郭(73歳)さんの話
日本という国は昔、軍国主義が残酷なことをしたのですけれども、現在の中国の人たちは友好の気持ちを持っている人がとても多いと思います。私はここで、いい日本人にも会ったことがあります。過去のことを言いますと、38年前後から敵がここに拠点を作りました。42年から人圏を作りました。当時の行政制度として、ここには7つの甲がありました。東の方に梯子峪、西ドウ子峪、東ドウ子峪という3つの甲があって西の方には4つの甲がありました。
1942年12月の時から人圏を作り始めました。1つの甲に基づいて人圏を作り始めました。西の4つの甲は無人区にしました。東の方は警察の支所がありまして、支配をしてだいたい2つの甲を無人区にしました。今の西ドウ子峪のあるところと、それから梯子峪の一部分を無人区にしたのです。ここは梯子峪ですけれども、ここは人圏でした。私は当時まだ小さかったので、別のところがどういう状況かはわからなかったのです。ここのところのことだけのことを言います。ここの村に最初は450人いましたけれど、戦争が終わった時点で280人になりました。あとの170人は亡くなりました。農民たちのもともとの家は壊されたり焼かれたりしました。人圏の中では溝を掘ってその上に草などを置いて、12月でしたからね、非常に寒い冬でしたけれど、その中に入って家として住んでいました。2年間あまりでした。
今私たちの前に座っていらっしゃる方たちは私たちの友達なんですけれども、当時私たちは「日本人の鬼」というふうに呼びました。しかし侵略ということをやったのは国であって、個人としては中にはとてもいい日本人がいました。私はこの例をあげたいと思います。その人は所長をやっていて沢山の人を保護しました。その所長は名字か名前かわからないんですけれど、私たちはモンチェン(門前?)さんと呼んでいました。モンチェン所長と呼んでいました。その頃は、行政単位として村と甲と牌がありまして、村はだいたい10の甲があり、甲にはだいたい10の牌があります。この甲には100から200世帯があってこれは10の牌となります。1つの牌の中には10あまりの世帯があります。1943年の時に憲兵つまり日本の軍隊がこの辺りに駐在していて、牌の長のことを牌長と言うんですけれども、彼らには依然として八路軍との連絡があるという情報を得て、日本軍はこの20人あまりの牌長を捕まえて軍の中に入れたのです。で、その時この門前所長さんがそういうニュースを聞いて、軍と交渉してこの20人あまりを救出したのです。
その43年の時の牌長さんたちはどういうふうに捕まえられたかというと、「配給品があるから取りに来い」と、軍が言ったのです。そこで20人あまりの牌長さんが行って、行ったら閉じ込められて家に帰さなかったのです。門前さんはそれを聞いて交渉して彼らを出したわけです。
もう1つのことなのですけれど、44年のことです。憲兵の中には通訳がいなかったのです。43年の時もいませんでしたが。44年、憲兵はここの5人の牌長さんを会議を開くということで呼びました。さらに別のところで2人を、ここの人ではないのですけれども、別のところの2人を捕まえて軍の中に入れたのです。門前さんはそれを聞いて、また、ここの5人を「ここの人ですよ、彼らは八路軍とは関係ないですよ」と説明して救出してくれたのです。あとの2人は門前さんは知らないですから交渉しなかったのです。その2人は結局殺されました。ここの5人は助かりました。ですから私たちから見れば、当時から門前さんを友達だと思っておりました。
私たちのここ人圏のことですけれども、直接的に人を殺すことは割と少なかったです。あまり殺人はありませんでした。しかし私たちは大きな被害を受けました。それはなぜかといいますと、この塔慾いうところには金鉱があります。金がありまして、ここで金を採掘するために日本軍が道を作らせました。皆さんが今日ここに来た時山の中の道があったでしょう。その道は当時から、旧満州の時から既にあったのです。その道は日本軍がここの人を使って作ったわけです。そういう過程の中では沢山の人が死にました。病死、餓死、凍死、過労などで死にました。ここは日本軍にとっては非常に重要なところでした。道も作らなければならないし、いろいろな工事をやらなければならないのです。先ほど皆さんが通った道は、どのくらいの人が死んだのか統計はないのですが、私は自分の経験で、だいたい20人ぐらい、自分の目で見たのは20人ぐらいがその過程で死にました。
日本軍が来る前には村に学校がありましたが、人圏になってから学校はなくなりました。1つの学校が残りましたけれど、それは42年に人圏を作る以前に既にあった日本語の学校でした。42年以前に日本語を習わせるために学校を作ったのです。その学校にはハオユンリーという先生がいたのですが、42年にこの先生が八路軍と連絡があって、いろいろな関係を持っているということで、この学校をも焼いてしまいました。ですから学校もそういうような影響があると思いますけれど、あんまり校舎も少ないということです。
皆さんに今回来ていただいて、私たちにとっては励ましになると思います。靖国神社を参拝する人は個々の個人であって、何人か数人か数十人かということで、多くの日本人は平和を愛してますので、私は中国と日本の関係はこれから破綻することはないと思っております。この平和は続くだろうと信じております。私の話はこのへんにしたいと思います。