日中戦争証言 劉寨子

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CONTENTS

2000年8月20日
於 劉寨子中学

・証言者の紹介

朱(77歳)さんの話

 何かそういう話をしてくれと言われて準備をしようと思ったが、なかなか勉強したこともないし、まとまった話にならないと思います。とにかく経験したことを話します。うまく話せないことについては、申し訳ありません。6人が殺されたことについておおまかに話したいと思います。

 1944年6月か7月、はっきり覚えていませんが、日本軍がやって来て八路軍の中隊長などの関係者を何人か捕まえました。苗爾洞というところに連れて来て、それから北京市の密雲県に連れて行ったのです。

  私は百姓でしたが民兵です。武器があります。銃があります。7人が民兵でした。この民兵の7人は、もしかすると日本軍がまたやって来るのではと判断して、ここで準備をしていました。結果として、翌日に日本軍は捕まった八路軍のみなさんを連れてまた来たのです。

 来たときに、民兵の7人がそこで日本軍と戦ったのです。戦っているうちに、その中の八路軍の2人(板書 中隊長馮広文、民兵馮瑞興)が自分の縛られた縄を切って、こっそり逃げました。この2人は助かりました。あとの6人が殺されました。名前はその当時ははっきりと知らなくて後で教えてもらったのですが、日本の指揮している人は金田大作で、もう一人は朝鮮人の孫山という人で、この2人が日本軍を率いてやって来て6人を殺したのです。この殺戮は、牛圏というところで起こりました。捕まった6人の人は、牛圏で刀で殺されました。その中の1人は腹のところを全部開けられて、腸や胃が全部外に流れているところを後で見ました。この6人を殺した後、日本軍は撤退し去って行きました。この7人の民兵はまた山から下りて見に来たのです。腸とか胃とか肝臓とか外に全部流れた人は、その時はまだ死んでいなかったのです。何かを話してくれたようです。その後、死にました。

高通訳さんの説明

 さっき、おじいちゃんは自分の気持を言いました。

 「我々は当時の日本に対して何もしていないのに、どうして私たち中国人に会うと必ず殺すのか。それが理解できなかった。それを思い出すと、憎くてたまらない。」ということです。おじいちゃんはさっきずっと紙に書かれたものを読みました。あれは死んだ人の名前です。だれの息子、だれの2番目の息子、馮さんとか、今、黒板に書いてくれていますが、人の名前を読んでくれました。

 今日は、来る前に村の人たちは、特にこの人たちの子孫の人たちは、「もし、おじいさんとか、お父さんとかが来たらぼくの代わりになぐってきてください。」と頼んだそうです。「それで、今日来てみたら支援してくれる日本の人たちですから全然違う。同じ人間なのにどうしてこんなに違うのかと思います。その時のことを思い出すと憎む気持でいっぱいです。」と言っていました。(板書「苗爾洞牛圏惨殺案」で殺された6人の名前 馮の子、馮、馮、夏の子、李の子、王 すべてフルネームで)

朱さん

 もう1つのことを言います。村のチョウスーガンという女性が、日本軍に強姦、暴行されて、それからここに連れられて来ました。当時の偽満州国の警察(中国人なんですが)に配給しました。

高通訳さん

 ずっと昨日からみな「配給した」「配ってあげた」というふうに同じ言葉使いで言っています。

Nさん

 そう言っていたんです、当時は。女の人を自分たちが強姦した後、満人に払い下げるんです。「配給」するんです。

高通訳さん

 昨日は、ぼくは訳さなかったんですが、みんな使っていますから今日は「配給した」と訳します。

朱さん

 今回、みなさんが来る前に、興隆県の政府の方から、警察のその人を捜してくれることはできないかと頼まれましたが、その人は当時も知らなかった人で、女性の方も今どこにいるか知らないのです。

Nさん

 満軍に配給したのでなくて、警察官に配給したの?

高通訳さん

 警察官に配給した。昨日の話もそうですが、「満軍の場合もあるが、警察に配給することも多い。」と言ってました。

Nさん

 ここの討伐隊は警察官で構成されているの?

高通訳さん

 ぼくは東北の出身なんですけども、当時、たとえば朝鮮人も警察にいたという話もあります。当時は、日本軍が満州に入ったときに朝鮮半島から連れてきた朝鮮人、そして、もうすでに逃げてきていた朝鮮人も、それから漢民族の人も利用して、彼らを警察にして管理することも多かったのです。だからそういうときは、朝鮮の人も入っています。そういう話もよくあります。さっきの警察は、漢民族の人、普通の中国人だと思います。

王(78歳)さんの話

 42年ごろから日本軍がここにやって来て、人圏をつくって、人圏の中に村人を集め、人圏の中に入りたくない人を殺すという方針でした。私の家族はみんな人圏の外で活動していました。武器がありますから、手榴弾や銃がありますから、八路軍と関係があると思います。

 伯父さんの家族のことです。1944年の旧暦の1月14日に大雪が降りました。伯父の家に行っていて「ここに泊まってください。」と言われたのですが、「雪が降っていますから不便です。今早く帰らないとだめです。」とその日は帰りました。その日の夜、日本軍がやって来て、伯父さんの子ども2人、21歳と18歳が殺されました。なぜ知ったかというと、ここに殺されて死ななかった、14カ所刺されて死んだふりをした人がいて、その人に会って、「私は死んだふりをしたから生き残ったんですけど、あなたの伯父さんの家族の人は、死にましたよ。」と言われて、駆けつけて行ってみて、2人の息子が死んだとわかりました。伯父さんは死ななかったのです。伯父さんを自分の家に引き受けて、面倒をみてあげていたのですが、具体的な原因はわかりませんが、付き合いにくい人で、家族の間でもめていました。いつも伯父さんも怒ったりしていて、家族のみんなも怒ったりしていました。そういうようなけんかが起こると、自分が出かけていって「あなたたちは喧嘩をやめなさい。日本軍のせいなのに、家族の間で喧嘩をしてどうするの。」と話しました。

高通訳さんの説明

 次の話は、お母さんの弟ですから叔父さんです。その人も別のところで殺されました。叔父さんが、家族の中では、唯一の労働力だったということです。

 もう1つのことですが、お父さん(この人の実の父親ではなくて、中国の特に農村部ではそういう習慣がありまして、すごく親しい先輩に「お父さん」と呼んで、面倒を見てもらうし、仲がすごくいい関係。私たちがよく言う義理のお父さん、血縁のないお父さん)ですが、その人も別のところで殺されて、たぶん人圏の外で、移動している人だと思いますが、子ども2人が残されて、非常に困難な状況にありました。そのお父さんにこの人は、ご恩があるようで、時々助けてくれるような人だったので、殺されて非常に怒っています。

 さっきのお父さんの話は、1943年の春のことでしたが、もう一つは、直接日本人と関係ないのですが、1939年、日本軍がまだやって来ていないときに、中国の共産党か国民党か知らないのですが、たぶん共産党の軍隊がここに来て、百姓たちの農作物を(もしかするとトウモロコシかもしれません。)徴発して食べた。食べたが、今お金が払えないので、領収書のような紙を1枚「私たちの軍隊は、1939年の何月何日、お米のいくらいくらを徴発した。これから別の日にこの証明書を持ってお米をもらってください。」といったような領収書をくれたそうです。この方は領収書を、積み上げていた石の中に入れて取っておきました。共産党軍がまたやって来るときに、お米をもらうつもりだったけれど、日本軍がやってきて全部焼いてしまったので領収書もなくなった。おじいさんは、建国後「共産党軍は私のお米をいくらいくら食べました」とか言ったのですが、証明書がないと、何の証明にもならない。直接、日本人と関係しませんが、これも日本軍によってもたらされた損失だという話です。

王さん(64歳)さんの話

高通訳さんの説明

 この方は、古老たちの中でわりと若いです。だからあまり他の方たちと同じような経験は覚えていないということです。1945年の時9歳です。1943年のときは6歳ぐらいです。そういう年齢だったので詳しいことははっきり覚えていません。

 覚えているのは、まず、この人のお母さんが殺されたことです。お母さんが殺されたときに、妹さんは3歳でした。知り合いの王さんは、ある晩に5人家族全部殺されました。一番年上の人は、だいたい50歳ぐらい、一番小さい子どもは3歳ぐらいでした。

 この方は小さい頃から飢えても、寒くても泣かない子どもでした。よく親の心を知っている子どもでした。しかし、日本のことを言われると、「日本軍がやって来るぞ。」と言う言葉が出ると恐れます。そういうような記憶でした。この人も話を聞いたら人圏の外で活動している家族ですから大変な経験があったようですが、小さすぎて覚えていないようです。

王さん

 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。私はわりと若いですから、当時の詳しい話は次の夏さんに教えていただきたいです。

夏(76歳)さんの話

高通訳さんの話

 この方は、満州の年号をつかっていたので43年ごろか康徳6年、日本軍がやって来て拠点を作り始めました。それから康徳9年ごろ拠点ができて、無人区の管理とか、人圏の管理とか始めたそうです。つまり15里以外は無人区、7キロから7.5キロ以遠より遠くは無人区で、人間も住んではいけないし、農作物も作ってはいけないところです。以内の人は、人圏に住まなければならない。この人は、無人区の人ですが、隣接地帯に村があり、その村には33世帯、160人います。その中では50人位が人圏に入れられて、30人位殺された。山に逃げて、ご飯を食べられなくて、凍死、餓死した人は20人ぐらいでした。

夏さん

 6つのことを話したい。1つは、この劉寨子のあたりは無人区です。このあたりのみなさんを日本軍は潘水泉というところの人圏に入れたかったのです。劉寨子からこっちは、全部潘水泉の人圏に入って、そちらは、だれも住んではいけない無人区です。このあたりで30人ぐらい、日本軍に協力しないで最後まで抵抗した人がいて、この30何人も全部捕まって人圏に入れられました。

 2つ目の事件ですが、この人の家族は12人いまして、6人が殺されました。ここで部隊を率いている花芳というのは日本人で、孫山は朝鮮人で、2世帯を包囲しました。この人ともう1人の人が無人区を代表していて責任を持っている方で、2人は一緒の家に泊まっていたようです。日本軍がやって来て、満州国の憲兵も連れて7人が2世帯の家を囲んで、全部家に入って、そのもう1人の責任者を捕まえようとしたところ、その人は、家の後ろから逃げてしまいました。この人の義理のお父さん(さっき言った血縁のない人ですが)、その人の息子さんと娘さん、3人が殺された。銃殺された。他の人は、人圏に入れられた。当時は、最初は三光政策をとらなかったみたいですが、43年から三光政策をとって、家屋は全部焼いてしまったんですから、それにしてもどうしてそこに住んでいたかというと、たとえ壁がなくても、浸があれば中を暖めることができます。それを利用したいですから、親戚というか血縁のないお父さんたちはそこに住んでいたんです。日本軍が中に入って、その家のおじいちゃんが逃げようとしたときに銃殺されて、娘さんも同じ状況ですけれど、そのお父さんは、起きようとするときに銃殺されたということです。

 3つ目ですが、さっきもう1人の責任者について話しましたが、この方も責任者の1人ですから日本軍は捕まえようとした。その時、お父さんは、別のところで日本軍のために荷物を運ぶような仕事をしに出かけた。お兄ちゃんは、銃殺されたから、日本軍がこの家族のところにやって来たときに、おばあちゃんとお母さんがなぐられたんですが、みなさんは、ひざまずいて「どうしても殺さないでください。命を残してください。」と頼んで、結局殺されなかった。その後、家族のみなさん全部は山の奥に逃げた。だけど、別の所から「この人は責任者だ。」というような情報が入ってきて、それで、憲兵とかが捕まえようとして来た。しかし、彼は警戒心が強いので、いつか来るなと別の所に行くんです。ですから、ちょうどその日に別の所に行ったときに、夏さんとか許さんとか3世帯ぐらいにが囲まれて、「この人はどこに行ったか。」と拷問したんです。「知らない。」と言うんです。彼はもちろんどこに行っても周りの人にどこに行ったかを教えないんですから、確かにみなさんは知らない。それで「部落に入りなさい。」と言われて、みなさんが山を下りて部落に行こうとするときに、その中の1人が歩き方がちょっと速くなったので、逃げるんじゃないかと判断して銃殺した。そういう人が1人います。

 4つ目の話ですが、この家には2人の男の人がいて、捕まえられて監獄というか刑務所というか別の所に連れて行かれた。残された女性と子どもは、主人が捕まえられて連行されたので、非常に悲しくて、家の中で大きな声で泣き叫んでいた。お香を立てて仏様とか神様に「ぜひ生きて帰るように。」とずっとお願いしたんです。そしてろうそくも点けてお香も立てて、みんなずっとやっているもんですから、日本軍がまたやって来て「お前たちは、ひげ(八路軍)のためにご飯を作っているのではないか。」と言うんです。「いや違います。お香を立てて仏様に頼んでいるんです。」「いやそんなことはない。」ということで、この6人のうち5人を刀で殺したんです。女性の人は全部服を脱がせて殺しました。ですから夏さんは、殺してもう充分なのにどうして服を脱がせなければならないのかが非常に理解できなかったのです。家族の中の子ども1人が3カ所ぐらい刺されても死ななかったので、後で八路軍に助けられて生き残ったんです。

 康徳9年のお正月の14日の夜のことです。いつ日本軍が出て来るかというと、雪が降る日とか夜が多かったのです。なぜかというと昼間だと見回っている人がいます。遠くから山の上から「日本軍がやってきたぞ。」という情報がすぐ入って、みなさんに知らせて、すぐ逃げてしまう。だから、昼間は割と安全です。夜になると、おなかがすいていてご飯も食べなくてはならないし、寒くて、それに眠いし、夜になるとちゃんと情報が入ってこない。ですから夜は危険です。その康徳9年の旧暦お正月14日の夜、日本軍がやって来て、この人たちは凍っている川の上を歩いているときに遭遇しました。そのときは情報も遅かったそうです。さっきの王さんのところの2人の男の人を殺しました。同じ年齢の人ですが1人を殺して、もう1人を殺そうとするときにその人は崖から転落して自殺して死んでしまいました。もう1人は40歳の人ですが、抵抗する力がなくて何カ所も刺されましたが、死なないですみました。その中の若者夫婦2人を連れて行ったが、女の人を誰かに配給しようとした。この男の人はご主人ですから殺そうとした。やっぱり人圏に入る人がとても多くて、村ですからお互いに親戚同士で人圏の管理上の問題もあって、保証人が何人も出てきて「殺さないで。私が保障します。この人は日本人と対抗しない。そういうことを保障しますから部落に入れて生きさせてください。」と言うことがあって殺さなかった。その人の奥さんは、拠点の中に半月ぐらい入れて、半月後部落に入れたそうです。女性ですからその中でどのようなことが起こったか知らないのですが、侮辱的でした。

 最後の6番目の話です。詳しくは言っていません。ここにやって来る日本人は先頭に立っているのは普通の服を着た警察というか、私服の人で、八路軍が結局3人ぐらい殺されたのですが、最初山から下りて来たときに、村の人が自分の内部の人だから手を挙げたときに、私服の人に見られてばれてしまった。ですから、続いて日本軍がやってきて、八路軍の人たちをさっき名前をいちいち言ってくれたんですが殺して、普通の百姓さん2人を殺して、大きな罪を犯しました。その中の1人孫フイテンさんという人が捕まえられて銃殺されるというときに、「銃ありますか。」と言われて、最初「ない。」と言った。圧槓子というんですが、足とか、腕とか棒に縛られて、それから圧力をかけて骨折させるようなそういう刑なんですが、そうされる前に「じゃあ探して上げる。」と言って、探して銃をあげたんです。「じゃあお金があるか。ないと刑をやるよ。」というときには、布で作った靴の中からお金(八路軍の紙幣、根拠地の紙幣)も出して、日本軍にあげた。孫さんは結局、日本軍に降参、頭を下げて、日本軍はこの人に、ここで共産党討伐大隊長というポストをあげて、日本軍は副職になりました。この人が日本軍のために一生懸命やって、だから内部の秘密の資料など八路軍のものでしたけれども、だれがどういうような仕事をやっているか、どこに住んでいるかなどそういうような詳しい資料を全部日本軍に提供して、その人のせいで色々悲惨なことが起こったのです。そういうこともありました。

 昔のことは確かに悲惨なことがいっぱいで、いつ思い出しても憎む気持ちでいっぱいです。たとえみなさんに会っても何か復讐するというような気持も湧いてくるほど、自分に対して昔のことの影響がこれほど大きいということです。しかし、今になったら天皇陛下も含めて、中国人の友達になっていますから、今日のことをいろいろ見て、日本の方々が今、こんな貧しい劉寨子の中学校にいろいろ寄付してくれて大変ありがたいことです。

 つらい思い出はいっぱいありますが、これからは、友好になりますので、もうそういう話をしないことにします。それで、今ここで勉強している子どもたちがここで育って、卒業して、国家にとって有益な人材になったら決して皆さまのご恩を忘れられないと思います。これからは、友好関係を保ちつつがんばっていきたいと思います。これは、今の気持です。話は以上でございます。ありがとうございます。

馮さん(劉寨子中学校の副校長)の話

〔書いてきたものを黒板に貼り、請 われて説明〕

 私の個人的な話なんですが、私の祖父の馮の家に八路軍の2人が泊まっていました。日本軍が家に来ていろいろ調べましたが気付かずに去って行ったときに、喬という密告者が出てきて「八路軍2人がそこにいますよ。」と教えたので、日本軍が戻って来て祖父に聞いたんです。「果たして八路軍は泊まっているか。」と聞いたら、祖父が大きな声で「絶対いません。」とか言って、本当は部屋の中の八路軍の人に知らせたということです。そういう声が聞こえたので、八路軍の朱さんともう1人が中から脱出しようとするときに、朱さんが銃剣で刺されて、それでも2人は逃げてしまいました。兵士だったので足が速かったので逃げられたのです。しかし、朱さんは腸も出ていますし、おなかからの出血が大変多くて、だいたい3キロぐらい走ってそこで死んでしまったそうです。

 今日の最初に朱さんが紹介してくれた、2人が助かって、6人が牛圏というところで殺されたという話で、その殺された6人の中に親戚の馮が含まれています。民兵が日本軍と戦っているうちに逃げて助かった2人の馮広文と馮も私のおじに当たる親戚です。

Kさんのお礼の言葉

 私は、中国に初めて来ました。でも、いろんな方にお話を聞いて知ったことは今までまったく勉強したことのなかったことでした。今日聞いたことも、今度の旅行で知ったこともみんな私の知っている人たちに伝えて話していきたいと思っています。

 私の国が世界のいろんな国の人たちからいやな国だなと思われたり、恐い国だなと思われたりしないように、私や私の子どもたちとそういうような国になるよう努力をしていきたいと思います。今日、山の中をこの村に来る間、とっても空がきれいで、川が流れていて、白い雲が浮かんでいて、この静かな村がまたずっとこういう状態であることを願って歌を歌います。

♪♪ふるさとの歌♪♪

水の上 雲流れ 水の底 石歌う 草深く 牛眠り ひまわりは 萌えめぐる   山々よ 野よ 川よ   光舞え 風よ吹け   叫ぶとき そのこだま   地の果てに響きゆき    水の上 雲流れ    水の底 石歌う