「古代のうたと神話」探訪

磯部稲村神社 (桜川市)
 2013年11月26日。謡曲「桜川」のモデルとなった桜川市の磯部稲村神社へ。境内には「桜川」に登場する磯部寺のモデルとされる神宮寺跡もありました。
 神社創建は「景行天皇四十年十月、日本武尊倭姫命、伊勢の皇大神宮の荒祭宮礒宮を此の地に移祀す」とあり、日本武尊東征のおり、常陸國桜川にて皇大神宮を遥拝し、磯部大明神として斎祀したとされています。
 日本武尊倭姫命が実在したかどうかはわかりません。神話ですから。ただ、ヤマト王権の東国進出は時代を特定できなくても歴史的事実なので、日本武尊を個人として見ず、東征を命ぜられた複数の人の働きを記紀にまとめたと見ることも可能なのではないでしょうか?
 なお、左の画像は凸の「要石」で、鎌倉末期に常陸國一之宮鹿島神宮の所領だった時代があって、鹿島神宮の凹の「要石」と連動する形で鹿島神宮の戌亥(西北)の護りとされているそうです。
 


蜂須神社 (つるぎ町貞光)
 2013年12月2日。剣山の天の岩戸へ向かう途中にあった蜂須神社です。住所の「貞光」は、おそらく坂出高校時代に自転車で通っていた「貞光線」の最終地のことでしょう。坂出からずうっと南下して吉野川を渡ると「つるぎ町」です。そこから438号線に入り、道なりにどんどん登ってゆくと剣山のリフト乗り場まで行けるようです。その遙か手前の蜂須トンネルを抜けてすぐに下の貞光川を見るとそそり立つ天然の要塞(?)が目に入ります。天然と書きましたが、断崖にある縦の空洞は、もしかすると人工的に細工されたものかもしれません。その隙間に巨大な蜂の巣が幾つかあるらしいのですけれど、徒歩で降りなくてはならず、駐車できる場所も見つからなかったため、上からの画像のみです。次回、チャンスがあれば、近くまで行って見たいと思います。
 


天磐戸神社 (つるぎ町一宇)
 2013年12月2日。かねてより、天の岩戸へ行くには険しい山道を60-90分かけて歩かねばならないと聞いて諦めていたところ、林道を使えば鳥居まで簡単に行けるとの情報を得て出掛けました。ただし某ブログにある「車で1分」は大ウソで、落石があり、対向車を交せないほど狭い林道ですから、5分以上かかります。たまたま我々が438号線を走っている時に伐採した木を積んだトラックが下りてきたので、林道でトラックと鉢合わせすることはあるまいと確信しつつ進みました。
 天磐戸神社の鳥居をくぐり、石積みの階段状の道を上るとすぐに拝殿と本殿があります。天の岩戸はここから150mほど上(標高約950m)の奥ノ院にあるため、さらに道なき道を進みます。「神楽岩」があると書かれていたので登ってみると、かなり斜めになっていて、座って演奏するのが難しい感じ。しかし絶対に怯まないのが私の長所?! 果敢に調絃をして40分も演奏してしまいました。やはり自然の中での演奏は最高ですね!! 神楽歌が宮廷ではなく自然の中から生まれたことを実感できます。
 


下宮神社 (つるぎ町一宇)
 2013年12月2日。標高1955mの剣山へ登る元気はなく、天の岩戸から引き返す途中に下宮神社がありました。文字が薄くなっている由緒書きによると、下宮神社天磐戸神社奥ノ院ともに「忌部神社の摂社」のようです。下宮神社は大宮比女を祀る大宮神社でしたが、「大」の字を誤って「下」と書いたため、中昔には「下宮五社大明神」と呼ばれ、明治維新後に下宮神社に改称されたとのこと。
 


白山神社 (つるぎ町蔭)
 2013年12月2日。下宮神社からさらに下ると、右手に「高野山御室派地蔵寺」の看板が見えたので曲がってみると、その先に「白山神社・赤羽根大師」があると書かれていました。まだ3時前だったのでどんどん東へ進むと、階段の上に白山神社があるとのこと。標高503mの赤羽根大師は更に奥だったので、白山神社への矢印がある階段を登ってみました。山道をしばらく歩くと「日本で6番目に大きいモミの木」と小さな社殿がありました。
 あれま!? いま、つるぎ町観光案内MAPを見たら、赤羽根大師の方は「日本一の大エノキ」と書いてあります。あと300mだったのに惜しいことをしました…。
 


静岡浅間神社 (静岡市葵区)
 2013年12月3日。静岡浅間(せんげん)神社とは、駿河國總社神部(かんべ)神社、延喜式内社神部神社大歳御祖神社プラス浅間(あさま)神社の総称で、神部神社の祭神は「大己貴命」、大歳御祖神社は「大歳御祖命」、浅間神社の祭神は「木之花咲耶姫命」と、三社それぞれに祭祀が行なわれているそうです。計26棟が国の重要文化財という社殿群は、賤機山(しづはたやま)の麓に1804年(文化元年)から60年の歳月を費やして建造されたもので、漆塗り極彩色が施されています。
 最も歴史が浅いのが「木之花咲耶姫命」を祭神とする浅間神社で、901年(延喜元年)に醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社から勧請され、「冨士新宮」と呼ばれたそうです。ただし、都良香(834-879)の『富士山記』に「浅間大神」とあることなどから、浅間大社において祭神が『古事記』と同じ表記の「木花之佐久夜毘賣命」になったのは近世とされています。よって、「冨士新宮」の祭神も当初は「浅間大神」であったと考えられます。
 当社の特徴は、徳川将軍家に安堵された破格の社領というよりも、6世紀に築かれた家形石棺を有する賤機山古墳にあるのではないでしょうか。左の階段を登り切った場所が古墳です。
 


雲見浅間神社 (賀茂郡松崎町)
 2013年12月4日。前日、清水港からフェリーで土肥港へ移動し、朝、約28km南の烏帽子山を目指しました。御嶽山とも雲見ヶ嶽とも呼ばれる烏帽子山は、伊豆半島の最西端に屹立する凝灰岩質の岩山で、標高162mながら、山頂すぐ下の雲見浅間神社本殿へ行くためには急峻な428段の石段を登らなくてはなりません。
 当社の名称は浅間神社ですが、祭神は「木之花咲耶姫命」ではなく、その姉の「磐長姫尊」です。延喜式神名帳には「伊波乃比当ス(いはのひめのみこと)神社」、伊豆國神階帳には「従四位上・石戸の明神」(←ここも「岩戸」?!)と記されているそうです。姉妹の父神は大山祇命で、神話では、大山祇命が天孫・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に姉妹を差し出すと、醜い姉を返して美しい妹だけを娶ったので、その子孫は岩のような長命を授かることなく、花のようにはかなくなったとされています。
 


富士山本宮浅間大社 (富士宮市宮町)
 2013年12月4日。雲見浅間神社から土肥港へ戻り、再びフェリーにて清水港へ。そこから特急で富士宮へ向かい、駿河國一之宮たる富士山本宮浅間大社へ行きました。富士山頂に奥宮をもつ全国の浅間神社の総本社で、祭神の「木花之佐久夜毘売命」を別名「浅間大神」とし、第11代垂仁天皇が紀元前27年に富士山を鎮めるために「浅間大神」を祀ったのを起源としています。
 社記によれば、日本武尊が東国の夷(ゑびす)を征伐するため駿河國を通られた際、賊徒の野火に遭われ、「富士浅間大神」を祈念して窮地を脱したことから、その後、山宮において篤く「浅間大神」を祀られたそうです。
 時代が下って806年(大同元年)、坂上田村麻呂が平城天皇の勅命で、山宮を現在の大宮の地に遷し、壮大な社殿を造営したと伝えられています。富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかったのだとか。ふむふむ、御神水の池が主で、神社が従?
 富士の雪解け水が熔岩の間から湧き出る湧玉池には「禊所」の立看板があります。往古からここで身を清め、「六根清浄」を唱えながら富士山に登るならわしだったそうです。

つかふべき 教にをとらむ 浅間なる 御手洗川の そこにわくたま  (平 兼盛)


天岩戸神社・西本宮 (高千穂町岩戸)
 2013年12月9日朝。高千穂の中心部から約7km離れているとあって、往復の無駄を無くすため、車で1分の宿をとり、朝一番に出掛けました。こちらの天岩戸神社・西本宮が一般に天岩戸神社とされているそうです。御神体は天岩戸神社・東本宮の奥、禁足地にある天岩戸(洞窟)だとか。
 そもそも、この神社によると、高千穂の岩は阿蘇山の大噴火によって流れ出た溶岩で、天照(アマテラス=太陽)が隠れた原因も阿蘇の噴火にあったのだとか。 「溶岩がこのあたりまで流れ出て来る程の大きな爆発が何回かあって、それがずっと伝えられて、後々人間の神様が登場してきて人間の神様とこの阿蘇山の爆発が合体して語られていって『日本書紀』『古事記』の神話の中に書かれている」と仰せです。
 


天岩戸神社・東本宮 (高千穂町岩戸)
 2013年12月9日朝。天岩戸神社・西本宮から岩戸川を隔てた天岩戸神社・東本宮へ。天岩戸伝説が広まったのは『古事記』(713年)以降だと思うのですが、どうなのでしょうか? それ以前は、この神社にも見られるように、きれいな湧き水がでる神聖な場所だったとか?
 私は「高天原」とか「八百万神」とか「天照」とかを謳っている場所や神社は713年前後に国策として作られたのではないかと思っています。が、山や社叢や湧き水といった「自然」に対しては感謝と畏敬の念しかありません。
 


くしふる神社 (高千穂町三田井)
 2013年12月9日。天岩戸神社から高千穂神社へ移動する途中にくしふる(漢字は木偏に患+觸)神社があります。『古事記』で天照大御神の孫・迩迩芸命(ニニギノミコト=瓊瓊杵尊)が降り立った「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」に比定されるくしふる峯の中腹にあたるそうです。神社の由緒書きによると、創建は不詳、当初は社殿がなく山そのものが御神体として祀られ、「高千穂八十八社」の一つに数えられていたとか。
 社殿が建てられたのは1694年(元禄7年)と言われますが、この社叢の深さ、スケール感はどうでしょう。参道脇の手水舎と、その前に立つ人との比較で樹木の高さが実感できます。
 当社は国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の論社で、旧社格は縣社でした。古くは「くしふる大明神」と称せられ、二上(ふたかみ)神社高智保皇神社とも呼ばれていましたが、1871年(明治4年)に正式社名を二上神社としたのち、1910年(明治43年)にくしふる神社になったそうです。
 しかし、九州にあった倭の諸国の一つが『古事記』以前からこの地にあったのか、はたまた阿蘇の噴火で誕生した手つかずの土地を神聖化して神話の故郷にしたのか、私には窺い知れません。
 


高千穂神社 (高千穂町三田井)
 2013年12月9日。くしふる神社から車で1分ほどの高千穂神社へ。「高千穂八十八社」の総社で、かつて高千穂郷にあった554社の頂点とされています。ただし、くしふる神社と同じく、国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社でありながら、近代の社格は村社でした。古来、十社(じっしゃ)大明神十社宮などと呼ばれていましたが、1871年(明治4年)に三田井神社と称したのち、1895年(明治28年)に高千穂神社と改称されました。
 創建は第11代垂仁天皇の御代、祭神は「高千穂皇神」(たかちほすめがみ)と「十社大明神」とされ、「高千穂皇神」は、瓊瓊杵尊、木花開耶姫(このはなさくやひめ)命、彦火火出見(ひこほほでみ)尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合(うがやふきあへず)尊、玉依姫命という三代。「十社大明神」の筆頭たる三毛入野命(みけぬのみこと=神武天皇のすぐ上の兄)は、この地方の悪神「鬼八」を退治したそうです。吉備でも桃太郎が「鬼退治」をしましたよね…。すると、この地に天降ったというより、倭の諸国の一つを攻め滅ぼしたということになるのでしょうか?
 


おのころ池 (五箇瀬川峡谷)
 2013年12月9日。高千穂峡にあるおのころ池で、ポケットにペットボトルをつっ込んだ怪しい女が100円のエサを撒いています。が、巨大なチョウザメたちは無視して共食いに励んでいます。一番小さなチョウザメは口を閉じることもできず瀕死の状態です。ニシキゴイが恐れをなして隅っこに固まっている様子を見、弱肉強食の摂理を学習させるための空間であったか?! と納得いたしました。100円を無駄に捨ててしまいましたが。
 かつては桜川神社(滝津妙見神社)があり、神聖な空間だったらしい…。
 


高千穂峡 (五箇瀬川峡谷)
 2013年12月9日。約12万年前と約9万年前の阿蘇の火山活動で噴出した溶岩流を五ヶ瀬川が侵食して出来た(?)高千穂峡へ。『古事記』テーマパークたるおのころ池に対し、こちらは2010年3月14日にもボートへの落石事故が起きた生々しい絶景です。
 聖泉を意味する天の真名井(あめのまない)は、神話によると、ニニギノミコトが地上に降り立ったとき、高千穂に水がなかったため、アメノムラクモに命じて再び高天原に上がってアマテラスから水の種をもらってこさせたことに由来するようです。再び高天原に上がったアメノムラクモは「天の二上がりの神」とも呼ばれ、もらってきた水の種は高千穂天の真名井になったと言われています。
 


高森阿蘇神社 (高森町高森)
 2013年12月9日。高千穂を予定より1時間ほど早く出たため、阿蘇高森「田楽の里」でお昼を頂いたあと、高森阿蘇神社へ行くことに。南阿蘇鉄道高森線の高森駅を通り過ぎ、宮山の麓を目指したものの、クネクネした農道で迷ってしまい、時間がなくなってしまいました。すぐに空港へ向かわなくてはなりませんでしたが、とても清々しい御社だったので神楽歌を演奏させて頂くことに。奥様が「拝殿の中でどうぞ」と仰って下さったのに、「一番低い所で演奏しなくてはなりませんので」と申し上げ、いつものスタイルでやらせて頂きました。
 もともとは宮山の中腹に鎮座。それが、健磐龍命が宮居を定めるため阿蘇山上から放った矢が突き刺さったという大石が200mほど離れた場所にあってこの地に社殿が建てられましたが、遷座が4〜500年前なので計算が合いません。しかし、この説話から明治までは「矢村社」と呼ばれ、明治以降現社名に。では、それ以前は?
 


天福寺 (玉之浦町幾久山)
 2013年12月10日朝。玉之浦町大宝にある大寶寺へ向かう道から、こんもりとした高台にある寺社らしきものが見えたので、少し寄り道してみたら、曹洞宗の白鷺山天福寺(てんふくじ)でした。そして、何と、弘法大師ゆかりの島らしく、「五島八十八ヶ所」があって、天福寺が79番札所、大寶寺が88番札所とのこと。
 また、天福寺と同名の曹洞宗のお寺が長崎県の西彼杵半島の西側、隠れキリシタンの多いところにあり、表向きは寺の檀徒ということになっている人々が本当は自分たちの納戸神(なんどがみ)を祀るキリシタンだったことを考えると、同じく隠れキリシタンが多かった五島の天福寺もあやしい気がしてきました。人も寺社も表向きの宗旨だけでは語れそうにありませんね…。
 


大寶寺 (玉之浦町大宝)
 2013年12月10日。玉之浦町大宝の大寶寺に最澄が彫って白鳥神社へ奉納したと伝わる十一面観世音菩薩像があると知り、五島福江行きを決めました。十一面観世音菩薩像は、明治の神仏分離の際に真言宗の大寶寺に遷されたそうです。出発前に電話で確認すると、左甚五郎の彫刻もあるので見せて下さるとのこと。島にはバスの便が少なく、タクシーしか交通手段がないに等しいため、タクシーの運転手さんに待って頂くことにしました。
 大寶寺は敷地が広く、本堂の中も立派です。最澄が彫ったとされる十一面観世音菩薩像は向かって左奥の厨子の中に安置されていました。空海が真言宗に改めた寺に天台宗の最澄の手になる像があるというのが見どころですね。天井の4隅に配された左甚五郎作と伝わる彫刻も拝見しましたが、視力0.05なので…。
 


言代主神社 (大寶寺境内)
 2013年12月10日。大寶寺の本堂の奥に神社があり、摩耗した石の鳥居の扁額が言代主神社のようでした。古くは一王寺権現(若一王子の本地仏は十一面観音)、明治の神仏分離政策により言代主神社と改称されています。「コトシロ」とは「言知る」の意で、託宣を司る神なのだそうです。ともとも書くのは、古代においては発音の方が「(言葉)」や「(出来事)」といった意味よりも重視されていたためとされています。
 さて、大寶寺および地名の大宝は、予想通り年号の大宝によるものでした。大寶寺は701年(大宝元年)に中国僧が開創(三輪宗)し、806年(大同元年)に唐からの帰途、大宝浜に漂着した空海(774-835)が初めて真言密教の護摩の火を焚いた場所ゆえ、「弘法大師 最初之霊場」とされています。
 そして、明治に白鳥神社の十一面観世音菩薩像が遷されたことでもわかるように、702年(大宝2年)に社が建てられた698年(文武2年)創建の白鳥神社と深いつながりがあり、言代主神社の祭祀は現在も白鳥神社の宮司により執り行なわれているそうです。
 


白鳥神社 (玉之浦町)
 2013年12月10日午後、大寶寺から白鳥神社へ。タクシー会社から「徒歩で山を一つ越さないと行けません」と言われ、運転手さんも同じ答えでしたが、「道に迷うといけないから一緒について行きますよ」とのこと。そこで「その集落にお知り合いはいませんか?」と訊ねたら「います」と仰るので、大寶寺で待って頂いている間に車道を調べて貰いました。すると、剣山の林道と同じく、対向車が来たらアウトですが、ガードレールがない!? 道幅約2mの道路がありました。幸いにも、神社の前に着いたとたん車が来ましたが、帰りも対向車は来ませんでした。
 さて、白鳥神社です。このページのトップと同じ、ヤマトタケルにちなむ神社。ということは、創建は『古事記』前後ということになりましょう。驚くべきことに、白鳥神社は五島では695年(持統天皇9年)創建の五社神社に次ぐ古社で、698年(文武天皇2年)創建の「縣社」でした。この年は、『続日本紀』に祈雨のため諸神社に馬を奉ったとあり、白鳥神社にも石造りの馬がいました。804年(延暦23年)に、第16次遣唐使の第2船が暴風を避けて玉之浦に停泊した折、乗船していた最澄(767?-822)が参籠したことから、帰朝後の弘仁年間(810-824)に自作の十一面観世音菩薩像を御神体として納めたと伝えられています。それが現在大寶寺に安置されているわけです。なお、最澄は805年6月5日に対馬の阿連に帰着したため白鳥神社へ参拝できませんでした。
 


大山祇神社 (五島市富江町)
 2013年12月10日。舟の手配がつかず諦めていた白鳥神社へ行けたので「風待ちの港」の地形を確認できました。自然の美しさに魅了され放心状態の私に、運転手さんが「橋を渡って鹿の居る島山島へ行きますか?」と訊いて下さいました。橋の手前にアコウの木が鳥居のようになった大山祇神社があるので行きたかったのですが、そうなると空港から遠ざかってしまいます。迷っていたら、「富江にも大山祇神社がありますよ」と教えて下さったので、再び大寶寺に戻り、そこから海沿いの道をひたすらクネクネ走って行くことに。山の中を通った方が早いと言われたのですが、海を見たかったので、幾つもの山や湾を越え、素晴らしい眺望を愉しみました。
 富江は福江に次ぐ町で、人家が多く、寺社も沢山ありましたが、大山祇神社にしても瀬戸内海から勧請されたことは想像できても由緒等はわからず終い。でも「天然記念物 富江一の大木アコウ」が迎えてくれました。この御神木は根回りが7.4m、高さが約20mあるそうです。
 「アコウはクワ科のイチジク等と同属の亜熱帯喬木で中国南部や台湾、南西諸島から北上して、九州、四国、本州(和歌山県、山口県)の暖地に分布」と書かれており、四国、和歌山県ときたら、イチョウと同じように、空海が運んできたのでは? と考えたくなります。遣唐使によってもたらされたものは多岐にわたるんでしょうね…。
 


富江神社 (富江町松尾)
 2013年12月10日。空港へ向かう前に、1660年に藩が成立してから明治に至るまで、五島富江藩の総社として藩の庇護の下にあった富江神社へ行くことに。こちらも白鳥神社と同じく、海から参拝する形で、一の鳥居が海に向いて建てられていました。今は人家がありますが、それでも海を背に一の鳥居の前に立つと、三の鳥居まで見通せました。そこから富江神社の階段の下まで歩いてゆくと、まるでお城のような造りではありませんか?!
 五島富江藩ができる前にこの地を支配していたのは松浦党に属す富江の豪族田尾氏で、当時、倭冦と組んで(?)密貿易などで勢力を伸ばしていたと言われていますが、その時代の象徴が瀬戸内の越智氏が奉斎していた大山祇神社なら、城郭のごとき富江神社は武運長久を祈る武家社会の象徴と言えましょう。五島富江藩成立前は、弘和年間(1381-84)に平家の落人とされる(?)高倉某が大和神社を祀っていたと伝えられています。
 


玉崎神社 (旭市飯岡)
 2014年1月2日。海人族ゆかりの神社へ初詣に行くため、初めて「旭」駅に降り立ちました。目指すは「玉の浦の東端玉ヶ崎に海神玉依毘売命の神霊を齋き奉る」玉崎神社です。祭神は玉依毘売命と日本武尊で、社伝によれば、111年、日本武尊東征の際、玉の浦の東端玉ヶ崎に創祀されたとのこと。 玉ヶ崎は、後世、海神を竜宮の王に付会し、龍王の鎮まり坐す龍王岬と呼ばれるようになったそうです。
 現在地に遷座したのは、天文年間に兵火に遭ったことと、龍王岬の海蝕が甚だしかったためと伝えられています。中世には下総國二之宮「玉の浦総社玉ヶ崎大明神」と称され、明治以降玉崎神社と改称されたそうです。
 


玉崎神社旧社地 (旭市飯岡)
 2014年1月2日。玉崎神社を出て、旧社地に立っているという鳥居を探しました。玉の浦の東端玉ヶ崎、すなわち龍王岬です。海岸沿いの道を走っていたら、飯岡第二海水浴場に向かって鳥居が立っているのを見つけました。今は民家が建っていますが、かつては龍王岬の鳥居から現玉崎神社を見通せたのでしょうか。
 


渡海神社・極相林 (銚子市高神西町)
 2014年1月2日。玉崎神社から銚子ドーバーラインで渡海(とかい)神社を目指しました。社叢が大好きなので、お目当ては昭和34年に千葉県の天然記念物に指定された極相林(きょくそうりん)です。
 極相林とは、松林等が次第に枯れ、その後にシイ、タブ、ツバキなどが発芽し成長して、陽樹林(日光のよく当たる場所を好む植物)から陰樹林(弱い光でも光合成を行なって生育する植物)へと変わってしまった状態をいいます。6,000uに及ぶ渡海神社極相林は、典型的な熱帯性常緑広葉樹林で、タブ、トベラ、ツバキ、スダシイ等、数十種の常緑広葉樹が自生するほか、中層・下層には、ヤブニッケイ、ヤツデ、アオキ、イボタ、マテバシイ、ヤブコウジ等が生えているそうです。左の画像は空を見上げて撮ったもの、右は参道右手の林です。
 


渡海神社 (銚子市高神西町)
 2014年1月2日。今回は初詣なので演奏時間を予定に入れて居らず、倭琴は車に積んだままだったのですが、たまたま宮内千秋宮司とお話しする機会を得、神楽歌を奉納させて頂くことになりました。ところが、正式参拝を希望される方が続々といらしたため遠慮していると、「演奏して構いませんよ」と仰るので、拝殿の正面を辞して脇で演奏させて頂いたところ、思いがけず、祝詞と神楽歌のコラボレーションが実現しました!!
 宮内宮司の御高配に感激し、帰宅後インターネットで検索して初めて、20年に一度「式年銚子大神幸祭」が執り行なわれてきたことを知りました。渡海神社は外川浦での「お浜降り神事」前夜の、雷神社東大社豊玉姫神社の三社神輿の「駐泊」、翌朝の「出御」の祭礼を担当しています。この三社は同じ創建伝説を持ち、123年に景行天皇が皇子日本武尊の東国征討の跡を巡幸した際、椿(香取)の海の東端に立って東国鎮護の一社を創建した事に始まるとされているそうです。なお、渡海神社の創建は709年(和銅2年)とも大同年間とも言われ、979年 or 1674年に現在地へ遷座。
 「式年銚子大神幸祭」は1102年、堀河天皇の康和4年に銚子高神の高見の浦一帯で起きた大津波が海神の怒りとして遠く京都に伝わったことで、朝廷が災害を鎮めるために勅命を発して銚子への御神幸祭を斎行したのが始まりで、以後9回までは毎年、10回目以降900年間は20年周期で執り行われてきたそうです。
 


大杉神社 (銚子漁港発祥の地・外川浦)
 2014年1月2日。渡海神社の旧社地を探しに現大杉神社へ。渡海神社は、709年(和銅2年)に東海鎮護と銚子半島の鎮めとして外川浦(とかわうら)日和山(ひよりやま)に創建されたと伝わり、それが銚子市外川町の大杉神社付近だというのですが、今は人家も多く、大杉神社を旧社地とする説を支持したくなりました。遷座の理由は、「式年銚子大神幸祭」と同じく津波で被害を受けた為とされています。渡海神社の祭神は綿津見大神(わたつみのおほかみ)と猿田彦大神、大杉神社は茨城県の「あんば様」として有名な大杉神社から勧請したとされているため、陰陽一対の天狗を眷属とする大杉大明神が祭神のようです。
 お正月だというのに、晴天のこの日は窓を開けたまま車を走らせたほど暖かく、九十九里から屏風ヶ浦、犬吠埼にかけての景色は言葉に表せないほど素晴らしいものでした。
 


手子后神社 (神栖市波崎)
 2014年1月28日。2日に道が混んでいて銚子大橋を渡るのを断念した手子后神社へ行くことに。銚子は特急で行っても遠い。でも、利根川の河口に近い橋を渡ると、やっぱり来てよかったなぁと思う潮風の好きな私。
 渡海神社極相林とまではいきませんが、曲がりくねった樹の形状が似ていました。樹も祭神も黒潮にのって運ばれてきたんですね…。当社の創建は神護景雲年間(767-770)で、祭神は手子比賣命。初めてのお名前でよくわかりませんが、本殿の朱塗りがきれい。境内に浅間神社があったので演奏修行をさせていただきました。
 


玉前神社 (上総一ノ宮)
 2014年1月28日。手子后神社から銚子駅へ戻り、鈍行で茂原駅を目指しました。ここからレンタカーで玉前&玉崎神社をまわります。まずは、上総一ノ宮たる玉前神社。修復工事中…でした。これまで行った一ノ宮とは規模が違う感じです。だからどうってことではありません。データがないのですが、おそらく最初は海岸に着いたと思うので、そこから移動してきたものと想像されます。先を急ぎます。
 


No.201

玉前神社 (日在浦)
 2014年1月28日。この拝殿は縦長だわとカメラを構える怪しい女!? 海に近い玉前神社で、物凄く風が強い…。
 ここから、旧夷隅郡岬町にある玉崎神社、上総一ノ宮が一直線なので、ここが元宮ではないかと想像していたのですが、石碑に「貞應二壬年」とあるので、1222年に齋藤丹後さんが海から光る玉を持ち帰った夜に「我は玉依姫命なり」との御神託があって松ヶ丘に祀ったのが今の玉前神社ということになります。よくあるお話ですよね。というわけで、祭神は玉依姫でした。
 


玉崎神社 (旧夷隅郡岬町)
 2014年1月28日。現在はいすみ市ですが、「夷スミ郡」とはまさに征夷大将軍の敵たる夷狄(いてき)すなわち野蛮人が住む郡という名称じゃありませんか?! 「夷」と呼ばれ、「鬼(モノ)」と呼ばれたアイヌ族の苦難がしのばれます。
 こちらの神社は現旭市の二ノ宮と同じ玉崎の表記。しかし!! 祭神が豊玉姫でした!? いったいどういうことでしょうか。姉妹なので、どこかで祭神を取り違えたか、隠したか…?
 まったくわかりませんが、玉崎神社狛犬がキュートで驚きました。思わず「こんぴら狗だ!?」と、口をついて出ましたが、いったいなぜ?
 玉崎神社は、1200年以上前に渡ってきた物部氏一族が和泉浦に創建した古社で、かつては安房神社、香取神社とともに房総の三大神社と称されていたそうです。九十九里浜最南端の太東埼の由縁から「玉崎神社」と呼ばれていましたが、自然災害や戦火によって1707年に現在地へ還座とありました。
 


琴平神社 (玉崎神社社地)
 2014年1月28日。玉崎神社から戻って検索したら、本殿に向かって右手にある琴平神社がパワースポットとして有名だとの情報がネット上にありました。私はパワースポットとやらには全く興味がありませんが、こんぴら狗には興味があります。江戸時代、讃岐の金毘羅までお参りに行けない庶民たちが、犬の首にお金を提げて代参して貰っていたのです。中には金毘羅で新しいお札を貰っても無事に帰り着けなかった犬もいたそうです。犬と人との長くて深い歴史を感じますね〜。なお、狛犬の台座には「寛政十三酉年正月吉日」と刻まれていました。1801年というと、玉崎神社琴平神社の社地に遷座してから100年近く経っていますが、元々の琴平神社の伝統が保たれていたことでこんぴら狗に会えました!!
 


玉前神社 (茂原市大芝)
 2014年1月28日。迷いに迷って着いた玉崎神社から茂原駅へ戻る途中、駅近くの玉前神社を通過することに。もうこの時点では何も期待していません。上総一ノ宮と日在浦の玉前神社が一直線で結べたのは偶然だったらしいとわかったからです。祭神のデータすらない玉前神社へ行く意味は感じられませんでしたが、住宅地を走っていたら突然、竜宮城が目に飛び込んできました。もしかしてこれが玉前神社
 帰宅後、検索したら、「無形民俗文化財上総十二社祭り」がヒットしました。「大同2年(807)創始と伝えられるこの祭は祭神玉依姫命とその一族の神々が由縁の釣ヶ崎海岸で年に一度再会されるという壮大な儀礼です」ということは、この祭の本宮たる夷隅の玉崎神社の祭神が豊玉姫でも問題なかったわけです。すると、12社すべて廻ってみないと理解できないってことですか…。奥が深いというか、私が未熟すぎました。出直します。
 


優婆夷宝明神社(大賀郷無番地)
 2014年1月31日、初めて八丈島に上陸。八丈富士からパステルカラーの夕焼けを見て感動しました!!
 翌2月1日は、マリア像が刻まれたキリシタン燈籠とも呼ばれる織部燈籠(八丈島では唯一とされる)のある優婆夷宝明(うばいほうめい)神社へ。祭神は、事代主命のお妃優婆夷姫とその子古宝丸(こほうまる)で、母子交合との始祖伝説があり、「このお二柱は八丈島民のご先祖である」と神社入口の案内板に書かれていました。
 なお、境内には町天然記念物に指定された樹齢約1,000年の大蘇鉄があって、御神木が蘇鉄というのがいかにも南国らしくていい感じでした。本殿が石造りというのも珍しい?! ちょうど正式参拝の方がいらしたので、邪魔にならないよう広々とした境内の一角で演奏。ピクニックみたいで楽しうございました(地面の緑はあしたばの新芽!!)。
 


裏見ヶ滝(中之郷)
 2014年2月1日、無料の裏見ヶ滝温泉に惹かれて中之郷へ。しかしながら、屋根があるだけで道路から丸見えの男女混浴というハードルの高さに敗退…。すぐ前に、裏見ヶ滝(「うらみ」という発音から「恨み」と誤解される人もありますが、そうではなく「裏から滝を見る」という意味ですとの説明書きがくどく、余計「恨み」のイメージが強まる?!)への登り口があったので行ってみることにしました。
 それが、↑この滝。って、よくよく見ても3筋ほどしか水が流れていません。どこが滝?! と絶句しつつも、せっかく登ってきたのだからと、岩盤を生かした演奏を試みました。実は岩場でのレコーディングを希望して、昨年はいろいろな場所をあたってみたのですが、こういう場所には電源がないため、いつものようにホールで録音せざるを得ませんでした。実際に歌ってみたら、やはり前後の岩盤の反響が素晴らしく、まるで、演奏技術が格段にアップしたかのようでした(していませんが!?)。ますます普通の演奏家稼業から遠ざかってゆく私ですねぇ…。
 

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