日中戦争証言 成功村

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1998.8.19---成功村

トウさん

 みなさんに説明します。この村は他の地区と違って人圏は無かった。無人区の中心地だった。五指山を守るための西北の門で、ここから東に35〜37キロ山の上にあたる。抗日戦争の時、五虎の地雷組があった。地雷組の組長は解放後県長になりました。抗日戦の1933年から45年までの13年間、五指山の根拠地を守るために大きな貢献をしましたし、大きな犠牲も払いました。 無人区のことについて、これから説明します。

張さん(76歳)

  1944年、旧暦12月29日に日本軍に捕まった。朝早く山に逃げたが、お腹が空いて、昼頃山を下りたときに捕まった。兄は薪を取りに行き、担いで帰るとき、3人の日本軍に会い、薪を置いていくように言われた。銃を奪おうと思ったが、日本軍は3人で、自分一人では無理なので逃げた。私は穴の中で大根を掘っていたら、兄が殴られているのが見えた。隠れていても殴られるから、穴から出た。着ていた綿入れが邪魔になるので、綿入れを脱いで、布で作った袋があって、中に入っていた唐辛子等の調味料を全部捨て、西の方に2キロほど走って逃げた。雪が積もっていた。大丈夫だろうと思って止まったが、日本軍が近づいてきて、3回発砲した。途中、何回も走ったり止まったりしたが、それ以上走ると危ないと思って止まった。3人が私を捕まえた。「鉄砲を出せ。」と言われ「無い。」と行ったら殴られてた。頭めがけて撃たれた。「スミを出せ。」と言うので「それも無い。」と行ったら両手を後ろに縛られた。「品物を出せ、人を出せ。」と言われたが、何もないので出すわけにいかなかった。大根を埋めてあった穴の所まで行った。大根を出してやろうと思ったが、それもできない。私以外に30人捕まり、29人が殺され、私1人が逃げた。旧暦2月のことです。 李の妻は妊娠中で、3歳の女児を抱いて子どもと一緒に殺された。お腹の中の子どもも殺された。この村の張は軍犬に噛まれて、一口一口噛まれて骨ばかりになって死んだ。目を抜かれ、心臓を取られた人もいた。

劉さん(76歳)

 1943年、旧正月のことです。山の一番上を通っていたら、日本軍がこっちから向こう側から八路軍が登ってきた。日本軍は隠れていた。八路軍は知らなかった。八路軍の連隊長の呉石中は途中で皆を休めようとしていた。2班に別 れ、1班は上に登り、1班は休んだ。上に登った班は日本軍に発砲され、1人を残して全部死んだ。休んでいた班は負傷者も死者も出なかった。

傳さん(78歳)

  1942年から45年のことを話します。私が見たことです。ちょうど6月採り入れの日、3人が日本軍に殺された。日本軍は私たちの作物をとり、家を焼き払い、たくさんの中国人を殺した。1944年7月、日本軍は私に向かって2〜3回発砲し、3発目は左足に当たった。3年間の作物は全部日本軍の食料にとられ、非常に苦しい思いをした。 2つのことをみなさんに言いたい。ひとつは、過去において確かに日本軍は中国に悲惨な苦しみを受けさせた。ふたつめは、今、中日は仲良くしていかねばならないということ。そして、世界の発展と世界の平和に貢献することが、大事なことだということです。

陳さん(71歳)

  私がまだ小さい頃、庭で遊んでいた私に、1人の日本人が発砲しようとしたら、隣のもう1人の日本人が「子どもだから撃つな。」と言い発砲しなかった。他の日本軍は中に入って、父を殴って外に引っ張り出した。父は身体中血だらけだった。両親、姉、妹を外に出してから、家に火を付けた。ちょうど昼頃で、みな食事中だった。父は連れられていく途中、木箱を背負わされた。死ぬ ことはなく、ただ働かされただけでし

鮑さん(78歳)

 2つのことを言います。ひとつは家のこと、ひとつはさっきの張さんの言った1944年のことです。当時、私は山の上に住んでいた。日本軍が来るという情報で、山の上に逃げようとしていた時、日本軍に会った。その時、家内が鉄砲を1発撃たれて殺されてしまった。弾が背中から貫通 した。家内が死んだ後、また自分は走った。後ろから何発も撃たれたのが、当たらなかった。その時から八路軍に参加した。日本軍が行ってしまってから、家内の遺体を埋めた。さっきあは31人と言ったが、現場で穴を掘って埋めた時、32人だった。妊娠していた人は子どもを1人背中に背負っていた。 山を全部焼き払う、人は殺すという三光政策だった。三光政策はどこにも逃げられないものだった。 今話しているのは昔のことです。年配の人で話せる人がだんだんいなくなる。私は中日両国が仲良くしていくよう期待します。

Nさん(日本側)

  劉さんが地雷等を作って、日本軍に抵抗した時の話をして下さい。

劉さん(76歳)

  爆薬を中に入れて爆発させた。また、爆薬を一束にして、周辺に石を置いて見つからないようにし、日本軍が来てそれを踏みつけたら爆発するようにした。 製造技術などがあるわけでなく自分で考えて作った。

鮑さん(78歳)

 この辺は当時無人区にされた。無人区では物は奪われ、人は殺される。無人区は、人は行ってはいけないとう意味があるから、人がいたら殺される。人圏に行けば伝染病で死ぬ 。山の方に捜索しに来て、人がいなかったら、火をつけて焼く。村の女性が1人、山の中で燃やされて火傷した。

関さん(76歳・五虎の1人、虎義の妻)

  私の夫は、みんなと一緒に地雷を作ったことがある。3月、私と夫は長男を抱いて野良仕事に出ていた日に、敵が来ると言われ、家のものを全部他に移動した。私が先で後ろに夫がついて来た。交差点のところで3人の日本軍に会い、夫は捕まった。山の奥まで連れていかれ、ひどく殴られて身体全体血だらけだった。昏睡状態のところに冷たい水をかけられて、意識を戻された。このようなことを4回繰り返された。唐辛子を溶かした水を飲まされた。股がひどく腫れた。連行途中、飛び降りて逃げ出し、何回も殴られたりしたので、50歳にもならないうちに病死した。 実家は8人家族。母と両親は日本軍が来ると聞いて、逃げ出した。途中一方の足を捕まえられた。家族4人が捕まり連行されたが、その後行方不明になった。実家の母は4人の子どもを1人で面 倒見てきた。何日か後に、日本軍のスパイに会って、お父さんのことを心配になって聞いた。「カンという人いますか、40歳くらいです。」と聞いた。「その人は生きているか。」と聞いたら、「死んだ。」ということだった。

トウさん

 この村は抗日戦の時398人いた。戦いで死んだ人91人。この村からたくさんの英雄が出た。ゴコジライグミ(五虎地雷組)、エイシイサンジライグミ、フーハージライグミ。年配の人はよく知っていることです。 ひとつの例ですが、五虎地雷組の中の1人、虎春は1943年17歳で、この村の委員会の主任だった。 彼は日本軍と戦って60人くらいを救った。9月の日本軍討伐の時、20人くらいの村人を東山に隠した。犠牲を恐れず情報を伝え、20人を救い出した。 もう1回は300人くらいの日本軍が、この村の討伐にきて、西山を包囲したことを知らせ、村人は逃げた。44年3月18日、村の食料全部とりだした。日本軍は食料を置いて、東の方に行った。虎春、虎地(弟)は、山から下りて食料を埋めていた間に、日本軍に包囲された。虎地が撃たれて死んだ。虎春は逃げられないと思って、共産党員の証明書を土を埋めて、北の山に走った。捕まった時、彼は懐にあった手榴弾を爆発させ、自分も死に、周りの敵も殺した。 興隆県の中ではこの素晴らしい英雄伝が伝わっている。この村には彼のような英雄青年は他にもたくさんいる。