崔(74歳)さんの話
トウさんから紹介
崔さんは当時とても有名な民兵であって、建国後30年ほど共産党の書記をしていました。
崔さん
今日来てくれている皆さんは友達ですけれども、昔の日本人は敵でした。私が昔のことを紹介することは失礼なことになるかもしれませんが、しかし昔は確かに敵でした。敵は敵、友人は友人ということで分けて考えていただきたいと思います。
私が紹介したいのは村の惨案、惨めな事件です。私が自ら体験したことです。
私たちのところでは1940年から戦争が始まりました。42年から人圏を作り始めました。ここの村の人は「全部、五道河の人圏に行きなさい」と言われました。そういうふうに命令されましたが、私たちは人圏に行っても死ぬだろうと思いました。また当時は、貧しい農民を捕まえて、東北地方の黒竜江省や遼寧省などに石炭を掘るために連れて行かれる、強制連行があって、私たちはそこに行きたくなくて、結局山を下りることはなかったのです。
八路軍は38年の時からもう私たちの村に来ています。彼らは1万人でした。宋とトという2人が部隊を率いて来たわけです。その後八路軍はこの村で活動していました。
当時は六道河というところには日本軍が駐在していました。42年に人圏を作った時に私たちは山を下りなかったのですけど、ここは無人区とされました。三道溝というところより上は無人区の範囲に入ります。三光政策をやりました。全部焼いてしまい、殺してしまい、全部物を奪ってしまうことです。
当時我が村は71世帯でした。314人でした。1945年戦争が終わった時点で村で亡くなった人は137人でした。その中で日本軍に兵器で殺された人は87人でした。1943年の旧正月の25日に私たちの家は全部焼かれました。住むところが ないので洞穴に入りました。
狗背嶺の1つの洞穴の中では7人殺されました。2世帯の人たちです。1つの世帯は7人家族でしたけれども1回で5人殺され、もう1つの世帯は3人家族でしたけれども2人殺されました。女の人は強姦されてそれから殺されました。服も全部焼かれました。翌日我々が行った時には、もう何人かが裸で死んでいたのです。死んだ人のところは火災のような感じで火があがっていました。見ている時にまた日本軍がやって来て、そこで戦いがあり、私たちは長城の南の方に逃げました。私たちはその翌日また戻って来て、ほとんどの物は捨てて焼きました。こういう状況は我が村ではここだけではありませんでした。六道河というところに山下隊という日本軍が駐在していましたし、中国人の劉という人が率いるもう1つの討伐隊があって、彼らは私たちのところで残酷なことをしました。人を捕まえたら別のところで殺すのではなくて、現地ですぐ銃剣でやったり刀で頭を切ったり、銃殺したりしました。
41年から43年の間に家はほとんどなくなりました。当時は共産党もここに来て民兵を組織していたのです。どのくらいの戦いがあったかは、私はもう詳しくは話せないのですけれども、しょっちゅうありました。2、3日おきに1回あるという感じでした。六道河、四道峪、三道河、四道河、五道河、南の方の塔ケイやもっといろいろなところでありました。特に盤山、四座楼というところなど、共産党と民兵がよく活動していたところは幾度も戦いがありました。
私は15歳の時に民兵としてゲリラ戦に参加しました。当時民兵の中隊長は6人死にました。1945年の旧暦の5月5日、端午の節句でしたが、私は第7代の中隊長になって、その後しばらくして解放されました。私は生き残ったのです。
いろいろな惨案があったのですけれども、例えばさっき言った女の人とか子どもとか、銃を持っている人ではない、つまり民兵ではない人が殺された事件は沢山あるのですけれど、それを全部言ったらかなり時間がかかるので簡単にしたいと思います。
我が民兵はゲリラ戦を続けました。当時は私たちは遊撃戦をやって、もし勝てると思ったら戦い、勝てないと思ったら別のところに移るわけです。この辺りは駐在している敵が多くて、例えばさっき話した六道河には山下隊、三道河には中国人でしたけれども、宋隊。劉隊もいました。87人が殺されたと言いましたけれど、山下隊と劉隊はここに近いですので、彼らが殺した人はたぶん7割を占めていると思います。私たち民兵は武器がないのですが、戦うことによって敵から武器を奪ったわけです。私たちがよく使っていた武器は地雷と手榴弾です。
私たちが作った地雷は、「地雷戦」という有名な映画があるのですけれども、映画で描いた地雷とは全く違っていました。大きな石に穴をあけて、そこに火薬を入れて導火線を下に置く。上に置いたらばれますから。そして、下からまた小さな洞穴を掘って導火線を下から出して、引くわけです。地雷は500キロのものもありました。
1944年の旧正月の日、劉隊はここに掃討しに来て、地雷を踏みました。負傷した人は別にして、死んだ人は11人でした。
私は毎日地雷を作っていましたから、こういうことが沢山ありすぎたので、例としてこの1つを言いました。当時の人たちの気持ちとしては憎んでも憎みきれない思いで、1日も早く終わりにしてしまいたいという気持ちで戦いました。
この近くに全部で3つの村があって、民兵は50人ないし60人いて、時には集まりますけれども、普段は集まらないのです。というのは集まると規模が大きくてばれてしまうから、10数人であるいは20数人で活動していました。私たちはもう何年も戦い、こういうことはとても多いのですが、あまり時間がないので簡単に致しました。
戦いはこれくらいにして、これから少し当時の農民たちの生活について説明したいと思います。例えば食べ物のことを言いますと、春私たちがせっかく植えたのですがしばらくすると討伐隊が来て農作物を全部刈ったのです。3年間何も農作物ができませんでした。鍋などの調理用の道具は全部なくなりました。臼は没収されました。当時は洗面器等は銅や鉄のものはほとんどないのです。10人に1つぐらいあるような感じです。私たちは袋を背負い、その中にはトウモロコシが入っています。敵がいない時にはそのトウモロコシを石の上に出してもう1つの石で打ち砕いて粉にしたのです。ご飯を食べる時は敵がいない時に川辺などの水のあるところで、洗面器のようなものの中に水を入れて、トウモロコシの粉を入れて火で暖めて食べました。次のご飯をいつ食べられるか、どこで食べられるか全く予測できない時期でした。
Iさん質問
3年間刈り取られて、食べ物は、トウモロコシはどこで手に入れたのですか?
崔さん
食料は普通、2つの方面から来ました。1つは八路軍が長城の南の方から運んでくれるのです。もう1つは人圏のところから、敵のところから盗るわけです。例えばそこの責任者がいて、張郷長とか敵の方の組織なのですけれども、遊撃隊がその責任者を捕まえて「食料を出せ」と言うのです。「もし出さなかったら殺すぞ」「出してくれるなら後で返す」ということで、敵の方からもトウモロコシなどを奪ったわけです。だけど人圏からも八路軍からもそんなに沢山の食料が入るわけではないので、餓死する人は非常に多かったのです。ですから今日は食べられても次回はいつ食べられるかはまったくわからず、苦しい時期でした。
当時は敵が来なくても、もう充分困難な時期でした。もちろんまた敵が来て封鎖戦をやったりしましたので、着る物はあまりなかったのです。冬になると綿入れですけれども、春になると綿入れの中の綿を抜いて山の上に隠して、それを秋になるとまた入れるわけです。だから3年間その着物1枚で生きてきました。今は着物、服といったら、今日何を着るかといって着替えるのですけれど、とてもそういう事情ではなかったのです。
当時は非常に困難な状態にありましたけれど、しかし我が村の人たちは民兵であろうと普通の村民であろうと、私はこんなに食べられないのだから山の中での生活を続けられなくて、じゃあ人圏に行こうとか、じゃあ敵に降参してご飯をもらおうとかそういうことは一切なかったのです。
さっき駐在所の討伐隊のことを言ったのですが、あれは全部、中国人の討伐隊でした。その中に副隊長として日本人が1人います。山下隊は全部日本人でした。
45年の時点になると敵の方が怖くなってだんだん来なくなったのです。小さな道を歩く勇気は無くなっていました。1945年の3月か4月、劉隊がいったん来ました。山の方に行ったのではなくてさっき私たちが通ったところ、そこまで来たのです。当時は大砲じゃない、小さいのですけれど火薬を入れて沢山の死傷者を出したというような武器でしたけれど、その時は大砲を使って劉隊に死傷者を出しました。その隊長のお尻の部分を大砲で傷を付け、怪我をさせました。さっき言った地雷は石の石雷ですね。45年の時、私たちは鉄の地雷を作って、車が通ると爆発するという仕掛けをしました。先ほど言った11人の死者を出した戦いの時に、私たちは14キロの地雷を使ったのです。その11人はどういうふうに死んだかというと、地雷を、もう冬ですから乾燥したトウモロコシの中に入れて、敵も寒いから火をつけてそこで体を温めたのです。それで地雷が爆発して死んだのです。劉隊長はお尻を傷つけてしまいました。45年には来られなくなったのです。
45年の時にもう既に敵がだんだん来なくなったんですけれども、私たちの方はこの時点で、老人や子どもは凍死とか病死でもういなくなって、ほとんど私たちのような若者が生き残ったのです。子どもはもし捕まえられたら、火で焼かれてしまいました。当時の日本軍が私たちに対してやったことは、本当に残酷すぎて人道という言葉が全くないような感じでした。私たちにとってはその時の指導者は悪すぎる人という 感じです。
時間ですので私のことはここまでしにたいと思いますが、最後に言いたいのは、戦争の中でどんな残酷なことがあっても、困難なことがあっても、私たちの戦う意志がすごく強かったということです。この戦争は希望がないからもう戦うことをやめようなどと考えたことはなかったのです。誰も人圏に入るとか、日本軍の方に行くとか、そういう人はうちの村にはいないのです。私の話はここまでにしたいと思います。