日中戦争証言 ドウ子峪

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2001年8月21日
於:ドウ子峪中学校

Nさん

 私たちは日本から小学校、中学校、高校、大学の教師たち18名で参りました。抗日戦争の時の皆さま方のご苦労なお話を伺いに来たわけです。本当に辛い思いをおさせしたことを最初にお詫びをして、そして率直にお話ししていただきたいと思います。 私たちは伺ったお話を国に持って帰りまして、自分の町で、また子どもたちに話を広げて、平和のために皆さま方と手をつないで生きていきたいと思います。よろしくお願いします。

トウさんの説明

 まずドウ子峪のことについて簡単に説明させていただきます。今日皆さんが来た時にご覧になったように、山の落差が非常に大きいです。今私たちがいるところは標高100メートルくらいです。興隆の標高は600メートルぐらいです。ここは狗背嶺根拠地の一部分となっています。 旧満州の頃のドウ子峪は今よりはもっと広くて19もの村がありました。今はその中の1つです。その時のここは人圏のあったところですから、無人区とは事情が違うのですけれど、しかしここの人圏にいる人たちは無人区にいる人々と手をつないで、日本の支配に反対することに貢献しました。

郭(73歳)さんの話

  日本という国は昔、軍国主義が残酷なことをしたのですけれども、現在の中国の人たちは友好の気持ちを持っている人がとても多いと思います。私はここで、いい日本人にも会ったことがあります。過去のことを言いますと、38年前後から敵がここに拠点を作りました。42年から人圏を作りました。当時の行政制度として、ここには7つの甲がありました。東の方に梯子峪、西ドウ子峪、東ドウ子峪という3つの甲があって西の方には4つの甲がありました。

 1942年12月の時から人圏を作り始めました。1つの甲に基づいて人圏を作り始めました。西の4つの甲は無人区にしました。東の方は警察の支所がありまして、支配をしてだいたい2つの甲を無人区にしました。今の西ドウ子峪のあるところと、それから梯子峪の一部分を無人区にしたのです。ここは梯子峪ですけれども、ここは人圏でした。私は当時まだ小さかったので、別のところがどういう状況かはわからなかったのです。ここのところのことだけのことを言います。ここの村に最初は450人いましたけれど、戦争が終わった時点で280人になりました。あとの170人は亡くなりました。農民たちのもともとの家は壊されたり焼かれたりしました。人圏の中では溝を掘ってその上に草などを置いて、12月でしたからね、非常に寒い冬でしたけれど、その中に入って家として住んでいました。2年間あまりでした。

  今私たちの前に座っていらっしゃる方たちは私たちの友達なんですけれども、当時私たちは「日本人の鬼」というふうに呼びました。しかし侵略ということをやったのは国であって、個人としては中にはとてもいい日本人がいました。私はこの例をあげたいと思います。その人は所長をやっていて沢山の人を保護しました。その所長は名字か名前かわからないんですけれど、私たちはモンチェン(門前?)さんと呼んでいました。モンチェン所長と呼んでいました。その頃は、行政単位として村と甲と牌がありまして、村はだいたい10の甲があり、甲にはだいたい10の牌があります。この甲には100から200世帯があってこれは10の牌となります。1つの牌の中には10あまりの世帯があります。1943年の時に憲兵つまり日本の軍隊がこの辺りに駐在していて、牌の長のことを牌長と言うんですけれども、彼らには依然として八路軍との連絡があるという情報を得て、日本軍はこの20人あまりの牌長を捕まえて軍の中に入れたのです。で、その時この門前所長さんがそういうニュースを聞いて、軍と交渉してこの20人あまりを救出したのです。

  その43年の時の牌長さんたちはどういうふうに捕まえられたかというと、「配給品があるから取りに来い」と、軍が言ったのです。そこで20人あまりの牌長さんが行って、行ったら閉じ込められて家に帰さなかったのです。門前さんはそれを聞いて交渉して彼らを出したわけです。

  もう1つのことなのですけれど、44年のことです。憲兵の中には通訳がいなかったのです。43年の時もいませんでしたが。44年、憲兵はここの5人の牌長さんを会議を開くということで呼びました。さらに別のところで2人を、ここの人ではないのですけれども、別のところの2人を捕まえて軍の中に入れたのです。門前さんはそれを聞いて、また、ここの5人を「ここの人ですよ、彼らは八路軍とは関係ないですよ」と説明して救出してくれたのです。あとの2人は門前さんは知らないですから交渉しなかったのです。その2人は結局殺されました。ここの5人は助かりました。ですから私たちから見れば、当時から門前さんを友達だと思っておりました。

 私たちのここ人圏のことですけれども、直接的に人を殺すことは割と少なかったです。あまり殺人はありませんでした。しかし私たちは大きな被害を受けました。それはなぜかといいますと、この塔慾いうところには金鉱があります。金がありまして、ここで金を採掘するために日本軍が道を作らせました。皆さんが今日ここに来た時山の中の道があったでしょう。その道は当時から、旧満州の時から既にあったのです。その道は日本軍がここの人を使って作ったわけです。そういう過程の中では沢山の人が死にました。病死、餓死、凍死、過労などで死にました。ここは日本軍にとっては非常に重要なところでした。道も作らなければならないし、いろいろな工事をやらなければならないのです。先ほど皆さんが通った道は、どのくらいの人が死んだのか統計はないのですが、私は自分の経験で、だいたい20人ぐらい、自分の目で見たのは20人ぐらいがその過程で死にました。

  日本軍が来る前には村に学校がありましたが、人圏になってから学校はなくなりました。1つの学校が残りましたけれど、それは42年に人圏を作る以前に既にあった日本語の学校でした。42年以前に日本語を習わせるために学校を作ったのです。その学校にはハオユンリーという先生がいたのですが、42年にこの先生が八路軍と連絡があって、いろいろな関係を持っているということで、この学校をも焼いてしまいました。ですから学校もそういうような影響があると思いますけれど、あんまり校舎も少ないということです。

 皆さんに今回来ていただいて、私たちにとっては励ましになると思います。靖国神社を参拝する人は個々の個人であって、何人か数人か数十人かということで、多くの日本人は平和を愛してますので、私は中国と日本の関係はこれから破綻することはないと思っております。この平和は続くだろうと信じております。私の話はこのへんにしたいと思います。

賈(78歳)さんの話

 先ほど郭さんが紹介したように、ここは人圏でした。この人圏は、直接的な殺人はそんなにないのですけれど、しかしその時の生活はとても苦しいものでした。北の方には無人区で、農民たちを全部ここに入れるというのです。ここのにはあまりにも人が多すぎました。私たちはものを食べたいんですが食べるものがなくて着るものもないような状態の中で日々を送ったのです。ここはあまりにも人口が集中しすぎて、伝染病もよくあってこの人圏はよく死者が出ていました。病死者です。1日にもっとも沢山の死者を出したのは11人で、私のおじさんの家族6人も全部ここで病死しました。非常に惨めな時代でした。その時人圏に門限もありまして、もし山の方に行って事情があって門限より遅く帰ったら、「八路軍のところへ行ったか」と厳しい拷問をされました。そういうことも非常に辛い経験でした。

 私はみなさんが今日通って来た道の途中の、非常に険しい山のところに住んでいましたけれど、人圏政策の時にここに移されました。だけどここに来ても食べ物がないので、時にこっそりと自分の家に帰って、農作物を作ろうとしていました。ここは食べ物もなく、衛生状態も悪いのでよく伝染病があったりしました。人が死んだらどこに埋めればいいのかということもその時ずっと考えていました。自分の家も無くなったし、(高通訳さんの説明中国人は自分の家の近くに埋めるという習慣がある。)非常に惨めで、だけどここの管理する人は死体を外に出しなさいと言うので、しょうがなくて北とか東の山のところに埋めたわけです。

  ここの軍隊の人はよく無人区に出て行って、まだ誰かがそこで生活していないかどうかをチェックして、もし見つけたら捕まえ、厳しい拷問をしました。逃げようとしたら銃殺し、沢山の人がそういうことで死にました。当時私は20歳の人がそういうような騒動の中で死んだのを見ました。日本軍は大勢で出かけて行って、いろいろなところを掃討していました。農作物をこっそりと作ったのですけれども、秋になったら全部刈り取られました。とても生きられない時代でした。私たちは家に帰りたいのですけど家がないのです。子どもが学校に行くというよりまず命の問題でした。

傳(69歳)さんの話

  私はずっと日本の友人の皆さんがここにいらっしゃることを、楽しみにしていました。やっとこの日が来ました。会えました。嬉しいです。私は皆さんが来てくれてとても感動しています。これから友好的で、平和な世界が続けばいいなあと考えております。そういうことを考えるだけで感激いたします。私はこの4人の中で一番年下でその時まだ小さかったのです。人圏を作った時、数えで9歳でした。私は西ドウ子峪に住んでいました。その時共産党の方にメッセージを伝える役目をやりました。その時小さいですから、子供ですから軍に目をつけられなかったのです。私は学校に通ったことがないので字が全く読めません。だけど別の人が書いたメッセージを持って行って共産党に渡す。それくらいのことをやりました。私たちの村からは150世帯が人圏の中に入りました。500人くらいでしたけれども、最後には300人くらいになりました。

  人圏の様子というと当時は入り口が4つありました。東西南北に1つずつありまして、全部私たちが作らされました。私の父は人圏を作る前に日本軍のために馬を飼ったことがあります。馬の面倒をみたりしていました。普通の兵士は私がまだ子どもですから飴とか食べ物をくれたりすることがありました。今は礼儀正しく、物を貰ったら「ハイありがとうございます」と言うのですけれど、私はその時の気持ちとしては怖くて、飴を貰ってもすぐ逃げ出すという感じで彼らと接していました。

  私は日本人が人を殺すことは見たことがありません。しかし警察が悪いことをしたのを見たことがあります。ここ西ドウ子峪の警察の中の1人なんですけれど、王さんという人がいて、その人は警察なんですが八路軍のスパイでもありました。つまり八路軍のために仕事をしていました。おもては警察をやっていました。その人は時々八路軍にメッセージを書いて届けるわけですが、それがばれちゃって捕まえられてどこかに連行されました。今も帰っていません。死んだだろうと思っています。

 もう2つ話します。他は覚えてないのですけれど、金さんという人、金という人がいて、その人は人圏から逃げ出して外に行きたいと思っていたとは思うのですがしかし、その時は外に逃げ出すという気持ちではなかったと思います。金さんが夜帰って来たら、もう門限だから門が閉まっていて中に入れなくなったのんです。で、そこを警察に見つかって、「八路軍と連絡したのか」と疑われ、警察は金さんを捕まえて、長い形の腰掛けに縛り付けて無理やりに水を何回も飲ませました。私はその時子どもでしたけれどもそれを見ました。

  もう1つのことは、あまり言いたくないんですが、トウさんが話して下さいと言うので、個人的な他人の家の中のことなのですけれど話します。当時はまだ日本軍がやって来たばかりのことでした。私の親戚の、おばあさんと言っていましたが今思い出すとその時はせいぜい40歳程度というような人でした。日本軍がやって来て台所の方に追いやってその女性を強姦したところを私は見ました。結局その女性は殺されず、日本軍が去って行ったのも見ました。私はそのことを思い出すと、傷つけるという感じで話すことができません。

金(77歳)さんの話

 皆さんこんにちは。私は西ドウ子峪という村に住んでいました。私は当時20歳前後でしたが、今は年齢が年齢なだけにはっきりと覚えていないところも多いのでが、今思い出すことができることだけを皆さんにご報告したいと思います。

  当時ここには金の採掘場がありました。私は自分の目で、7人をこの近くで殺したのを見ました。銃剣で殺しました。もう1つは、秋になるとここの村民を集めて、無人区の作物を刈り取りに行かせます。その時に刈り取ってから、その人たちが殺されるということがありました。私が見たのは70歳ぐらいのおじいさんが殺されてそのつれあいのおばあさんが岸壁から自殺というような感じで転落死したのを、当時見ました。

  先ほど、7人が殺された話をしましたが、どうしてその7人が殺されたかと言いますと、金の採掘場で、日本は組織的に金を採っていましたが、この7人は現地の農民でこっそりとその金を採ったわけです。それがばれて殺されたわけです。その中には私の従兄弟が1人いました。さっき、おじいさんが殺されて、おばあさんが岸壁から自殺した話をしましたが、その頃は私はもう青年でしたから、人圏の仕事もやっていました。夜になると入り口を閉めたりすることもやっていました。私は農作物を作るなどの重労働がある時に、いろいろなところに連れて行かれました。ある日、塔慾という金の出るところに行かされました。そこには私のお母さんが住んでいました。その日は私のおじさん3人が、自分の目の前で殺されました。

  人圏の中での生活はとても送れる状態ではないので、1944年に私は逃げ出して八路軍に参加しました。1945年に日本軍との戦いがありました。さっき皆さんに足の傷跡を見せたのですけれど、それは1945年に戦った時に負傷した傷痕です。

 さっきトウさんから、どういうような八路軍の何部隊に参加したか、どういうところで戦いがあったかということを聞かれましたが、私は7人、2人そして3人と全部で12人もが殺されたのを見て、また自分の生活が辛いということで八路軍に入りました。入ったのは密雲県のミーミシェーンの地帯でした。1945年は、北山神廟というところで戦いがあって、その戦いの中で怪我をしたのです。45年に戦争が終わってからまた中国の内戦があって、国民党と戦い、何ヶ所か負傷して、私は戦争の時代は苦しかった経験が沢山あります。しかし記憶力があまりよくないので、私の報告は皆さんにとって満足できる報告ではありませんでした。すみませんでした。

Sさんのお礼の言葉

  今日は私たちのために辛く悲しいお話をしていただいてありがとうございました。私は多くの皆さんに会うと、私たちのことをいったいどう思っているのかと思って、胸が締めつけられるような思いをしていました。でも今日私たちのために辛い話を涙を流しながら話してくださる皆さんにお会いでき、私たちのことを楽しみに待っていてくださったということを聞いて、とても嬉しく思いました。

  私は日本で小学校の教諭をしています。今回で訪問は3度目です。私たちは皆さんから聞いた話を子どもたちに紙芝居という形で教えています。その紙芝居を1人でも多くの子どもや仲間に知って貰おうと今いろいろなところで広げる活動をています。今私たちがここに訪問している間も、日本の私の地域では若い仲間がいろいろな人に伝えようと平和学習会というものを開いて、興隆の話をしてくれているはずです。

  興隆の話は私たちだけでなく、本当に沢山の人に広がっているし、私の仲間にも広がっています。私たちと同じように興隆に来たい、自分の耳でちゃんと聞きたい、目で見たい、来年こそ行きたいという仲間が増えています。そのことをぜひ皆さんにお伝えしたかったです。これから日本と中国が今以上に仲良くなれることを祈って、お礼の言葉とさせていただきます。

張(郷の党委員会書記)さんの挨拶

 まず私はここのドウ子峪郷の7000人の農民たちを代表いたしまして、在席の皆さまが正しく歴史を見て、そして特に我が郷のこの悲惨なことに関心を寄せているということに対し感謝の意を表したいと思います。

  もう1つ言いたいことは、在席の皆さまを通してこの歴史的物語をさらに広げていただいて、特に右翼の人たちに教えていただき、過去に犯した罪や誤りを自分で認めて、さらなる平和の世界を作るために努力していただきたいと思います。

 それでは再度、N先生を始めとする皆さまがドウ子峪に来ていただいたことに感謝の意を表したいと思っております。ありがとうございました。