2015年5月25日。城山の麓を流れる綾川(崇徳院はカモ川と呼んだ)沿いには紀元前3000年頃の縄文遺跡や弥生・古墳時代の住居跡があり、明神原からは弥生時代の銅鐸が発見されているそうです。そこに『菅家文草』に城山神と記された古代祭祀遺跡があると知り、車で標高426mの城山東山頂へ。讃岐に第十二代景行天皇の子孫にまつわる神社が多いのは古代から開けていたこの一帯に天皇家の伝説が生まれたためでしょうか? 景行天皇23年、その子「~櫛王」勅命により南海の惡魚を討たんと讃岐の國に来たり
(惡魚を退治したのは「~櫛王」の兄「倭建命」の子「建貝兒(たけかいこ)王」との伝承もある)
天皇これを賞し、讃岐の國造に任ず。「~櫛王」、城山に城郭を築き、この國をよく治め給ふ。
仲哀天皇8年9月15日、「~櫛王」御歳125歳にて薨去。
國人その徳を奉斉し、城山の嶺「明~が原」に廟を建て、城山大明神「~櫛別命」として祀る。
これが城山神社の由来だそうですが、一般に、ここは明神原遺跡などと称ばれる前から古代祭祀場だったと考えられているようです。以下、明神原遺跡の案内板より。
ここ城山の東南に突出するこの山は明神原(みょうじんばら)と呼ばれ、山頂の南側に鳥帽子岩といわれる巨石を正面に、その南左右に巨石がならび立ち中央は階段状に見える平坦空地がある。
古代、農業によって村造りが行われた頃、部落を見下す山頂の巨石・大木を憑代(よりしろ)として、天より降臨する神霊を招き迎えて豊穣を祈る祭祀が行なわれたが、この明神原の巨石群はその配置から神を迎え祭祀を行なう磐境(いわさか)であり、烏帽子岩は神霊の憑りつく磐座(いわくら)と考えられる。