日中戦争証言 安子嶺

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安子嶺での証言  1998.8.18

証言者

 

 

安子嶺郷党委書記 孟 さん

 日本の友人の皆さん、教師の皆さん、はるばる日本から一路私たちの安子嶺郷までおいでくださって、郷を代表して歓迎の意を表します。

 

Nさん

 この村でない方も、よその方もいらしていると思います。遠いところありがとうございます。本当にありがとうございました。
 この谷は興隆県の中でも一番早く人圏が作られた所ですけれど、皆さんたちはそれに抵抗して山に逃げて過ごしたわけですが、いろいろな生活を送ったし、いろいろな辛い思いをおさせしたと思いますが、どうぞそのお話をお聞かせください。
 みんな今日来ておりますのが、学校の先生たちですから、子どもたちの未来が本当に仲良くやっていけるように、平和教育の資料にしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 

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伊さん(62歳)の証言

 ある日のことですけれども、日本軍の3人がこの村に入ってきて、ちょうど部屋の中に18人の家族がいたんですけれども、その人たちは追い出され、日本軍はその家を焼き払いました。その隣の家には犬が1匹いて、その犬を殺しました。日本軍は当時「みなさん逃げないで、人圏に入れてあげますから人圏に行きなさい。」と言いました。

 その日のことですけれども、日本軍に人圏に行きなさいと言われて、みんなは追い出された。人圏は違う部落にあるですね。この近くにあるわけでないから、各家族は行きたがらなかったのです。日本軍は無理矢理にその人たちを人圏のところに連れていくのです。その途中で、人たちはみんなひざまずいてお願いしたのです。許してください、帰してくださいとお願いしたのですけれども、日本軍はこの人たちが行かないと抵抗していることを見て、発砲して何人かを殺しました。その中の一人の子ども、8才の子どもに、日本軍が銃剣を喉のところから差し込んだのです。差し込んでその子どもを殺した。

 私と姉2人が捕まえられて、人圏に捨てられたのです。私は当時5才だった。姉たちは、日本軍が捕まえて引っ張って、発砲して、左腕に当たったんです。ですからその後も、お姉さんは食事の手を上げられない。私は薪の中に隠れたのです。それで日本軍がもう帰ったと思って出たのです。それで出て間もなく見つかって、遠いところから、鉄砲で撃たれて、今その跡が残っている。お兄さんの嫁さんは、撃たれて腸も外まで出てきたんですね。2番目の姉さんもやられて、足の指が切られてしまった。それで、その時にこのことを見て、他の人たちはみな逃げてしまったのです。
 それで日本軍が発砲して、何人かがやられて、後は撃たれて割れたのもあるし。ちょうどその日は、中国の旧正月15日、15日は豆腐を作っていた家がある。日本軍が帰るとき、食料を持っていけるもの全部持っていって、残したものを全部まき散らしたですね。豆腐も勿論捨てたんです。豆腐は地に落ちたらもう拾えないです。それで家にも火をつけて全部焼き払われたんです。鍋も壊されて、食料もなくなって、何日もの間何も食べなかったのです。

 他の人も話をしますから、私はここまで話します。要するに、戦火の当時は、日本軍は酷い事をやりました。ということを申し上げました。私は今62才です。今の話は1942年の話です。

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張さん(74歳)の証言

 三光政策について話をします。もう50年前の話ですから、今よく覚えていない。日本軍は12年間、中国にいました。私の記憶では12年間。45年までの3年間、この3年間の間は、ここの農作物、食料ですね、奪われて中国の人たちは食べ物がなくなって、茶碗もなくて、南瓜の中身をとって茶碗に使っていました。

 当時のスローガンの三光政策が一般的になり、全部殺す、全部略奪、焼き尽くす、この3年の間、何回も討伐されて、日本軍に攻撃されて、160人いた村人が、45年までに80人になりました。減ったですね。そのぐらい、いなくなった。42年から45年の間に。

 当時、日本軍がよく攻撃し、八路軍を捜しに来るというスローガンで、よくこの村を攻撃しました。当時、オウさんという人がいまして、お父さん、奥さん、お祖父さんと4人の子ども、全部殺されて、あとに彼ひとりだけ残っていました。

 これは当時のことをひとつの例で説明しました。

 

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胡さん(78歳)女性 の証言

 家族、主に私の家族が殺されました。村全体で13人が殺された。その家が私の家です。

 9才位の時、当時川があって、川の向こうに洞窟があって、ひとつは遠くにあった。入れるが、狭くて細長い。

 当時、日本軍がよく来るから、この村の人たちは、昼になると洞窟に逃げ込むのです。夜になったらまた家に帰って、寝るのですけれども。当時、洞窟の中では食べ物も無いし、お腹がよく空きました。泣くことも、例えばお腹が空いたら泣くこともできなかったのです。泣いたら日本軍に見つかり、見つかったら殺される心配があって、そのようにしました。当時、お祖母さんが70才位、お母さんが50才位でした。お婆さんとお母さんと私と3人は、食料を入れるところ、倉庫ですね、その後ろにいた。

 ある日のこと、日本軍がパトロールしてきたと思います。けれども、当時はまだ子どもだからはっきり人数を覚えていないのです。確かに、村の人がたくさん中に逃げ込んだ。だから、他の家の子どもが泣き出して、日本軍に見つかって、出てこいと言われて、みんな追い出されたんです。出てもお腹空いたとは言えないし、何とも言えなかった。出てこいと言われて出てみたら、全部女性と子どもばかりです。お祖母さんは年寄りだから先に言いました。「私はもうこの年だから、出ても死ぬことに決まっているから出ないことにします。」と。お母さんもそのように言いました。それで3人が、やっぱり、死ぬならいっしょに中で死んでしまおうと誓いました。

 私たちはみんな出ました。日が暮れるころですので、日本軍がのぞいても見つからなかったのです。それで日本軍が棒で探した。中は暗いからマッチで火をつけようと思っても、なかなかつかなかったのです。そんなことを日本軍がやっているうちに、他の人たちは全部遠くまで出た。遠くまで逃げた人たちを見て、それはみんな女性と子どもばかりで、日本軍は、たとえば連れて帰っても何も役に立たないと思って、鉄砲を出して銃殺しました。発砲しました。稲刈りのような感じで一人ひとり、鉄砲が当たったら倒れました。

 お母さんを殺された子ども、14才位の子どもがいまして、その子は立ち上がりまして、お母さん、お母さんと叫んだ。それで日本軍がその子を見て、また発砲してその子を殺した。

 夜中になって日本軍がみな帰った。ちょうどその時、4、5人が羊を追いかけながら、上の方から降りてきて、日本軍と彼らが一緒にここを離れたんです。

 それから、村の人だけが洞窟の中にかき分けて近づいてみたのです。中に一人が、知り合いの叔母さんですけれども、お腹を銃剣で裂かれて、腸が外に出ていた。それで、私のお母さんが自分の服でそれを包んで、村まで運んできた。この時、その人の夫ですね、山の上に逃げていたのですが、帰ってきてそれを見て、他の人みんなに叫んだ。「しばらくして日本軍が来るから、食べ物を捜しに来るから、今のうちに逃げた方がいい。」と言うので、また逃げ出しました。今その男の人は生きている。

 日本軍は日が暮れると、また山の上から降りて、何か食べ物を捜しに来るのです。家に帰ったら、洞窟へはもう行きません。洞窟は日本軍が向かっているから、逃げれないです。

 家に帰ったら、お祖父さん、体が悪くて逃げなかったんですが、帰ってみたら家が焼かれて、灰ばかりになっている。それで、棒で灰を払ってみたら、ひとつ何かあった。何かと思ってお母さんに「これ何ですか」と聞いたら、「お祖父さんの腕です」と言って。それでお祖父さんの足と腕を外に出して、その日の夜は自分の家に寝ました。

トウさんの補足

 当時、あなたは、あの目撃した、焼き払われて死んだ人は何人ですか、と聞いたら、10人くらいと言っていますが、詳しい数字は覚えていない。しかし、18人です。彼女の家で焼き払われて死んだのはお祖父さんだけです。

 

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伊さん(85歳)の証言

 村の人たちは全部人圏に入らなくてはいけなかった。私たちの家は人圏から30キロ離れているから、そこに行ってもしかたなく、山の奥に逃げ出した。山の奥に逃げたら、日本軍は木とか作物とか焼き尽くして、三光政策をとっている。最初は、八路軍が来て、あなたたちは方法がないから、家を焼き払おうと言って焼き払ったんです。その最初の1回は。2回目はお母さん一人家の中にいました。隣の人が入ってきて、お母さんと食料を窓から出した。

 1944年のことですけど三光政策を実施した。1944年の5月6日、私は家にいなかったのです。妹が行方不明になった。山の上に家族が逃げて、山にテントを張った。家のテントと知りながらも帰れなかった。

 それで、何日かして家に戻っても、家族も誰もいなくなっていて、作物も無くなりました。私の名前は伊と言いますが、他の人に呼ばれたのです。私の名前呼ばれて、お母さん、両親全部北の山の上で日本軍に殺されましたよ、と言われました。

 お父さん、お兄さん、お母さん、9才の妹、6才の妹、5人は全部殺されました。両親の死体を埋めようと思っても、また日本軍が来て、埋める間もなく、また逃げました。それで、私の家族を入れて8人殺されました。私はいなかった。妹が行方不明になって、他の人を私の家の人として誤解されて殺された。8人です。

 

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張さん(79歳)の証言

 見たことを思い出しながら話をします。もう年寄りだから覚えてないですけど、覚えていることだけを申し上げます。

 当時、人圏、こちらの4つの村の人たちは全部向こうに連れられて行った。昔オンドルを使っていて、オンドルは湿気があって、伝染病がはやって、何人かの人は死にました。中国の人たちも、日本軍も死んだ人もいる。

 地獄と同じ意味のこの村の名前がよくないから、ここを離れると言って離れたのです。中国の人を1個所に集めました。人圏の人口密度は豚を飼っているような感じでした。日本軍が帰った後、4つの村を無人区にした。無人区には人が属してはいけない。入ってはいけない。見つかったら殺される。見つけたら殺す。死んだ人はそれほどじゃなかったです。殺された人がいたのです。三光政策は、山全体を焼き払う。火をつけて。人を見たら理由無しに、理由聞きもしないで、理由無しに殺す。

 本当に残酷です。無人区のところでは、機関銃を使って撃ったのですね。だから山の木は何日間も燃え続けた。

 当時、日本軍は三光作戦を実施したので、中国の軍隊は抗日戦争をやりました。全部、一人ひとり軍隊の1人になってもらったのです。それに対して日本軍は怒って、もっと酷い事をやりました。人を見たら殺すというふうに言って。摘発の形をとりました。摘発して捕まえて連れていきました。

 死んだ人の事実は否定できないと思います。私はここまでにします。

 

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伊さん(62歳)女性 の証言

 今、年をとって、目が見えなくなって、うまく話が出来ないですけど。

 ある日のことを思い出すんですけど、1日のうちに30人くらい殺されました。鉄砲で撃たれたり、銃剣で刺されたりして30人くらい死にました。

 ここでは、旦那さんの嫁さん、そろそろ旦那はもう1人の嫁さんももらったのです。この奥さんには2才の子どもを抱いた村に逃げ込んだ。当時、日本軍が討伐に行くから、みんな家に入られなくなって、みんな外に出たんです。この記憶があります。私は2番目でしたが、一番目の子どもを抱いて乳を飲んでいるときに、日本軍に撃たれて、足から弾が入って、子どもとお母さん2人とも死んだ。

 日本軍はまだ現場離れていないから、撃たれて死んだ2人を埋めようと思ってもできなかった。1週間後に、また戻って埋めたんです。

 だから31人、31人だから、死んだ遺体を見ただけでも山ですね。たくさんの所に並べられていると思います。この子どもは、死んだ後でも、まだお母さんの乳から離れなかったです。

 私の実家のお母さんも翌日殺されました。

 主人と主人のお母さんは山に逃げたから殺されなかった。

 私は隠されて敷き布団を持たされた。主人は、主人のお母さんと3人で横になって隠れた。日本軍の鉄砲が石に当たって、その石が飛んだ。飛んでちょうど顔に当たりました。

 記憶では、1人、2人の日本軍じゃなくて、たくさんの日本軍が来たと思います。

 最後に、主人、主人のお母さん、2人撃たれて死んだ。私は隠れて、石が顔にぶつかって、見つけられなかったといいました。私だけが残っていた。当時、病気になって、伝染病も流行っていて、病気になりました。体力が弱くて、大きな山の奥には逃げられなかったんです。だから近くで避難しました。家族の他の人たちもばらばらになったのです。だから夜、日が暮れると皆出てきて、捜しに来た。捜しに来た人たちはその場で、私1人しか残ってないのを見つけました。

 村にはそのような家族がたくさんいました。今日時間が余りないから、何人かしか来てもらわなかったのです。

トウさんの補足

 討伐は2週間続きました。12月4日から12月18日までです。日本軍はその、はっきりと山の上にあったんです。

 食事は山の上で、その他は五指山の上にいた。ふたつの村、ヤンガユイとバカコウで、合わせて約31人の死者。村の入口から山まで15キロの距離で、247人殺されました。