日中戦争証言 白馬川

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2001年8月20日
於:大泉水郷白馬川

葛(78歳)さんの話

葛さん
 私の年齢は78歳です。すごく老人と言うほどではないですけれども、ある程度年齢はいってます。私は学校に通ったことがないので話はまとまらないと思います。もう60年も過ぎまして、亡くなった人の名前は、ある人は覚えていますが、ある人はどういう名前かは忘れました。ご理解下さい。

  日本軍は当時、中国のために、まあ中国の百姓を改善するために来たと言ったのですけれども、しかし私たちから見ると殺人をしたり、家を焼いたり、物を奪ったりしてこれは決して良いことではなかったです。私は東区に住んでおりました。私の村は260人いまして、戦争が終わった時には80人しか残っていませんでした。

 

トウさんの説明
  260人から80人に減ったということはどういうことかと言いますとこの方は廠溝というところに住んでいて、そこの人たちがここの白馬川というところの人圏に入れられたのです。そこの人口も含めて、殺されたり、病死やそれから餓死したりを含めて、つまり80人となりました。

葛さん
  その時にそこから東の方の人がここの人圏に入れられたのですけれども、この辺りの河北庄に憲兵が駐在していまして、時々外に行って人を捜したりしています。行くと必ず毎回収穫があるというような感じで誰かが見つかる、ばれるというような感じでした。ある日東山というところに洞穴があって、洞穴の中には100人ぐらい入れるんですけれども、その日は2世帯の13人がその中にいました。

 1人の日本人が、名前は知らないのですけれども、その人に中国人が付けた名前は「洋鼻子」という人ですけれども、その洋鼻子が兵士を率いてその洞穴に行ったのです。村民たちがよくその道を歩いて洞穴に行っていたので、その隠れ場所がばれたのです。で、軍がそこに来て「みんな出ろ!」と命令して、その13人が洞穴から出てみんな入り口のところでひざまづきました。それからたぶん機関銃を使って、その13人を殺したのです。日本軍が撤退したらしいということで、私たちはその銃声を聞いた後で山を下ってその洞穴のところに来てみたら、13人は全部死んでいました。それだけではなく背中に銃剣で刺された痕があって、私はそれを見てびっくりしました。

 どの国でも土地を奪って、人間の命を奪うということが多いのですけれども、その ために戦争をやったりしていたのですけれども、私は、土地があれば資源がある、土地があれば食料ができる、しかし食料は誰が作るのかといえば人が作るのだと思います。だから普通はその土地を奪っても、その人間を生きさせて、食料を作らせて、それからその収穫物を奪うことがよくあるのですが、しかし人間そのものを殺すということは理解できません。

 もう1つ知っていることは、双廟というところにカンさんというスパイがいて、憲兵のスパイですけれども、その人は憲兵を双廟に連れて行って2世帯11人を殺しました。ここの辺りで八路軍に食料を送るには、私が住んでいた村を通して送るのですが、ある年の旧暦の5月4日、そのことがばれて村民が捕まえられたのです。私のお爺さんとお母さんの兄弟のおじさん、それから自分のお姉さんの夫の義理のお兄さんが捕まえられたのです。それから大きな深い穴(殺人坑)を掘って、最初に殺されたのは私のお爺さんでした。その当時62歳で、身長は私と同じくらいのお爺さんでした。2番目はおじさん、3番目は義理のお兄さん、全部で16人殺されました。

  お爺さんは頭の後ろの首のところから切られました。 おじさんは殺される時、どうせ死ぬのだからと思って、罵ったのです。「おまえらは何のために来たんだ。私たちのために来たと言ったじゃないか。何で殺すのか。私たちは誰も八路軍に入っていない。そんな私たちを殺して道徳観念が全然ないのか」というようなことを言って罵りました。日本軍の1人がやって来て、私に対して「お前はいいんだ。おまえは勇気があって」と何かそんなことを言って、「よし」と言って、私を殺さなかったのです。帰されて、この辺りに連れて来られて1年後に解放されました。

  もう1つの事件ですが、王さんという3世帯ですけれども9人いまして、その3世帯の中の1つの世帯は独身の方です。3世帯とも王さんという9人ですが、ある日討伐された時に見つかって、山の中のワントゥリャンというところにあまり深くない洞穴があって、そこに追い込まれて、そこで9人が殺されたということがありました。この村の書記も知っている、今も生きてここに住んでいる人のお母さんもその9人の中の1人です。今、王(72歳)さんと話したのですが、王(72歳)さんも知っています。「あの人のお母さんもその時殺された」と言いました。殺されたのは朝のことでした。

 もう1つの事件は、何年のことか覚えてないんですが、10月のことでした。ある日の朝、討伐の日本軍がやって来ました。その家族は山の上に隠れていました。だけどお爺さんが死んで、そこに残っていた人は8人でした。「日本軍がやってきたぞ」と気づいて、若者は足が速くてすぐ逃げましたが、そのおじさんの奥さん、お母さんの兄弟の奥さんですから叔母さん、それにお祖母さんの2人の女の人が足が遅いのであまり走れなくて、捕まって銃殺されました。2人をいっぺんに1つの銃弾で殺したというような感じで倒れたのです。日本軍が去ってから戻って来て亡くなった人を埋める時間がなくて、乾いたトウモロコシの殻にちょっと隠して、それから翌日にお墓を作って埋めようとしたのですけれども、翌日また日本軍が来たのです。それに気づいて、この若者たちはまた足が速くて逃げました。日本軍からその死体を見つけられて、日本軍はそれに火をつけて焼いてしまいました。戻った時に死体はなくなって、もう骨となっていました。

  もう1つの事件ですが、ある日八路軍から、その八路軍は村の農民ですが、食料を運んでほしいという依頼があって、この村の30人が小横河というところに食料を運ぶことになりました。黄酒鋪の近くの小横河というところで日本軍と遭遇して、私の親戚1人ともう2人の3人が捕虜になったのです。私の義理のおじさんで、名前は白さんです。私のおじさんは捕まってから、大きな木を抱えなさいと言われて抱えたら、釘でその手を釘づけにされたのです。それで銃殺されたのです。もう2人も銃殺されたのですけれども、釘づけにはされませんでした。村の人から3人が死んだということを聞いて探し出してみたら自分のおじさんでした。悲惨なことがとても多くて、とても理解できませんでした。

 もう1つの事件は、無人区ですからだれも住んではいけないところなんですけれど日本軍がそこに行って誰かいるかと探したのです。3人が見つかって、アンフーという人と、それからもう1人はチャンフィンシャン。チャンフィンシャンという人は殺されたのです。アンフーの妻も撃たれて、足が折れたのですけれども、それでも機会をみて山の上に逃げたのです。しかし足が折れているので、降りることができなくなって、その山の上で餓死したのです。この3人でした。

トウさんの説明
  先ほどこのおじいさんが話してくれたことは、1つの背景としてつまりそこの村の人はそこに住んでいて、ここで、今私たちがいる白馬川のところで、人圏が作られて、そこは無人区として誰も住んではいけないんですね。ただこの辺りに駐留している日本軍が、この近くに駐在している憲兵と警察署を率いて何回もこの無人区のところに行って、誰が住んでるかチェックするわけです。チェックして誰かがばれて見つかったら、殺したりそういうふうなことがあるということです。葛さんが言っていたように、そこに住んでいた方は260人です。ですけれども最後には80人になったということです。葛さんはさっき7つの事件を言ったのですけれど合わせて54人が死んだということです。

  これから王さんに話をしていただきます。

王(72歳)さんの話

王さん(72歳)
  その無人区でどのような殺人があったかは知りません。私は人圏に入れられたからです。外のことはあまり知りません。ですから人圏のことについて話します。

  この人圏の中にダンソウダイという大きな建物を作ったのです。で、人圏の中ではよく訓練をやります。どういう訓練をやるかというと、もし八路軍が来たらどういう合図でどういう信号を送るかとかいうことです。例えば中国の楽器を叩いたり、太鼓を叩いたりして、みんな夜遅くても起きて、すぐ準備をするわけです。

  ですから八路軍が来ることを仮想してます。で、ある日のこと、冬なのですけれども夜になると急にすぐ合図の楽器を鳴らして、「八路軍が来たぞ」と、それは訓練なのですけれど、呼びかけたのです。で、私は割と動作が遅い人間で、服も着てなくてまだ夢を見て寝ていました。他の人はすでに外に出て用意しているそのような状態の時でした。私がまだ出ていなかったので、管理する人が家に入ってきて、「どうしてこんなに遅いのか」と言って殴ったりしました。それで外で立たされて、服もまだ着てなくて、冬ですから非常に寒かった、という経験があります。

トウさんの説明
  その警察は中国人でした。日本軍はこの近くで人圏を作って、警察署も作って、警察官は中国人にやらせていました。そういうような訓練を夜やる時に、中国人がいろいろ管理するわけです。人圏に警察がいて訓練を管理していて、殴った人は警察でした。それを指示したのは日本人です。

  次に王(56歳)さんに話していただきます。56歳で割と若い方なのですけれども、昔こ この書記を担当しておりましてその時の事情をたくさん聞いていまして、よく知っている方です。

王(56歳)さんの話

王さん(56歳)
  私は簡単にいくつかの事件を話したいと思います。でもそれを話す前に言いたいのは、私はそういうことを経験したことはありません。ただ私は老人からお父さんとお母さんのことについていろいろ話を聞きました。

  憲兵がその時今私たちのいるここの庭に駐在していました。しかし憲兵は中国の事情をあまり知らないので、中国人を通して支配をするわけです。ですからそういうようなことは中国人からみれば売国奴というような人を使ったのです。で、その中には劉という人がいて、あの人はいつも憲兵の言うとおりに、農民たちに「これをやれ、あれをやれ」と言って悪いことをしますから、非常に皆さんが怒ってます。で、ある日あの人は瘤q地というところで八路軍に殺されました。まあスパイというか売国奴というか、あの人はそれで八路軍に殺されたのです。

 それで憲兵が怒って農民たちを捕まえて、何人を捕まえたかは知らないのですけれども、ここに連れて来て、南の山の上に3人と6人、合わせて9人を場所はちょっと離れてるのですけれども、殺したのです。そして、私はわからないのですけれど、王さんから聞いたことがあって、もう1人のおばあさんが詳しく知っていますが今日は来てないですけれども、次のことを見たのです。銃剣でその死んだ人の心臓をとって、銃剣の先に刺して持って帰ったのです。頭も切って持って帰って、劉というスパイの人が殺されて死んでしまった、その霊を慰霊するということでその心臓を祭壇の前に置いて、お香を焚いて、慰霊したというようなことがありました。そのことをよく知ってるおばあさんに今日話すように頼んだのですけれども来なかったということなので、その人の代わりに話しました。

トウさんの説明
  神内兼一が当時ここの警務課長で、劉はその時の警察署長でした。劉が瘤q地というところで八路軍に殺されて、神内たちはこの瘤q地の村民が、つまりその劉を裏切った、だから殺されたと思って、警察署に命令を出して「村民をここに連れて来い!」ということで、その時9人を殺したわけです。で、その9人を殺してその心臓だったり頭だったりを劉に捧げるわけです。「万人吊孝」という字があるのですけれども、つまり1万人を集めて劉のために追悼の会を開いたわけです。これは1939年のことでした。その時はまだ人圏というものがなかった時代で、この辺りの周りの人を集めたそうです。

王(56歳)さん
  このことは当時ここにいたから知っています。だけれど殺された人の名前は知らない人ですからわかりません。私は子どもで、そこには行きませんでした。しかし、そのことは知っています。

高通訳さんの説明
  劉という人が何で死んだかということを説明してくれました。劉貴才という人が瘤q地というところの2人の女性、若い女性を好きになって自分の妻にしたいと思った。自分の権力で、警察署長ですから、2人の女性を自分のものにした。それで瘤q地の農民たちは怒って八路軍にそういうことを報告した。八路軍の1人のシンさんとか、名前はよく覚えてないようですが、隊長の人が来たわけです。劉という人と「じゃあ一緒にお酒を飲もう」、「私たちは仲がいいですね」とゴマをするようなことをやって、「それじゃあ警察署長と兄弟になろう」というような感じで、たぶん酔っぱらってたのだと思いますけれども、「いいです」ということで 「私たちはお互いの銃を交換して、これから兄弟になるということでいいか」と言って、そういうふうな雰囲気の中で「いいです」と言って、それで劉貴才の銃をもらったのです。八路軍の隊長はまだ自分のをあげてない時に劉貴才を殺したわけです。そして山の上に捨てた。そういうことを憲兵が聞いてすごく怒って、つまり瘤q地の人が裏切ったということで、復讐です。時間になりました。

Uさんのお礼の言葉
  今日は非常に貴重なお話をありがとうございました。私は戦争中は小学校にあがる前でした。日本はそのころアメリカから飛行機が飛んできて空襲を受けて、私たちは熊本市内でしたけれど爆撃を受けて逃げ回ったような経験は持っています。戦争といったらそのような認識しかなかったんですけれども、私たち日本人がよそに出かけていって、よそのお家に土足で踏み込んで命を踏みにじるような残虐な行い。特に言葉にできないような酷いことをしているということは、その後の教育、小学校、中学校や高校、そのプロセスの中では何も教えられてないままに大人になっていました。

 それで教員になって子どもたちに教えるんですけれども、やはり歴史の真実を子どもたちに教えて、平和を築くような子どもたちを育てたいという気持ちは強くあります。 そしてある時、もう10年になりますか、N先生のお書きになったこの地方での無人区とか人圏のそういう事実を本によって知って、それで実際にこの地に来て本当にお話をお聞きして、この真実を日本の子どもたちに伝えたいなということで、今回で私は3度目ですけれどもお邪魔させていただいております。

 今日お聞きしたお話を本当に私たちの周りの人に伝えたいと思います。今私は教職を退職、リタイアしておりますが、社会の中でいろいろな団体、女性の団体などで運動していますので、その辺りで広めて行きたいと思います。貴重なお話をどうもありがとうございました。