天語り倭琴の旅 あまがたりわきんのたび


伊弉諾神宮 (淡路島)
 古事記編纂千三百年にあたる2012年(平成24年)の新嘗祭、11月23日に淡路國一宮たる伊弉諾神宮にて、海人族が宮中に伝えたとされる神楽歌と『琴歌譜』から、六絃と五絃の倭琴弾き歌いにて奉納演奏いたしました。
 『琴歌譜』とは平安時代に四節会にて演奏された歌のテキストブックで、《茲都歌》(しづうた)と《歌返》(うたひかへし)は新嘗会に演奏されていたことから、その日に私が解読した譜の初演をしたいと願っていました。
 現存する『琴歌譜』は981年(天元4年)の写本で、琴の手が書き込まれた譜面は1曲目の《茲都歌》と2曲目の茲都歌の《歌返》のみです。
 9月に雄略天皇の条にある《志都歌》と同じ歌詞の『琴歌譜』の《茲都歌》と、「島国の淡路〜」の歌詞をもつ《歌返》をCDに収録し、11月に同曲を淡路島で演奏できたことは、私にとり奇蹟とも言える素晴らしい演奏体験でした。右の画像は本殿と拝殿をつなぐ幣殿(へいでん)で、この日は直前まで降っていた雨によって、敷き詰められた白御影石が濡れてしまったため、幣殿の階段の上で演奏させて頂きました。
 


真清田神社 (尾張一宮)
 2012年12月14日、尾張國一宮の真清田神社で奉納演奏。当社のパンフレットに、平安時代に大嘗祭の豊明節会に奏されていた久米歌が、後土御門天皇以来絶え、文政元年仁孝天皇の大嘗会に復興されたのは、尾張藩士で国学者の河村秀根が真清田神社神職家の烏帽子箱の中から『久米舞歌譜』を発見して篳篥の師・安倍季良に報告したからだと書かれていました。
 


大神社 (一宮市大和町於保)
 2012年12月15日、真清田神社とともに尾張國一宮を名乗る大神(おほみわ)神社へ行ったのち、大和國(おほ)の多神社を奉遷した於保(おほ)の(おほ)神社へ。
 


久米御縣神社 (橿原)
 2012年12月15日、天皇の御料地を意味する御縣(みあがた)のつく久米御縣神社で奉納演奏。神武天皇の東征での活躍を謳った久米歌で知られる久米氏の神社で、隣の久米寺は弘法大師が再建されたのだとか。
 大和の地を去った久米氏の一部はもしかすると瀬戸内海で古来の作りに従事したのでしょうか。久米家は江戸時代から宇多津・坂出の塩業者として名を成しています。
 


吉野水分神社 (吉野山)
 2012年12月16日、吉野山上千本にある世界遺産吉野水分(みくまり)神社へ。急勾配の山道に民家がぎっしり並んでいることに驚き、対向車が来るたびにバックしなくてはならない現実を垣間見ました。
 1605年建造の本堂は重要文化財、当社の御神体で鎌倉時代(1251)に作られた木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像は国宝に指定されているそうです。
 


天皇淵 (吉野町南国栖)
 2012年12月16日、かつて大海人皇子を匿ったといわれる國栖(くず)へ案内され、浄見原神社への道を教わりました。見たことのない色の水に吸い込まれそうでした。
 


浄見原神社 (國栖)
 2012年12月16日、タクシーの運転手さんが『琴歌譜』の演奏に興味をもたれたので、大海人皇子が吉野滞在中に琴を弾くと天女が現れ、大歌に合わせて舞ったのが五節舞の発祥譚とされていると話すと、天武天皇が祭神の神社へ案内して下さいました。私には調べようもなく、自力では到達不能と思われる秘境でした。
 


櫻木神社 (吉野町喜佐谷)
 2012年12月16日、吉野山から國栖、喜佐谷(きさたに)へ。和歌に詠まれた「象(きさ)の小川」で有名な喜佐谷は「后」に含みをもたせた名称のように感じました。神功皇后モデル説のある皇極(斉明)天皇が造営された吉野宮(宮滝)へ、孫の持統天皇は、大海人皇子の妻として、また天皇として、34回も訪れたそうです。
 


多神社 (多)
 2012年12月16日、多坐彌志理都比古(おほにいますみしりつひこ)神社で1979年(昭和54年)に発見された太安万侶の墓誌(レプリカおよび拓本)を拝見することができました。また、太安万侶や『琴歌譜』の写本を書いた多安樹の子孫たる多忠記宮司に『琴歌譜』の演奏を聴いて頂けたことに歴史の重みを感じています。
 


伊富岐神社 (古代藍川郷)
 2012年12月17日、美濃國二宮で伊福氏の祖神を祀る伊富岐神社11年ぶりに訪れ、「クマ出没注意」の看板を見ました! 古代美濃國不破の十三郷の一つで石器時代の遺跡や古墳が多い藍川郷伊富岐神社は無人のはずなのに、なぜかこの日は扉が開いていて本殿まで見通せました。感謝。
 


井上神社 (関ヶ原)
 2012年12月17日、672年に吉野から関ヶ原へ兵を進め、壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)が祀られた井上神社へ。敗北した大友皇子は藤下の若宮八幡宮に祀られたと書かれていますが、当社の本殿右奥にも若宮神社がありました。まさか、判官びいきによって後の世に大友皇子をお祀りしたわけじゃありませんよね?
 


大生神社 (潮来市大生)
 2012年12月21日、潮来市大生(おほふ)へ。ここは日本最古の皇別氏族とされる多一族が大和國から移り住んだ集落で、現在、百十余基の古墳が発見されています。
 大和國(おほ)の多神社の祭神を奉遷した大生神社鹿島神宮の元宮だそうです。代々鹿島神宮の神職をつとめた東家の文書に「大生邑(むら)から遷された」とあるとか。
 


鹿島神宮 (鹿嶋)
 2012年12月21日、潮来の大生神社から奉遷されたという常陸國一宮鹿島神宮へ。2011年3月11日の大震災で壊れた大鳥居(二之鳥居)の再建は2014年の予定で、すでに境内の樹が伐り出されたそうです。
 バイクで着いた時間が夕方5時前だったので人影もまばら…、奥宮で奉納演奏できるかもしれないと急いで仄暗い参道を進むと電灯が一つ点いていました。楽譜が読めたので調絃し、演奏。
 


こうもう神社 (北相馬郡利根町立木)
 2012年12月29日、下総國の延喜式内社・蛟もう(虫偏に罔)神社へ。紀元前288年に水の神様罔象女(みつはのめの)大神を祀ったのが始まりという、関東最古の神社です。698年(文武天皇2年)に土の神様たる埴山姫(はにやまひめの)大神を合祀して、現在の「奥の宮」へ遷座することになったそうですが、地元住民の反対に遭い、当社は「門の宮」として残されました。画像左が縄文時代の「立木貝塚」の上に建っている蛟もう神社、右が約1キロ東の高台にある「奥の宮」の鳥居です。
 


葺不合神社 (新木)
 2013年1月1日と2日、ウガヤフキアエズノミコトを祭神とする葺不合(ふきあえず)神社へ初詣に行ってきました。九州の(おほ)一族は進出した地に「おほ」の発音にちなむ地名をつけていたようで、潮来の大生神社、船橋大神宮の旧名式内社「意富比(おほひ)神社」のほか、現我孫子市布佐から新木あたりも下総國倉麻郡意布(おふ)郷と呼ばれていたそうです。
 字竹ノ内の地名通り、国道356線を一歩入ると、緑豊かな竹林が広がります。参道を進み、階段の手前で、かつては弁天池だったという窪地を見、千年前の参詣に思いを馳せました。右は二之鳥居の上にある弁天宮から振り返って撮った画像ですが、一之鳥居が見えないほど広大な敷地の村社でした。
 


葺不合神社 (沖田村字竹ノ内)
 2013年1月1日と2日の両日、下新木沖田村村社葺不合(ふきあへず)神社へ。
 1906年(明治39年)の神社合祀政策(一村一社)で、市杵嶋比売命を祭神とする沖田の弁天様に、約300メートル離れた字宮前五郎池の明神森に在った産土神(沖田神社とも)が合祀され、葺不合神社となったそうです。左は、拝殿となった、1186年(文治2年)創祀の弁天宮
 


葺不合神社 (新木)
 2013年1月1日は弁天宮、2日はウガヤフキアヘズノミコトを祭神とする本殿にて奉納演奏。正倉院に「下総國倉麻郡意布(おふ)郷養老五年戸籍」があり、祭神にも大生→鹿島と同じ氏の痕跡が感じられます。
 龍ヶ崎在住の彫物大工・二代目後藤藤太郎(1861〜1931)の大胆且つ精緻な彫刻が施された本殿(1897/明治30年築)を守るために、屋根と柵が作られていました。
 


金刀比羅宮(琴平)
 2013年2月7日、かのこんぴらさん神楽殿にて奉納演奏をさせていただきました。と申しますのも、神楽歌や琴歌譜の一部を収めたCDのジャケットに金刀比羅宮の襖絵(冷泉為恭筆)をお借りしたためです。私の演奏が御礼になったかどうかは別としまして、初めて拝見させて頂いたものが多く、とても勉強になりました。
 神楽殿にはお参りのたびに目を引かれていたので、演奏できて嬉しうございました。また、非公開のつもりでしたが、当日の四国新聞の記事(山折哲雄先生ご執筆)を読んで、あの過酷な階段を登って聴きにきて下さった方が36名もいらしたことに驚くと同時に、心の底から感謝の念がこみ上げてきました。ありがとうございました。
 


九頭龍神社 (宇多津・津之郷)
 2013年2月13日は文字通り私のうぶすなたる宇多津の宇夫階(うぶしな)神社の元宮九頭龍神社にて奉納演奏。かねてより宇夫階神社が「小烏(こがらす)さん」と通称されている訳を知りたくて、紀元前からこの地に鎮座していたという「宇夫志奈大神」を訪ねました。すると拝殿左奥に注連縄がかけられた「小烏大明神」の磐が?!
 現在の九頭龍神社は北に瀬戸内海を背負っていますが、旧石器時代の遺跡がある津之郷はかつて入り江だったため、真南の飯野山を神体山として海から参拝する拝殿的存在だった可能性を否定できないのでは?
 同じ瀬戸内海の鞆の浦にある「小烏神社」には天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)と小烏大神が祀られていますが、一つ目の神はダイダラボッチなどと呼ばれ、炎を見続けて失明する人が多かった“たたら製鉄”関係者が信仰したことで知られています。そのダイダラボッチの足跡が飯野山山頂に残されているとの伝説がある上、讃岐が銅鐸を表わすサナキで、多度(タド)津という地名や「多田羅(タタラ)」という姓があることにも製鉄技術者集団の影を感じます。また、現在の宇夫階神社の主祭神が「大己貴命」であること、「大国主」が元々その地の国魂神であったこと、飯野山が讃岐國国魂神の名を負っていることも繋がります。九頭(クヅ)は国津神を祀っているという名ですから。それが、806年(大同元年)、勅命により遷座して社殿を造営し、宇夫階神社になったわけです。
 


飯天神 (飯野山・飯神社)
 2013年2月14日は、国生み神話で知られる飯依比古(いひよりひこ)を祭神とする讃岐富士(飯野山)の飯神社へ。かつての讃岐國鵜足郡の式内社で、飯野山が神体山です。山頂の岩石群が磐座とされていましたが、山の中腹に社殿を造営後、964年(康保元年)に現在地に遷座したそうです。
 現在の飯神社は飯野山の南麓にありますが、その本殿ではなく飯天神が背後に飯野山を戴いています。
 香川県に滝宮天満宮をはじめ235もの天神社があるのは、886年(仁和2年)に讃岐の国司として赴任してきた菅原道真(845-903)が、2年後の大旱魃の折、城山(きやま)山頂で7日間にわたり雨乞い祈願をした結果、大雨に恵まれたことが大きかったようです。道真は飯神社を崇敬し、890年(仁和6年)に任期を終えて都へ戻る際には自ら彫った木像を同社に残していったそうです。当時の飯神社はまだ山腹にあったため、現在地に遷座した際、飯天神が創建されたのではないでしょうか。
 飯天神で狛犬のほかに狛牛(?!)を見つけて驚いたのですが、丑年生まれの道真が農業に不可欠な牛を大切にしたため葬列をひく牛が悲しみのあまり動かなかったとの言い伝えによるらしい…(かなりリアルな造り↑)。
 ちなみに、飯神社の真北に飯野山を挟む形で九頭龍神社があります。
 


弟橘媛の櫛塚 (利根町)
 2013年2月26日、ヤマトタケル尊の妻オトタチバナ媛の櫛塚と言われる團子塚(吾妻神社?)を見つけました。約2ヶ月前に行った蛟もう神社で、ヤマトタケル尊が同社へ立ち寄ったとの伝説や、尊の東征を成功させるために海神の怒りを解こうと走水(浦賀水道)に身を沈めた媛の櫛が(7日後に?)打ち寄せられて来たのを拾った尊が、常陸の國へ行く途中、下総の國で櫛を埋めて塚を作ったとの伝説が残っていることを知ったのです。
 それが、『常陸國風土記』には、弟橘媛ではなく大橘比売命と書かれているとか。この地を開拓したのはあくまでも大和國の多(おほ)であると主張したいのでしょうか。まるで古代氏族の勢力争いの様相を呈しています。
 現在、鷲神社・大鳥神社・大鷲神社などはヤマトタケル尊を祭神とするところが多いのですが、本来の祭神は天日鷲命なのだとか。他方、関東に大麻神社のほか、麻やあはにちなむ地名が多いのは、天日鷲命の子大麻比古命が阿波忌部氏の祖で、忌部氏が関東開発の命をうけて四国阿波の国から関東に上陸したことによるそうです。徳島の忌部氏といえば麻。関東に麻やあはにちなむ地名と、麻植神たる天日鷲命を祭神とする神社が多いのは事実です。それを、なぜ、大橘比売命やヤマトタケル尊で隠したのでしょう?
 さて、櫛塚です。蛟もう神社にあった地図によると、舟形山の隣のはずなのに、行ってみると、龍ヶ崎南高校の校門前にぽつんとありました。何と、舟形山を切り崩して高校を建てていたのです…。
 


大鳥神社 (堺市西区鳳北町)
 2013年3月1日、あいにくの雨の中、関空から和泉國一宮たる通称大鳥大社へ。
 参道から本殿を目指すと、真正面にあるのが大鳥美波比(おほとりみはひの)神社で、延喜22年(922)の「大鳥大神宮五社流記帳」に神階が正一位勲八等、祭神が天照大神とある式内社ながら、明治12年(1879)に大鳥神社境内に遷座しています。
 大鳥神社の祭神がヤマトタケル尊になったのは、尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話と、大鳥神社の「大鳥」という名称とが結び付けられた結果と考えられているようです。長らくヤマトタケル尊を祭神としていた大鳥神社は、明治9年(1876)に政府の祭神考証の結果を反映した内務省社寺局の通達により、祭神が大鳥連祖神(おほとりのむらじのおやがみ)に変更され、神社側の反発にも拘わらず、明治29年(1896)に内務省変更が確定。神社が国家管理を離れた戦後、昭和36年(1961)にヤマトタケル尊を祭神に加えたそうです。
 なお、大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としており、「大鳥連祖神=天児屋命」と考えられています。では天日鷲命は? 関東の鷲神社・大鳥神社・大鷲神社と、和泉國大鳥神社は、系列が違うのでしょうか?
 


磐船神社 (私市)
 2013年3月1日、今月から始まる「やまとうたのふるさと」の前々日、一人関西に飛びました。下総國にある弟橘媛の櫛塚を訪ね、恐らく対になっていたであろう舟形山がそっくり削り取られて高校になっていたのを見、古代人のに寄せる思いを感じたくなりました。そこで、直前に当初の予定を変更し、アメノイハフネのイメージで神社化されたと思われる磐船明神へ行ってみると(3月2日)、おおおッ?! 鳥居に足を踏み入れる前から左にある巨大な磐座が見えます。この磐座の下に川が流れていて、川底まで巨石が折り重なっています。その岩の間をくぐる岩窟めぐりが名物(?)となっているようです。ただし、岩が苔むしていて滑るので、雨の翌日は入れません。
 古代の人々がこの磐船をニギハヤヒが天降った際の乗り物に見立てたのは、形の美しさゆえだったのでしょう。私には何より清浄な空気が有難く、川のせせらぎと苔むした磐がその源になっているように感じました。
 


往馬大社 (生駒)
 2013年3月2日、往馬坐伊古麻都比古神社へ。生駒駅までホテルの送迎があるというのでふらっと立ち寄り、広大な社地と社叢に驚きました。何といっても拝殿前にある御神木のパワーが物凄く、火事と落雷で黒焦げになっているのに青々とした枝を広げていて、とても素通りできませんでした。
 往馬大社は、翌日行く大神神社石上神宮と同じく神奈備を御神体とする日本有数の古社で、『総國風土記』の雄略天皇三年(458)の条に記録があるそうです。
 往馬大社が火の神様(火祭り)、龍田大社が風の神様(風神祭)、廣瀬神社が水の神様(水神祭)でセットになっているのだとか(よもや後からこじつけたわけではありませんよね?)…。
 


丹生川上神社上社 (川上村)
 2013年3月2日、龍神総本宮丹生川上神社上社へ。当社は、川上村の一部が大滝ダムの底に沈むことになったため、1998年に高台に遷座し、旧地からは縄文時代早期の大規模集落宮の平遺跡が発見されています。
 式内社丹生川上神社は、応仁の乱以後、所在や由緒がわからなくなり、明治になって、下市町の丹生大明神社(現下社)、川上村の高オカミ神社(現上社)、東吉野村の蟻通神社(現中社)が名乗りを上げました。
 丹生川上神社の歴史は古く、763年(天平宝字7年)には「奉幣千四畿内群神其丹生川上神者加黒毛馬旱也」とあり、祈雨のために黒馬を奉っていたことがわかります。777年(宝亀8年)には白馬を奉られ、819年(弘仁10年)以降は貴布禰社とともに祈雨、止雨の祭が行なわれるようになったそうです。
 貴船神社のHPに「奈良に都があった時には、国魂を祀る神社として大和神社を、盆地の南を流れる吉野川上流の丹生川の水源地に、水魂を祀る神社として丹生川上神社を崇敬し(中略)、都が京都に移ってからは国魂神として賀茂社を祀り、水魂神としては古くから祀られていた貴船神社を崇敬したのです」とあります。また、「炎旱(黒馬)、霖雨(白馬又は赤馬)、国家有事、疫病流行等の際には、貴船神社と丹生川上神社に天皇のお遣いである勅使が派遣され、度々祈願したことが古い文献に出ています。『丹貴二社には白馬黒馬を奉れ』と書かれており、丹とは丹生川上神社、貴とは貴船神社のことです」とあって格別の崇敬を受けていたことがわかります。
 


井光神社 (川上村井光)
 2013年3月2日午後、川上村着。丹生川上神社(上社)で奉納演奏をして井光神社へ。祭神の井氷鹿(ゐひか)は吉野首(よしのおびと)の祖とされ、『日本書紀』に神武天皇が宇陀から吉野へ巡幸された折、井戸の中から体が光って尾のある人が出てきたので天皇が「何者か」と問うと「国津神、名は井光」と名乗ったとあります。
 この神社は、往古は十二社権現とも称していたとあり、宮滝周辺に幾つかある十二社神社とも関係があるのでしょうか? 小さいながらも県社で、伊勢神宮遥拝所(左の画像)までありました。
 奥宮への道は3月20日まで通行止めで「御船の滝」へも行けませんでしたが、奥宮とされる地に「神武天皇御旧蹟井光蹟」の碑があり、その奥の直径30cmほどの窪地が「井氷鹿の井戸」とされているそうです。
 


浄見原神社 (國栖)
 2013年3月3日、朝9時にホテルを出発し、昨年12月に訪れた浄見原神社を再訪。大海人皇子が吉野滞在中に琴を弾くと神女が現れて袖を振ったという吉祥の大歌を、3ヶ月前にはまだ演奏できなかったためです。すでに楽譜を持っていたので練習し、天武天皇をお祀りしているという神社で演奏してみました。
 


櫻木神社 (喜佐谷)
 2013年3月3日、「やまとうたのふるさと」シリーズ第1回の待ち合わせ場所。喜佐谷(きさたに)、(きさ)の小川象山(きさやま)に囲まれた櫻木神社(櫻木宮)です。
 皇極(斉明)天皇が吉野宮を造営され、天武天皇、持統天皇らが度々訪れたとされる吉野(当時は吉野といえば吉野山ではなく川沿いを指していたとか)の魅力が堪能でき、一日中ぼおーっとしていたくなる秘境です。
 


八王子神社 (吉野町菜摘)
 2013年3月3日、「やまとうたのふるさと」を訪ねて和歌を詠むシリーズの第一回です。櫻木神社での和歌披講と奉納演奏を終え、『二人静』の舞台菜摘へ。
 丹生川上神社(中社)へ向かう道すがら、最初に見えてきたのが八王子神社です。吉野川の上流丹生川でしょうか、赤く塗られた美しい本殿の背面は巨大な岩盤でした。
 


十二社神社 (吉野町菜摘)
 2013年3月3日、八王子神社から約300m先の菜摘大橋を右折し、300mほど走ると菜摘十二社神社です。
 年をとってからこれほどの階段を登るのは大変ですし、修理も必要になっているように見受けられます。それでお参りしやすいように御社を下に遷されたのではないでしょうか。真新しい拝殿です(左が2012年5月の画像、右が2013年3月の画像)。学校のない地域、若者のいない地域も増えているらしく、地元の神社を整備しつつ守り伝えることの大変さを思いました。
 


華籠神社 (吉野町菜摘)
 2013年3月3日、十二社神社から250mほど先にある華籠神社を目指していたら行列に出くわしました。そう言えば、菜摘大橋のたもとに「塩ラーメン」の旗が翻ってましたね。なにわナンバー、多摩ナンバーなど、ずいぶん遠くから食べにいらっしゃるものです。
 そんな彼らよりも酔狂な我々披講隊(?!)は、菜摘川と華籠神社に挟まれた場所で『二人静』にちなむ和歌を三首披講しました。左の2012年5月の画像と違い、緑がありませんでしたが、清々しさは変わらなかったのではないかと思います。やっぱり吉野まで来てよかった…と思えた瞬間でした。
 菜摘の名の由来は、この地で採集した花や薬草を宮滝離宮へ献上していたことにあり、菜摘集落の北端にある大谷家は壬申の乱で大海人皇子に協力した村国庄司男依の子孫で、華籠神社の祭祀を同族で守り継いでいるのだとか。時代が下って、吉野に義経を訪ねた静は義経とともに吉野山を下りて菜摘の大谷家に逗留し、奥州の勢力を頼みに行く義経を待つことになったそうです。当地に伝わる籠編みを習った静は多くの花籠を編み、それを持って吉野山へ行くと大評判になって、後に吉野山の土産物になったと地元に伝わっています。大谷家には静が愛用した初音の鼓が贈られ、今に伝わっているそうです。
 ここで一首。「吉野にて詠める」

桜待つ 吉野の山に 菜摘(なつみ)野に 義経おもひ 静(しづか)舞ふらむ


岩神神社 (吉野町矢治)
 2013年3月3日、華籠神社から約1kmで矢治の岩神神社に着きます。聞きしに勝る巨磐を見てビックリしていたら、日曜日とあって氏子の皆さんがお掃除にいらしていて、親切に説明をして下さいました。何でも、この巨大な磐の後ろに、同じくらいの大きさの白い磐がくっついているそうで、「こんな大きな磐は見たことないでしょ?」と誇らしげでした。皆さん本当に楽しそうで、義理で来ているという雰囲気が全くないのが素晴らしい!! と感動。荒れ果てている神社も少なくない中、和気藹々とした御様子に心洗われました。
 


國栖八坂神社 (吉野町南大野)
 2013年3月3日、岩神神社から東吉野に向かう道すがら、山に向かって登る階段がたくさんありました。この國栖八坂神社あたりまでは皆、元気に登っていたんですよね…。どこも、きれいに掃除されていたので、階段の幅が狭くて歩きづらくても、地元の方々が通われていることがわかりました。
 


御霊神社 (吉野町窪垣内)
 2013年3月3日、道沿いの神社を見ながらこのあたりまでくると、川に沿って道があるため、神社の階段を登れば吉野川が見えることがわかってきます。そして、集落ごとに神社を大切にしていることも。
 余所者の分際で申し訳なく思いながら、清々しい気を頂いて歩きました。
 


厳島神社 (吉野町新子)
 2013年3月3日、道なりに走って浄見原神社近くの新子(あたらし)まで来ると、赤い鳥居の美しい厳島神社(もと辨財天神社)が。ここも、岩神神社と同じく、社殿のうしろに巨磐があります。さらに山沿いに目をやると、奥宮があるのか、ずっと上まで赤い鳥居が続いていました。
 このまま県道16号線(元伊勢街道)を東吉野方面へ進むと、中黒にも厳島神社がありましたが、こちらは石段が苔むしていて滑りそうだったのでパス。
 


丹生川上神社 中社 (東吉野村蟻通)
 2013年3月3日、「やまとうたのふるさと」を訪ねて和歌を詠むシリーズ第一回の最終目的地です。丹生川上神社(中社)は広大な敷地と豊かな自然に恵まれた御社でした。吉野町宮滝に対し、東吉野村は丹生川上神社内に「吉野離宮」の碑を建て、夢渕(右の画像)の右岸を象山(きさやま)に比定しています。
 


丹生川上神社 本宮 (東吉野村蟻通)
 2013年3月3日、丹生川上神社(中社)から蟻通橋を渡った川向いに、「神武天皇聖蹟の碑」と彌都波能売神(みつはのめのかみ)を祭神とする本宮丹生神社がありました。
 


大神神社 (桜井市三輪)
 2013年3月3日、大和國一宮大神(おほみわ)神社(三輪明神)へ。本殿を設けず拝殿の奥の三ツ鳥居を通して三輪山を拝する原初の神祀りの態を伝える我が国最古の神社とされています。神体山たる三輪山は、古来、御諸山(みもろやま)、美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)などと記され、三諸の神奈備(かむなび)と称されています。枕詞「御諸つく」は山に神を祀る「みもろ」のあった「三輪山」「鹿背山(かせやま)」にかかります。
 突然ですが、一首。「三輪明神にて詠める」

琴歌譜(きんかふ)の 御諸をうたふ茲都歌(しづうた)や 倭文幡(しづはた)ふりて タマフリとなす

倭文織は日本古来の織物⇔唐織は大陸渡来の織物


石上神宮 (天理市古留町)
 2013年3月3日の「やまとうたのふるさと」を終えて、一人で石上坐布都御魂神社へ。かつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称して中央に主祭神を埋斎。明治7年に菅政友大宮司が禁足地を発掘して御神体の出御を仰ぎ、大正2年に本殿を造営したそうです。
 当社は大和盆地の中央東寄り、龍王山の西麓にある布留山(ふるやま・標高266m)の北西麓の高台に鎮座し、周辺には古墳が密集しています。
 

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F2014/2-5 G2014/6-7 H2014/7-10 I2014/10-11 J2014/11-2015/2
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