日本の友人の皆さんを心から歓迎いたします。これから心の中にずっと溜めてきたことをお話いたします。今、日中友好が非常に盛んですが、これからお話しするのは日本の中国侵略時代の歴史的事実です。
1942年の春節(旧正月)後のある朝のことです。この村の周りを日本軍が取り囲みました。日本兵が我が家の庭にも入ってきて、私は縛りあげられてしまいました。母が跪いて命乞いをしましたが、兵士は私のことを小八路(八路軍を助ける子供)だと言って取り合いませんでした。私はそのまま、ここのすぐ裏手にある蘇という家の大きな庭(蘇家大院)に連行されました。そこには100人以上の人が同じように縛り上げられていて、私の伯父と従兄もその中にいました。日本兵は一人ひとりに名前と年齢を尋問し、私は「(数えの)15歳」だと答えました。15歳でまだ子供だったので結局殺されないで済みました。一人ひとり部屋に連行されて、八路軍に手紙を届けたことがないか、靴や靴下を送ったことがないかを尋問されました。この時の尋問で、伯父は殴られました。また、鎌や細かく尖った先のある鉄の道具を焼きごてのように焼いて人に当てる責め苦を受けました。大変な火傷をしたり、殴られて血が流れたり、そういう被害が出ました。
その後、放されて庭を見ると、2つの腰掛けを台にして、人を縛りつけた鉄の梯子を渡し、梯子の下で火を燃やす拷問をしていました。こちらの面を焼くとひっくり返えして反対側を焼くむごさで、人の脂がぽたぽたじゅうじゅう出てきます。このとき一番ひどい目にあった張懐という人は、焼け焦げて動くことができなくなりました。焼き殺しです。残りの100人あまりの人たちは、墨汁で額に○印をつけられ、興隆に連行されました。その中には伯父と従兄も入っていて、2人は帰ってきませんでした。私は中国語をしゃべる1人の兵士に、「帰れ、今後八路軍に手紙を届けるな。」と言われて解放されました。
それから同じ伯父のもう1人の息子(従兄)ですが、春節の大検挙よりも少し前に、東山梁の線嶺という戦場まで日本軍の銃弾を担がされて行きました。しかし、途中で非常に疲れて登れなくなり、日本軍は怒って銃の後部で従兄を打ちのめしました。気を失った彼は家に運ばれた後で死にました。こうやって夫と2人の息子を失った伯母は、2人の息子の妻たち(とその子供、幼児と赤ん坊)を呼んで、もうここにいなくていいから、ここを出て早く誰かいい人を見つけなさいと言いました。なぜなら当時、夫に死なれた女性や、未婚女性を日本人は好き勝手にさらって強姦したので、非常に危険だったからです。しかし、2ヶ月もしないで伯父の一家8名は全員死んでしまいました。このことは、私がまだ16歳になる前のことで、その時私はまだ幼かったので生き延びることができたのです。