はじめに
現在の興隆県は旧「満州国」西南の国境線の内側にあった。日本は更にタンクー協定による非武装地帯まで実質支配した。これに対して孫永勤の抵抗(1933年から35年)続いて、20万の民衆が参加した冀東大暴動(1938年)は中国共産党八路軍の指導の下で戦われた。この抵抗運動は敗北だったが、以後八路軍は、長城の南北でゲリラ戦を繰り返しながら根拠地をつくり、民衆を組織して抵抗を続けた。日本軍は無人化政策で八路軍をあぶり出し、民衆を人圏に囲い込んだ。私たちが聞いたたくさんの凄惨な話はこの攻防戦の中で起こった。
私たちが始めて興隆県を訪問したのが1997年、興隆県が外国人に解放されたのは前年の1996年であった。「満州国」設立後の熱河作戦でこの地を日本軍占領したのが1933年、敗戦で日本軍が撤退してから50年以上を経ていた。そして50年ぶりに見る外国人がまた日本人であったわけで、すんなりと受け入れるわけには行かなかっただろう。
怖い日本人
張さん(大杖子)は『本当は(日本人は怖いので)ここに来たくなかったのです。』と言った。二道河の劉さんは話の間中、体をぶるぶると震わせ私たちの方を見なかった。日本人と聞けば、今も反射的に「怖い」と思う人がいることを知ったとき、私たちは愕然とし、時の経過だけでは癒されない被害の実態に触れたような気がした。2004年訪れた厖家堡では当時を知る人はいても、話したくないということで会えなかった。大杖子の張さんは前の言葉に続けて「今度来た日本人は前の日本人とは違うといわれたので来た」とも言った。
憎い日本人
『日本人には今でも憎む気持ちです』と言う言葉も何度も聴いた。劉寨子では『自分の代わりに殴ってきてくれ、と頼まれてきた』という話も飛び出した。
2回目の訪問先の一つ万人求では、川べりの空き地で老人たちのお話を聞こうというとき、『こんなこと=証言をすることをするな』と抗議しつづけた人がいた。彼に対して教育局の方が宥めかつ説得を試みているようだった。おそらく私たちが行く前にも同様な場面があったに違いない。私たちが行く先々で、小学校や政府の建物に集まり証言した人々もさまざまな葛藤を経て私たちの前に立ってくださったに違いない。そのような場を設けるために興隆県政府とりわけ教育局の皆さんが尽力されたからこそ当時の体験を聞かせてもらいことが実現したと思われる。
『私の話は昔のことです。今は中日友好の時代ですから、これからは再びこのようなことが無いように平和共存でやっていきましょう』と話は結ばれることが多かった。
柳河口で民泊したとき、I さんたちが体験したように、日本軍国主義と日本人民を区別する中国政府の一貫した方針が山村の人々にも浸透しているということだろう。私たちが旅を続け、回を重ねられたのはそのような公式的な態度表明に支えられていたともいえる。しかし劉寨子の王さんが語ったように納得しがたい思いの人々に、政府や党が繰り返し説得した結果、仕方なく言われたことを鵜呑みにしていたかもしれない。
記憶を記録に
私たちは『本当のことを知りたい』という思いでこの旅に参加した。つらい体験を語るということは、その体験をもう一度体験するような困難さがある。ましてや私たちは加害者に繋がる者たちである。なるべく被害者の側に寄り添うように想像力を働かせてお話を聞いたつもりだ。
茅山の劉さんは子どものときのつらい体験を語った後で「今日はこの話をさせてもらって感謝します。なぜなら憎んで憎んで憎みぬく気持ちをためていたからです」と話したのには驚かされた。話し出してまもなく泣き出してしまった万人求の任さんは50年余りの間、自分の体験をぎゅうっと胸の奥底にたたんで耐えていて、のだろう。
確かに?さんのような人からじっくりとつらかった体験を聞いてもらった人(たとえば大水泉の管さん)は比較的穏やかな表情で淡々と語った。
私たちは調査に行ったのではない。何があったのかを自分の目と耳で確かめたかったのだ。聞かされる事柄の深刻さ重大さに圧倒されて細部にわたるところを聞きそこなったと思うこともしばしばあった。60年余り前にここ興隆県で何があったのか、当時を生きた人々の記憶をそのまま受け止めたいと思った。だからここに納めた証言は、正確な事実の記録というよりは、感情的な部分をも含めた記憶を記録したものということになる。被害を受けた人たちは興味本位の訪問者は拒絶するだろう。
日本人に3度会うとは思いませんでした
私たちの気持ちを受け止めて教育局が、老人たちを説得してくれなければこの旅は成り立たなかった。『一度会えば友達=老朋友、2度会ったら親戚』教育局の人々はそんなことを言って、毎年待っていてくれた。証言を聞きながら「申し訳ない」という気持ちになる。でも、私たちがお詫びしたからといって、被害者の方々は慰められ癒されるわけではない。証言をしてくださった方々の共通の願いは『事実は事実としてきちんと知って欲しい』、「再び同じようなことが起こらないために、若い世代に伝えて欲しい」ということだ。大帽峪の韓さんが孫を抱いて言ったように。
中国では若い世代が老人たちの思いを引き継いでいることを実感した。たとえば上石洞郷の党書記トウさんは次のように言った。
「皆様お疲れ様でした。中国と日本の民間友好を発展させ、そして、今まで行われた悲しい歴史事実を明らかにし、当時戦いを続けた方々の土地の教育を支援し、また当時の歴史の証人から証言を聞いて当時の日本軍の事実を知るためにここを訪れた皆さんを、私はこの町(村)の人々を代表して歓迎し、友好の気持ちを表したいと思います。・・・日本も戦争のために多くの被害を受けました。今までの歴史を忘れずにこれからの歴史に生かすようにしたいものです。中国と日本の人々との友好を発展させ、世界中に平和と愛を深めていきたいと思います。」
藍旗営郷の責任者・党書記の張さんは歓迎の挨拶の中で次のように語った。
「中国人民は血と涙に満ちた歴史を忘れることはしません。けれど、もっと今日の中日友好を重要視しています。私たちは中日両国人民の協力と努力によって、これからの友好と友情が深められることを期待しております。最近一部の日本人が、過去の歴史を認めず否定していると聞きました。このことは絶対許されないことであり、日本人民も許さないと思います。今回の皆さんの視察によって当時の正しい歴史を日本人民に伝えられることになると思います。皆さんは両国人民の友情の架け橋になると思います。皆さんの努力に感謝します。」
また、王廠溝では寛城県教育局副局長・許さんが次のように挨拶した。
「誰でも過去の歴史を思い出したくありません。ところが事実は事実です。ただ、過去のことは過去のこととして思わなければなりません。私たちは一生手を取り合って、平和のために進んで行こうではありませんか。」
Kさんは万人求での証言についてお礼に続けて「本当の交流は、真実をきちんと知ることからしか始まらないと思います」と述べると聴衆の中でうなづく若者があった。
?子峪の傳さんが「日本人に3度会うとは思いませんでした」と言ったのは、1度目が占領者日本軍、2度目は2001年最初の訪問、続いて2002年の訪問が3度目だった。2度目のときは日本人の友情を受け入れたけれど半信半疑であったが、3度会って気持ちがほぐれたと私は理解した。やっと友達になれたのかなと思う。