今、徐さんが言ったのは、戦闘が始まる前に1人のスパイが軍馬を引いてこの山麓まで来た。その時、29軍に捕まえられた。また、3月19日、日本軍は歩兵、炮兵、戦車、飛行機を使ってこちらの山査峪というところを攻めた、山査峪と沙坡峪を攻めた。夜、中国の軍隊がいくつかに別れて、日本軍の駐屯しているところを攻めた。重機関銃の陣地を壊しました。この長城があまりよく保存されていないのは、当時、大砲で撃たれて旧跡はその時の形のままになったからです。19日の夜、中国軍は出撃して日本軍はやられて失敗した。それまで興隆県まで引き上げた。この羅文峪戦役は、中国と日本の戦争が始まってから、中国側としてはじめての勝利だったのです。
しかし、この勝利だけでは全局的な問題を解決することはできなかった。蒋介石政府は日本軍に投降した。ただ北の八路軍の一部分だけでは、全体の問題を解決できなかった。その後、29軍は蒋介石の命令で引き上げた。
4月の下旬くらいで、日本軍はまた戻ってきて、22くらいの市と県を攻めました。5月中旬くらいになると、日本軍の兵隊は北京と天津の周りを包囲しました。5月30日、蒋介石の軍隊の代表者・熊辺、日本の軍隊の代表・岡村寧次は塘沽協定を結んだ。
その協約の第1条では、中国の軍隊はすべて順義と通県まで引き上げなければならない。冀中22の市と県は、第2の満州国になった。中国の政府に満州国の境界は長城ということを認めさせました。条約にはまた、次のように規定してありました。日本軍は飛行機で、中国の河北地方を全部視察できると。羅文峪の戦いの後、塘沽協定を結んだことは、長城の抗戦は結局失敗したことを表しています。しかし、中国人民にとって、長城抗戦における羅文峪の勝利は、忘れることのできない栄光の歴史として残っています。
この戦いで中国の将兵の2000人くらいが殺されました。喜峰口のところでは、中国の兵隊3000人くらい殺されました。長城の戦いで、第29軍の合わせて5000人くらい犠牲となりました。この羅文峪のところでは中華民族の勝利を記してあるし、また、日本軍の敗北も記してあります。