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 わたしのめざすインストラクション

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 このコラムは、わたし自身のためのメモです。

 「足りないところを指摘して直す」インストラクションと、「できたことを見つけて喜ぶ」インストラクションがあります。そこに無頓着でいると、受講生に向かって、次のようなパラドクスに満ちたインストラクションをする可能性があります。

例1:「相手(子ども)の足りないところに目をやるよりも、よいところをみつけてほめましょう。…ほらまた。あなたは欠点ばかり見ていますよ」
例2:「相手(子ども)を十分に受容しましょう。そうしたら自分で解決していきます。…ほら、あなたのそんなやり方では、受容されたと感じられないでしょう?あなたが自立を阻んでいるのですよ」

 親が受容されないでいると、子どもを受容するのは難しくなります。「足りないところを指摘して直す」ことばかりされると、もっともっと「正解」を渇望し、がんばればできるはず、と修行の様相を呈してきます。

 もっと楽しく、もっと軽やかに、自由なコミュニケーションの知恵を伝えたい。 ひとは、自分は大丈夫、とわかると、さらに善い方向に自分で進んでいけるものです。わたしは、そのひとの中にある光り輝く存在を、いっしょに喜ぶインストラクションをしたい。その気持ちを支えてくれる文があります。
 ひとつは、プラトンの『国家』から。2400年も前に書かれた文が、いきいきと「こっちだよ」と方向を指し示してくれます。もうひとつは、トータル・カウンセリング・スクールのニュースレターから。わかりやすい言葉で、力づけられます。


 「(前略) そもそも教育と言うものは、ある人々が世に宣言しながら主張しているような、そんなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂のなかに知識がないから、自分たちが知識を中に入れてやるのだ、ということらしい−あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのようにね」
(中略)
 「ひとりひとりの人間がもっているそのような〔真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、 ただそれを−あたかも目を暗闇から光明に転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように−魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いていかなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、<善>にほかならぬ。そうではないかね?」
 「そうです」
 「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官の中に視力を外から植え付ける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

 プラトン 『国家』7巻4章 (藤沢令夫訳)、岩波文庫、1979年  太字はさかくらによる


 (前略)世の中は、「前向き肯定的に生きる」という自己啓発セミナーがどこも大入りで、弱いよりも強く、少ないよりも多く、低いよりも高くと、もっともっとと人々を駆り立てます。
 しかし、トータル・カウンセリング・スクールで言う「前向き肯定的」は、マイナスからプラスに進むことではなく、弱い者も強い者も、暗いものも明るいものも、すべて良しとする生き方です。マイナスからプラスへの人生観ではなく、プラスからプラスへの人生観です。
 もちろん、現実には不十分なこと、あなたが他者に対して、間違いなので直すように教育しなければならないこともあるでしょう。しかし、「ダメだから良くなりなさい」というのではく、「あなたは大丈夫、だから良くなる」と、どんな否定的な現実も、プラスを通してマイナスを見る生き方です。(中略)
 何事があってもすべて良し、すべては最善のために起きると、日々を生きることです。

 田中信夫 「においのおかず」、『リレーション』、第40号、2002年  太字はさかくらによる

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2001 Yuko Sakakura ; Communication House