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 毎月1日に三芳町が発行している「広報みよし」に『くらしの民具』と題した連載をしていました。ちょっと前までは使われていたものが、生活習慣の変化・技術の進化などにより、形や材質を変えたり、姿を消してしまいました。この連載では、今では見られなくなったもの・使われなくなったもの(民具を中心に)にスポットをあてています。
 以前の広報誌への連載ですので、ホームページに掲載するにあたり、一部加筆訂正してありますので予めご了承ください。
 5月 −蝿取器− 6月 −番傘・足駄(あしだ)−
 7月 −蚊帳(かや)・団扇(うちわ)− 8月 −井戸−
 9月 −行灯(あんどん)・ランプ10月 −囲炉裏(いろり)−
11月 −石臼−12月 −臼と杵−
 1月 −うどんこね鉢− 3月 −火鉢・湯たんぽ−

【バックナンバーはこちら】
Vol.1(1995年4月号〜1996年3月号)
Vol.2(1996年4月号〜1997年3月号)
Vol.3(1997年4月号〜1998年3月号)
Vol.4(1998年4月号〜1999年3月号)
Vol.5(2005年4月号〜最新号)






くらしの民具 5月 −蝿取器−

蝿取器
 日常生活の中で使われてきた物は、ありふれていたゆえに特に大事にもされず、いつの間にか姿を消してしまい、気付いた時にはなくなってしまっています。「ああそういえば、こんな物もあったなあ....」というような民具を「くらしの民具」と題してご紹介していきます。
 ということで、栄えある第一回目は蝿取の道具を紹介します。五月蝿い(うるさい)という言葉のとおり、暖かくなるに従い蝿が活発に動きだします。そこで活躍するのが蝿取道具というわけです。
 さてガラス製蝿取器は、手軽で手間いらずなことから、かなり長く使われたということです。形状は写真の通りビンを上からぐっと押し潰した形で、内側に曲げられた底に穴があり、その穴を餌の上からかぶせて使います。蝿は下から入って餌を食べ飛び上がるとガラスに当たって出られないという蝿の習性をうまく利用した仕組みとなっています。
 つぎに蝿たたきは、蝿取の代表みたいな物で、どこの家でも必ず一本ぐらいはあった筈です。戦後には金網を使った物やさらにプラスチック製のものも登場しますが、シュロ製が一番ではないかと。その理由は、蝿をたたく時にちょっとしたコツが必要で、蝿を潰しちゃいけないわけです。軽くショックを与える位が丁度良いので、それにはシュロが一番という按配です。
 このほか柄の長い天井用蝿取器や蝿取紙、リボンなどが使われ、天井からぶら下がった蝿取リボンが真っ黒という光景も見られたものです。天井から吊り下げられた、蝿取紙が髪の毛や顔に張り付いたりした記憶のある方もいらっしゃるのではないかと.....う〜思い出したくない....。
    
   「蝿叩き」とのコンビ


 ついでに蝿吸い取りも

くらしの民具 6月 −番傘(ばんがさ)・足駄(あしだ)−

 六月は雨の多い時期です。雨具としては、いろいろなものが使われてきました。むかしの小学校一年生の国語読本に「アメ、カサ、カラカサ」という言葉がありましたが、唐傘(からかさ)や番傘と足駄もかつては雨の情景でした。
 傘をひらくときのパリパリという音や、傘に塗られた油の臭いは特有のものでした。番傘は質素な雨傘の呼び名で、番号を書いた傘とも言われています。
 番傘などの和傘は昭和10年代の前半が生産のピ−クで、洋傘の3〜6倍の生産量がありましたが、それも昭和20年代のなかばまでで、洋傘の普及により今では日常生活のなかでみかけることもなくなりました。この辺りでは、青梅で生産された青梅傘が重宝されたといいます。傘には大人用と子供用があり、子供の人数分と大人用として3本ほど各家庭に用意されていたといいます。
 足駄は下駄の一種で、差歯下駄のうち歯の 短いものを足駄とよびました。古代では足の下に履くものをアシシタと呼び、それがなまったものです。差歯には、ほうの木やかしの木が使われたといいます。足駄は、昭和10年頃までは使われ、雨の日や霜どけなどでぬかるみを歩くときに使われたとのことで、歯の減り方で履いた人の歩き方がよくわかるといわれました。そして歯が減ってしまったものは歯をいれかえて使ったとのことです。



くらしの民具 7月 −蚊帳(かや)・団扇(うちわ)−

 梅雨が明けると暑い夏がやってきます。昔は夏といえば、生活に欠かすことのできなかった「蚊帳」と「団扇」のご紹介を。
 蚊帳は、あたりまえですが寝床への蚊の進入を防ぐためのもので、麻や綿で織ったものを箱形に縫い上げ、寝室の柱や鴨居の四隅に吊って使用したものです。夕方に蚊屋を広げたり、朝方に畳んだりするのは、子どもの仕事だったような気がします。万全の対策としては、蚊屋を吊ったあとに蚊屋の中で30分ほど蚊取り線香を焚いておくとまず、夜中に刺されるようなことはなかったと思います。もちろん蚊取り線香は値段が高いのと、火がついているので万一のことを考慮して寝る前には消してしまいますが....。
 さてその歴史は古く、中国から渡来したものですが、当初は一部の支配階級の人々の用具であったため、庶民に普及したのは江戸時代以降といわれています。
 しかし、長い間使われて蚊帳も、昭和40年代以降は住生活の近代化に伴い、アルミサッシの普及で網戸がその役目を引き継ぐことにより、次第に姿を消していきました。
 団扇は、一般的には細い竹を手に持つ部分だけ残して細かく割り、これに紙や布などを張ったもので、涼をとる道具ですが、用途は実にさまざまです。邪気や悪霊を祓うもの、また、陽を除けたり、顔を隠すなどの優雅な風情も演出しました。
 身近なものとしては、祭うちわがあります。そして、ガスや電気製品がなかったころの台所には、なくてはならないものでした。
 子どものころ、雷が鳴ると蚊帳に飛び込み、両耳を押さえ、体を丸めて恐さに震えたことや、風呂上がり、浴衣を着て縁側でスイカを食べる横で、母親が団扇であおいでくれるその肩越しには、鮮やかな萌黄色、茜縁の蚊帳が吊ってある情景を懐かしく思い出す人もいるのでは.....。

くらしの民具 8月 −井戸−

   
 「井の中の蛙」「井戸端の茶碗」「井戸の端の童」「井戸の鮒」「井戸端会議」.....など、井戸という言葉が使われていることわざや表現は、思い浮かびやすいでしょう。
 井戸は、水を得るためには欠かせない設備であったことはいうまでもありませんが、夏のころは食べ物を入れカゴを井戸に吊しておき、保存場所としても使っていました。暑さが厳しいころには、井戸で冷やしたスイカの味は格別だったに違いありません。
 また、井戸神様は屋敷内の主要な神様とされていて、「魂返し」といった、掘り井戸に向かって重病人の名を大声で呼ぶと命が助かるという言い伝えがあります。
 以上のことからも、井戸が昔から生活にたいへん密着し、大切にされていたことが読みとれます。
 まだ、昨年の記録的な水不足が記憶に新しいところですが、蛇口をひねるだけでいつでも水が得られる生活は変わりありません。しかし、昔の三芳では水を得るために、浅いところでも8メートルくらい、深いところでは24メートルも井戸掘りをした記録が残っています。私たちはそうした井戸の歴史とその役割を知ることにより、謙虚な気持ちになり昔も今も貴重な資源である「水の尊さ」を学ぶことができるのではないでしょうか。

くらしの民具9月 −行灯(あんどん)・ランプ−

 みなさんは行灯というと時代劇のシーンで見たという人も多いと思います。行灯が広く普及したのは江戸時代で、燃料となる菜種の栽培が普及し、行灯用の灯油として広く使われるようになってからです。それでも灯油は当時、庶民にとって大変高価だったため、極力節約して使われていました。
 行灯の中には皿受棚が設けてあり、そこに油を入れた灯明皿(とうみょうざら)を置いて、イグサの芯などを使って灯芯にし、そしてそれが油を吸い上げて燃え続けるようになっていました。また、当時火をつけるマッチがありませんから、火打石と火打金を使って、一旦燃えやすい粉に点火しこれを移していました。
 行灯の明るさは、現在では信じられないほど暗く、20Wの蛍光灯のわずか2百分の1にしかすぎず、行灯の光でものを見たり書き物をしたりするときなどは、必ず行灯の窓を開けて直接照らして使いました。行灯は、石油ランプが輸入されるとしだいに使われなくなりました。
 ランプは、江戸時代末期に外国から輸入され<洋灯>と呼ばれました。ランプはそれまで使われてきた、暗い行灯とは違い、より明るく安全で使いやすいものとして、広く普及していきました。ランプは火を灯すと油煙でホヤ(ガラスの部分)が黒くなるため、その清掃は概ね子どもたちの仕事でした。
 ランプは大正末期から普及し始めた電灯のために、しだいに使われなくなりましたが、それでも当初電力不足や電灯の数が限られていたために、お勝手や物置、土間などで終戦ごろまで使われました。



くらしの民具 10月 −囲炉裏(いろり)−

 秋風が立ち、つるべ落としの夜長を迎えるころになると、何となく火が恋しい。かつては、囲炉裏端に座って年寄りが子供たちに昔話を語つて聞かせ、そのかたわらの土間では、親たちが夜なべの縄ないなどをしている光景が見られたのではないだろうか。
 囲炉裏は屋内にあって、生活の中心を占めていた。囲炉裏の起源は、人が火を使い始め、屋内に持ち込んだときに始まる。先史時代の住居跡に見られるような炉を中心とする一室の住居は、その原形といつてよいだろう。
 それが、生活の向上に伴つて、しだいに住居が大きく、部屋数が増してくると、機能別に竃(かまど)や囲炉裏に分化し、また上囲炉裏、下囲炉裏と作られてきたのではないだろうか。
 主食の煮炊きは竃に譲るが、囲炉裏は、住居の中にあって、家族の団らんの場として、また来客の応接の場として、常に最も中心的な場を構成してきた。囲炉裏の周囲の名称と座居は、家長の座をヨコザ、客の座をキャクザ、主婦の座をカカザ、炊き物を置く隅をキジリというのが一般的であり、日常生活において厳格に守られてきた。そこには、一家を背負う者と火に対する畏敬の念が表れているのではないだろうか。
 今日、住宅の建て替えとともに、囲炉裏がほとんど見られなくなったのは、淋しいかぎりである。

くらしの民具11月 −石臼−

 11月ともなれば秋も深まります。丹精をこめた作物の取り入れは終わり、翌年の麦蒔きを済ませるころです。そして日々の食生活は、かつては収穫されたものでまかなわれ、ほとんど自給自足で行われていました。
 三芳の場合、竹間沢で昭和40年ごろまで水稲栽培が行われていましたが、町全体としてみると畑作地帯でした。畑作物のなかでもかつては麦・さつま芋が中心であったため、食料としても麦とさつま芋が主な位置をしめていました。主食としての麦飯・うどん、副食としての野菜類が日々の食べ物の中心をなしていました。そして食べ物を作るうえで欠かせない道具が石臼でした。
 オシムギに変わるまで麦飯はヒキワリにして食べていました。そして、ヒキワリをひくときに出る屑を再度ひいて粉にし、それを団子にしたヒキワリダンゴ、うどん・ヤキビン・すいとん・まんじゅうなどを作るための小麦粉、さつまだんごを作るさつま芋の粉、屑米の粉、豆腐の原料としての大豆をひくなどの加工では、製粉機に変わるまで石臼が使われました。
 石臼の歴史は古く、日本に伝わったのは1400年前といわれていますが、一般庶民に普及したのは江戸時代中期のことと記されています。それ以前は、穀物を粉にするのはすべてつき臼でしたから、能率を比べると石臼は格段によいものでした。
 米はほとんど年貢に納めてしまいましたし、その後も小作料や供出、ウりリョウとして出してしまいましたから、手もとに残るのはヒエ・アワ・麦・屑米などでした。そのような中で石臼は長い間大きな役割を果たしてきました。臼ひきとは、石臼をひくことを言います。臼ひきは、一人でもやりましたが、かなりの重労働なので雨の日や夜に数人で共同でやることも多く、そのほうが仕事も早いし楽でした。また、若い娘がいる家に夜遊びに来た若い衆に臼ひきをやらせ、その粉でまんじゅうを作ってくれる家もあったといいます。そのような男女交際の場では、臼ひき唄がよく歌われたと言います。

くらしの民具 12月 −臼と杵−

 師走ともなると、なぜか気忙しい。新しい年を迎えるのに、さまざまな準備に追われるからだろうか。かつて、正月の準備で餅つきは、大掃除とならんで欠かせない行事のひとつであった。
 臼と杵は一対のもので、広義には物を砕いたり、すりつぶしたり、混ぜたりする道具を指し、目的によって形も使い方もきわめて多岐にわたっている。木の実や穀物をすりつぶす道具としての起源は、縄文時代の石皿などに求められるが、ここでは、いわゆる餅つき道具としての臼と杵を紹介する。
 臼は石材(花崗岩)のものもあるが、一般的には欅材のものが使われ、それも根もとの部分を利用したものが上等であった。また、には樫や欅材が使われ、特に柄の部分には堅く折れにくい樫材が使われた。臼は、形態的に竪杵と横杵に分類される。子供のころ、月にウサギがいて餅をついていると聞かされた人も多いことと思うが、あのウサギが持っているのが竪杵。丸太の中ほどを細く削り、握りやすくこしらえてあり、左右交互に持ちかえて片手でついた。すでに弥生時代には登場していたと言われる。一方、横杵は丸太に柄を付けたもので、上から振り下ろして使う。鍬を使う農作業に似て男性的であり、強く多くつく機能に進化した形である。
 三芳の農家でも昭和40年代頃までは、正月以外にも彼岸、神祭、新築祝い、節句などに臼と杵を使って餅をついていたが、徐々に手軽な餅つき機械で済ますようになり、最近では伝統的な餅つき風景も、ほとんど見られなくなった。

くらしの民具 1月 −うどんこね鉢−

 新年あけましておめでとうございます.....さて、お正月やお祝い事があったときなど、各家庭なりの食べ物でお客様をお迎えすることでしょう。そして、それらはみなさんの出身地に伝わるもの郷土の伝統食ではないでしょうか。
 それでは、この三芳では、手打ちうどんがお客様によく出されていた食べ物のひとつだということをご存知でしょうか。
 三芳では、お祝いの席や年中行事(七夕やお盆などではお供えとしても)に手打ちうどんが、作られ、食されていました。日常の食事にも出されましたが、材料の小麦は売るために作っていたことや、忙しい農作業の日々の中では作るのに手間がかかりすぎるために、ときどきしか食べることができませんでした。
 ちなみに、昭和20年代までの三芳では、主食は麦飯(陸稲が3、大麦が7の割合)でした。
 昭和30年代に入ると、小麦の値段が下がったために、三芳の農家は麦の生産をやめていきました。これにより、主食の座は麦から米に移っていくことになります。
 今では食生活の変化などで、手打ちうどんを作る家も少なくなってきましたが、作り方はもちろん、食生活も風習も、うどんのように長く伝えていきたいものですね。

くらしの民具 3月 −火鉢(ひばち)・湯たんぽ−

 今日、火鉢と聞くと、とても風流だが、いざ使うとなると炭はもちろん、炭入れ、火箸、五徳に十能、鉄瓶もいるということで、かなりのぜいたく品になってしまうようです。また、現代の住宅の密閉空間にも火鉢は向いていない。その点、かつての民家はすき間風が入り、安全でしたが、そのために部屋全体を暖めることもできなかったのです。そんな住宅環境の中で、火鉢は大変重宝がられた暖房具だった。どの部屋へも簡単に運ぶことができ、五徳があれば湯を沸かすこともできました。
 この火鉢、一般の民衆に使われたのは江戸時代に入ってからで、木製、陶製、鉄製と普及していきました。なかでも長火鉢は多機能で、暖房のみならず、胴壷で湯が沸かせ、小鍋立てが出来て食卓も兼ね、引き出しは乾燥機にもなるというすぐれたものが生み出されました。
 さて、湯たんぽは、小さいころ布団の中に入れてもらって寝た人も多いのではないでしょうか。いつごろから使われたのかはわかりませんが、最初は陶器製の枕型の湯たんぽで、おしめなどにくるんで使われました。明治から大正期に利用されましたが、ブリキ製のものが出回ると、次第に姿を消していったようです。
 湯たんぽは一時、電気あんかや電気毛布などに取って代わられましたが、今日の健康ブームの折から、再び見直されつつあるようです。

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