日中戦争証言 潘家峪

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CONTENTS

 

潘家峪 2000.8.21

於 潘家峪惨案紀念館

  1. 潘家峪惨案紀念館
  2. 潘家峪古老の証言
    ・潘さん(72歳。当時の事件の中で生き残った人 )

 

1.潘家峪惨案紀念館

第1展示室

 紀念館に来ていただきまして歓迎いたします。 この潘家峪で大きな悲惨な出来事があって、それは1941年1月25日のことでした。旧暦で言うと、前の年の12月28日。 その時、日本軍はここで悲惨な事件を起こしました。
 1230人の村民がここで焼かれて殺されました。 この事件は日本軍国主義がここで犯した罪の有力な証拠だと言われています。 これも中国人民と世界人民が平和を望んだ印であります。

  • 1941年以来、ここ潘家峪の人民は頑張り続けてきました。
  • 1931年、日本語では満州事変、中国語では9.18事件が始まって以来、東北地方だけではなくて華北地方に日本軍がやって来ました。
  • 1935年11月25日、日本の侵略軍はここで傀儡政府の冀東防共自治政府を成立させました。
  • 1937年7月7日廬溝橋事件が起こりまして、その後20万人が参加した抗日運動がありました。
  • この抗日運動の中で潘家峪はその前線に立っていました。
  • 日本軍が河北地方で精神的な侵略だけではなくて武装的な占領も進めていました。
  • ここは豊潤鉄道を造ったり、拠点を作ったりしました。 その時潘家峪は重点のところとしてたくさんの人々が殺されました。
  • 当時、村民は全部で1730人いましたけれども、その中の1230人が殺されました。 33世帯は全部なくなりまして、その33世帯の家族は一人も残さずに殺されました。96人が怪我をして、そして1300軒の家屋が焼かれました。
  • これが潘家峪事件ということです。

第2展示室

  • 潘家峪は河北省東部の普通の村であります。
  • これは、燕山山脈の近くの腰帯山の近くなんですけれども豊潤の町から30キロ離れています。
  • 1937年河北の東部、特に豊潤を占領されてから潘家峪と豊潤の人民がその前戦に立っておりました。
  • 1938年岩口で大きな暴動が起こりました。これがその紀念碑です。 これはその暴動の指導者、李運昌さんたちがここで軍事会議を開いたところです。 1938年のはじめ、八路軍と共産党の党員李運昌たちは潘家峪に来まして抗日救国を宣伝していました。
  • 1939年10月、共産党の指導のもとでここの抗日政権が豊潤県で成立されました。 ここにある写真は当時はパンチーピンという人なんですけれども、そこで兵士たちを隠すために自分の家屋の後ろに洞穴を作ったんです。
  • ここにある写真は当時ここで作られた兵器の工場、それから印刷所、地下の刑務所などです。
  • これは600年の歴史のある古い木なんですけれども、この抗日戦争の時に八路軍のためにこの木に書類を隠したことがあります。
  • 1938年から40年までの間、日本軍は138回にわたってここに攻めて来ました。 さっき言ったように1941年1月25日、日本軍3000人それから協力する中国軍隊2000人がやって来ました。
  • 当時攻めてきた時は、夜が明ける直前ですけれども、中国の軍隊、中国語では偽軍を山に立たせて見張ってもらって、日本軍自ら山に入ってこのあたりに村民を集めます。
  • 大きな殺人坑がありまして長さ30mと11mで中には雪が積もっています。
  • それから村民がその中に立たされて、周囲では機関銃が用意されています。 それからここから逃げることが簡単なのではないかと思って結局この辺りにまた集めて、朝10時頃、通訳の人が、ホウ○○さんという人なんですけれども、佐々木という軍の指導官と話をしてから、みんなに「あなたたちはここで劇を見てから、家に帰って新年を迎えましょう。」という話をしました。
  • ここからはこれはシーターサンという所なんですけれども、これはシーユエンに行く非常に狭い道で距離は大体50メートル。この両側には日本軍が軍刀を持って並んで村民をここに集めます。
  • 村民が来たときにすでにここには、松の枝とか枯れ木とか用意されており、 つまり火をつけてみんなを殺そうとしていることがわかりました。
  • このあたりで40名の子どもの遺体が発見されました。
  • ここは日本軍の指揮場でありました。 今回の事件の中でこのように上から投げて転落させて殺されたという子どもが30人くらいいました。
  • 4人の妊婦がいまして、お腹の中の子どもは軍の兵士に出されました。
  • これは一つの石なんですけれども、3歳の子どもはこれで圧迫死させられました。
  • これは一つの玄関なんですけれども、10何名の村民がここで隠れました。日本軍はここまで追いかけてこの上には(今、この写真ですけれども、はっきり見えないと思いますが)軍刀で刺さされた痕とか、それから銃で射撃された痕とかが残っております。
  • この写真はその事件が起こった翌日、八路軍の記者のレイエイさんが撮った写真です。これもそうなんですけれども、焼かれた遺体なんです。
  • これは子どもたちなんですが、このあたりは老人のです。
  • ここまでは亡くなった村民の写真ですけれども、ここからは生き残った人の、後で撮られた写真です。例えばこのここは首の傷、ここは指が無くなっているんですけれどもいろんなところを怪我しました。

第3展示室

 (中央に八路軍兵士たちのブロンズ像が立つ)

  • 潘家峪の人たちは、ここに書いてありますように、日本侵略軍の屠殺に脅かされなかった。彼らは血を拭き、死体を埋め、復仇団を作って抗日闘争を続けました。
  • その事件を起こした後、抗日政権がここで死体を集めて一緒に埋葬しました。
  • 当時の政府は葬式を行いました。
  • この写真は、自分の家族の人を探している様子です。
  • 1941年2月5日、隣の村の人たちはこの遺体を、男、女、それから子どもに分けて、4つの墓に入れて埋めました。
  • 1941年に埋めましたけれども、1952年7月5日再びここで石碑を建ててお墓を建て直しました。
  • 1941年1月の事件ですが、3月5日からここで復仇団が成立しました。
  • 彼らは復讐する決心を固めて前戦に行きました。
  • これは当時復仇団に参加した一部分の人です。
  • その復仇団の規模はだんだん大きくなりまして、隣の村の人も多く参加しに来ました。 これは当時の戦っている様子なんですけれども規模は100人あまりになりました。 これは当時日本軍と戦ってから取った、これはお弁当、これは水筒ですね。
  • 翌年の1942年の7月18日、復仇団と共産党の河北東部の部隊12団と一緒にその戦争に加わって、当時の日本軍の指揮官佐々木高桑を殺しました。
  • 1942年、この復仇団は正式に八路軍に編入され最初は12団独立連、後は7部隊2連という番号を付けられました。 その後、この潘家峪の復仇団は、八路軍に正式に編入されてからいろんな抗日闘争に加わりました。
  • 潘家峪の復仇団のみなさんは中国の解放に対して大きな貢献をしました。これは広東に進めているところです。 1990年、潘家峪の復仇団をもとにした軍の人たちを視察する今の中国軍事委員会の委員、超万年さんたちが視察したときの写真です。
  • この写真は1987年のチコウデンという軍事委員会の高官が視察したところです。潘家峪の復仇団に基づいて作られた軍の集団を視察したところです。 これは潘家峪部隊の記念撮影です。
  • ここでは軍馬を調教する隊の写真です。
  • 1994年の5月13日、中央の高官チョウショウシンさんも384団を視察しました。 これは当時の復仇団の歴史沿革です。これはいろんな写真ですけれども当時の歌です。 復仇団は当時いろんなところで戦いました。 いろんなところで戦いまして大きな貢献を捧げました。黒龍江省からずうっと南の広東、海南島まで行って戦いました。
  • これは1945年、日本は敗戦で、これはアメリカの軍艦ミズーリ号上で調印式を行いました。これは中国政府の代表が降伏文書を受け入れる写真です。
  • これは1958年11月17日の時に、当時事件に参加した当時の豊潤県の県長(私たちは偽軍と言う。それはリョウイ中佐ですけれども)が北京の裁判所で書いた証言書です。
  • 1972年、中国と日本の関係回復で毛沢東が田中角栄と会見した時の写真です。これは周恩来。
  • これは日本の友人が潘家峪に来たときの写真です。
  • これは中央政府の公務員がここに来たときの写真です。
  • 1995年の冬、解放軍の兵士はここで愛国主義教育を受けています。
  • 近年来日本の政府の人、それから右翼の人たちがいろんな間違った発言をしています。 1995年8月17日昆明日報が「日本侵略戦争を粉飾する間違った議論いろいろ」という文章を発表しました。例えば文部省が歴史を改ざんしたこと、日本政府の議員たちが何年にどういう発言をしたかという言行録などを紹介しました。歴史的事実は明らかなことであり、戦争の責任をとってもらわなければ困ります。
  • 罪を犯した人は結局裁判を受けなければなりません。ヨーロッパとか極東とかでいろんなところで戦犯に対する裁判を行いました。 ここに書いてあるのは江沢民の言葉なんですけれども「昔日本帝国主義により発動した侵華戦争、中国侵略戦争は、中国にひどい災難をもたらしました。そして日本人民にもひどい被害を受けさせました。中日両国は必ずこの痛ましい歴史を永遠に覚え、ともに努力して歴史の悲劇を繰り返すことを防がなければならない」ということです。

第4展示室

  • これは中国共産党唐山市の責任者がここで視察している写真です。
  • 豊潤県の責任者もよくここでこれからの発展の計画を立てています。
  • これは豊潤県の責任者がここで会議を開き、物質文明と精神文明の建設についての会議を開いています。
  • 現在の潘家峪の写真です。
  • 潘家峪は大体豊潤県の北東のところに位置しております。
  • 今、400世帯がここに住んでおりまして、中国の単位で土地の広さを紹介。 人口は1400人です。
  • ここ数十年経って潘家峪は大きな変化があります。
  • これは、さっき私たちが見た潘家峪希望小学校の学生たちの様子です。
  • これは民間の祭りというようなもので、文化的生活も豊かになりました。
  • ここはブドウが非常に有名で年間100万キロできます。100万元の収入が入ります。 これは北のトルファンという、新疆ウイグル自治区の非常にブドウで有名なところで、これはここのトルファンと言われるところです。 ブドウだけではなくていろんな果物とかができます。例えばクルミとかナツメとかリンゴとか栗、桃があります。 そして農産物だけじゃなくて、こういうような家畜も養殖していまして、豚とか、山羊ですね、乳牛それからガチョウですかね、これは鶏ですね。
  • 住宅事情も大きく改善されています。

2.潘家峪古老の証言

潘さん(72歳。当時の事件の中で生き残った人)に、現場を案内していただきながら、話を聞きました。

  • 30メートル×10メートルの坑です。始めにみんなが立たされたところです。 最初に村人が集められたところはここなんです。これは当時は30メートルの長さで10メートルの幅で深さは2メートルぐらいです。
  • 1941年の1月25日に、大体1000人の軍隊がやって来てこの村を包囲して、夜が明けると村民を全部家から出して集めました。
  • 当時の2人の人名ですが、1人は80歳ぐらいのおばあちゃんでちょっと歩きにくいので軍刀で殺されました。もう1人のわりと若い人は病気で起きられなくてベッドで殺されました。そして他の人はみんなここに集められたんですけど、当時はこの建物は無くて、こことあそこに機関銃が用意されました。
  • 最初ここで全部殺そうという計画でしたけれども、人が多くて1000人以上いますのでこの中に全部は入れません。外にも人が立っていました。ですからもし機関銃で殺戮を始めたらみんな混乱の中で逃げたりすることもあり得るから計画を変えて別の所にしました。
  • じゃあ、この楡の木のことを紹介します。 この木は非常に歴史の長い木なんですけれども、100年の歴史がありまして、昔非常に高くて大きい木でした。しかし事件が起こったときに火で焼かれたからこの部分しか残りませんでした。しかし、何十年も経ってから再び茂るようになりました。この中に共産党の書類とかを当時隠されたことがあります。
  • 小鉄門のことなんですけれども、さっき記念館の中で写真がありましたね。この庭の中が殺戮の現場でありました。この後ろに裏門がありまして、あまりにも人が多いので全部この中に集めて殺すという計画に変えました。しかしここは、機関銃が用意されまして、もしかすると誰かが裏門から逃げようとしたら、それで殺すというような計画でしたけれども、当時は裏門から4人が逃げ出しました。その中で3人が機関銃で殺されまして1人がこの門の中に入っちゃったんです。入ったときに銃で(これは弾の痕なんですけれども)射殺されなかったんです。もうすでに入ってしまって、この玄関の小鉄門を閉めたんです。後で軍刀とかで刺して最終的に開けたんですけれども、あの人は後ろから逃げちゃったんです。シュンさんという人で、もし生きていたら90歳を越えるおじいさんです。けれども当時は32歳。6,7年前に亡くなりました。
  • これは潘家大院です。潘家大院というのは潘家峪の最も裕福な地主の家です。この地主の名前はパンフイリンという人なんですけれども、ここは、玄関を入ってから当時は部屋がとても多いんです。ガラスの窓があって中は非常に裕福な雰囲気でした。当時の壁はこれよりずっと高くて上も花がいっぱいありました。この中に入ると小さな庭もあって中には家が何軒もあって全部で6つありましたけれども、この中に入ってそっちに行ってもまだ部屋があります。
  • 1941年の1月15日のお昼の大体12時頃のことですけれども、当時の村の人たちはそこのところから、さっき私たちが歩いてきた道を通って後ろの裏門からここに入れられました。当時は、ここにすでに用意された枯れた木とかいろいろありまして、それから油(ガソリンじゃないんですけれども)を、灯油をまいて火を点けたんです。当時壁や屋根の上には機関銃が用意され、12時頃殺戮が始まって1000人以上の人がここで死にました。
  • 非常に勇敢な人が人混みの中から出てきて機関銃を奪ったんですよ。奪ったんですけれども機関銃の使い方がわからなくてずっと躊躇して迷っていて、それで殺されたんです。あるお母さんのことなんですけれども、その時手榴弾をこの近くに投げられたので、それを捨てようと思って手に持ったんですが、間に合わなくて死にました。もう1人のお母さんが1歳未満の子どもを抱えて後ろのところから逃げようとして殺されたんですけれども、子どもはその時転がって死ななかったんです。翌日、別の村の人がここに来てその子を助けたんです。今、62歳でまだ生きています。当時彼が見た光景なんですけれども、この壁のあたりに子どもが数十人ぶつけられて死んでいました。妊婦さんが1人、ここで死んだようです。そしてもう1人があそこなんですけれどもお腹は開けられて、腸も流れてきたんですけれども、当時は両手でこれをずっと締めて「助けてくれ、助けてくれ。」と叫んだ様子が分かります。もう1人友だちなんですけれども、機関銃で足を撃たれて痛くて「お母さーん、助けてくれー、どこにいるのー。痛い、痛くてたまらないよー。」と、叫んだそうです。痛くて手で回りの土を掘ってしまうほど痛かったんです。当時は、全部で1230人ぐらいここで亡くなりました。死体は1メートルの高さぐらいまで折り重なり、で焼け焦げた死体ばかりでした。

高通訳さんの説明

僕はさっき注文してたんですけど、おじいちゃんはどうして生き残ったか、ちょっと聞きたいんですが、紹介してもらってよろしいですか。

  • おじいちゃんは、今年72歳ですけれども当時は12歳でした。朝、夜明けの前ですけれども4人の兵士がおじいちゃんの家族の皆さんを全部さっきの所に集めたんですね、そこで、7,8時間くらい立たされて、お昼になってから通訳官が来て「皆さん、この裕福な地主の家で面白い劇を上演しますのでそこで見てみなさんはお家に帰って楽しい新年を迎えましょう。」ということがあって後ろから入って来たんです。入ったときに人がとても混雑していて、ずっと後ろからここまで混んでいた中で、当時おじいちゃんはこのあたりに立っていました。
  • 当時はあそこでは、機関銃1つ、ここは2つ、ここは小さな、大砲ではないんですけれども小さな何か、ボンとやって射撃したんですけれども、彼はそこから、こっちの方に逃げようとしてて、向こうから機関銃の射撃が始まって、瞬間で血だらけですね、流れているような感じで、村民たちの足とか腕とかもう飛んでいるんです。当時は冬ですから綿入れを着てますね、中の綿はもう飛んでて雪が降っているような感じでした、ということです。
  • さっき、ここの機関銃はそっちに射撃しました。あそこに中国で伝統的な机がありまして、テーブルなんですけれども、テーブルの上に機関銃が1つあって、ここの方に射撃してたんですね。おじいちゃんはそこからここに逃げて来てあそこで隠れたんです。それから30分ずっとやった後、止まって日本の軍人がそこからやって来て、きちんとした服を着て、軍刀はこの長さで、こうやって。この辺りの百姓たち、まだいますね。なぜかというとここは家屋があります。家がありますから、射撃できないところもあります。何人かいるようですが。
  • 軍人がやって来て軍刀で、記憶では50人ほど殺したんです。けれども、頭を全部(全部かどうか知りませんけれども)頭を切って、ゴロゴロして・・・。その時こんなに高い草はなかったようです、地主が住んでいるから。ここを射撃したときにこの壁はもう穴が出来ました。おじいちゃんは最初ここに隠れたんですけれどもその中には昔は豚を養殖する、豚圏と言うんですけれどもそこの中には30人くらいいました。おじいちゃんはここから這ってきて中に飛び込んで30人と一緒にいました。それから向こうの機関銃がここに向けられて最初はダダダと射撃して、それから枯れたトウモロコシの茎に火をつけて中に入れたんです。
  • 当時最初は機関銃で射撃してそれから火をつけて入れたんですね、この時火が、ワアーッと燃えてきたときに、燃え上がったときに、おじいちゃんは後ろの、もう30人もいますから下がいっぱいで、後ろから中の豚圏に入ったんです。その時に煙も多くて火も燃えてました。後で軍の人が何回もチェックしたんですけれどもずっと中にいて見つからなかったんです。夜、はっきりした時間はわかりませんが、11時頃かなという感じで、夜中ですがもう日本軍が去って行って、その時何の音もないですけれども、もしかするとまだ外にいるかなと思って、最初は機関銃の音で耳がすごく響いていますから急に耳が何も聞こえなくなりました。急にズボンが燃え始めて、ズボンを全部脱いじゃったと。中に入ったんですけれども夜中になると隣の村なんですけれども、バソウというところの人がやってきて「もう日本軍は去って行ったよ。もし生きている人がいれば出てください。」と、何回も叫んだそうです。この時、おじいちゃんが中から出てきてその隣の人からズボンを1枚借りてそれで生き残ったのです。
  • 当時出たときに人の死体があまりにも多くて、こんな高さで、燃えている火が、おじいちゃんが見たとき緑の火が、たぶんリンかなあ、燃えていたそうです。最後に気持ちを表す言葉を言ってたんですけれども「みなさん、健康に気を付けて長生きをしてください。ありがとうございました。平和を愛しましょう、 戦争をやめましょう、平和があれば普通の百姓たちは、その人民が幸せ、平和があればこそ幸せがある。」ということです。

質問に答えて 潘さん

  • 家族は8人いましたが、6人が亡くなりました。生き残ったもう一人は兄です。

kさんのお礼のことば

  • 今日は、貴重な体験を聞かせていただきまして本当にありがとうございました。 ただ今また、向こうの博物館、歴史館で過去の1月25日の事件の事実を知りました。本当に言葉もありません。館の中に歴史を銘記するという言葉がございまして、私たちは過去の事実を本当にしっかりと心に刻んで、そしてこれから私たちが平和の創造者になれるために努力したいと思います。
  • おじいさん、健康に気を付けて長生きしてください。ありがとうございました。

潘さん

  • 一言付け加えたいです。なぜまだ生き残ったかというと、良い日本人に会ったからです。
  • 夕方になるともう煙が無くなってもう燃え尽きました。その時日本軍がもう1回やって来て、1人の20歳ぐらいの日本軍の兵士がやって来たんです。そしてここをもう1回チェックするときに私を見たんです。この中にいる私が見えたんです。銃を持って見たんです。それから銃をここに置いて、じっとこの12歳の子どもを見て、それから30人あまりの死体を見て、2分ぐらいため息を吐いて、それから銃を持って去って行ったんです。それで日本語で何か話して、その後他の人はやって来なかったんです。ですからその人がもし生きていれば感謝したいと思っています。皆さん、もしそういう情報があったら教えてください。

潘家大院の跡を後ろの方へ回って見学する。

潘さん

  • この玄関からみんな中に入りました。

Mさん

  • ここに住んでいた地主さんはどうなりましたか?

潘さん

  • 37年に別のところに引っ越しました。
  • その子孫はまだ唐山市に住んでいます。
  • このあたりも機関銃がいっぱいありました。 この壁のあたりに死体がこのくらいの高さまで重なっていました。
  • ここは最後に焼いた部屋です。あそこに機関銃があって、この部屋にあまりに多くの人が逃げ込んで、お互いに踏み合ってしまってそれで死んだ人もいたようです。機関銃で撃たれてから部屋に火を点けられました。
  • その夜は、隣のバソウというところの村民に助けられて、行って、休んで翌日か2,3日後かわからないですけれども、また帰ってきて自分の家族のみんなを捜そうとしたときに、これほどの高さの死体がここにあって、焼けちゃって誰が誰だか全然わからない。もうあきらめました。
  • これは古い壁なんですけれども、倒れないように補強してあります。これは昔の玄関なんですけれども、向こうの家からここに持ってきたものです。ここの当時の玄関はもうなくなったんです。