山へ行ってみないといけませんね…。
 


富貴明神 (勝浦湾)
 2015年5月17日。せっかく御宿まで来たので、以前読んだ「富貴島」を探そうと隣駅の勝浦へ。
 「慶長6年(1601)の津波により社殿が流され、社宝の多くが失われた」と書かれていましたが、津波で社殿が流されただけでなく、現在は島が海底に沈んでいるというのです。それって地盤沈下?
 こののち、富貴島の御神体は宮ノ谷に再建され、さらに幾度かの遷宮を経て現遠見岬神社の社地に鎮座したのが社伝によれば萬治2年(1659)【文化11年(1814)説あり】とのことです。当社に残っている最も古い記録は承和2年(835)の正殿修理の記述で、現在の社殿は嘉永2年(1849)に造営されたものだそうです。
 明治4年(1871)、新政府の社格制度の発令により、江戸時代まで冨大明神と称していた当社は天冨命(あめのとみのみこと)を祭神とする郷社遠見岬神社になりました。冨大明神と天冨命は同一神だったのですか?
 また「勝浦」の地名は天日鷲命の後裔たる阿波忌部氏の勝占忌部須須立命(かつらいんべすすたつのみこと)が開拓し、住み着いたことから「勝占」、後に「勝浦」と呼ばれるようになったそうです。海岸沿いは幾層にもわたる民族の渡来流入があったと考えるのが自然なのでしょう。
 八幡岬公園まで行くと、海中に鳥居が!? 遠見岬神社のHPには鳥居のことは書かれていなかったので、よもや沈下した「富貴島」とは思わずに海辺まで降りてみました。すると御誂え向きの岩盤が!! この岩場が今日の舞台になりました。鳥居について運転手さんに訊ねたら、「沈んだ富貴島の先端ですよ」と教えてくれました。
 


熊野貴船神社 (勝浦市墨名)
 2015年5月17日。いつものように各駅での滞在時間は1時間なので、勝浦駅からタクシーに乗り「八幡岬公園と駅の北にある熊野神社へ。そこから駅までは歩けますか?」と訊ねました。すると「それはうちの部落の神社で、駅までは歩いて3分です」と言われ、神社自慢が始まりました。有り難いことです。たいていは「神社なんか知らない」と言われるので…。八幡岬公園への道中、このほど3,000万円かけて補修したという御神輿の画像や動画を見せて下さいました。9月12日のお祭りには全部で19基もの御神輿が出るそうです(行きたい!!)。本体が本漆なのはもちろんのこと、3,000万円もかかったのは本金箔張りにしたためで、画像で見ても素晴らしい光沢でした!!
 運転手さん曰く「だけど社殿は小さいんだよ、立派なのは神輿だけで…」とのことでしたが、驚いたのは熊野神社ではなく、熊野貴船神社だったことです。初めて見ました。社紋は三本足の真っ赤なカラス(?)のようでした。ガラス張りの「御由緒畧記」もありました。祭神は、熊野加武呂命、伊太祁曾命、高オカミ命。

神武の御宇 天富命勅命を奉じ 四國の忌部(齋部)の裔を率いて東沃穰の地を求め 房總の地に到り「麻」「穀」(かじ=こうぞの一種で和紙の原料)を播植せしめ開拓殖民の地と定められ 漁に優れたる紀伊の忌部の裔を別に招き狩漁の術を授けしめ給ふ 紀伊の忌部ク土の守護神熊野大神 木の種の神伊太祁曾の神の御分靈を奉遷し勝浦の地に移住(以下略)

 たしか運転手さんの御先祖は那智勝浦から来たと仰っていました。麻を植えたとしたら阿波の忌部、それと別に漁を得意とする那智勝浦の忌部が移住してきて安房の忌部が誕生したわけですね。
 


熊手八幡宮 (多度津町西白方川東)
 2015年5月23日。母の通院に付き添うついでに讃岐屏風ヶ浦の熊手八幡宮を探してみました。丹生酒殿神社の裏手にある鎌八幡宮へ行ってから、もう1年半も経ってしまったんですね…。あの折、意味や由緒がわからず、中途半端に「しかも鎌八幡…?!」で終わってしまっていました。讃岐屏風ヶ浦といえば何と言っても空海の生まれ故郷の最有力地です。最近は母方の実家阿刀氏の本拠地関西説も注目されているようですが。
 まずは、願いの叶う鎌は幹に吸込まれ、叶わない鎌は落とされてしまうというイチイガシの大木に鎌を打ち付けて願をかける鎌八幡宮の謂れから。

 昔々、紀ノ川の上空を立派な幡が飛んできて、紀ノ川べりの松の木に引っかかりました。その後、今度は大きな白い龍が口から火を噴きながら紀ノ川を上ってきたそうです。村人たちは怖がって散り散りに逃げまどいましたが、大畑の鬼五郎次郎という村人がしっかりと見届けていました。火を吹く龍はだんだん小さくなって、やがて熊手に変身したというのです。その熊手を兄井村の神主が引き取り、神社の木に立てかけておきました。
 ある日、その木に鎌を打ち付けて休憩していた農民が鎌を引き抜こうとしても抜けなくなってしまったといいます。この話を聞いた高野山の僧侶が幡と熊手に霊験あり? と高野山に持って行くと、これらは神功皇后が三韓征伐の際にお守りとして持って行った物で、讃岐の屏風ヶ浦の神社に祭られていたことがわかりました。
 幡と熊手は屏風ヶ浦生まれの空海を慕ってやってきたというので、高野山では幡と熊手をお守りとし、巡寺八幡と言う儀式を明治まで行なってきたそうです。ところが明治初頭の神仏分離令により、幡と熊手は巡り巡って丹生酒殿神社に戻されました。現在、幡は行方不明、熊手は鎌八幡宮の御神体として祀られているそうです。
 それにしても往古から多度津郷の総鎮守として崇敬されてきただけあって熊手八幡宮は大きな神社でした。瀬戸内海沿岸には神功皇后にまつわる伝説がたくさんありますね。当社も、神功皇后が三韓征伐の帰りに屏風ヶ浦で風待ちをし、出発の際に置いていった熊手と幡を村人が祀ったのが起源とされているそうです。
 


大水上神社 (三豊市高瀬町羽方)
 2015年5月24日。アコ静養中につき、時間が与えられました。香川県では讃岐一宮へすらも行っておらず、良い機会なので社叢を調べてみました。一宮へ行かない理由も社叢が無いためで、神階とかには興味ありません。すると、西讃に讃岐二宮があり、運転手さんは「みずかみ」ではなく「みなかみ」と発音されていました。
 到着するなり期待大!!! 素晴らしい緑と空気です。随神門に向って左手に看板がありました。
 大水上緑地環境保全地域と書かれています。本地域は小さい谷によって二分された大水上神社の社叢で構成され、木竹の伐採、土石等の採取が禁止されています。人の手がほとんど入らず、昔の姿をとどめた社叢とされているだけに、現代社会とはかけ離れた空間に身を置けた幸運に感謝しました。
 また、当社の社叢内には二ノ宮窯(瓦窯)跡という貴重な史跡もありました。近隣の三野町に「吉宗瓦窯」という史跡があり、日本で最初の瓦葺きの宮殿とされる「藤原宮(藤原京)」の瓦を供給していたことから、この一帯が瓦の生産地であったと考えられているようです。
 


城山神社 (坂出市府中町本村)
 2015年5月25日。香川県生まれ、坂出高校卒ですが、当地では有名な城山(きやま)へ行ったことがありませんでした。坂出の府中や城山が有名なのは、何といっても菅原道真公の赴任地の一つだからで、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗した天智天皇が西日本各地に築かせた朝鮮式「古代山城」の一つだからではありません。というのも、同じ讃岐は高松市の屋嶋城(やしまのき)は正式に認められているのに、城山は完成を見なかったとの判断からか、非公式扱いなのです。
 現在山麓にある城山神社は、当初、山頂にあったそうですが、正平17年(1362)に細川清氏の白峯合戦で焼失。府中の印鑰へ遷座し、印鑰大明神と呼ばれていましたが、いつの頃か現在地に遷座したそうです。延喜式内大社でも遷座の記録がないのですね…(虚偽の社史をつくられるよりは不明の方が誠実で有り難い)。
 拝殿に向かうと左手に道真公の雨請天満宮と黒牛が鎮座しています。仁和4年(888)に讃岐国守となった菅原道真が、旱魃の際、城山の霊蹟として知られた古代祭祀跡で祈雨の祈りを捧げると、「甘雨大いに降り全讃八十九郷爰に蘇生せり爾来神威赫々遠近崇敬至らざるなし」となり、篤い崇敬を受けるようになったとか。
 


明神原遺跡 (坂出市西庄城山)
 2015年5月25日。城山の麓を流れる綾川(崇徳院はカモ川と呼んだ)沿いには紀元前3000年頃の縄文遺跡や弥生・古墳時代の住居跡があり、明神原からは弥生時代の銅鐸が発見されているそうです。そこに『菅家文草』に城山神と記された古代祭祀遺跡があると知り、車で標高426mの城山東山頂へ。讃岐に第十二代景行天皇の子孫にまつわる神社が多いのは古代から開けていたこの一帯に天皇家の伝説が生まれたためでしょうか?

 景行天皇23年、その子「~櫛王」勅命により南海の惡魚を討たんと讃岐の國に来たり
 (惡魚を退治したのは「~櫛王」の兄「倭建命」の子「建貝兒(たけかいこ)王」との伝承もある)
 天皇これを賞し、讃岐の國造に任ず。「~櫛王」、城山に城郭を築き、この國をよく治め給ふ。
 仲哀天皇8年9月15日、「~櫛王」御歳125歳にて薨去。
 國人その徳を奉斉し、城山の嶺「明~が原」に廟を建て、城山大明神「~櫛別命」として祀る。

 これが城山神社の由来だそうですが、一般に、ここは明神原遺跡などと称ばれる前から古代祭祀場だったと考えられているようです。以下、明神原遺跡の案内板より。

 ここ城山の東南に突出するこの山は明神原(みょうじんばら)と呼ばれ、山頂の南側に鳥帽子岩といわれる巨石を正面に、その南左右に巨石がならび立ち中央は階段状に見える平坦空地がある。
 古代、農業によって村造りが行われた頃、部落を見下す山頂の巨石・大木を憑代
(よりしろ)として、天より降臨する神霊を招き迎えて豊穣を祈る祭祀が行なわれたが、この明神原の巨石群はその配置から神を迎え祭祀を行なう磐境(いわさか)であり、烏帽子岩は神霊の憑りつく磐座(いわくら)と考えられる。 
 


千五百神社 (坂出市川津町中塚)
 2015年5月25日。JR鴨川駅あたりから城山へ登り、反対側の川津町へ下りました。宇多津の九頭龍神社を目当てに戻っていると、大束川を挟んだ反対側にこんもりが見えました。近くまで行ってみると千五百神社?! 本当に教養が無いとしか言いようがないのですけれど、全く社名の見当がつきませんでした。
 帰宅して調べたら、『日本書紀』に「豊葦原千五百秋瑞穂國(とよあしはらちいほあきのみずほのくに)」とあり、日本国の美称の一つだとわかりました(ずっと「豊葦原瑞穂國」だと思ってた…)。こういう社名がつけられたのは、国生み神話に出てくる飯依比古(いひよりひこ)たる飯野山(421.9m)の麓にあるからでしょうか…?
 境内の石碑に「古来より中塚の氏神として荒神をお祀りし、文亀年間(1501-03)に霊験を被り、天照大神を祭神として、祭祀したといわれる」とありました。
 


粟井神社 (観音寺市粟井町)
 2015年5月26日午前。前日城山神社で「讃岐国三社の一つ」の記述を見、一社は一宮たる田村神社、もう一社は? との疑問から調べたら、愛媛県に近い西讃にありました。24日に二宮の大水上神社へ行ったばかりなのに、その時は名前も知らず、いつもの二度手間(?!)となりました。行きは高速を使っても小一時間かかり、帰りは大変な渋滞に巻き込まれました。ただ、これで興味に一区切りついたこともあり、帰宅後すぐに帰京。
 当社は延喜式内大社で、社名の粟井は阿波国または安房国から転じたと言われています。かつては刈田大明神と称し、旧苅田郡(刈田郡、神田郡とも呼称)の由来になったそうです。だから鎌を交叉させた社紋なのか…と納得。創建時期は不明ですが、讃岐忌部氏がこの地を開墾した際に氏神の天太玉命を祭ったのが始まりとされています。天太玉命を祭る神社が安房国に多いというのは先日知ったばかり。とはいえ、社名との関連を、隣国の阿波ではなく、遠く離れた安房に求める理由まではわかりません。
 また当社は昭和62年(1987)から新名所づくりとして境内にアジサイを植え始め、当初は500株ほどだったのが、現在では3,000株にも及び、毎年6月に「あじさい祭り」を開催しているそうです。
 


檜原神社 (桜井市三輪字桧原)
 2015年6月13日。記紀歌謡の舞台と思われる場所を見つけたため三諸山へ行くことに。ついでにというか、念願でもあった齋宮発祥の地(?)へも行こうと計画しました。電車もバスもないため、巻向駅からタクシーに乗りました。お伝えしたプランには「山の辺の道」を通らなければいけないと思い込んでいた檜原神社は入っていませんでしたが、巻向山へ向かおうと50号線に入ると、檜原神社はこちらという看板が目に入りました。運転手さんが「檜原神社へは行かないんですか?」と訊いて下さったので、「巻向山へ登る間、奥不動寺で待機して頂かなくてはならないので、歩く必要のある場所は避けました」と申し上げると、「車で行けますよ」とのこと。「山の辺の道」をのどかに歩いておられた皆様には申し訳なかったのですが、私としては行けてよかった場所でした。とはいえ、当社の御神体は三輪山にある磐座(三輪山奥の桧原山ではなく?)とのことで本殿も拝殿もありません。
 また、豊鍬入姫命を祀る境内社 豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の創祀が昭和61年(1986)11月5日であること、大神神社の社殿が整えられたのが明治以降であることでもわかるように、三輪山周辺では神社よりも土地そのものが重要だと考えられています。この地が「元伊勢」と呼ばれ、伊勢神宮のはじまりとされているのは、崇神天皇の御代に宮中で祀っていた天照大神をこの台地にあった笠縫邑(かさぬひむら)に遷して豊鍬入姫命に奉斎させた「磯城神籬」(しきひもろぎ)で、垂仁天皇の御代に天照大神を伊勢神宮へ遷した後も天照大神をお祀りしてきたためだそうです。私にとっては《久米歌》の「しきはさやらず、くじらさやる」を想起させられる地名。

  三諸つく 三輪山見れば 隱口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の檜原 思ほゆるかも (『万葉集』卷7-1095)
 


ダンノダイラ (三諸山)
 2015年6月13日。檜原神社から再び50号線に戻り、笠山荒神方面へ向かうと、ほどなく奥不動寺への曲がり角に着きます。他のタクシー会社には「行けない」と断られましたが、今日の運転手さんは「大アタリ」でした。
 私が三輪山と巻向山を結ぶ尾根にあるダンノダイラを知ったのは最近で、この真下の「出雲」集落に住んでいた方が88年の集大成として地形や風土を書き残されていたのです。何となく、「出雲」は島根県より先に大和にあったとのイメージを持っていた私はすぐに足を運ぶことにしました。が、「出雲」集落から歩いて上がるのは大変なのでタクシーで奥不動寺まで行くことにしたのです。そこからは道なき道を15分ほど歩けば着くらしい…。
 三輪山は467m、ダンノダイラは450〜480m、巻向山は567m、泊瀬山は546m。三輪山から尾根続きに東方へ約1,700mの嶺の上にダンノダイラがあるとのことです。古代の出雲ムラで面積は63,000u、小川跡から6〜12世紀にわたる土器が発見されているとか。「奥不動寺裏の急斜面を15mほど這い登ると尾根道に出ます」との記述通り、三輪山東方からの連山尾根道に出ました。「自然歩道を行くと、最初に天壇の跡」と書かれており、この先、山頂への道が倒木で塞がれていたので、天壇の磐境の手前で演奏することにしました。
 ここが「倭ノ国伊豆加志ノ本宮」「倭称和ノ御室ノ嶺上ノ宮」であると書かれた御室は、御諸三諸でしょう。
 三諸山については、先述の「出雲」の方は「ダンノダイラ・巻向山・泊瀬山」説ですが、私には『大和志料』(1914)の「巻向山 在三輪山北東、即巻向渓上峯曰弓月獄、南曰桧原山、北曰穴師山、云々」の方がピンときます。
 そもそも巻向山は標高567.1m(弓月嶽)と565m(桧原山)の二峰からなる山なのだとか。また、三輪山の北の穴師山(409.3m)と龍王山(585.7m)の谷間から山の中腹にかけては6〜8世紀頃の「龍王山古墳群」が発見されています。松本清張が『火の路』で「死の谷」と呼んだ約600の古墳群ですが、王族のものではないため半数が未発掘のままだといいます。こういう場所って「こもりくの泊瀬」のイメージにピッタリな気がしますが?

  卷向(まきむく)の 穴師(あなし)の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつぞ來し (『万葉集』卷12-3126)

  卷向の 檜原(ひはら)も未だ 雲居ねば 子松が末ゆ 沫雪(あはゆき)流る (『柿本人麻呂歌集』卷10-2314)
 


笠山荒神社 (桜井市笠)
 2015年6月13日。もうすっかり有名になった「笠そば処」で美味しい「荒神そば」を食べました。標高400〜500mの笠では1992年より国の開発事業を利用して蕎麦の栽培に取り組み、地域住民が資金を出し合って「(有)荒神の里・笠そば」を設立しています。今や、お蕎麦を食べたついでに立ち寄るといった風情の笠山荒神社(左の画像・裏参道の前が「笠そば処」)ですが、竹林寺縁起文中に「倭笠縫邑」(やまとのかさぬひのむら)とあり、檜原神社と同じく候補地の一つとされています。他方、『日本書紀』には「神浅茅原」とあり、案内板によれば、神域と仰がれてきた禁足地「鷲峯山」(じゅぶせん)は神代の高天原との伝説もあるそうです。
 そもそも笠山荒神社は明治初年の神仏分離令までは竹林寺の境内にありました。かつての笠寺で、これを中国の五台山大聖竹林寺にちなんで竹林寺と改称したのは、唐から帰国し、高野山を開基するために当地に修行に来た空海だと伝えられています。
 弘仁10年(822)、金剛峯寺の建立を志す空海が当地に来ましたが、笠山(鷲峯山)は入山禁止なので笠寺に寄寓し、閼伽井(あかゐ)の池で身を清め、21日間の行を修めたそうです。そして、聖武天皇の御代(724-749)に勅命を享けて鷲峰山に祈った良弁僧正が描いた板面荒神を模写して木像を造り、これを祀って笠寺竹林寺に改めました。その後、高野山で火災や疫病に見舞われた空海は、再び閼伽井の池で水行をし、池のほとりに不動明王を祀って荒神の分身を授かったといいます。これが表参道の脇にある閼伽井不動です。
 


小夫天神社 (桜井市小夫)
 2015年6月13日。三つ目の笠縫邑(かさぬひむら)候補地へ。当社敷地には「第40代天武天皇白鳳2年(673)夏4月丙辰朔己巳大來皇女(661-702)をして待らしめ、宮を斎宮となし身を清め、皇祖天照皇大神を祀らせ給へり」との伝承があるそうです。即ち、「大來皇女化粧川御禊の旧跡」であり、「泊瀬斎宮の旧跡」だというのです。
 『扶桑略記』(1094年3月までの国史)によれば、天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願に対し、天照皇大神宮に奉仕する斎王として自身の皇女を捧げたことで斎宮が正式な制度となったのだとか。以後、南北朝時代まで天皇が即位する度に新しい斎王が選ばれたそうです。どこまでが真実でどこからが伝説なのか判断がつきませんが、「天武天皇の即位2ヶ月後、斎王制度確立後の初代斎王に任ぜられた大來皇女は、13才で大和の泊瀬の斎宮に入り、1年半に及ぶ潔斎を行なった」とされています。泊瀬の斎宮の所在地は未だ不明とのことですが、この地に立つと「こもりくの泊瀬」とはこういう狭く高低差のある地形であったかと思えてきます。
 大來皇女が父天武天皇の薨去(686)に際して詠んだ歌と、早世した弟大津皇子への哀惜を詠んだ歌。

  ~風(かむかぜ)の 伊勢の國にも 有らましを 何しか來けむ 君も有らなくに (『万葉集』卷2-163)

  うつそみの 人にある吾れや 明日よりは 二上山を 弟脊(いろせ)と吾が見む (『万葉集』卷2-165)
 


長谷山口坐神社 (桜井市初瀬字手力雄)
 2015年6月13日。三諸山ダンノダイラに続き、こちらも「磯城伊豆加志(厳橿)本宮伝承地域」なのだそうです。鳥居脇に真新しい石碑がありました。そこから入ると、橋を渡って階段を登らなくてはならないため、「駅の近くに裏道があるはずですけど?」と言うと運転手さんが御存知でした。よって裏から失礼…という画像。しかも右の鳥居(?)の奥を登ると磐境があるらしいと感じながら、私にとっては次の秉田神社がメインなので先を急ぎました。
 当社は通称「タヂカラヲさん」で、「手力雄明神」とも呼ばれていたそうです。「タヂカラヲ」といえば戸隠神社奥社の祭神です。すると、「タヂカラヲ」が岩戸から引きずり出したい天照大神が奥に鎮座しているのでしょうか?
 長谷山口坐神社由緒記に、「当神社は長谷山の鎮の神として、大古より 大山祇神を祀っている。垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地域の『磯城厳橿の本』に約八ヶ月(←8年間?)天照大神をおまつりになった時、随神としてこの地に天手力雄神を、また北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二柱を鎮座せられた」とあります。
 そもそも山口神社という名称が、宮殿造営のための御料材を伐採する山の口を守る神、また山からの水の口を守る神をあらわしたもののように感じられるのですが?
 一説に、当社は「手力雄社」で、本来の山口社は今の与喜天満宮とも言われているそうです。
 


秉田神社 (桜井市白河)
 2015年6月13日。この日の最後は「白河」(しらが)集落にある秉田(ひきた)神社(~名帳ニ短田明~トアリ)です。直感通り、地元では引田部赤猪子の伝承地とされていました。もちろん神話が先か神社が先かという話。ただしそういう伝説が生まれるような部族疋田(曳田)物部が住んでいたとして、誰を担ぎ、どんな力関係があり得たのかを想像する緒口になるかもしれないし、全くの出鱈目かもしれない、というふうに注意深く考える必要があります。初訪問にあたり、隣の「出雲」集落で生まれ育った方が書かれた本が非常に有り難い資料となりました。
 まず、「なぜ、渡来人はじめ多くの古代人が初瀬谷へ集中したのでしょうか」との項目を読みました。
 すると、「しらが」は「しらぎ」なのかとか、巻向山の弓月獄は秦氏の先祖とされる渡来人「弓月君」と関係があるのかなどと考え始めました。当地大和国の「出雲」が相撲の開祖で埴輪制度の提案者である野見宿禰の伝承地であるとの論も興味深いものでした。また、「初瀬小学校遺跡」のように縄文早期(約7,000年前)の土器の出土も見られることから、その周辺にあとから大泊瀬幼武尊(おほはつせわかたけるのみこと)たる雄略天皇の地盤や「武烈天皇泊瀬列城宮(なみきのみや)」など天皇家の「御諸」を築いたと考えておられることもわかりました。
 地元伝説のまとめとして、「大昔、白川(白河)ムラと出雲ムラは同一地域名「橿」と称していた」「いまの秉田神社(白河村神山)は、昔は「みやこ谷」と呼ばれる西の谷の山奥の台地(ダンノダイラ?)にあった」「祭神は昔から大己貴命であった」などが列挙されていました。
 まだまだ調査が必要な私ですが、ともあれ引田部赤猪子の伝承地で『古事記』の志都歌を演奏してきました。

 (九四) 御諸(みもろ)に 築(つ)くや玉垣 築き餘(あま)す 誰(た)にかも依らむ ~の宮人
 


祈りの滝 (御所市関屋)
 2015年6月14日。去年の5月、サツキのシーズンに来て1時間待ってもロープウェイへの道を右折できずに断念した葛城山へ登ろうと急遽ホテルを探して泊まりました。ところが、尺度からのタクシーも新庄からのタクシーも宿泊したホテルも近鉄葛城山ロープウェイが6月8日〜7月1日まで休止していることを知りませんでした。近鉄タクシーさん以外には知らされていなかったのでしょうか? それでも山頂への遊歩道に入れば「櫛羅の滝」を通ると地図に書かれていたので、運転手さんに「ここで少しお待ち下さい」と言うと、「いえ、クジラの滝は車で行けるんですよ。乗って下さい」と言われ、着いたのが金剛山祈りの滝!? 途中、何度も「隣の山へ上がってますよ」と申し上げたのに「行ったことがあるから間違いない」と無視されました。着いた瞬間、「ずいぶん小さな滝ですね?」と驚くと、「いえ、クジラの滝もこんなものです。もっと小さいかも?」って、ホントですか?
 あとで御所市のHPを見たら「昔、役の行者が、葛城山へ修行にゆく時にこの滝で身を清めて衆生済度の祈りをこめたところだという」と書かれていましたが、こういう禊ぎの滝は山のあちこちにあったと考えるのが普通かも? と感じました。周囲を探索すると、小さなダムが2つ建設されるのに伴い、遊歩道をつけるなどして市民の憩いの場をつくったという印象でした。わざわざ500mもボーリングして湧水を出し、1ボトルにつき「百円以上」の寄付を募っているのも謎?! でした(払わない人も居たようですよ)。お蔭さまで金剛山(1,125m)が高天山とか葛城嶺と呼ばれていたとわかり、大和葛城山(959.2m)から和泉葛城山(865.7m)へ行こうとしていた私は、尾根を逆L字に折り曲げたポイントにあたる金剛山こそが古代の葛城山かも…と思えてきました(連山の最高峰だし)。貝原益軒も本居宣長も現在の金剛山を葛城山と書いているので、昔はそれが常識だったのかも知れませんね。
 タクシーに戻ると年輩の女性運転手さんが「二度までも登れなかったということは三度おいでということだから、また来て下さいよ」と呑気に仰るので、心の中で「でも、あなたの車にはもう乗りたくない」とつぶやきました。
 


笛吹神社 (御所市條)
 2015年6月14日。御所市「條」の山裾に笛吹神社があります。地図を見ると、御所市「室」の秋津簡易郵便局の南です。が、道はありません。ともかく行ってみれば何とかなるだろうと突進すると、畑仕事をされている方がおられたので許しを得て畦道を通らせていただきました。 「室」の交差点で「笛吹神社へはどこから入ればいいですか?」と訊くと、「笛吹神社はあっちですよ」と葛城市の葛木火雷神社(通称「笛吹神社」)の方角を指さされました。1キロ圏内なのに、「室」と「條」では氏神が違っていて御存知なかったのでしょうか。
 笛吹神社を探そうと思ったのは、葛木火雷神社へ行った折、近くの笛吹神社の末社だった時代があったと知ったためです。葛木火雷神社の祭神は火雷神と笛吹連の祖天香山命(尾張氏の始祖天火明命の子)の二座。
 宮司家持田氏の伝承「崇神天皇の時代、祖先の櫂子(かじし)が建埴安彦(たけはにやすひこ)を討ちて功あり、天皇より天磐笛(あめのいはふえ)を与へられ笛吹連(ふえふきのむらじ)の名を賜る。崇神天皇宣はく、瓊瓊杵尊を奉祀すれば国家安泰ならんとす…」によれば、現在の祭神は瓊瓊杵尊だけれど、「條」集落の笛吹神社葛木火雷神社はともに尾張氏の神社ということになりそうです。葛木火雷神社が葛城市笛吹にあり、その社地に笛吹古墳群があることから、何となくややこしい感じがしますが、古代美濃國不破郡藍川郷の末裔としては岡山の尾針神社・尾治針名眞若比盗_社ともども縁を感じる場所でした。
 さて、畑仕事をされていたもう一軒の農家の方が「父が詳しいから」とわざわざ呼んで下さいました。古い伝承について訊ねると、「1kmほど東に日本武尊白鳥陵があるでしょ、あれは元は笛吹神社のある山の東隣、目の前の山の頂上にあったんですよ」と言われ、ビックリしました。そもそも本当の墳墓なら移転したりしませんよね? 笛吹神社の北東300mにある「みやす塚古墳」のネーミングにしても、日本武尊の妃 宮簀媛(みやずひめ)の神話にからめようとする意図を感じてしまうのですが、宮簀媛の父 乎止與(をとよ)は4世紀の初めに今の愛知県に移り、尾張大印岐(をはりおほいき)という豪族の娘 真敷刀俾(ましきとべ)との間に宮簀媛をもうけたことになっているため、当地とは直接関係ないのではないでしょうか。
 


葛城神社 (和泉葛城山)
 2015年6月14日正午。いよいよ最終目的地和泉葛城山へ。葛城連峰を踏破する体力を持ち合わせていないため、JRで吉野口から名手まで行き、タクシーで往復しました。山頂は中学生で一杯!? 日曜だというのに遠足でしょうか? 駐車場からは南しか見えず、運転手さんが目の前に高野山が見えますよと教えてくれました。
 振り向くと参道(階段)があり、登り切ったところに和泉葛城山ならではの独特の配置による2社があります。南側が八大龍王社で大阪側が葛城一言主を祀る高オカミ神社(現葛城神社)。画像は大阪側から登ってきた人が展望台方向へと歩く道から2社を撮ったものです。手前左側の高オカミ神社は黒龍=九頭龍で土着の神、八大龍王は仏教とともに渡来したインド由来の神と考えてよいのでしょうか?
 やはり葛城連峰は修験の山なんですね。神仏習合の一つの形を見ることができました。
 


爪がた不動 (和泉葛城山)
 2015年6月14日。名手駅から127号線に入り和泉葛城山山頂へ向かう道すがら、気になる看板が目に入りました。が、車なので一瞬のうちに通り過ぎてしまい、運転手さんに「帰りに時間があれば、あの看板を撮らせて下さい」とお願いしておきました。ところが、帰りもまた一瞬のうちに通り過ぎてしまい、停車する場所もなかったので、十分な道幅がある場所で待機してもらい、走って引き返しました。
 「この辺りいにしえは、老杉みどり数多生い繁り、渓流巨岩をはみ、高さ約五メートル半、幅一メートル余の銀しぶきの飛瀑ありて、風光閑静雅趣に秀で、盛夏も涼しく、弘法大師巡行のみぎり、ここに憩い、滝の中央壁岩に自ら(錫杖の)爪にて不動明王を刻せりと伝えられ、旧来『爪がた不動』と唱え奉り、われら郷土の祖先代々あまねく信仰厚く、霊験あら高なる(ママ)御仏なり」との由来が書かれていました。
 ふつうなら、「また空海伝説か…」と思うところですが、前日、こもりくの初瀬で同じように奇岩が重なり合った「見廻(みかへり)不動尊」を見つけ、「弘法大師豊山に参籠をおわって笠山の方へ向われた時」中央の磐に不動明王を彫ったという謂われがあることを知ったばかりだったので、何となく納得してしまいました。それよりも、味気ない舗装路を一歩逸れただけで、せせらぎの音を聞け、水しぶきを浴びて蒸し暑さがフッ飛んだことでした。
 

@2012/4-10 A2012/11-2013/3 B2013/4-6 C2013/7-8 D2013/10-11
E2013/11-2014/2 F2014/2-5 G2014/6-7 H2014/7-10 I2014/10-11
J2014/11-2015/2 K2015/2-4 L2015/4-5 N2015/6-7 O2015/7-10