わたしは、大帽峪(寡婦村)のたったひとりの生き残りの青年だったのです。名前は韓明と言い、今年70歳です。
今日、みなさんに話したいのは、当時、日本軍が中国に侵略したことと、中国人民にもたらした本当に言葉では表せないほどの苦しみです。
日本軍は中国を支配するために人圏を作る方法をとりました。各村と各家々の人々を集める人圏を作ることにし、興隆県内だけでも50の人圏を作りました。日本軍の当時の考えは、この方法を通して中国の一般庶民と八路軍を切り離すためだったのです。
各部落では、また大討伐・大検挙をしました。大帽峪はその中の小さな部落でした。1942年、当時この地で人圏が作られました。日本軍は、当時中国共産党が指導していた八路軍が、このあたりで行動していることを事前に知っていました。ということは、この大帽峪という地形は非常に重要な所なのです。北には五指山と繋がり、南は基地の根拠地とも通じる、このあたりでは一番重要なところに当たるような感じの所だったのです。それは八路軍に食料を届けたり、情報を伝えたり、また人を送ったりするときに必ず通る道だったのです。ですから、日本軍は大帽峪を非常に睨んでいたのです。そして1943年旧正月3日、この地は大摘発の中心地になったのです。
ちょうどその日、八路軍のひとつの連隊で、大体10人位の人たちがここに泊っていました。その日、日が暮れる前にスパイが2人この村に入ってきました。軍隊の下に民兵がいるのですが、民兵で、この村の栄さんがちょうど歩哨の交替に行くところでしたが、スパイに捕まってしまいました。そして、「この村に八路軍はいるか?」と聞かれた栄さんは「いない」と答えました。その時、歩哨に立っていた八路軍は、そのスパイに向けて発砲しました。スパイのひとりが銃殺されました。もうひとりは藍旗営に逃げ帰り、憲兵隊に報告しました。
このあと、この村にいた八路軍と幹部たちは北の方に退きました。これは予想してたんです。もし、ここを離れないと日本軍が必ずここへ来ると思って、北の方に移動したのです。案の定、間もなく藍旗営の憲兵隊の孫という人が日本の憲兵隊200人を率いて大帽峪を包囲しました。
まず、中国人を2ヶ所に集め、入って来てそこに火をつけました。この部落は小さいので昼のように明るくなりました。
日本軍と憲兵隊は各家ごと捜査しました。そして73人の村の人たちを捕まえ、縛って、藍旗営まで連れていきました。そして、高さんの庭の中に閉じこめました。その翌日、日本軍がその人たちに、誰が八路軍かといろいろ聞きました。
捕まった村の人たちは、八路軍が何処へ行ったか判っていても黙っていました。秘密を守り、日本軍に拷問されても一言も言いませんでした。そして、日本軍と庭の中でも戦いもしました。その中の始さんは言わなかったので、銃剣で刺されました。宋さんは拷問されても何も言わなかったために、火で焼き殺されました。陵さんは唖だったので、実際聞かれても何も喋れないのに、何度も聞かれて、銃剣で刺されました。
とにかく日本軍との戦いは厳しく、何日もしないうちに何人かは殺されました。翌日、また日本軍は捕えた人たちに対して、誰が大帽峪の人か聞きました。そして「大帽峪の人だったら放す」と言いました。前に出るように言われたので、大帽峪の人たちが前に出たら、日本軍に鼻の上に赤い印を付けられました。その印は死刑の意味があったのです。
私は高さんの家に閉じこめられて3日間、ご飯も与えられず、水も飲ませられなかった。中国では料理を作った後、残ったお粥やスープなどひとつのかめの中に入れる風習があるのですが、水が無いのでみんなそれを飲みました。それはふつう、豚などの家畜にやるためのものですが、それさえも飲みました。また、村の人々をたくさん庭にいれ、座らせ、立つと棒でたたきました。
正月の8日目、日本軍は大帽峪の人たちだけに、茶碗のお粥を出し、「それを飲んだら大帽峪に返す」と言いましたが、実際はそうではありませんでした。夜、30人程の人がトラックに乗せられ、興隆県に運ばれました。あとの30人くらいは万人坑へ運ばれました。この30人の人たちは、穴のところへ連れ出され、顔を穴の中に向けさせられ、その日の夜、みんな銃剣で刺し殺されました。
この30人の人たちは、今日の私たち興隆県大帽峪の幸せのため、また当時の八路軍の安全のために貢献されたのです。みんな犠牲になったのです。
70人くらいの大帽峪の人の中で、ようやく私ひとりだけが逃げ出しました。それは日本軍の不注意で逃げ出したのですが・・・。南山というところへ逃げ出したのです。が、後ろから発砲され左肩に当たりました。左側の背中には当時の傷跡が今も残っています。
次に金さんについてですが、金家の長男の金さんは銃剣で刺されたとき、倒れた人たちの一番上に埋められました。幸い土は浅かったので、夜中にはい出し、村へ戻りました。でも村へは長くいられないので、遠くまで逃げ出しましたが、途中で破傷風という病気になり死にました。
大帽峪の30人のほか、当時この近くの村の人たちも30人くらい殺されました。先程の、興隆県承徳の北の方に運ばれたという30人の人たちは、今でも行方不明になっています。いったい何処へ運ばれ、どうなっているのか、今でも判りません。ほとんどが中国の東北の方で死んだのではと思っています。ここの73人のうち9家族が全部殺され、全くいなくなりました。
「寡婦村」という名の由来は男性が捕まえられ連れ去られ、女性しか残っていなく、みんな寡婦になったのでこの名になったのです。
日本軍はこれだけで満足せず、3日目命令を出して、大帽峪の部落を全滅するように言いました。男性は全部捕まえられ、女性と子どもしか残されていませんでした。残された人たちは行く当てもありませんでした。
隣の部落の親戚の人たちも、大帽峪の人たちと接触することを恐れていました。また、接触することも出来ませんでした。大帽峪は八路軍と関係があるから、大帽峪の人たちと接触したら、やはりひどい目にあわされました。
当時の人たちはみんな、天に入りたくても道がなく、地に入りたくても隙間(門)がなかった。遠くの親戚のある人は遠いところへ移動したり、友達のいるところへ逃げ出したりして、当時の大帽峪は荒涼たる荒れ地になってしまいました。
二つの例をお話します。
王さんの家族は遠くまで逃げ、戻ってきたときは18人家族中、2人しか残っていませんでした。
私個人のことですが、父は「道路を作るので家を壊せ」という命令に同意しなかったばかりに、憲兵隊に連れていかれ、殴られて失明しました。そして3日後死にました。2番目のおじさんは逃げ、何日か後に帰ってきましたが、八路軍に情報を届けに行ったということで捕まえられ、殴られて、村のうしろの城の塀の中に入れられました。家族が見つけ、家に連れて帰りましたが、3日後に死にました。3番目のおじも捕まえられたが、何処で死んだのか、どうなったのか今でも判りません。一言で言えば、私の家族は16人中、7人しか残りませんでした。
話しだせばきりがないのでやめますが、今、時代が変わり、昔の苦しみも過ぎ去ったことにして、今日、日本の友人たちが私たちに関心を持って訪ねて来られたことに、私は心から歓迎と感謝の意を表します。そして、もっとたくさんの日本の友人が中国を訪問することを歓迎します。