天語り倭琴の旅-2


高倉神社 (岡垣町)
 2013年4月26日、「やまとうたのふるさと」の前日に福岡着。海老津から高倉神社へ。遠賀郡誌に「高倉区の南山麓にあり神殿は西に向へり、芦屋町岡湊神社の本社にして、従前は遠賀郡22村の総社なりき。」とあり、古い神社だと思って立ち寄ったのですが、鳥居をくぐると、かつて神社では見たことのない「世界人類が平和で〜」の立て看板が?! いったい何だったのでしょうか?
 「遠賀」「岡」ともに「をか」で、神武天皇が東征前に滞在した場所として知られていますが、第十四代仲哀天皇と神功皇后も「岡津に暫く駐ま」ったそうで、「皇神」に縁の深い土地と言えます。
 


大国主神社 (岡垣町手野)
 2013年4月26日、高倉神社から古墳群を通り、かつてこのあたりの支配者だった?大国主神社を目指しますが、地図にも道がなく、見つけられません。舗装されていない道に入ると畑仕事をされている御夫婦がおられ、「大国主神社はどこですか?」と訊ねると「このまま細い農道を進んで下さい」とのことで、車一台通るのがやっとの道を行ったらありました!! こんな手つかずの自然が日本にはまだまだ残っているんですね。
 高倉末社記に「大手野郷にあり 村の字に大国免といふ所あり 昔の神田なるべし」。
 


織幡神社 (鐘ノ岬)
 2013年4月26日、遅れ馳せながら織幡神社へ。本当は『琴歌譜』のCDを出した昨秋までに行っておくべきでしたが、なかなか果たせませんでした。CD解説に明治時代の絵図のみ掲載しました。鐘ノ岬のこんもりとした佐屋形山の中腹にある神社です。階段を登ってゆく時、両側に海が見えます!
 万葉集(巻7-1230)「千磐破金之三崎乎過鞆吾者不忘牡鹿之須賣神」の歌に詠まれた「千磐破」は、他の和歌の表記に「千早振」「千速振」などがありますが、織幡神社の場合、祭神として「神に奉る御衣を織る」機織女の象徴でもある天照皇大神が祀られているため、磐を破って出てきても、千早(古来より神事の際に用いられた装束の上から羽織る貫頭衣?)を振っても構いませんね。
 宗像から鐘ノ岬を過ぎれば、「湊神社の本社にして、遠賀郡22村の総社」たる高倉神社のある「をか」です。
 


依岳神社 (宗像市田野)
 2013年4月26日、織幡神社から程近い依岳神社をタクシーの運転手さんに探して貰いました。対馬で学習した海人族の神社です。豊玉姫の妹にして、姉の子(鵜茅草葺不合尊)の育ての親であり妻でもある玉依姫命が祀られています。とても細い山道を登ってゆくと、社殿の位置から鐘ノ岬の左にある地島が見えました!
 依岳神社の由来は「依岳大神と云は玉依姫命日向高千穂の岳より是国に移らせ給ひしと云」とあります。
 


伊麻神社 (宗像市吉田)
 2013年4月27日、「やまとうたのふるさと」の待ち合わせ場所宗像大社へ行く前に、織幡神社元宮説のある伊麻神社へ。一之鳥居の扁額のみ「伊麻神社」、二之鳥居の扁額は「織幡宮」、拝殿に「織幡神社」との扁額があります。おそらくここが織幡神社の元宮だろうと思うのは、当時、機織女の代表格は「来」の神で、「いま神社」に通じるからです。
 


宗像大社辺津宮 (宗像市田島)
 2013年4月27日、「やまとうたのふるさと」の待ち合わせ場所宗像大社。藤は私が一番好きな花です。あまりに大きすぎて、どこから入ればよいのかすらわからなかった宗像大社ですが、池と藤棚を見て安心しました。
 海の正倉院とも呼ばれる沖ノ島で発掘された約8万点もの国宝を収めた神宝館へはヤマト王権の祭祀のために鋳造したとされる銅製の雛型(約27cm)に金メッキを施した五絃の琴と5本の琴柱を見に行きましたが、2012年秋から文化庁の指導により公開を中止したそうで、拍子抜けしてしまいました。
 


宗像大社沖津宮遥拝所 (宗像市大島)
 2013年4月27日、宗像大社から大島渡船ターミナルへ移動し、フェリー(25分)で大島へ。運良く、土日だけの観光案内サービスがあり、無料バスで観光ポイントへ連れて行ってもらえました!!
 沖津宮のある沖ノ島は女人禁制なので、まずは沖津宮遥拝所へ。最近は(黄砂の影響で?)、年に数回しか沖ノ島が見えないそうで、残念ながらこの日も不発でした。でも、海底の石まで見えるきれいな海と手つかずの緑に癒されつつ、とても良い気分で島をまわれました。
 


御嶽神社中津宮奥宮 (宗像市大島)
 2013年4月27日、思いもかけず、御嶽(みたけ)神社へ案内してもらいました。小高い山を登ったところにあるため眺望が素晴らしく、案内板には中津宮の奥宮とありました。中津宮の祭神たる宗像三神のうちの湍津姫命(たぎつひめのみこと)と天照皇大神が祀られた瀟洒な社殿は建て替えられたばかり?
 


宗像大社中津宮 (宗像市大島)
 2013年4月27日、もともと高速艇だったはずなのに勝手にフェリーに変更されて10分も遅く着いたため、肝腎の中津宮に入る時間がなくなって、無料バスの案内人さんが困っておられました。道を隔てて蛭子神社があったのが興味深く、写真だけ撮らせてもらいました。島で見る景色が素晴らしかったので、また行きたい!
 


志賀海神社沖津宮 (志賀島)
 2013年4月27日、前回(2012.7.12)は満ち潮で沖津島に渡れず、大潮の日を調べて「やまとうたのふるさと」をこの日に決めました。遠くから見ていただけの鳥居をくぐり、志賀海神社沖津宮へ。行きどまりなので、いったん下りて鳥居を出てから島の裏側へと岩場をピョンピョン渡ります。浜で火を熾して海藻を焼いて食べている人たちが背中のリュックを見て、「あの中に何が入ってるんだろう?」と口々に仰っていましたが、視界に入らない島の裏側で、宮中の御神楽歌となった志賀の海人の歌『千歳』とか『篠波』とかを演奏しました。ここが神話でイザナギが黄泉の国から逃げ戻った小戸の一つに比定されているからです。ふだん見ることができない景色の中で潮風に吹かれながらの演奏は、宇多津という海辺の町に育った私にとって非常に気持ちの良いものでした。
 


志賀海神社 (志賀島)
 2013年4月27日、初めて沖津島に渡れ、御機嫌で志賀海神社へ向かいました。が、前回同様磯良の社殿がわかりません。社務所で訊ねると、摂社今宮だとか。現在志賀海神社の祭神は綿津見三神だそうです。もともと磯良が祭神だったはずとの説もありますが。ここでは何としても御神楽歌『磯等前(いそらがさき)』を演奏したい。ですが、今宮の前に着いた時点で市営渡船の出港時間まで残り20分。乗り場まで走って5分として、演奏時間が10分ならいける!! ということで調絃を始め、同行の皆様が先に切符を買っておいて下さると言うので、演奏後は楽器を片づけて走りました。皆々様のお蔭で、やっと磯良の社で『磯等前』を演奏できました。感謝。
 


警固神社 (博多区)
 2013年4月27日、「やまとうたのふるさと」を終え、福岡市営渡船で博多港へ。新幹線で宇多津へ戻るためタクシーで博多駅へ移動する途中、警固神社に立ち寄りました。何がどうというわけではなく、私は大自然に触れる旅をしたかったんだ!! と強く感じました。都会の片隅にもほっとできる場所は必要ですが、他所者がわざわざ時間とお金をかけて行く必要があるだろうか?と自問自答した次第です。産土を大切にするのが基本ですよね。
 


木熊野神社 (善通寺市)
 2013年4月28日、地元の神社がほとんど手つかずだと気づき、この日は善通寺に4つあるという木熊野神社をまわりました。紀伊熊野の神社を遷したという意味の名称だそうです。各神社とも地元の皆様がきちんと御祀りされていて、他所者が道なき道を探してお邪魔するという狼藉を働いたことを申し訳なく思いました。
 それにしても、最初に行った木熊野神社は事もあろうに社地の中をJR土讃線が通っていました!? 人が利便性を追求した結果、壊れてしまう自然や伝統を元に戻すことは不可能に近いわけですが、それを問題視する人がいなかったということですね。私は何でこういうことに無関心なまま、のうのうと生きてきたのでしょうか…。


妙見宮・大師堂 (仁尾妙見山)
 2013年4月28日は、善通寺をまわったので、最後はやはり弘法大師ゆかりの場所へ…ということで、前々から興味を持っていた仁尾妙見宮へ。階段を登り切ったら目に入る磐座は物凄い迫力で、よくぞ三枚重ねの巨大な磐座の下に潜るように御堂を建てられたものだと暫し嘆息。ふと右手を見ると階段の上に大師堂があります。さすがに妙見宮には圧倒されてしまったので、ここを行場の一つにしていたというお大師さんの小さなお堂の前で演奏することに。しかし、撮ってもらった画像を見た瞬間、あの後方の磐の上で演奏すべきだったと後悔しきりの私です。やっぱり怪しい奴なのかなぁ…?
 


白鬚神社 (高島市)
 2013年5月1日、おそらく志賀の海人族が移住したと思われる琵琶湖畔へ行ってみました。目的地はマキノですが、JR湖西線を「近江高島」駅で途中下車して近江最古という白鬚神社へ。折悪しく雨が降っていたため、荷物を抱えたまま傘をさして階段を上り下りするのは危険と判断し、早々にタクシーを呼んで駅へ戻りました。琵琶湖に立っている鳥居は案外と新しい(前世紀くらいの?)ものなのではないかという気がしました。
 再びJR湖西線に乗り、安曇族の名そのままの「安曇川」の先「近江今津」で下りて志賀の唐崎神社へ。
 


川裾宮唐崎神社 (高島市)
 2013年5月1日、御神楽歌『篠波』に歌われる「志賀の唐崎」を訪ねてみました。大津の唐崎神社は祭神が祓戸神ではなかったため、同名の神社を探したら奥琵琶湖にありました。右の画像は「ミソギ川」だそうです。祭神は瀬織津比刀A速開津比刀A速佐須良比唐ニいう禊祓の三神で、神社の場所も川から海へ罪穢れを流すのにピッタリの地形です。歌の旋律型もさざ波だし、浄化のイメージをつかんで演奏できれば嬉しいのですが。
 


都久夫須麻神社 (竹生島)
 2013年5月2日、晴天。対岸の彦根へ、JRで行くか、竹生島経由の船で行くか迷った挙句、後者にしました。最初は船で行く気満々だったのに、都久夫須麻神社のHPを見て行く気が失せてしまったのです。
 「宝厳寺観音堂から舟廊下を渡ると都久夫須麻神社本殿(国宝)の横に出ます。 2009年より本殿の内装保護の為、拝観を完全予約制へと移行させて頂きます。 これに伴い、一般の方への本殿拝観を廃止させていただきます。 本殿拝観に関しましては安土桃山文化を学術的・芸術的な観点より探究を目的と した身分・職業、またはそれに殉ずる立場にある方に限りお申し込みいただけます。
 このため、通常の105分滞在コースを直行(15分間接岸)コースに変更。奥琵琶湖マキノグランドパークホテル→彦根、約80分(2,650円)でした。これは「近江今津」駅からホテルまでのタクシー代(3,500円)より安い!!
 


戸隠神社中社 (長野市)
 2013年5月27日、前夜に新幹線で長野入りし、長野駅発 10:30 a.m.のバスで戸隠神社へ。まずは「うずら家」さんで、ざる蕎麦+とろろ蕎麦+山菜のてんぷらを食べてから、眼前の中社に上がりました。
 祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもひかねのみこと)という、なが〜い名前の神様で、由緒に「御鎮座年代古く人皇第七十三代堀河天皇の寛治元年(1087)に奥社より分祀し奉斎す。神話に名高い天照大神が御弟神須佐之男命の度重なる非行に天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(現在の太々神楽)を創案し、萬民をして生業に安んぜしめたという知恵の深い神」とありました。
 


戸隠神社火之御子社 (長野市)
 2013年5月27日、長野駅から路線バスに乗り、戸隠神社へ向かいました。はじめに中社、次に神楽の祖・天鈿女命(あめのうづめのみこと)をお祀りした火之御子社へ。戸隠神社全体が「岩戸開き」の神話に関係しているため、ここでは当然、天岩戸を開くために歌い踊ったとされる天鈿女命にまつわる『阿知女法』と『小前張阿知女』、そしてこの日初めてほぼ初見ながら大和歌『大直日歌』を演奏させて頂きました。
 修験の山として知られる戸隠で、「戸隠山顕光寺」と称した神仏習合の時代にも唯一「神社」として存在していたのが1098年(承徳2年)頃に創建された火之御子社だったそうです。小ぢんまりとして美しい御社でした。
 


戸隠神社九頭龍社 (長野市)
 2013年5月27日、戸隠神社奥社手前に位置する九頭龍社へ。九頭龍大神は(天武・持統朝に)戸隠神社御本社とされる奥社の祭神・天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)をお迎えした神とのことなので、戸隠では最も古い御社ということになります。 …となると、年代が『琴歌譜』などとはかけ離れているため、やむなくここでも「岩戸開き」の神話にまつわる『阿知女法』と『小前張阿知女』を演奏しました。
 拝殿は本殿の前にあると思っていたら、九頭龍社では拝殿から右に折れたところに本殿がありました。
 


戸隠神社奥社 (長野市)
 2013年5月27日、戸隠神社奥社へ。祭神の天手力雄命は、「岩戸開き」の神話において、天照大神が天岩屋戸に籠ったことで暗黒になったはずの世界で神々が(あられもない姿で舞い踊る天鈿女命を見て)声を上げて喜ぶ様子を不審に思い、岩戸を少しあけて覗き見ようとしたところを引っ張り出した神として知られています。ここではなぜか、『琴歌譜』の『短埴安扶理』と同歌詞の大歌を演奏しました。
 


戸隠神社宝光社 (長野市)
 2013年5月27日、戸隠神社奥社へ行き、下山の折に宝光社へ。この階段(全270段)は途中から撮ってますが、上がるのに5分かかりました。見上げた際に、反っているかのように見えた上方の階段は、降りる際には、まるで落ちてゆくかのようでクラクラしました。こうして戸隠五社すべてに足を運べたものの、筋肉痛がコワイ…。
 宝光社の祭神・天表春命(あめのうははるのみこと)は中社の祭神・天八意思兼命の御子で、天上春命とも記し、信乃阿智祝部らの祖と言われています。弟が知々夫(秩父)国造の上祖たる天下春命で、ともにニギハヤヒが天磐船で天降った際に随従した三十二供奉神のうちの一神なのだとか。
 


滝神社 (新居浜市)
 2013年6月15日、新居浜で待ち時間があったので駅から近い滝神社へ行ってみました。郷社にしてはずいぶん立派だなぁと感じた瞬間、別子銅山があったからか…と納得しました。
 住友財閥の業祖 蘇我理右衛門は1591年に堺を訪れた明人に粗銅から銀を分離する「南蛮吹き」という精錬法を学び、粗銅の中に金・銀などが含まれていることが知られていなかった当時の日本で独占的に行なったそうです。その理右衛門の長子 理兵衛友以を住友家が養子に迎え、その孫 吉左衛門友芳が1691年に別子銅山を開掘。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山として、約280年にわたり住友の事業の柱となりました。
 宇多津の塩業もそうですが、現在繁栄している地域と100年200年前に繁栄していた地域は異なる場合が多いことを痛感させられます(駅周辺に喫茶店の一軒はあって欲しい!!)。
 画像は二之鳥居の先の御神木と三之鳥居です。もしかすると、離れた場所に本来の一之鳥居があるかも? 古くは裏山が御神体で、和銅元年に社を造営。別子銅山「鉱山鉄道」の切通しからも入れるそうです。
 


白山神社 (新居浜市)
 2013年6月15日、偶然の愛媛県新居浜市行きで白山神社へ。ただし地図で見た白山神社は新居浜駅の西にある滝の宮公園の北側に隣接していたのに、タクシーで連れて行かれた先はかなり南の中村岡之久保という場所でした。神社のかなり手前に一之鳥居があったため、かつては広大な社地を有していたとわかります。
 由緒書きに、「文武元年(697) 8月に加賀國一之宮たる白山比盗_社の御分霊を此地に勧請した」とあり、当時すでに白山信仰が確立していたことを知りました。また平成9年の御鎮座1300年記念事業として改築されたばかりの本殿、祝詞殿、内拝殿などの整然とした美しさに、現在まで続く氏子の皆様の崇敬ぶりが窺われました。御神木に鳥居があるのも初めて見ました。参道の階段左の鳥居の扁額には「御神楠」とありました。
 


湊神明社 (豊橋市)
 2013年6月20日、実家からの帰途、次の研究テーマおんぞ祭に着手。岡山から名古屋まではほとんど雨が上がっていたのに、豊橋で下りたら大雨でした。まずは豊川(とよがわ)にかかる豊橋(とよばし)南詰にある湊神明社へ。豊川と豊橋を清音で発音していたため、駅員さんにもタクシーの運転手さんにも話が通じず苦労しました。
 おんぞ祭の「おんぞ」は申すまでもなく「おほむぞ(御衣)」で、三河國の赤引糸(生糸)の産地伊兵衛沢にあった服部神社(現在は大野神社境内に遷座)から三ケ日の初生衣(うぶぎぬ)神社へ運ばれた絹糸で織られた「和衣(にぎそ)」をいったん150m離れた浜名惣社神明宮に収めるのが初生衣神社おんぞ祭で、毎年4月第2土曜に行なわれるそうです。
 この「和衣」が浜名惣社神明宮から湊神明社へ運ばれた後、5月の第2土曜が湊神明社おんぞ祭です。
 かつて「和衣」は天候を見て船で湊神明社から伊勢へ向かったと言われますが、現在は三ケ日町岡本の初生衣神社氏子とともにバスで伊勢神宮へ奉献しているそうです。
 鎮座は白鳳元年(646)。のちに幡多御厨(はたみくり)から伊勢神宮の神明社となり、祭神が天照大御神に。右は境内社の築島弁天社。左の画像でいうと、拝殿の右(赤い旗で囲まれた場所)に位置し、現在は湊町公園の一部になっています。公園の駐車場と化した境内を歩いていたら、どけとばかりにクラクションを鳴らされました。
 


神明宮 (三ケ日町只木)
 2013年6月20日、豊橋で新幹線を降り、タクシーで三ケ日へ向かいました。偶然見た只木神明宮の画像に興味を持ったためです。940年(天慶3年)に平将門追討御祈の報賽として各地に伊勢神領が寄進され、御薗御厨が成立するにおよんで有力な神社が神明宮に変わりました。当社は、もとは三輪氏の大物主命を祭神とする式内社弥和山(みわやま)神社でしたが、浜名神戸に但木御薗が成立して只木神明宮となりました。ちなみに同時期に神明宮となった浜名惣社神明宮の太田命すなわち大田田根子命は大物主命の子孫とされています。
 三ケ日原人只木遺跡のそばにある(社を造るために土を盛ったような)小さな丘は各方面からの登り口を持ち、こんもりとした森の中に鎮座する本殿からは新東名高速道路が見えました。
 


No.101

初生衣神社 (三ケ日町岡本)
 2013年6月20日、豊橋から三ケ日へ行き、初生衣(うぶぎぬ)神社を通り越して、只木の神明宮へ行ってから戻りました。初生衣神社では代替わりのたびに同じ寸法で作られたという織機を復元するなど、いにしえのおんぞ祭に近い形を取り戻す努力をされています。かつての織殿が左の画像右の建物で、左の鳥居のある本殿まで、右の画像の拝殿から20m以上あるのは珍しいと思いましたが、まだ神明宮をよく知らないので…。
 なお、古く「伊勢神明初生衣社」「浜名斎宮」とも称ばれた初生衣神社の神官を約850年前に京から移住後つとめる神服部(かんはとり)家の記録に、久寿2年(1155)源三位頼政公がこの地を黄金1枚、銭18貫にて買い取り、伊勢神明初生衣領として寄進して以降、明治18年(1885)まで、境内の「織殿」で祭主神目代の夫婦が斎戒沐浴、三河の赤引の糸を用いて「加止利(かとり)」と称する絹を織って皇大神宮に毎年奉献したとあるそうです。
 


浜名惣社神明宮 (三ケ日大輪山)
 2013年6月20日、初生衣(うぶぎぬ)神社から約150m離れた浜名惣社神明宮へ。いにしえより、初生衣神社で織られた「御衣(おほむぞ)」を右の画像の赤い屋根の天棚織媛命社に納めてから豊橋の湊神明社へ運び、皇大神宮に奉献する慣わしがあったそうです。
 拝殿の後方の小高い丘にある茅葺の本殿は国の重要文化財で、現代では非常に珍しい板倉造(俗に言う井籠造)なのだとか。伊勢神宮や熱田神宮も元来は板倉造の社殿だったと考えられているそうです。この本殿を見たくて足を運んだのですけれど、何と石段の修復工事中!? 上がることは叶いませんでした。
 地名の大輪山から、古く三ケ日地方を統治した浜名県主が美和氏の系統だったため、三輪山との関連を指摘する人もあり、その祖神太田命が祀られたのが当社の創めとか。天慶3年(940)に平将門追討御祈の報賽として遠江國に神戸が寄進されて当地も伊勢神領となり、天照大神を主祭神とする神明宮に変わったそうです。
 


葺不合神社 (新木)
 2013年6月30日は「やまとうたのふるさと」葺不合神社での奉納演奏は現時点では一社最多の4回目です。
 1906年(明治39年)の一村一社合祀令により葺不合神社の拝殿と化した厳島神社(もと沖田の弁財天)と、沖田の産土神からウガヤフキアヘズノミコトを祭神とする葺不合神社となった本殿にて演奏しました。
 この時期に行こうと決めたのは1月に紫陽花の伐り株を見たためですが、まだ半分も咲いていなかったので、近々再訪しようと思います(藤の次に好きな花が紫陽花なので!!)。熨斗目蜻蛉がいっぱいいたのは羽化したばかりだったからなんですね。翅の褐色斑がきれいに出ていました。
 今回「やまとうたのふるさと」のレジュメを作るにあたり、合祀された1908年(明治41年)に葺不合神社に改称した理由に辿り着けました。各地に足を運んで気づいたことを、倭琴によるCD第二弾の解説に書くつもりです。
 

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