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●毎月15日に三芳町教育委員会発行の「教育だより」掲載の『紙上文化財』からの転載です。
●このシリーズは以前に「くらしの民具」と題して「広報みよし」および「資料館のHP」に掲載したものの続編にあたります。
●なお、ホームページに掲載にあたり一部加筆訂正している場合がありますので予めご了承ください。
 4月 −ランドセル−  5月 −ホイロで手揉み茶−
 6月 −カマ(鎌)−  7月 −お札−
 8月 −従軍記念の盃−  9月 −火打道具−
10月 −蓑と笠− 11月 −糸車−
12月 −神酒口−  1月 −ハコザグリ−
 2月 −消防組半纏−  3月 −フリコミジョレン− 


【バックナンバーはこちら】
Vol.1(1995年4月号〜1996年3月号)
Vol.2(1996年4月号〜1997年3月号)
Vol.3(1997年4月号〜1998年3月号)
Vol.4(1998年4月号〜1999年3月号)
Vol.5(2005年4月号〜最新号)






くらしの民具 4月 −ランドセル−

懐かしいランドセルと教室の椅子

ランドセルと椅子

 教科書も思い出もたくさん詰まったランドセル  
 ここ30年間の私たちの生活は、機械化が進み、ものが豊かで、お金を出せばたいていのものは手に入る時代になってきています。生活が便利になった反面、私たちの身のまわりから姿を消してしまったものもたくさんありました。
  資料館では、移り変わる生活の中で、そのままでは失われてしまうであろう昔の道具(民具)を保存し後世に伝えていくため、その収集に務めてきました。その一部は展示という形で皆さんに公開していますが、残念ながら、資料の状態や展示スペースの関係からすべてを展示するのは難しい状況です。そこで、今月より、資料館に収蔵されている民具の数々を紙面にてご紹介していきたいと思います。
 さて、毎年この時期になると、真新しいランドセルを背負って元気に登下校する新一年生の姿を見かけます。小さな体にぎこちなく背負うその姿は、まるで「ランドセルが歩いているみたい」と思った方もいらっしゃるでしょう。そのランドセルですが、日本で採用されたのは明治20年代といわれています。その頃の軍隊で用いられていた背嚢(背負いカバン)をモデルとして作られました。その材質は黒革と決められており、男の子も女の子も黒一色でした。女の子用として赤色が登場するのは、昭和20年代以降のことです。
 三芳町でランドセルが普及し始めたのは、昭和30年代後半頃からです。それ以前は肩掛けカバンだったり、風呂敷に教科書を包んで学校に持って行ったりしました。写真のランドセルは昭和40年頃のもので、公務員や銀行員の初任給が2万〜2万5千円だった当時、定価は3,600円前後でした。 現在では、黒や赤に限らず黄・紺・ピンクなどカラフルになったり、軽くて丈夫な作りに改良されたり、毎年のように進化していくランドセルですが、そこに込められた贈り手の期待と背負ったときの心の高鳴りはこれからも変わることはないでしょう。

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くらしの民具 5月 −ホイロ−

ホイロと茶摘かご

ホイロ(焙炉)とチャツミカゴ(茶摘籠)

 ホイロで手揉み茶  
  夏も近づく八十八夜。立春から数えて八十八日目にあたる五月二日前後から新茶の季節が始まります。三芳はいわゆる「狭山茶」の産地であり、狭山茶栽培の北限地でもあります。
 今では機械による製茶が主流ですが、昭和初期まではほとんどの農家にホイロがあり、手揉みによる製茶が行われていました。この頃、上富や北永井では「男で茶作りができぬ者は一人前ではない」といわれ、一七、八歳の若者の多くは地元や所沢の製茶屋に開かれた伝習所に通い、製茶技術を習得し「茶師」として活躍しました。
 お茶は「ゴイチ(五一)に撚る」といわれ、青葉五貫目から一貫目(三.七五s)の煎茶に仕上げるのが良いとされました。手揉みの製茶手順は、まず摘んだ茶葉を一日陰干しし、翌朝セイロで蒸します。蒸した葉は畳一枚分ほどの大きさのホイロの上でよくほぐし、この作業をハウチといいました。ホイロの下部にはブリキでできたドーコウがあり炭を詰めて加熱しています。ドーコウの上に金網や鉄の棒を渡し、その上に底に和紙が張られたホイロ枠のせ茶葉を揉んでゆくのです。次に葉の中の水分が均等になるようにホイロの上で力を入れながらまわし揉みを行うダルマと続きます。
 さらにホイロをきれいにして仕上げのネリを行います。ネリは葉打ちのデングリ・水分を乾かすヨリキリ・仕上げのコクリと進み、針のような細い茶に仕上げられました。 ホイロは下から熱するので、使っているうちに紙が部分的に焦げてきます。そこへ刷毛で糊を塗り和紙を貼り重ねて補修します。この和紙に塗られた糊が茶にしみこんで手揉み茶独特の芳香を醸し出します。
 昨今ペットボトルのお茶では味わえない、渋いようでも甘みとコクのある日本の味が見直されつつあります。

(注)この記事は「教育だより」5月号には紙面編集の都合上掲載されていません。 

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くらしの民具 6月 −鎌−

鎌とカマカケ

カマ(鎌)とカマカケ

 用途に応じたいろいろな鎌  
  かつて三芳町で麦づくりが盛んだった頃、6月下旬から7月上旬にかけて麦刈りが一段落すると、農家では「カリキリ」という行事を行いました。これは、麦刈りに使った鎌をきれいに洗って箕に入れ、そこに灯明・御神酒・ゆでまんじゅう(家によってはぼた餅)・手打ちうどんなどを供えるものです。麦刈りに使った鎌を休ませ、収穫に感謝するという意味が込められましたが、道具を大切にする人々の心が表れた行事の1つといえます。
  さて、現在では鎌というと、半月型の刃が柄に対して直角についた草刈り用の鎌をイメージすることが多いのではないでしょうか。これに対して、麦刈りや稲刈りには、細い三日月型の刃の鎌が使われました。資料館に収蔵された資料の中には、何度も何度も研いで使った結果、刃の幅が極端に細くなってしまった麦刈り鎌もあります。また、稲刈り用として鋸のようなギザギザした刃がついた鎌もありましたが、これはあまり使い勝手がよくなかったそうです。
  鎌はこのほか、堆肥となる落ち葉を集めるクズハキの準備段階として、下草を刈り取るために使われたナタ鎌、養蚕で蚕に与える桑を枝ごと切り落とすための桑切り鎌など、生活の様々な場面で活躍しました。鎌は鎌でも、それぞれの用途に応じて大きさ・形が異なり、作業をするのに使い勝手のよい鎌が選ばれました。
 このように、一軒の農家でいろいろな鎌を何丁も持っていることとなり、写真のようなカマカケという木の枠に掛けて大切に保管されました。

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くらしの民具 7月 −お札−

お札
額に納められ重ねて貼られた「お札」

 人々の願いをかなえる「お札」  
 私たちは何か願い事を叶えたい時に、自分自身でできる最大限の努力をしますが、それでも最後は「神様、仏様・・・」と人智(じんち)を越えた存在にすがることが多くあります。その時、神秘的な力を宿し、効力を発揮するしるしとしてさずかるのが「お札」です。
 お札には木のお札と紙のお札がありますが、神仏名や神社仏閣名、家内安全や商売繁盛などの願い事が書かれた紙のお札のほうが多く見られます。 現在ではお札をいただいてくると、古いお札と入れ替えて神棚におまつりし、その役割を終えた古いお札は、感謝の気持ちとともに神社に納めます。しかし、かつては大きな額を神棚の横などに掲げ、そこに古いお札を重ねて貼っていくということが行われていました(写真)。そして、貼り重ねたお札がある程度まとまった枚数になると、額からはがして屋根裏に上げました。これは、お札をたくさんためると火事にならないとか、悪霊が家に入ってこないという言い伝えによるもので、全国各地で見られる風習です。
  ところで、額に貼られたお札や束になったお札を調べてみると、いろいろなところからお札をさずかっていたことがわかります。中心に狼の絵が描かれ「武蔵国 大口真神 御嶽山(みたけさん)」の文字が書かれているのは、東京都青梅市にある御嶽神社のお札です。豊作祈願や厄除け・盗難除けとして、土蔵の扉に貼ったり、竹の棒にはさんで畑に立てたりしました。また、「八雲神社」や「八坂神社」と書かれたお札は、七月の中旬から下旬にかけて町内各地域で行われる「天王様」というお祭りで配られます。このお札には、病気にならず健康でいられるようにという願いが込められています。そのほかにも、町内の羽生山稲荷神社や竹間神社、千葉の成田山新勝寺や四国の金比羅宮などのお札があり、さぞかしたくさんの神様・仏様が家族を見守ってくれていたことでしょう

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くらしの民具 8月 −従軍記念の盃−

従軍記念杯
戦争の時代を記憶する
「従軍記念の盃」

 従軍記念の盃に兵士の心情をみる  
 八月十五日は終戦記念日です。今から六十年前のこの日、日本の無条件降伏により、長きにわたった戦争が終結しました。それまで日本では、諸外国とわたり合うために、戦争によって海外へ領土を拡大することが正当化され、そのための強力な軍隊が必要とされていました。そして、徴兵制度を採用し多くの人々が戦場へと駆り出されていきました。今回は、その徴兵制度という時代背景の中で残された資料の一つをご紹介したいと思います。
 徴兵制度の下で、男子は二十歳(のちに十九歳に引き下げ)になると、兵士としての適性を判断するための身体検査を受けました。検査に合格し、軍隊へいざ入営となると、家族や近隣の人々は、自宅の前や近くの神社に華やかな旗や幟を飾り、無事を祈って送り出しました。やがて満期除隊となり、無事に故郷に帰ることのできた兵士たちは、自分を見送ってくれた人々へ、感謝と帰還の報告を兼ねて盃を贈りました。「日の丸」や「鉄かぶと」の絵柄が描かれたり、「凱旋(がいせん)記念」や「除隊記念」などの文字が書かれた盃もあります。贈られた盃からは、無事に兵役を務め終えた誇りと無事に帰ってこられた安堵感とが伝わってきます(写真)。
 しかし、こうした従軍記念の盃の贈答は、支那事変(日中戦争)のあたりを最後に、戦争の激化にともなって次第に行われなくなりました。 今回ご紹介した資料は、平和な世の中であれば見ることのなかった資料です。戦争に関する資料をとおして過去の悲しい歴史を知るとともに、平和の尊さについても改めて考えることができるのではないでしょうか。

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くらしの民具 9月 −火打道具−

火打道具
「かちかち山」の火打道具より
「左が火打石 右が火打金」

 「昔話の中の道具展」展示資料から@  
 皆さんは幼い頃、たくさんの昔話を聞いたことと思います。昔話の中には、話の中核をなす道具や不思議な効力を発揮する道具がいくつか出てきます。これらはかつて実際に使われていた道具ですが、現在の生活の中ではほとんど見られなくなってしまいました。昔話で聞くけど実際どういう道具か知らない、ということがあるのではないでしょうか。
 そこで今回は、昔話に出てくる道具についてご紹介したいと思います。 皆さんご存じの「かちかち山」の一場面です。薪を背負うタヌキの後ろで「カチカチ」と音がします。ウサギは「かちかち山だからさ」と答えますが、実際には「火打道具」を使ってタヌキの背負う薪に火をつけたのでした。 この昔話に出てくる火打道具は、明治時代にマッチが出回るまでの主要な発火具で、「火打金(鎌)」と「火打石」からなります。火打金と火打石を左右の手に持ち、火打金を削り取るように火打石を打ちつけて、火花を飛ばします。この時、「カチカチ」という音がするのです。 
 ところが、これだけでは昔話のようにすぐに薪に火はつきません。火打道具で飛ばした火花を、ガマの穂などの火口(ほくち)で受けて火種(ひだね)とします。火種の火を枯れ葉などの燃えやすいものに移して火を大きくし、そこからようやく薪に火をつけることができるのです。火種の火をほかへ燃え移らせる時には、付け木(つけぎ)という硫黄のついた薄い木が使われました。昔話では語られていませんが、ウサギも以上のような手順で薪に火をつけたのかもしれませんね。   

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くらしの民具 10月 −蓑と笠−

蓑
     「蓑と笠」

 「昔話の中の道具展」展示資料からA  
    姿が消える!?笠(かさ)と蓑(みの)

 今回も、前回に引き続き、昔話に出てくる道具についてお話したいと思います。皆さんは「笠(かさ)地蔵」「てんぐの隠れ簑(みの)」という昔話をご存じでしょうか。この2つの昔話に出てくる笠と蓑は、かつて農業が主な仕事であった時代、自然を相手に農業を営む上で欠かせない道具でした。
 笠は屋外での雨や強い日差しを避けるために頭にかぶります。柄を手にもってさす傘(かさ)とは違い両手が空いて自由に使えるので、主に農作業時に使われました。すげや竹の皮を材料として、円盤形や円錐形に編み込んで作ります。 蓑は農作業や外出の際に、体へ雨がかかるのを防ぐために着用します。背中と肩、腰を覆うもので、現在でいえば雨がっぱといったところです。わらすげシュロの木の皮などの材料を編んで作りました。今から70 年ほど前まで使われていました。
 というわけで、雨の日には笠をかぶり蓑をまとって農作業ということになるわけですが、笠と蓑で覆われたその人の姿は、はっきりと見ることはできません(写真)。そのようなことから、笠と蓑には身を隠す=姿が消えるという不思議な効力が付加され、いろいろな昔話の中に登場してきました。笠は「隠れ笠」、蓑は「隠れ蓑」として、「打出の小づち」とともにてんぐや鬼の3つの宝物とされました。
 「てんぐの隠れ蓑」の昔話では、隠れ蓑を手に入れた主人公は、姿を消して酒屋に忍び込み、酒をしこたま盗み飲みしました。皆さんだったら、姿を消してどんなことをしてみたいですか。

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くらしの民具 11月 −糸車−

糸車
          「糸車」

 「昔話の中の道具展」展示資料からB  
    “キークルクル”と回る糸車(いとぐるま)
 皆さんは「たぬきの糸車」というお話をご存じでしょうか。このお話は三芳町で使用している小学1年生の国語の教科書に掲載されているもので、小学生や先生にはおなじみのお話かもしれません。
 さて、このお話の中に出てくる糸車は、木綿を細く引き出して撚り(より)をかけ、糸にして巻きとるための道具です。紡(つむ)いだ糸を使って、はた織り機で反物を織りました。木製の台に大きい竹製の車と糸を巻きとるつむ棒を取りつけ、この2つに紐をかけ渡します(写真)。右手で竹製の車についている取っ手を回すと、つむ棒も回転して紡いだ糸を巻きとる仕組みです。
  糸車を回した時を、教科書では「キークルクル、キーカラカラ」と独特な音の繰り返しで表現しており、ほのぼのとした雰囲気を伝えています。しかし、実際には反物を織るために相当量の糸が必要となり、糸紡ぎは大変な作業でした。そのため、はた織りが農家の女性の副業であった時代、反物にする経糸(たていと)は機屋(はたや)が用意し、女性はそれを自分の家のはた織り機で織るという賃機(ちんばた)と呼ばれる労働形態ができました。
  糸車はこのほかにも、座繰(ざぐり)でひかれた絹糸にさらに撚りをかけたり、はた織りの時に必要な緯糸(よこいと)を小管(こくだ)に巻くために使われたりもします。竹製の車とつむ棒という単純な構造なのに、一台何役もこなす働き者の糸車。資料館では12月11日までの日程で糸車を展示しています。この機会にぜひ一度ご覧ください。  

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くらしの民具 12 月 −神酒口−

神酒の口
        「神酒口」

正月の神棚を飾る縁起物「神酒口」(みきのくち)
 今年も残すところあと半月となりました。年の瀬も押し迫り、そろそろ正月の準備も気になりだす頃ではないでしょうか。かつては、家中のすす払いをして障子を張り替え、親戚や近隣同士で集まって餅つきをし、屋敷の門には門松を飾りました。そして、神棚に供える御神酒徳利(おみきとくり)や瓶子(へいじ)には、神酒口(みきのくち)をさして飾りました。今年の厄(やく)や汚れを払い、新たな気持ちで新年を迎えるという風習は、昔から変わらない日本人の心といえます。
 ところで、神棚自体がない家庭が多くなってきた昨今、正月飾りに神酒口を見ることがないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。 神酒口は正月飾りの縁起物として、お正月用品と一緒に歳の市(としのいち)などで買い求められました。全国的には紙製のものが広く分布していますが、埼玉県の北部では板状のもの、東京の多摩地域では竹製のものなど、地域によって材質が異なります。
 三芳町では、所沢の市で購入することが多く、青梅市で作られた竹の神酒口を飾りました。 竹の神酒口は、玉(たま)・鬢(びん)・輪(わ)を基本形とし、さまざまな形が作られます。それぞれに、宝船(たからぶね)・一ツ玉の輪(ひとつだまのわ)などの縁起の良い名前がつけられています。大神宮様や荒神様、年神様など、お供えする神によって違う形の神酒口を用いました。
 神酒口は小正月を過ぎると神棚から下げられて、その役割を終えます。まさに年の瀬から正月にかけての風物詩の一つといえます。今年は皆さんのご家庭でも用意してみてはいかがでしょうか。

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くらしの民具 1 月 −ハコザグリ−

ハコザグリ
        「ハコザグリ」

繭(まゆ)から糸への道しるべ −ハコザグリ−
 
 皆さんがよくご存じの絹糸は、蚕が作る繭(まゆ)から糸を紡(つむ)いだものです。この繭を得るために蚕を飼育することを「養蚕(ようさん)」といい、大正から昭和初期にかけて、三芳でもほとんどの農家で副業として行っていました。できた繭のうち良質のものは業者に売って、売り物にならない繭は自分の家で「ハコザグリ」を使って糸にしました。今回はそのハコザグリについてのお話をしようと思います。
 ハコザグリは、鍋で煮立てた複数の繭から一斉に糸を引き出し、糸に撚りをかけて糸枠に巻きとる道具です。取手を回すと歯車の組み合わせで糸枠が回り、糸が巻きとられる仕組みになっています。このハコザグリには、効率よく糸紡ぎができるようにいくつかの工夫がほどこされています。まず、「ツヅミ」と呼ばれるローラーの部分に繭から引き出した糸をからませることで、巻きとっていくうちに自然と糸に撚りがかかるようになっています。また、箱の中にはジグザグの溝が切られた円筒形の車があり、取手を回すと一緒に回ります。この車の回転運動によって、溝に導かれた糸振り棒が左右に動き、糸を均一に糸枠に振り分けていく仕掛けもあります。
 さて、歴史民俗資料館では常設展示室の一部展示替えを行い、今回ご紹介したハコザグリを展示しています。実際の資料をぜひ間近でご覧ください。

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くらしの民具 2 月 −消防組半纏−

消防組半纏
消防半纏の前()と後()

三芳の消防を支えた誇り−消防組半纏−

 現在、各市町村には在住者有志で結成された「消防団」という組織があり、消防署と連携して消火活動にあたっています。消防団は消防組織法(昭和23年施行)という法律で定められた組織ですが、その前身は「消防組」といって、消防署がなかった明治時代から、ずっと地域の消防を担ってきました。
 その消防組が消火活動にあたる時に着ていたのが消防組半纏です(写真)。消防組半纏は紺木綿の単衣(ひとえ)で、腰回りには2本の白い線を染め抜き、前襟に「三芳消防組第四部消防手」など所属名が入っています。また、肩から袖口にかけては赤い線があり、この赤い線の本数で所属内での役職を表しました。背中には、消防組の象徴ともいえる赤丸に白字で「消」と書かれたマークが、とても大きく目立っています。
 三芳では旧4村それぞれで組織されていた消防組が、明治27年5月に2部制120名の「三芳消防組」として再編されました。しかし、体制に不備があったため、同年10月には5部制210名に改められます。第一部と第二部は上富、第三部は北永井、第四部は藤久保、第五部は竹間沢とされました。当時は消防組半纏に股引、刺子(さしこ)の頭巾と手甲、足には足袋とわらじという服装で火災現場へ駆けつけました。
 消火器具も現在のように大がかりな設備はなく、文字通り命がけの消火活動だったといえます。現在、三芳町内では78名の消防団員が消火活動や防災活動に努めています。とても頼もしい存在ではありますが、肝心なのは火災に気をつける私たちの心がけですね。

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くらしの民具 3 月 −フリコミジョレン−

フリコミジョレン
@   A   B

麦の生長を促(うなが)すフリコミジョレン

 畑作農耕を主としていた三芳では、かつて麦作りが盛んに行われていました。秋に種を播いて、冬の間には霜柱で浮き上がらないように何度か「麦踏み」をします。そして、3月中旬にサク切り(中耕)が済むと、あちらこちらの麦畑で「土入れ(フリコミ)」という作業が行われました。土入れは、土をすくって株の中にふり込むことで麦の株を広げて風通しを良くし、根元にも日光を当てて麦を丈夫にするための重要な作業です。
 この土入れに使用されたのが「フリコミジョレン」呼ばれる道具です。フリコミジョレンは土をすくう部分と柄で構成されています。土をすくう部分は、鉄の棒でできた枠に金網を張り、先端には鉄の板を取り付けます。柄の材質にはスギやヒノキなどが使われ、しかも鍬の柄に比べて細身に作られていることから、土入れのために軽さが求められていたことがわかります。柄の付け方によって、写真@の引いて土をすくう後退型と写真Aの押して土をすくう前進型に分類されます。
 また、土をすくう金網の代わりに鉄の棒が連子状に付けられた写真Bは、柄のネジの調節によって前進型にも後進型にもなる改良型のフリコミジョレンです。しかし、改良型は土をすくう部分全体が鉄の棒であるために重たく、使い勝手はあまりよくなかったそうです。
 せっかく生えてきた芽に土をかけるのはちょっとかわいそうな気もしますが、そんな試練を乗り越えて、麦はたくましく生長していくのです。

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