日中戦争証言 羅文峪

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 羅文峪 1998.8.18

 証言者 徐さん(84歳)

木の向こうの山に崩れた長城が見える

証言をしてくださる徐さん

 

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 徐さん

 民国22年2月22日、承徳から日本軍が攻めてきて山の山麓に駐屯しました。ナンキョウヨクという所に溝があって、中国側では29軍が守っていました。23日まで激戦が続いて日本人が入ってきて、29軍は撤退した。夜になると29軍の将校と兵士たちは、全部刀を持って山から下りて、日本軍と激戦しました。日本軍はたくさん殺されて、マータイに連れて行かれて、狐山子まで遺体が運ばれました。大体以上です。

 

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トウさんの補足

 民国22年2月22日、1933年の3月17日のことです。

 ここ羅文峪は河北省の遵化県と興隆県の境界線、ここの戦いは塘沽協定に関わる重要な戦いだった。この古戦場は、日本帝国主義の凶暴な侵略性を証明している。

 1933年の2月21日、日本の第6師団、第7師団、8師団、12師団、傀儡軍とあわせて10万人の軍隊で、3つに分かれて、当時は熱河省と言っていましたが、この熱河省に向けて攻めてきた。6師団は通遼から開魯まで侵略してきました。8師団は錦州から朝陽に、この一路は唐山から喜峰口に向かって入ってきました。半年もしないうちに承徳まで進めてきました。半年もしないうちに中国の1000キロを占領した。3月16日、日本軍はこの下の山査口、ここからだいたい5キロほど離れたところ、少し高いところにあるところにやってきました。

 長城の守備軍は第29軍でした。日本軍は熱河省を攻め落としてから、冀中地区を攻めるようになった。31連隊、2つの連隊合わせて4000人くらい日本軍がいました。中国の軍隊は合わせて5000人くらいいました。徐さんは22日と言いましたが、実際は16日に、山査口で戦闘が始まりました。17日にここまで闘いがありました。戦場は合わせて東西5キロほど、日本軍は戦車、飛行機、全部使いました。日本軍は、立体的な戦略方法を取りました。中国の29軍の装備はあまり良くなかった。1連隊に軽い機関銃2台しかなかった。兵士たちは刀と手榴弾を持っていました。ほかにはほとんどなかった。昼、日本軍が攻めてきた時に、中国軍は後退しました。夜間の戦いで、また日本軍を撃退しました。この戦場で17日から、何回も攻めたり攻められたりしました。徐さんは山の上で日本軍が中国のたくさんの兵隊を殺したのを見た。2000人くらいの中国の兵隊を殺したのを見ました。山の上から山の麓まで遺体を運びました。

 18日の昼、日本軍は進攻してきて、19日の夜には中国の守備軍が陣地を取り返した。

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 徐さん

 戦争が始まる前、1人のスパイが、1匹の軍馬をひいてホイホイと追い立てながら、我々の村を通り過ぎ、馬にまたがって山道に沿って下ってきた。鉄道に沿って山の麓まで下り、城下の道にさしかかった時、29軍に見つかった。何人もの29軍の兵士が降りてきて、日本兵を捕まえて縛った。羅文峪で、誰かわからないが、ある上官の取り調べを受けた。日本兵の言葉が判らないので筆と硯を持ってきて、書かせた。日本兵は我々の村を包囲し、我々を助けなかった。私もどうしようもなかった。その何人かの29軍の兵士は、彼を連れて行った。この上官は何という名前か判らない。しかし、誰かが彼を「劉」と呼んでいた。

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 トウさんの補足

 今、徐さんが言ったのは、戦闘が始まる前に1人のスパイが軍馬を引いてこの山麓まで来た。その時、29軍に捕まえられた。また、3月19日、日本軍は歩兵、炮兵、戦車、飛行機を使ってこちらの山査峪というところを攻めた、山査峪と沙坡峪を攻めた。夜、中国の軍隊がいくつかに別れて、日本軍の駐屯しているところを攻めた。重機関銃の陣地を壊しました。この長城があまりよく保存されていないのは、当時、大砲で撃たれて旧跡はその時の形のままになったからです。19日の夜、中国軍は出撃して日本軍はやられて失敗した。それまで興隆県まで引き上げた。この羅文峪戦役は、中国と日本の戦争が始まってから、中国側としてはじめての勝利だったのです。

 しかし、この勝利だけでは全局的な問題を解決することはできなかった。蒋介石政府は日本軍に投降した。ただ北の八路軍の一部分だけでは、全体の問題を解決できなかった。その後、29軍は蒋介石の命令で引き上げた。

 4月の下旬くらいで、日本軍はまた戻ってきて、22くらいの市と県を攻めました。5月中旬くらいになると、日本軍の兵隊は北京と天津の周りを包囲しました。5月30日、蒋介石の軍隊の代表者・熊辺、日本の軍隊の代表・岡村寧次は塘沽協定を結んだ。

 その協約の第1条では、中国の軍隊はすべて順義と通県まで引き上げなければならない。冀中22の市と県は、第2の満州国になった。中国の政府に満州国の境界は長城ということを認めさせました。条約にはまた、次のように規定してありました。日本軍は飛行機で、中国の河北地方を全部視察できると。羅文峪の戦いの後、塘沽協定を結んだことは、長城の抗戦は結局失敗したことを表しています。しかし、中国人民にとって、長城抗戦における羅文峪の勝利は、忘れることのできない栄光の歴史として残っています。

 この戦いで中国の将兵の2000人くらいが殺されました。喜峰口のところでは、中国の兵隊3000人くらい殺されました。長城の戦いで、第29軍の合わせて5000人くらい犠牲となりました。この羅文峪のところでは中華民族の勝利を記してあるし、また、日本軍の敗北も記してあります。