日中戦争証言 南土門

証言目次へ戻る

CONTENTS
 

1999.8.17---南土門

トウさん (前党史研究室主任)の説明

 この村は南土門と言います。この場所は南土門という村に近いということで「南土門万人坑」と名付けられています。

 この場所は一つの中国式の墓場ですが、このような大きな墓場が興隆県内に数百ヶ所あります。この場所での日本軍の殺害は1000人を超えています。なぜ万人坑と呼んでいるかというと、このような現場がこの辺に50ヶ所以上あるからです。

 興隆県内の無人区の中における大討伐による殺害は2万人を超えていますが、そのうち大検挙によって殺害された人々は1万5400人でした。大検挙された村の人々は政治犯あるいは八路軍につながりがあるとして殺害されました。大掃討によって餓死したり凍死した人々は4000人を超えています。

 人圏は225ヶ所あり、その中でさまざまな病気や生活困難により死亡した人々は1万1000人を超えています。

 以上のさまざまな状況を合わせて5万400人が死亡しました。これは興隆県の人口の三分の一にあたります。

 なぜこれだけ多数の人々を殺害したかというと、興隆県は中国共産党中央委員会の決定によって作られた根拠地の一つだったからです。この地域は中国共産党の方は抗日の根拠地の一つとして位置付け、一方日本軍は無人区と位置付け、両方の戦いの場となったからです。

 日本軍が庶民をも殺害したのは、庶民たちが共産党の人々とつながっていると考えたからです。興隆県の43%の地域が無人区として指定されました。人口の82%にあたる11万8000人は、225ヶ所の人圏の中にのみ住むように制限されました。人圏というのは、人間を豚や羊のように圏(囲い)の中に閉じ込め、自由活動が出来ないようにした措置です。

 この南土門の現場で殺害された1000余名の人々は、無人区の中で大検挙により逮捕された人たちです。1942年、大検挙によって2000人以上が逮捕され、この土地で200人が殺害されました。1943年、逮捕されたのは5000人で、ここで400人余りが殺害されました。1944年は2回の大検挙が行われ(正月ともう1回)、合わせて200人余りがこの土地で殺害されました。1941年と45年の数字を含めて計算すると、殺害された者は1000人を超えています。この場所は、興隆県で殺された5万人のうちの一つの代表的な現場なのです。

 こちらの劉さんは南土門の村の住民で今年76歳です。この村の3番目の年長者ですが、他の2人はもう話が出来なくなっています。劉さんはその時のことをよく覚えていることもありますので、ここで話してもらいます。

劉さん(76歳)

 今日はこの場所で2回目に日本人と会うことになります。第1回目は65年前に侵略者の日本軍隊とこの土地で会いました。65年の時間が経ち、今回は友人として皆さまがこの土地をお訪ねになられました。心よりこの土地の農民を代表して皆さまを歓迎します。

 1942年の時の状況も含め戞さんが話しましたが、当時、日本軍国主義による中国侵略は「戦争をもって戦争を養う」「中国を侵略することをもってその侵略を推し進める」という方針のもとにいろいろ展開されました。

 中国共産党、八路軍による抵抗と強く戦うために、日本軍は当時この土地で三光作戦を実行しました。これは、全部殺害し、全部略奪し、全部焼き打ちするという政策でした。人々を殺害し、全部村を焼きました。そして1ヶ所の人圏に強制入居させ、一つの出入り口以外を壁で囲みました。人圏政策です。

 1942年秋、一斉大検挙の政策が取られました。人々を逮捕するとこれは非常に邪魔と思われ殺害された人々が多くありました。当時はこの一帯の農作物がほとんどなくなってしまいました。そこで2つの大きな穴を掘りました。その翌日、検挙された人々をその他の人も含めてこの場所に連れて来て、いろいろな方法で殺害しました。その一例は、大きな刀で頭を切って穴の中へ捨てる、側に大きな桶を用意し、1人を殺害してその水で刀を洗い、1人、また1人と斬り殺しました。銃剣でも刺し殺しました。最も残酷なものは、3人の女性(日本語で言えば道教の信者、お寺の中に住む身分の尼)を生き埋めにして殺しました。これらはごく一部の状況で、他にもたくさんの殺害が行われました。向こうに見えるアンテナの下も殺害現場です。

 太平洋戦争が始まった1941年以降は、日本の軍隊が南下し、代わって朝鮮、台湾、琉球の人々が日本軍として入って来ました。彼らは武士道の教育を受けていないため、殺害への怖れがあったので、日本軍は彼らに強制的に3人一組で1人を殺す殺害訓練をさせました。

 その山を越えたところに秘密の殺人現場があります。その数はわからないが、犬が人間の死体を掘り出して食べていた様子を私も何回も見たことがあります。憲兵の一人の隊長内田(准尉)は「大ひげ」と呼ばれ、非常に多くの人を殺しました。殺した人の心臓を取り出して食べていたのを見た村民のリュウさんは、その恐ろしさで亡くなってしまいました。

 中国の故事に「歴史から学び、後の戒めとする」とあります。日本軍の侵略は残虐でありました。また、日本人も同様に戦争の苦しみを味わったことでしょう。多くの青年たちがここでも亡くなりました。歴史から学ぶことが大切です。  江沢民書記長は訪日し、また日本の首相も訪中するなど、友好の交流を深めて来ました。皆さんの中に多くの若い人もいますが、江沢民書記長が日本に行く時も「青年に未来を期待する」と言ったように、青年たちが未来を担うのです。この悲しい歴史は忘れられるるべきではありません。でもこれからの中日の若い世代がどのように付き合い、どのような新しい時代を創っていくのかが大切なことです。

トウさんの追加説明

 (指差して説明)ここには52人が埋められています。生き埋めの3人の女性がここに埋められています。向こうには17人埋められた墓場があります。こちらは20人ぐらい埋められた墓場がもう一つあります。先程の秘密の殺人の所は南溝といいます。なぜ人々に知られるようになったかというと、興隆の街の所に犬が沢山人間の内臓を引き出してきてわかったのです。

 先の大ヒゲ、内田という人ですが、承徳憲兵隊興隆派遣隊の隊長になっています。この人は大きな髭をしていて、背は高くないが大変厳しく残酷な人で、この場所で1人で38人を殺しました。先程の話のように日本刀をもって次々と人を殺したので、この人を現地の庶民たちは「悪魔」と名付けています。名前は「内田××」。見た人がなぜ怖れて死んだかというと、心臓をそのままで取り出し、その場で食べてしまったからです。その時、荷物運びということですぐ側にいた中国人が、びっくりして死んでしまったということです。

 ここは大検挙の後の殺人現場です。判決が無く、そのままその場で殺したことも沢山ありました。

 19日に訪問する先の小黄崖村は70人の村民がいましたが、日本軍はそこへ行って50人を一気に殺しました。1つの事例ですが、小さい子供を抱えていたお母さんが、鉄砲弾一つですぐ亡くなってしまいました。その後その子供は救われて今でも生きていますが、現在66才になっています。19日に村でこの人に会うことができます。その当時の傷が体に残されています。こういう現場は他にも沢山あります。数のある殺人現場の一つですから。

質問

<大検挙の時、劉さんは何歳でしたか?>


19歳の時です。日本軍が初めてこの土地に侵入してきたのは、1933年、私の10歳の時のことです。

<ここに埋められている52人のお名前はわかりますか?>


一人の親戚、劉という私のいとこ以外はわからないです。彼の母親(私の叔母)は毎年ここへ来て供養しています。生き埋めになった3人の女性の先生だったチョさんは向こうの村に住んでおり、教え子のことをよく知っています。それから村の人々は山の高い所でここを眺めていたので、人数は大体分かっているのです。私もそこにいましたけれども、自分の姿を見せないでそこの山のところでここを眺めていましたから、その時の殺し方とか様子は覚えています。
 それから向こうのところで殺された人で名前を知っている人がいます。ハクという、向こうの村に住む人なのですが、兄弟の5人目でした。彼は何も訳がわからなくて逮捕されて、理屈もなくそのまま現場で殺害されました。殺害したのは先程申し上げた日本新兵と言われた人々で、太平洋戦争が始まった後は日本軍そのものは人数が足りなくなって、朝鮮、台湾、琉球の人々によって作られた軍隊です。その時は1人では殺せる勇気がなくて、2、3人でハクを殺したというのを覚えています。

Nさん(日本側)の説明

 ここに入った軍隊がどのように入って、どのように出て行ったのか、防衛庁に資料が残っているのです。それによると今おっしゃった通りで、太平洋戦争が始まると、日本兵は消えていくのです。いわゆる満軍が増えて、朝鮮の人たちで編成された軍隊の話は初めて聞いたのですが、全部入れ替わって。じゃ、日本の兵隊はどこに行ったかというと、北の原隊に一度戻って、それから全部南の島に送られ全滅です。それは『北方部隊略歴』という厚生省に残っている資料でわかります。戦後、港々で帰って来る人々を全員チェックしているのです。一人ひとりから所属軍隊の経歴を聞いているのです。軍隊の移動というのはそれでわかるのです。厚生省の資料は防衛庁の図書館に残っています。

劉さん

 先程も話しましたけれども、侵略戦争というのは残酷なものです。中国の諺に「石を運び、自分の足をつぶす」という言葉がありますが、結果的にそうなるだろうと思います。日本軍は戦争の間に8人の総理の交替があったということを知っていますが、8人の総理も侵略戦争を救うことが出来ませんでした。歴史の中にも、ヒットラー、ナポレオンの他、日本の侵略者も含めて、大戦争である以上破滅の状況になるということは歴史によって証明されるものです。

Kさん(日本側)のお礼の言葉

 今日はお話をして下さってありがとうございました。私は日本で小学校の教師をしています。今日お聞きした話を日本に帰ってから子供たちにも話したいと思います。日本の子供たちと中国の子供たちがこれから手を取り合って平和な世の中を築いていけるように、私たちも努力していきたいと思います。どうもありがとうございました。