日中戦争証言 大水泉

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CONTENTS
 

 

1. 1997年---大水泉郷政府招待所

 

2. 1998年---大水泉 

  

 

管さん(70歳) 1997

 まず、部落(人圏)のことを話します。当時日本人はここまで来て支配していました。遠い所は無人区、近い所は人圏、あるいは、人は住んではいけないが耕作は出来る所でした。人圏に入れられたのは14歳の時でした。14歳だから当時のことはよく覚えています。皆で一緒に人圏に入れられました。当時の人圏は、周囲には塀があり、門は1ヶ所だけありました。塀の高さは5メートル程ありました。当時は人圏の所以外では住んではいけない。例えば、外に泊まって、明かりがあったら、銃で撃つんです。八路軍だと見なされるんです。人圏に入る時間も決めてあって、もし遅れると殴られました。怒られて、お前たちは今まで何をしていた、どうして入ってこないと言われました。

 当時は、部屋がとても小さくて3軒1部屋、あるいは2軒1部屋というふうに住んでいた。衛生のことを考えても仕方がないですね。どうにもできない。当時は水道はなくて、水桶があって、汲んだ水を桶に入れる。衛生状態が悪かったから、蝿とか蚊とかが沢山入ってきて、みなが疫病・伝染病にかかることが多かったんです。

 一般の農民は人間と思われてなかったし、死ねと言われたら死ぬしかありませんでした。殴られて死んだ人はもちろんですが、疫病、病気で毎日2、3人死ぬことはめずらしくなかったんです。

 服も、本当に着るようなもんじゃなかったです。洗濯もできないし、布を売る人もいなかったんです。公の方から各家に配給はあったけれど、各家に荒い布を何尺かしかくれませんでした。それも綿じゃない。服を作るどころか、子どものおむつに使うにも足りない量でした。

 人圏の中で2度の正月を過ごしました。正月にはコーリャンの粒を粉にしたものを少しだけくれました。もちろん、米も小麦粉もなかったし、豚肉も、他の肉もなかったんです。上手にやる家は年に1回くらい餃子を食べられたが、そうでなければ餃子さえも食べられなかったんです。

 人々は人圏の中で何年か生活して元に戻ったが、衛生状態のいい人圏では人は割合残っていたが、衛生状態の悪い人圏では、家族ごとみな死んでしまうことも結構ありました。

 人圏を出たのは、満州国が倒れたということで、みな出られるようになったからです。人圏から出た初めは、みな家が残っていないから、小さい小屋を作りました。それぞれみなが小屋を作るから、協力して欲しくても、協力してくれる人もいなかったんです。新中国成立で解放されて、みな少しずつ良い生活が出来るようになりました。能力のある人は、早くいい生活が出来るようになったが、能力のない人は遅れました。沢山の人が、当時、新中国成立の後でも、生活は大変苦しかったのです。それで国の方から援助を貰いながら、自分の努力によって、日に日に良くなっていきました。着るものもちゃんと着れるようになりました。

 これは、又話が戻るけれども、当時人圏の外に住んでいたら人間とは見なされなかったんです。人圏に入った人は、それでもまだ認められていました。その中に、同じ村の人で、何人か帰って来られない人もありました。とても今の生活と比べられるようなものではなかったんです。

 弟1人、妹1人が伝染病で死にました。これは殺されたわけではありません。弟は3歳の時だったかに伝染病にかかったが、医者もいないし、薬もなかったんです。民間の人に診てもらったが、専門の医者ではありませんでした。母と父も病気になって、人圏から戻った直後に死んでしまいました。

 これは昔の話です。今は、中国と日本は仲良くなってきていることもわかっています。

(孟さんの話をしていただけますか)

 孟さんの家族は、兄弟4人いましたが、3人死んでしまって、後に1人しか残りませんでした。兄弟は病気で死んだのですが、お医者さんに診てもらうことは出来なかったんです。

(李さんの話をしていただけますか)

 李さんの家の兄さんは、八路軍になったことがあったから、1938年の頃のことですが、日本軍に捕まえられて腹を切られ、心臓を出して供え物にされました。中国の人はよく山道を歩くのですが、山で歩いていて、日本軍に出会って、銃殺されたり、殺されたりしたこともよくありました。これは人圏の出来る前の話です。

(ひとつの人圏にはどれくらいの人が住んでいたんですか)

 だいたい100家族くらいで、5〜600人くらいが住んでいました。それで、半分くらいが人圏から出て元の所に戻ったんです。あとは、いろいろな病気にかかったりして、半分くらいが死んでしまいました。

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 李さん 72歳 1998 

 私は最近テレビを見ましたけれど、テレビを通して日中国交正常化20周年ということが判りました。しかし、今日本国内で過去の歴史を認めないとう声があるようですね。私は、地元大水泉の当時のことを思い出しながら、皆さんに興隆のことをお話しします。

 話は、私が11歳から12歳の頃のことです。今、日本では、当時侵略じゃなくて中国を援助したのでという声があります。私が11歳の時に人圏が作られて、人圏に入り、ずっと部落に帰れませんでした。17歳になて、初めて自分の部落に帰ってきました。

 当時日本軍は、この辺りで三光政策を実行しまして、私の家は焼き払われなかったんですけれども、近隣の家はたくさん焼き払われました。1941年頃、日本軍はこの辺りで三光政策をやって、私のおじさん、お母さんの弟ですが、チョウという人で、日本軍の軍犬に噛まれて死にました。

 私が、小さいとき、学校に通っていました。11歳頃です。ある日のこと、日本軍が八路軍の3人を捕まえて、心臓を取り出して皿の上に載せて、供え物にしました。白馬村のところで、今話した場面を見ました。その3人は、大水泉の人ひとり、名はリーユ、後は慶豊と迷子地の人、この3カ所の人でした。

 次は人圏の話です。最初は1942年、小さい人圏に入れられ、43年には大きな人圏に入るようになった。人々は生きられない程苦しかったのです。当時、大水泉の村全体では800人がいました。人圏に入れられてから3ヶ月も経たないうちに、350人が死にました。仕事は人圏の外に行って、夜は帰ってきました。帰ってくるとき、門扉を通るのですが、当時こういう話がありました。「今日いいことがあった。」と。いいことがあったというのは、出入りの時にお辞儀をしなければならなかったのですが、それをちょっとしなかったら、殴られたり蹴とばされたりすることがよくありました。「いいこと」というのは、2回殴られたらそれはいいことで、もっと殴られはしないかと思うわけです。だから、「今日はいいことがあった。嬉しいことがあった。」というのは2回だけ殴られたということなのです。

 人圏の中は衛生状態が悪くて、伝染病が流行りました。私は当時11歳でしたが、2ヶ月ほど、病気で起きられませんでした。ある日のこと、日本軍の方から「今日は日本人の医者が来るから、みんな病気あったら来なさい。」と言われ、みんな行きました。実際は、病気を診るのではなくて、働かされるのです。砦を造るのに土を運ばせたり、石を運ばせたり、中国人を使うために「お医者さんが来る。」と言ったのでした。

 私が18歳の時の話ですけれども、当時興隆県には日本軍の憲兵隊が駐在していまして、こちら大水泉の方から薪を届けに行くんです。当時生活も貧しくて、靴もなかったのです。裸足でそれを車で引っ張って行って、途中で疲れて歩けなくなって、休ませてもらおうと思っても許されず、また、一度道端の石を日本軍が拾って、頭の上を打たれました。興隆に着いたら、薪を下ろしてからはもう全然関係なく、食事をさせてもらえなかった。帰りは違う道を通って帰りました。無人区があるから、八路軍が見ると良くないので、いないところを帰ってきました。3日間で大水泉に戻ってきました。2日目に、足と足の皮膚が全部腫れました。

 人圏の建物は建物じゃないですね。トウモロコシやコーリャンの毛でそれを縛って、その外から泥を塗り付けて、それを家としました。冬は寒くて、夏は暑くて、雨が降ったら雨漏りがしました。

 私が11歳、1941年の時、日本軍が大検挙・大摘発をやって、父と父くらいの年齢の人は捕まえられて、興隆の憲兵隊本部に入れられて、そこで拷問を受けたり、「八路軍が来たか。」と質問されました。「来たことない。」「見たことない。」と答えたら、庭に縛られて、真冬に井戸の冷たい水を頭からかけられました。気温が低いからすぐ凍るんです。アイスキャンディーのように凍ったのです。凍って歩けなくて、他の人が抱えて小屋に戻りました。小屋に入ったら、また日本軍が真っ赤に焼けた鉄の棒を身体にこすりつけました。お父さんと、お父さんくらいの年齢の人、私は小さかったのでやられなかった。一人ひとりに尋問がありました。そこで「八路軍が家で食事をしたことがある。」と言った人は残して、「会ったことがない。」と言った人は村に帰しました。「八路軍に食事をさせたことがある。」と言った人は、話によると東北の方に連れられて行き、東北で死んだそうです。

 一番ひどい目にあったのは、人圏に入った人ですね。毎日毎日死者が出るんです。少ない時は1日に3〜4人人圏で死んで、外に運ばれました。多いときは10人くらいでした。家族全員死んだ家が20家族くらいでした。

 テレビで見たんですけれど、今の日本人は、当時中国を援助しに来たと言っています。私の経験してきたことから言えば、もし、そのような援助が今日まで続いてきたら、中国人は全部いなくなると思います。

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 管さん 71歳 1998

 当時一番苦しかったのは、人圏の中の生活でした。4つ門があって出入りも自由に出来ない。少々の野良仕事に行くこともできなかったのです。死ねと言われたら、生きることができない。蝿叩きで蝿を叩くような感じで、叩かれたらすぐ死ぬという感じでした。

 日本軍は、中国の人に会ったらすぐ殴り出す。言うことを聞く人はまだいいですけれど、特に言うことを聞かない人に対しては、とてもひどく殴りつけました。当時いつも心配していました。例えば八路軍と関係なくても、言われたら殺されるということがよくあるからです。

 日本軍は、中国人にあったらすぐ殴りました。毎日毎日、人圏から死んだ人を外へ出しました。人圏の中からたくさんの死者が出ました。1000人くらい死にました。

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 李さん 72歳 1998 (質問に答えながら)

 父のことについてですが、父は帰って来ました。60人くらい連れて行かれましたが、40人くらいは帰ってきました。後の20人は、今でもどうなったか判りません。

 心臓の供え物について答えます。村の人たちを一カ所に集めました。そこで日本軍が心臓を取り出して、皿の上に並べたのを見ました。当時、警察は中国人でリュウと言う人がいました。非常に悪い人で、各家を捜査する時に、中国では当時木の箱のような箪笥だったんですが、その箪笥の中を確かめたり、捜査するときに、袖の中に弾をかくしていて、わざと銃の弾を落とすんです。そして、「八路軍が来ないと言っても、この弾があるじゃないか。」と言って、日本軍に「この人は八路軍を泊めたことがある。弾もある。」と言うのです。日本軍のスパイで、こんなことばっかりやっていました。

 警察の署長のために用意した心臓です。署長は日本人、リュウはその下の警察官。リュウに供えました。日本軍が中国人の3人の心臓をリュウに供えたのです。

 署長は山本、このリュウという人は、娘を捜して手に入れて、自分の他に日本軍にも提供していました。八路軍の遊撃隊の隊長だった沈という人が、銃でリュウを撃ちました。神内という日本人、リュウの義理のお父さんは、本当のお父さんではないが、中国ではカンティエという言い方があります。お父さんとして認めるということです。村民を1000人くらい集めてリュウの追悼会のようなことをやった。そのリュウに、日本軍が中国人3人心臓を供え物として捧げたのを見せました。殺すところは見てはいない。殺された人はリュウとチェンホン、あと1人は覚えていない。

 日本軍は中国の人、特に百姓たちをおもちゃのようにして遊んでいる感じでした。ある日のこと、14歳の頃、私たちが道を作っていました。向こうから日本軍がやってきて、働いている人たちをみんなひざまづかせて、頭を地面につけさせて、頭を上げてはいけないということを言いました。上がったら蹴飛ばしました。全く訳が分からないことでした。よく殴っていました。中国の庶民で、罪もないのに、どうして中国人は殴られなければいけないのか。

 1938年から45年の間が一番苦しかった時代です。私が一番恐ろしかったのは、夏の終わりの頃、作物が実る頃、いつも日本軍が大検挙にやってきました。その頃、八路軍が隠れたりしている心配があって捜査しに来るんです。いつどこから日本軍が出てくるかわからないんです。家に泊まることもできません。だから夜は外で寝た。捕まえられたら、また拷問されたり、「八路軍を見たことがあるか。」と聞かれるのです。「見たことがない。」と答えたら、水を飲まされたり、トウガラシの粉を飲まされたりして、両手両足を縛られて殴られたりしました。

 1943年は、人圏をたくさん作って、人々が全部中へ入れられた年です。農作物は何もできませんでした。人圏を作るときも中国の人を使って、また軍人の砦を作るときも中国人を使いました。苦しい仕事をやらされました。

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 孟さん 73歳 1998

 当時、隊長は中国人で、副隊長が日本人でした。でも、隊長には言う権利がない。副隊長が言ったことが守られていました。発言権があるのです。

 作物と畑と山の木を全部焼き払って、ひとつの丸い線を引くんです。線の中は人圏ということなのです。人圏から逃げ出す人もいました。逃げている途中で見つかれば、銃殺されました。2人殺されました。銃で足を撃たれて、びっこになった人もいました。いつ人圏に入るか、時間帯が決まっていました。朝、その時間でないと出られない。夜カギをかける。何時に入る、何時に出る。というふうに。もし、その時間に遅れたら殴られる。殴ってから人圏に入れました。

 ズボンもなくて、トウモロコシの粉で作ったお粥もなかったのです。トウモロコシの粉は一番安く、貧しい家で食べるもので、それさえもなかったのです。

日本軍が遠いところに討伐に出かける時に、中国人を使って荷物を背負わせたり、運ばせたりしました。それで、荷物を運ばされた人たちが逃げるんですね。ある時、8人が全部殺されました。私はこの目で見たんですが、一回で、8人の中国人を殺した。この目で見たことです。

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 李さん 71歳 1998

無人区で中国人を見つけたら、殺すのです。1人も残しません。それが当時の日本軍のやり方でした。何日かかっても話し尽くせません。今日在席の日本の方は若い人が多いです。若い人にはわからないかもしれません。

無人区や人圏を作ったのは、中国一般の人と八路軍とのつながりを切るためでした。当時、日本軍の主な目的は、八路軍を全部消滅させることでした。無人区では、作物を作ることも、人が住むこともできなかった。作物を作ると、その中に八路軍が隠れるので、作物を作らせないのです。作らなければ、八路軍を隠すところがないからです。

私は当時、13歳でした。作物が完全に実っていないのに、日本軍に切られました。人を人圏に入れて作物もつくらせない。作物を八路軍に提供できないようにしました。そしてもうひとつは、作物がないと食料も提供できない。これが主な目的でした。

1942年のある日のこと、この目で見ました。日本軍が村の人たちを一カ所に集めて、機関銃を何丁かおいて、その場で1人を殺しました。まず最初は聞くんです。「あなたの家に八路軍が泊まったことはあるか。」「見たことがあるか。」と聞くんです。そして、その場で1人を殺しました。殺すのは他の人に見せしめにするためです。

ここにこうして来なければ、話さなければ、皆さんにはわからないと思います。昔、日本人が何をしたのか、こういうことがあったとかわからないと思います。

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 Nさんの質問

 その部隊はどこから来たのか、何という部隊か。

 

 

 トウさんの補足も交えながら

 大森、連隊。傀儡満州国があって、例えば連隊長は中国人で、副連隊長は日本人でした。一緒になって行動をしていました。

 さっき、話しに出た人圏は小さい人圏で、800人くらいいたのが、350人死んだということです。1943年には、大きな人圏ができました。そこには2000人くらいの人が入っていました。南山の北側には5カ所の人圏があって、全体では1000人を越える死者が出ました。南山の南は、八路軍の根拠地でした。だから、この辺りをすごくコントロールしたのです。