この村は南土門と言います。この場所は南土門という村に近いということで「南土門万人坑」と名付けられています。
この場所は一つの中国式の墓場ですが、このような大きな墓場が興隆県内に数百ヶ所あります。この場所での日本軍の殺害は1000人を超えています。なぜ万人坑と呼んでいるかというと、このような現場がこの辺に50ヶ所以上あるからです。
興隆県内の無人区の中における大討伐による殺害は2万人を超えていますが、そのうち大検挙によって殺害された人々は1万5400人でした。大検挙された村の人々は政治犯あるいは八路軍につながりがあるとして殺害されました。大掃討によって餓死したり凍死した人々は4000人を超えています。
人圏は225ヶ所あり、その中でさまざまな病気や生活困難により死亡した人々は1万1000人を超えています。
以上のさまざまな状況を合わせて5万400人が死亡しました。これは興隆県の人口の三分の一にあたります。
なぜこれだけ多数の人々を殺害したかというと、興隆県は中国共産党中央委員会の決定によって作られた根拠地の一つだったからです。この地域は中国共産党の方は抗日の根拠地の一つとして位置付け、一方日本軍は無人区と位置付け、両方の戦いの場となったからです。
日本軍が庶民をも殺害したのは、庶民たちが共産党の人々とつながっていると考えたからです。興隆県の43%の地域が無人区として指定されました。人口の82%にあたる11万8000人は、225ヶ所の人圏の中にのみ住むように制限されました。人圏というのは、人間を豚や羊のように圏(囲い)の中に閉じ込め、自由活動が出来ないようにした措置です。
この南土門の現場で殺害された1000余名の人々は、無人区の中で大検挙により逮捕された人たちです。1942年、大検挙によって2000人以上が逮捕され、この土地で200人が殺害されました。1943年、逮捕されたのは5000人で、ここで400人余りが殺害されました。1944年は2回の大検挙が行われ(正月ともう1回)、合わせて200人余りがこの土地で殺害されました。1941年と45年の数字を含めて計算すると、殺害された者は1000人を超えています。この場所は、興隆県で殺された5万人のうちの一つの代表的な現場なのです。
こちらの劉さんは南土門の村の住民で今年76歳です。この村の3番目の年長者ですが、他の2人はもう話が出来なくなっています。劉さんはその時のことをよく覚えていることもありますので、ここで話してもらいます。