日中戦争証言 茅山

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CONTENTS

温さん(74歳)

 日本の友人の皆さんを心から歓迎いたします。これから心の中にずっと溜めてきたことをお話いたします。今、日中友好が非常に盛んですが、これからお話しするのは日本の中国侵略時代の歴史的事実です。

 1942年の春節(旧正月)後のある朝のことです。この村の周りを日本軍が取り囲みました。日本兵が我が家の庭にも入ってきて、私は縛りあげられてしまいました。母が跪いて命乞いをしましたが、兵士は私のことを小八路(八路軍を助ける子供)だと言って取り合いませんでした。私はそのまま、ここのすぐ裏手にある蘇という家の大きな庭(蘇家大院)に連行されました。そこには100人以上の人が同じように縛り上げられていて、私の伯父と従兄もその中にいました。日本兵は一人ひとりに名前と年齢を尋問し、私は「(数えの)15歳」だと答えました。15歳でまだ子供だったので結局殺されないで済みました。一人ひとり部屋に連行されて、八路軍に手紙を届けたことがないか、靴や靴下を送ったことがないかを尋問されました。この時の尋問で、伯父は殴られました。また、鎌や細かく尖った先のある鉄の道具を焼きごてのように焼いて人に当てる責め苦を受けました。大変な火傷をしたり、殴られて血が流れたり、そういう被害が出ました。

 その後、放されて庭を見ると、2つの腰掛けを台にして、人を縛りつけた鉄の梯子を渡し、梯子の下で火を燃やす拷問をしていました。こちらの面を焼くとひっくり返えして反対側を焼くむごさで、人の脂がぽたぽたじゅうじゅう出てきます。このとき一番ひどい目にあった張懐という人は、焼け焦げて動くことができなくなりました。焼き殺しです。残りの100人あまりの人たちは、墨汁で額に○印をつけられ、興隆に連行されました。その中には伯父と従兄も入っていて、2人は帰ってきませんでした。私は中国語をしゃべる1人の兵士に、「帰れ、今後八路軍に手紙を届けるな。」と言われて解放されました。

 それから同じ伯父のもう1人の息子(従兄)ですが、春節の大検挙よりも少し前に、東山梁の線嶺という戦場まで日本軍の銃弾を担がされて行きました。しかし、途中で非常に疲れて登れなくなり、日本軍は怒って銃の後部で従兄を打ちのめしました。気を失った彼は家に運ばれた後で死にました。こうやって夫と2人の息子を失った伯母は、2人の息子の妻たち(とその子供、幼児と赤ん坊)を呼んで、もうここにいなくていいから、ここを出て早く誰かいい人を見つけなさいと言いました。なぜなら当時、夫に死なれた女性や、未婚女性を日本人は好き勝手にさらって強姦したので、非常に危険だったからです。しかし、2ヶ月もしないで伯父の一家8名は全員死んでしまいました。このことは、私がまだ16歳になる前のことで、その時私はまだ幼かったので生き延びることができたのです。

劉さん(63歳)

 当時5歳の時のことをお話しします。その時兄は7歳、姉は12歳でした。旧暦12月のある朝、村で「紅軍が来たぞ、皆集まれ〜!」という号令がかかりました。大検挙のあったその日、私の父と長兄は、山の中腹の小さな寺に泊まっていました。その号令を聞いて下りていったところを、2人は検挙のわなにひっかかってしまったのです。28人が数珠つなぎになって連れらて行き、父と兄を連行された母と私は泣くことしかできませんでした。私は5歳で父親の亡い子供となってしまいました。母親は、私が8歳の時に人圏の中で亡くなりました。父を失って非常に絶望し、一種の精神病のようになって衰弱したことが母の死因だったと思います。・・・・もう、思い出してもうまく言えません・・・・・。

 次は伯父さんのことを話します。劉良という伯父がいました。この伯父は興隆の南土門で処刑されました。連行された28人のことですが、1人を残して全員死亡してしまいました。祖母も伯母もこのとき大変絶望して、杏仁泡水を飲んで一緒に自殺をはかろうとしました。しかし、これから飲もうという時に、人に発見されて死なずにすみました。

 父については、亡くなったのは興隆なのかどこなのかもわかりません。私は気になって58年に、北水溝の万人坑に行って、一生懸命捜したのですが、とうとう父親のことはわかりませんでした。  今日はこの話をさせてもらったことを本当に感謝しています。なぜならずっと憎んで憎んで憎みぬく気持ちを心に溜めてきたからです。

段さん(76歳)

 私は23歳の時、老営盤村に住んでいました。1つのことだけを、お話しします。1943年の旧正月の23日、朝のまだ夜も明けない4時頃に、日本軍が村を取り囲みました。寝ているときに母親が、こうやって起こしました。銃声がしまして、2つ目の銃声がしたときに、私たちは走って逃げ、西山という山に避難しました。後で夜が明けてから下を見たら、通りのこちら側とこちら側に、さっきの話に出てきた、ここへ連行するときの風景を見たのです。14、5人の人が首と首とつながれて、(指差して)そこへ、蘇さんの家の大きな庭(蘇家大院)に引っ張って行かれるところでした。その中には私の妻と2ヶ月になったばかりの娘、私の母も入っていました。その時、劉患のお祖父さんの劉存という人が、火あぶりの拷問を受けた人の中でたった1人生き残りました。彼を梯子から担いで、家に連れ帰りましたが、全身が火傷をしていて、その後3年間は寝たきりで浸(オンドル)から下りることができませんでした。蘇家大院に連行された14人のうち6人生き残りました。残りの8人は承徳で生き埋めになりました。生きて帰った6人の中には、王書玉という人と私の母と妻も入っていました。ひどい目に遭いましたが、生きて帰ってくることができました。すぐそこで起きたことです。

于さん(68歳)

 みなさん、ようこそいらっしゃいました。私が話したいのはたった1つのことです。父親が我が身に受けたことです。1942年の陰暦12月8日、陽暦の2月に大検挙がありました。夜が明けると、会長が「皆集まれ、会議だ」と号令をかけました。ところが、そこには場所がしつらえられ、火が燃やされており、何も知らずに集まった者たちは機関銃を向けられてその場に跪かされてしまいました。それで、連行された28人の中に、父が入っていたのです。今、書いているのは父親の名前(于)です。  父は全身傷を負いました。火であぶった鉄を当てて皮膚をじりじり焼かれ、意識を失うと冷たい水をかけられ、目が覚めるとまたそれをやるという責め苦を受けました。それから、2人の人間が、寝かせた父の両脇から腹を圧迫し、苦しみで空いたその口に、唐辛子の入った辛い水を無理矢理流し込むこともしました。このような拷問を受けて、父は全身傷だらけになって、死にはしなかったけれどその後1年間、動くこともできませんでした。労働することはもちろん、身の回りのこともできない状態になってしまいました。父は、その後90歳まで生きて亡くなりました。まだ、いろいろあるのですが、時間の関係で、父の話だけにします。

姚さん(71歳)

 私は、こちらの側の菓園村の者です。この村には日本軍が駐留していました。日本の友人に過去のことをお話しします。大検挙の日、私は王保玉という知り合いの人のほか数名が井戸まで水を汲みに行くのを見ました。そこで彼らは、日本軍と出遭ってしまいました。王保玉は逃げようとしましたが、銃殺されてしまいました。残りの4、5人は、火の周りに跪かされ、首を日本刀で切りつけられました。しかし首は落ちなかったので、銃でもう一発撃って殺されました。  次に女性の遭った被害について話します。この村の西側に「山下」という人が率いる100人くらいの部隊(881部隊)が駐留していました。この部隊は午前中訓練をし、午後はすることがないので、女性を捕まえて連行する悪事を働きました。ある午後、山の麓で農作業をしていた1人の若い娘を追いかけて捕まえて、兵営に連行して強姦しました。  ここから薊県に行く、柳樹坑の道ですが、そこは、男の人1人で歩くのにも危険な道でした。ましてや女性は危ないので、男の人が女性をラバに乗せて守るようにして歩いていました。そのうち、日本人は、男性を殴り倒して女性を奪って強姦する、そういうことが、頻繁に行われるようになりました。そういう女性のさらわれる現場を、私は子供でしたけれども何度も何度も見たことがあります。兵営の前を通り過ぎるときに、男性は危害を与えられ女性は連れ込まれるので、そこは鬼の関所でした。私は本当は、この話をしたくなかったのです。

トウさんの説明

 先程あちらの部屋で、今日の証言者から事前の聞き取りをしました。「何を話したい?」と聞いたら、みんなほとんど「大検挙のことを話したい。」でした。「女性の受けた危害についてもだれか話してくれないか。」と頼んだら、みんな実は話したくなかったのです。ですけれど、「日本のみなさんが聞きたがっているから、名前は言わなくていいから、どうかありのままを話してくれ。」ということで、今やっと話してくれました。まだ、その時強姦されたご婦人は生きている人もいますし、それを話すのはつらいことなのです。

 当時山下隊の兵営の前は「鬼の関所(鬼門関)」と呼ばれ、その前を通って行くことは、命がけのことでした。しかしここから薊県方面に行くのにはそこを通らなければならず、どうしても通らなければならないようなこともよくあったのです。前に、仁木先生がインタビューした、今はもう亡くなった張シアンというおじいさんは、「この門の前を通った18歳の女の子が強姦され、衣服を全部はぎ取られて放り出された現場を目撃した。」という証言を残しています。 まだ幾日でも幾晩でも話すことがありますが、時間がきましたのでここまでにします。みなさんは、また、どうぞこちらへいらして下さい。歓迎します。