「古代の歌と氏族を探ねて」

白石神社 (小浜市下根来)
 2014年11月15日、先月訪れた鵜乃瀬白石神社を再訪。これが今回の旅の目的でした。と言いますのも、前回は怖くて演奏できなかったのです。その反省から、15日の朝一番に演奏しました。
 左の画像をご覧ください。左側のブランコの板が外されて鎖が巻き上げられているのがおわかり頂けるでしょうか? 小浜では有名な話らしいのですが、左側のブランコが夜な夜な(まるで誰かが乗っているかのように)前後に揺れ続ける(しかも支柱が3本しかない?!)ため付近の住民が恐がって撤去を依頼したとか…。
 いや、だから、私はそういうオカルト的な話は信用しないんですよ。そもそも神だって人間が創ったもので、存在を証明できないんでしょ? とはいえ、私は、神社が祖先を神として祀り、社叢を守ることを否定するつもりは毛頭ありません。部族の祖神を祀るのにどういう場所を選んだのか、どういう地形を好んだのか、そういったことを知りたくて各地をまわっています。そして、どんな場所でも座って演奏できる私になるために。
 ところが、白石神社は「鵜乃瀬」に隣接しているからかどうか、地面が湿っていて寒気がしたのです。
 こんなことではギロチン台のあるような城では演奏できないわ(←まだ演奏依頼はきていませんが)!? とばかり再チャレンジしてみました。平安時代には陰陽師が流行ったりなどしたようですが、あくまでも「オカルトなんかぶっ飛ばせ!!」の私。神楽歌の奉納演奏をオカルト扱いされては敵いません…。
 神楽歌は雅楽の中で最も古い、紛うこと無き日本の伝統音楽です。私は正統を追究します。
 


姫宮神社 (小浜市奈古)
 2014年11月15日。前回お世話になった大和タクシーの松宮さんに予めメールで行きたい場所を連絡しておきました。ところが、地元の運転手さんでさえ姫宮神社は一社しか見つかりませんでしたと仰るほどで、あまり有名ではなかったらしい…。詳しくメールしなかったのが悪いのですが、ここ奈古の姫と羽賀の姫宮神社の姫は姉妹神と言われていたそうです。「ナコ」とくれば「ナキ」、山の反対側(真西)には「福谷」という集落もあるため、もしや銅鐸に関わる土地? との興味を抱いていましたが、この有り様です。まさに私が向かおうとしている久須夜岳の旧有料道路エンゼルラインへ抜ける天ヶ城トンネル(2010年開通)によって社地が分断されていました。
 天ヶ城山(天下城山)は古名を阿奈志山といい、当社の奥に式内社阿奈志神社があります。時間があれば行きたかったのですが、今回は前回断念した久須夜岳に登らなくてはなりません。伝承によれば、大己貴命が阿奈志神社、その子 下照姫命が羽賀の姫宮神社、妹の高照光姫命が奈古の姫宮神社と一つの山に祀られているそうです。どんな伝承や神話よりも利便性が優先されるのが現代社会ということになりましょうか。
 


姫宮神社 (小浜市羽賀)
 2014年11月15日。羽賀寺を通り越して天ヶ城トンネルの姫宮神社まで行ってしまったので少し引き返すと、子供会でもやっている様子? 姫宮神社で落ち葉を掃いている方に訊いたら、「今日は各集落対抗の小学生マラソン大会なんですよ」とのことで、この集落も盛り上がっていました。
 羽賀寺の手前にある姫宮神社だから羽賀神社で通っているようで、松宮さんにもそう伝えればよかったんですね。最近は地名が変わってしまった神社も多く、旧地名と現住所を調べておかないと辿り着けない場合も少なくありません。尊敬する谷川健一先生があれほど「地名を変えてはいけない」と主張されていたのに…。
 このあと、すぐ上の羽賀寺で、10世紀初期に造立された時の彩色がほぼ完全に残っていることで有名な十一面観音菩薩立像を拝しました。この像は旧国宝(現 重要文化財)で、元正天皇をモデルとした約146cmの等身大と伝えられています。霊亀2年(716)、この地に鳳凰が飛来し、落としていった美しい羽毛を元正天皇に献上したところ吉祥と喜ばれ、僧行基に命じて寺を建立させたと言われています。
 「海のシルクロード」の到着点の一つで、奈良・京都の玄関口でもあった小浜には、市内だけで130を超す寺があり、その多くが1200年〜1300年前に創建されているそうです。まだまだ足を運ばなくては…。
 


熊野神社 (小浜市仏谷)
 2014年11月15日。ほとんど対向車のいないエンゼルラインを登っていたら、「大神岩」がありました。タクシーをおりて「狼」の形に似ているなどと書かれた案内板を見ていたら突然、大粒の雹がバランバランと音を立てて降ってきました。視界はゼロに近づくし、とても走り出せる情況ではありません。20分以上も動けず、時計を見たら、正午のバスに乗るにはギリギリの時間…。それならバスを一本を遅らせて、さっきの姫宮神社の対岸に位置する熊野神社へ行ってみようと思い立ちました。
 エンゼルラインの入口まで戻って右折すると、小浜湾沿いに半島の西南端に向かう道があります。その突端が「双児崎」で、手前半分ほどの距離に「児島」が見えます。「児島」に向かうと背に熊野神社があるという位置関係が頭に入っていたので、すんなりと辿り着けました。雹はもう小雨に変わっています。由緒書きは見当たりませんが、地図上の印象では小浜には熊野神社が多いようです。姫宮神社のある阿奈志山の東には「熊野」という字と熊野神社がありますし、須縄の熊野神社は修験の山でした。久須夜岳も修験の山とされているため、麓にある当社がその拠点の一つだと考えるのはさほど不自然ではないでしょう。かといって久須夜岳での雹は「オカルトなんかぶっ飛ばせ」の私に天狗が攻撃を仕掛けたわけではありますまい。キリスト教の一派では信じる者が救われるらしいですが、私は信じないことほど強いものはないと思っています。幼稚園時代にこの世のことは執着した方が負けだなと感じましたし、オカルトは信じる人にしか通用しませんので。
 


阿志都弥神社・行過天満宮 (高島市今津町)
 2014年11月15日。小浜から近江今津まで約55分。よもや鈍行の路線バスとは思ってもみませんでしたが、凸凹の山道を走り、琵琶湖畔へ着いたら晴天で、大きな虹が見えました。小浜駅周辺でも近江今津でも雹は降らなかったようです。久須夜岳の件は忘れ、タクシーの運転手さんに「1時間後の電車に乗るので、地図通りにお願いします」とパソコンを見せつつ訪れたのが阿志都弥(あしづみ)神社。のはずが、行過(ゆきすぎ)天満宮
 HPによれば、「天満宮の御祭神菅原道真公は、陽成天皇元慶7年に加賀国(石川県)の国守に任命せられて、御赴任の途中に本社阿志都弥大明神に御参詣になって御詠吟などせられて過ぎ行かれた由縁(いわれ)によって、公の御曾孫菅原輔正朝臣が行過天満大神と称して長徳4年8月5日に勧請建立になったのであります」とのことですが、「過ぎ行かれた」から「行過天満大神」って…?! 行過天満宮は天保14年(1843)に当地へ遷座したと記録されていますから、現在地は過ぎ行かれていないのではないでしょうか?
 阿志都弥神社の方は延喜式内社の論社でした。「神代の昔、葦津姫(あしつひめ)命を勧請して阿志都弥大明神と称した事に始まり、上野山大社、櫻花大明神とも称されています」とHPにありますが、「明細書によると、創祀年代不詳であるが旧加茂大明神と称す」の方がピンときますね。
 境内社として、境内の右奥に扁額のない稲荷社らしき神社。左奥には白山神社。平成4年(1992)頃、鎮座地の北生見・南生見が自衛隊の演習地となったため当地に遷座し、住民の皆さんは移転されたそうです。この国ではとうに神社はお役御免なんですね。


波爾布神社 (高島市新旭町饗庭)
 2014年11月15日。次の波爾布神社への道中、古墳のある建速神社の近くを通りましたが、「建速神社は次の機会に行きますので、建速神社に遥拝所があるという波爾布神社へ行って下さい」とお願いし、任せていたら、二股を瞬時に左へ折れました。右じゃないかな? と思った通り、行けども行けども建物などありません。左手に工場が見えたので社名を見たら、とんでもなく行き過ぎてしまっていました。「さっきの三差路まで戻って、そこを左に曲がったらあるようですよ」…(直感通り、曲がったら数メートルの場所に橋が架かっていました)。
 これは、想像を絶する広さ。往古より彌都波乃賣命が祀られていたそうです。そこへ、天平13年(741)に阿波國那賀郡の建嶋女祖命神社から波爾山比賣命を勧請したとか。延喜式神名帳に記載された式内社で木津荘の惣社。明治期の廃仏毀釈の際、「高嶋神威隊」の急進派により多くの社宝が失われた。とありますが、「高嶋神威隊」って何? また課題が増えましたが、この神楽殿で奉納演奏をやらせて頂きたいので、きっとまた来ます。
 


大荒比古神社 (高島市新旭町安井川)
 2014年11月15日。波爾布神社を知らなかった運転手さんは、あまりにも広大な敷地(城址?)と社叢の美しさに打たれたのか、「天気の良い日にまた来ます」とのことでした。そして「時間がなくなったので大荒比古神社へ行きましょう」と仰るので、「地図で見たらかなり遠いので、近江今津へ戻らず、次の駅まで行って下さい」とお願いしたら、「大荒比古神社だけは昔から知っているので裏道を行けば10分もかかりません。次の駅へも近いです」ということになり、きれいな紅葉を拝めました。ふと見たら、琵琶湖にかかっていた虹が 2本に増えていました。
 終わりよければすべてよし。下調べなしで行った近江今津でしたが、琵琶湖は交通の要衝でもあり、天智天皇が大津京に遷都(667)しただけあって早くから拓けていたのでしょう。古い神社がざくざくありそう…!!
 


佐岐比佐神社 (南さつま市加世田武田)
 2014年12月8日。「アタヒメを探せ」というのがコノハナサクヤヒメを調べている私に課せられたテーマで、やっと念願の阿多入りを果たしました。まず気になったのが佐岐比佐神社。「キサ」が妃を表わすらしいと知ったのは吉野でしたが、ここは「サキヒサ」だからちょっと違う? でも、ヒントがあるかも? なんて思いましたが、とんでもありませんでした。運転手さんが「てっぺんに屋根が二つ見えるあれが佐岐比佐神社です」と指さす方を見て、「エッ?! どうやって上がるんですか?」と訊くと、「さあ〜それがわからないんです」…(絶句)。
 「地図を見た限りでは反対側にシルバー人材センターがあって細い道がありましたが?」と言っても動こうとしてくれません。「ともかく行ってみて下さい」と強硬に主張すると、「そこは元あった別府城址の丘を切り崩し分断して通した道で、反対側が公園、そしてあの社殿のみが山に残っていて上がる道はないんです」と仰るのですが、やはりシルバーセンターの横に道があって上がれました。しかし…社殿だけが残された惨状に言葉も出ませんでした。ちゃんとした由緒書きもないため、「アタヒメ」に関係しているかどうか見当もつきません。帰宅後、検索したら、創建年代は不詳だが、往古より福寿権現と称し、郷内阿多五社の一つとして崇敬されていたとありました。
 


竹屋神社 (南さつま市加世田宮原竹屋)
 2014年12月8日、鹿児島空港からバスで加世田へ行き、タクシー会社でMapFanを見せて足を運んでも、神なき国では祭神を知ることすら容易ではありません。気を取り直して車で5分ほどの竹屋に向かいました。
 飛鳥時代に「阿多鷹屋郷」に「鷹屋神社」があると記録されたのが現在の竹屋神社だと考えられているようです。すると、まさに阿多隼人の地です。運転手さんについて拝殿・本殿を見ていたら、奥が気になったので右側の階段を上ると磐境(いわさか)の看板が!?
 「古代の祭りの行われたところである。昭和五年 故鳥居龍蔵博士は『石をめぐらせたのは、強くしておかすことのできない意味を持っている』と説明されている」(←何だか凄い日本語ですね…)。
 ここは「彦火火出見尊」の御陵と伝えられていますが、神話の登場人物「山幸彦」に墓が?! などと突っ込むのは日本的ではありません。『源氏物語』の登場人物「明石入道」にだって墓があるのですから。そんなことより「山幸彦」のお母さんってコノハナサクヤヒメじゃありませんか!? ただし当社の祭神はニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの三人の息子+豊玉姫(山幸彦の妻)です。いずれにせよ、磐境を御神体として、あとから社殿が建てられたのでしょう。磐境について鳥居龍蔵博士は「ドルメン」と説明されています。
 「ドルメン」とは 4個の漬物石程度の大きさの石の上に50〜60cm程度の巨石を乗せてテーブル状に組んだ石のことで、ヨーロッパではテーブルストーン、日本では支石墓とも言うそうです。
 


高良神社 (金峰町新山)
 2014年12月8日。ここからは270号線に戻り北上するルートをとります。その前に東の山裾にある阿多へ。またの名を高良八幡宮、または玉垂宮とも称されたとあるため、間違いなく久留米の高良大社から勧請されたのでしょう。最初、中岳の中腹に鎮座とありますが、具体的にどの山なのかはわかっていないそうです。天文7年(1538)に島津忠良公が二度目の加世田攻めで戦勝を誓願し、永禄2年(1559)に現在地に遷座したとか。旧阿多五社の中では最上の社格をもっており、往時には阿多郷士による武士踊りが奉納されていたと伝わります。
 さほど高くない位置にあるのに、周囲が広大な平坦地なので非常に見通しが利きました。目の前には、空港に着いた時の土砂降りが嘘のような、きれいな青空が広がっていました。
 


大汝牟遅神社 (日置市吹上町中原)
 2014年12月8日。一社目から躓いてしまったせいで、伊作から鹿児島中央駅行きバスに乗る時間まで、30分ほどしかなくなってしまいました。運転手さんが「太古の風景」をイメージするという大汝牟遅神社の「千本楠」をどうしても見て欲しいと仰るので、予定していた 2社を飛ばして270号線を一気に吹上まで北上しました。
 大汝牟遅神社の前を通ると大汝(おほな)八幡になっていて、真っ赤な装いが古社らしくないな…と目をそらした僅かな隙に「千本楠」に到着。迫力満点で、身動きできないほどでした。「人物が写った方が楠木の大きさがわかりますよ」と運転手さんが写真を撮って下さいました(ちょっと異次元的?)。現在は20数本しかないそうですが、かつては周辺の宅地も社叢だったそうで、千本とまでは行かなくとも群生していたようです。臥龍のような形状は世界でも珍しいと言われているとか。古代歌謡に似合うのは、やはりこういう空間ですよね…(住みたい!!)。
 驚くべきことに、かの野口雨情が「千本楠」を詠んでいました。この地で、わざうたの雨情に出合おうとは!?

伊作八幡 千本楠は 横へ横へと寝てのびる


大元神社 (宇佐市御許山)
 2014年12月9日。鹿児島中央駅から新幹線で博多、さらに特急ソニックに乗り換えて宇佐へ。家人から奥宮の雰囲気が良かったときき、タクシーにせよ一般車両にせよ脱輪してJAFを呼ぶことが稀ではないという西屋敷ルートで御許山(647m)を目指しました。タクシー会社ではこのルートだけは断ってよいことになっているそうで、行って下さる運転手さんが少ない中、いつも指名で登っているという運転手さんに運良く出会え、2,3日前に降った雪で路面がまだ濡れている凸凹どころではない道を落ち葉に注意しながらノロノロ運転で進みました。
 このルートは駐車場から徒歩10分で奥宮たる大元神社へ行けますが、その坂の急なこと!? スポーツシューズが威力を発揮しました。大元神社に着くとお掃除の方がいらして「拝殿にあがってもいいよ」と仰って下さったので奥宮を間近で拝しました。神代の昔、御許山の山頂に三柱の比賣大神が降臨されたとの言い伝えがあり、奥宮の扁額のある鳥居の奥に三柱の石が御神体として祀られているそうです。以前は鳥居の中まで入れたのに、磐境が荒らされたため禁足地となり、有刺鉄線(?!)で封鎖されていました。
 拝殿の中から振り向くと(画像左)、台風で折れてしまった御神木と大元八坂神社が見えました。あとで行った宇佐神宮にも八坂神社がありました。運転手さんをお待たせして申し訳なかったのですが、お天気もよかったので、雪の残っている境内でのんびりしてから、ゆっくりと急勾配を下りました。
 


宇佐神宮 (宇佐市南宇佐)
 2014年12月9日。御許山からの下りも勿論ノロノロ運転ですが、下界へおりたら一気に宇佐神宮を目指します。タクシーの中でパンフレットを貰って境内図を見たら、敷地がこれまで行った神宮や神社の比ではないらしい。「宇佐神宮球場」まであります!? その上、帰宅後パンフレットを読んだら、物凄いことが書いてありました!!

 全国八幡様の総本宮で、神輿と神仏習合の発祥地として有名です。隼人征伐での殺生を悔いて霊を慰めるために始めた放生会や境内に弥勒寺を建立したことがそれを良く表わしています。

 あれまあ〜、知らなかったとはいえ、八幡様に殺された阿多隼人の土地から、殺生した側の八幡社に行ってしまったなんて…。パンフレットに書かれているのですから、神話ではなく歴史的事実として認識されているのでしょう。征服された側の神社が八幡社に衣替えするのは、持統天皇が行幸したら、天武天皇が式年遷宮などの基盤を作った伊勢の神宮を祀る神明社が増えたというのと同じシステムですか? もしそうなら大変だ…。

 宇佐神宮が「隼人征伐での殺生を悔いて」弥勒寺などを建立したと知り、数日考え込みました。
 神話でも何でも、よくできた物語というのは、表の装いとは別に、隠喩を巧みに使って真実を盛り込み、いかようにも解釈できるように仕立てられているものではないでしょうか(その糸口を見つけて繙くのが、谷川雁主宰「ものがたり文化の会」の基本姿勢ではなかったかと思っていますが)。
 日本の有名な物語『竹取物語』『桃太郎伝説』『羽衣伝説』なども土地ごと時代ごとに様々な解釈があり、かの『竹取物語』には海人族が美しい娘を育てると天子様が召してゆかれるとの解釈もあるとか。
 すると、アタヒメとは、八幡様が征伐した阿多隼人の中にいた美しい娘で、それが天皇に召されたり献上されたりしたとも考えられるのではないでしょうか? そして、桜の花のように可憐で美しい阿多の姫は、人々から称賛を込めて「コノハナサクヤヒメ」と呼ばれるようになった…?!

 妄想は尽きません。どなたか、答えを教えてください。答えがだめならヒントだけでも〜!!
 


醍醐寺・女人堂 (下醍醐)
 2014年12月23日。もう一つのテーマ「神仏習合」を学ぶため醍醐寺へ。妹が上醍醐へ写真を撮りに行くというので、まずは登山口たる女人堂へ行ってみました。おおぉ…鳥居が!? たしか上醍醐准胝堂が2008年8月24日未明の落雷による火災で焼失した後、御本尊の准胝観音が女人堂に安置されていると書かれてあったのでお尋ねしたら、「現在は観音堂にあります」と言われ引き返しました。安全上の理由だとは思いますが、ほとんどの道や入口が封鎖されていて川を渡れるポイントが少ないため、うろうろと歩く距離が長くなります。こうしたことは境内図ではわからないので、かなり時間を無駄にした上、私は約束があったので、ほとんど何も見ずに失礼しました。ただ下醍醐の落ち葉の舞台(?!)は広々としていて自然を満喫できました。
 


神泉苑 (二条城前)
 2014年12月23日。友人と京都駅で待ち合わせてランチののち、神泉苑へ。天長2年(824)に空海が淳和天皇の勅命により、神泉苑の池畔に「北印度の無熱池の善女龍王を勧請したところ日本国中に雨が降り、人民が大いに喜んだ」という話はあまりに有名です。その善女龍王を尋ねて室生龍穴神社や高野山に足を運んだ今、残されたのがまさに淳和天皇が東寺と西寺に命じて雨乞いを競わせた神泉苑でした。
 池を中心とした大庭園が創られた当初、二条通から三条通まで南北500m、東西240mに及んだ敷地は、慶長8年(1603)に徳川家康が二条城を造営した際に大部分が城内に取り込まれて縮小されたそうです。本来なら、現在の祇園祭の元になった場所としても重要なのではないかと思われますが? 貞観5年(863)に疫病が流行った際に御霊会が行われ、貞観11年(869)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立て、祇園社から神輿が出されたそうです。
 


籠守勝手神社 (木曽川町黒田)
 2014年12月24日。年の瀬も押し迫ったこの時期、のんきに京都旅行をするなんて! との反省から、せめて僅かなりとも探訪しようと、前々から気になっていた木曽川へ立ち寄ることにしました。京都から名古屋まで新幹線で行き、東海道線で戻る形です。タクシーが居るかどうか不安でしたが、木曽川駅に降りたら一台だけ停まっていました。ただし、チェックしてきた籠守勝手神社白山神社伊冨利部神社はどれも御存知なく、それにも拘わらず、遷座の記録があったため行きたくなかった石刀神社へは「絶対に行った方がいい」と半ば強引に連れて行かれました…(本当にタクシーには泣かされます)。結果、木曽川駅へ戻って下さいとお願いしておいたのに尾張一宮駅で降ろされました(名古屋に近ければよいわけではなく、依頼者の希望を容れないことが問題?!)。
 名称にひかれてやってきた当社の祭神は、瀬織津比当スと淀比当ス(=虚空津姫命。息長宿禰王の子で神功皇后の姉または妹)だそうです。古くは黒田明神でしたが、願い事のある人が勝手にお堂に参籠し心願すれば必ず成就すると言われたことから命名されたとか(もちろん鵜呑みにできる内容とは思えません?!)。
 


白山神社 (木曽川町黒田)
 2014年12月24日。同町内の現籠守勝手神社たる黒田明神から、現白山神社たる黒田天神へ。皇極天皇2年(643)3月勧請とあり、境内から飛鳥時代の須恵器が発掘されたりしているそうです。平安時代の『延喜式神名帳』には尾張國葉栗郡黒田天神と記されていますが、その後、「両部神道盛んなりし時代に、加賀の白山比盗_社を勧請」して、現社名に変わっています。いや、しかし、境内の印象は白山神社ではなく黒田稲荷です。祭神は菊理姫命ではなく、お稲荷さんでは? 稲荷社への参道がざっと見ただけで3本はありました。3列に並べなくてはならないほど稲荷鳥居の寄進者が多いということでしょうか?
 タクシーに戻り、運転手さんに「籠守勝手神社白山神社もずいぶん立派ですね」と言うと、「木曽川や尾張一宮は繊維の町として栄えてきたので、寄進される企業や個人が多いのではないでしょうか」とのこと。崩れかけた社殿を目にして心が痛むことの多い昨今には珍しい繁栄ぶりは頼もしい限りです。
 


伊冨利部神社 (木曽川町門間)
 2014年12月24日。こちらの伊冨利部神社も式内社です。周辺に新しい道路ができたためか、社叢が見えているのに入口がわからず、細い道をグルグルまわりました。着いたのは一ノ鳥居ではなく二ノ鳥居前で、鳥居を入ったところで左の画像を撮りました。真正面が神明社、その左手が八幡稲荷社への参道、右の画像は神馬像の先にある福徳龍神社ですが、その後方にも八幡稲荷社へ向かう参道が見えます。少なくとも2本の参道を確認しました。この地方独特の形なのかどうか私にはわかりませんが、稲荷の人気が高い土地柄のようです。
 かつては広大な社地を有していたものと想像される伊冨利部神社ですが、由緒書きに「往古より社殿楼閣高く聳え 楼門宝蔵あり 数十の末社 神官邸宅等 周囲一里に達する神域なりと言伝えらる」とあり、残念ながら「花園天皇の康正元年(1455)社殿焼失し社地をも減ず」となったようです。
 


伊冨利部古墳 (木曽川町門間)
 2014年12月24日。伊冨利部神社の中に伊冨利部古墳がありました!! というか、伊福部氏の本拠地だったから伊冨利部神社ができたと考えるべきなのでしょう。上の欄の左の画像にある神馬像の先福徳龍神社に向き合う場所にあります。というか、こちらも、伊冨利部古墳を守る形で福徳龍神社が建てられたと言うべきでしょう。
 一宮市指定文化財として教育委員会が建てた説明板に、「伊冨利部古墳は高さ 4メートル、直径約20メートルの円墳である。昭和39年(1964)より始まった区画整理で明らかになった門間遺跡の中心的存在である。この付近では、円墳の痕跡や横穴式石室の基底部と思われる石組みも発掘調査で検出されており、相当数の後期古墳があったとされている」とありました。さらに、伊冨利部氏=伊福部氏とした上で、次のように説明しています。「正倉院文書に伊福部大麿という名前が記されており、伊冨利部神社を氏神とする有力な豪族で門間一帯に住んでいたことがうかがえる」。
 


石刀神社 (今伊勢町馬寄)
 2014年12月24日。同じく一宮市の式内社石刀(いはと)神社です。出掛ける前に調べたら、崇神天皇の時代に創建され、社殿は中島郡四条あたりの石刀古墳上に鎮座していたけれど、南北朝時代にはすでに現在地に移転していたと書いてあったので、わざわざ行かなくてもよいだろうと判断していました。ところが、「このあたりでは一番大きい神社なので絶対に見るべき」と言われ、タクシーで連れてゆかれました。
 社紋が三つ葉葵だったので徳川家かな? と思ったら、「関ヶ原の合戦の際、徳川氏が今伊勢町馬寄の石刀社境内に陣を敷いた」とありました。この折、石刀神社の社殿等が壊されて荒廃し、のちに徳川氏の命で修復されたとか。その奉祝として山車や馬を奉納したのが石刀祭の始まりとされているそうです。
 なお、古く「今寄」の庄と称ばれた鎮座地の「馬寄」は、天慶年間(938-947)に平將門追討の御祈の報賽として寄進され、伊勢神領となったそうです。すると、神明社があった伊冨利部神社も伊勢神戸だった時期があるのかもしれません。当社の境内にももちろん稲荷社がありました。右の画像は、一ノ鳥居の脇にあった境内社龍神社で、石刀神社社殿に相対していますが、遷座前から当地にあったものかどうかはわかりません。
 


酒見神社 (今伊勢町本神戸)
 2014年12月24日。ここまで来たらもう尾張一宮駅から電車に乗るほかありません。そこで「酒見神社へ行って下さい」とお願いしたら、「見るほどの神社じゃありませんよ」と言われてしまいました。判断するのは私では?
 ここは何と言っても地名が「本神戸」なので、伊勢神領だったと思われ、以前から行きたいと思っていたのでした。参道左奥には、ちゃあんと「皇大神宮遙拝所」もありました。かの倭姫命の物語では元伊勢の一つ「中嶋宮」の跡とされていることから、その筋の参拝者も多いことでしょう。
 ただし、当社が酒見神社と称する以上、倭姫命伝説よりも酒造が大切なキィワードとなります。案内板に、斉衡3年(856) 9月、文徳天皇の勅命で伊勢神宮から(遣唐使でもあった)大邑刃自・小邑刃自という2人の酒造師が上質の米がとれる当地に派遣され、伊勢の翌年の祭に供える御神酒を造ったとあります。しかしながら、「当時どぶ酒等は各地で醸造されていましたが、清酒の醸造は酒見が最初とあり、酒見神社は清酒醸造の元祖の神社という事になります」との一文はまだ鵜呑みにはできないかな? 思いがけず立ち寄れた酒見神社は道路脇とはいえ奥行きがあり、雑然とした社叢にも興味をひかれました。
 


神護寺 (高雄山)
 2015年2月2日。1月は母の通院を妹に頼んだため、2月は誕生日後に帰省することに。友人から「高雄の神護寺へ行ったら、素晴らしかった」と聞き、立ち寄ることにしました。ところが、タクシーを降りるなり物凄い石段が!? これは無理そうと思っていたら運転手さんが「上りは20分ほど」と仰います。行けるところまで行こうというつもりが11分で楼門(画像右)に着きました。すると入口におられた品の良い女性が「寒い所をよくお参り下さいました。金堂(画像左)まではあと50段ほどです」と仰るので、「いえ、もうこれ以上は登る元気がありませんので、ここで失礼します」と申し上げると、「背中のお荷物が重いようなら預かってあげますよ」と親切に仰って下さったので、「実は私、神楽歌の演奏修業をしておりまして、楼門の階段で結構ですので演奏させて頂けませんか?」とお尋ねすると、「金堂の国宝 薬師如来像の前で演奏なされば?」と仰るなり電話をとられ、「若い僧侶に頼んでおきましたから、金堂の中で演奏して下さい」と、あっという間に首尾を整えて下さったのです。びっくり仰天しながら金堂への階段を上がると、二人のご僧侶が「どうぞどこででも演奏なさって下さい」と迎えて下さり、願ってもない誕生日となった次第です。身に余る御厚情にただただ感謝申し上げ、これからも精進いたします。
 


福王子神社 (宇多野福王子町)
 2015年2月2日。明るいうちに吉野の金峯神社まで行かなくてはならないため、京都駅までに寄り道できるのは一社だけ? ということで、桜で有名な平野神社へ行くことにして仁和寺手前の交差点を通り過ぎようとしたら、左手にきれいな神社が見えました。強引に狭い道に駐車してもらい、走って戻ると福王子神社でした。あとから調べたら、旧「山城國葛野郡 深川神社」とのこと。応仁の乱で焼失したのち、現在は仁和寺を開いた宇多天皇の母で、光孝天皇の后・班子皇后を祭神としているそうです。一説に、この地は班子皇后の御陵墓と言い伝えられているとか。瀟洒な社殿は重要文化財に指定されていました。
 


平野神社 (平野宮本町)
 2015年2月2日。約50種400本の桜のある平野神社へ。おおぉ櫻の社紋!! 運転手さんが京都駅へ戻るのに無駄のないよう(京都駅から神護寺までが混んでいて70分もかかったため?!)南門に停めて下さいましたが、社殿が遠くて見えません。そこで東門まで行き、人の姿がなかったので駐車場から本殿まで脱兎のごとく走って往復しました。桜の時期はさぞ美しいでしょうね…(凄い混雑でしょうけど)。
 資料によれば、「延暦13年(794)、桓武天皇の命によって当地(衣笠の地)に御鎮座。平安遷都に際し、御生母高野新笠姫を中心とする新進の大陸文化を導入した人々が平安の都づくりに優れた技術を用いた功績は多大であった。更に遷都後は外の護となったこと等に対して天皇の御親祭をみたもので、『延喜式』に皇太子みづから奉幣される定めになっている延喜式内社の名神大社。平安中期以後は22社の5位として、伊勢、賀茂(上・下)、石清水、松尾につぐ名社であった。また源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等 八氏の祖神として崇められてきた。明治4年官幣大社に列し、洛西の総氏神と仰がれている」そうです。
 『延喜式神名帳』に「平野祭神四社 並名神大」とあるように祭神は四神。神階は貞観5年(863)に久度神古開神が正三位、比盗_が従四位上、翌年(864)には今木神が正一位でした。
 


金峯神社 (吉野山)
 2015年2月2日午後。以前、吉野山の水分神社で演奏した折、タクシーの運転手さんがやってきて、「聴いたことがない音楽なのに何だか懐かしい気持ちになりました。実はこういう音楽にふさわしい場所があるので是非そこで演奏して下さい」と仰って金峯神社へは行かず、山を下りてしまいました。連れて行って下さったのは浄見原神社でそのことには感謝していますが、近くまで行きながら金峯神社をパスしたことが心残りで、もう泊まることはないだろうと思っていた吉野山に泊まりました。泊まりたくない理由は食事で、過去2回とも冷凍の食材や惣菜を解凍したものばかりで食べられませんでした(三人前をペロリと平らげる女なのに!?)。ところが、今回の吉野館さんは新鮮な野菜がたっぷりで食事が美味しかったので、桜の時期に一度泊まってみたいと思いました。
 さて、運転手さんが「昨日は雪でチェーンを巻いても奥の駐車場へは入れなかった」とブツブツ仰るので「そこを何とか」と頼みこんで辿り着けた奥千本。義経の隠れ塔を見た瞬間、雪道を長靴で歩いてきてよかったと思いました。金峯神社は本殿が遠くて見えず、よくわかりませんでした。ここから先、吉野〜大峯山寺〜玉置神社〜熊野本宮大社に至る「大峯奥駈道」は女人禁制です。大峯山寺の宿坊が開いているのが5/3〜9/23までだからか、この日この時刻に金峯神社に居たのは運転手さんと私だけで、おそろしいほどの閑けさを堪能できました。
 


勝手神社 (吉野山)
 2015年2月2日の最後は吉野館の近くの勝手神社へ行きました。前回は残念なことに平成13年(2001)に社殿が焼失したと知っていたのでパスしましたが、後方の袖振山が、大海人皇子が当社で琴を奏でると神女が二人袖を翻して舞ったという伝説の地なので、現在「五節の舞」の伴奏歌とされる大歌を弾き歌いしてきました。演奏修行の身にとって社殿の有る無しは関係ありません。往時の雰囲気を伝える場所であればよいのです。境内は、義経と別れた静御前が追手に捕えられた際、請われて舞いを舞ったとの伝承を髣髴とさせる形状でした。
 さまざまな歴史の舞台となった吉野。勝手神社の一日も早い再建を祈るばかりです。
 


大名持神社 (吉野町河原屋)
 2015年2月3日。なぜかこれまで素通りしてきた大和上市駅に近い大名持神社へ行くのが今回のテーマの一つでした。社叢好きの私は、昭和3年3月に天然記念物に指定された妹山樹叢に興味があります。桜、檜、杉という人の手が入った吉野山に対し、妹山は忌山として人の立ち入りを拒んできた貴重な原生林です。暖帯林の独立峯で、腐植土が50cmも堆積しているそうです。中でもヤブコウジ科に属するツルマンリョウは、わが国では屋久島、山口県およびこの地にのみ成育しており、その学名アナムティア(Anamtia stolonifera Koidz)は小泉源一博士(1883-1953)が大名持神社の社名にちなんで命名されたと伊福部先生から教えていただいておりました。
 鳥居を見つけるや美事な石組に目を奪われ、石段を上れば神明造萱葺の本殿、桧皮葺神明造の拝殿・祝詞殿などが整美されている様子に驚喜しましたが、古くは龍門郷21ヶ村の大社だったと知り納得。明治12年に河原屋外24ヶ村の郷社に変更され、現在は河原屋・立野の氏神となっているそうです。
 


久度神社 (王寺)
 2015年2月3日。大和上市駅から吉野口まで近鉄で行ってJR和歌山線に乗り換え、隅田駅から旧富貴村へ行ったあと、同じルートを引き返して王寺へ。最終目的地は次の法隆寺の方が近いのですけれど、王寺での乗り換え時間が10分ほどあったため、タクシーで久度神社龍田神社伊弉册命神社とまわることにしました。
 久度神社は駅からさほど遠くありませんが、住宅が密集していて社叢が見えなかったためタクシーで行って正解でした。しかし、周辺の工事による大音響と、拝殿にあったビデオ撮影していますとの貼り紙には驚きました。
 当社へ立ち寄ったのは前日訪れた平野神社と関係があったためです。久度神社境内にあった由緒書きに、「当社は『続日本紀』に延暦2年(783)に官社に列せられたとあり、『延喜式神名帳』(927)にも載っている古い社です。また延暦13年(794)平安遷都に際し創建された京都市北区の平野神社第二座に当社から遷されて久度神が祀られています」と書かれていました。
 


龍田比古龍田比女神社 (斑鳩町龍田)
 2015年2月3日。龍田大社より古いはずと思い、龍田神社(現社名)へ行きました。が、私には右手前に祀られていた楠大明神の方が魅力的でした。しかし、なぜ楠木に「正一位稲荷大明神」をくっつけているんでしょうか?
 龍田比古龍田比女神社については、 聖徳太子が法隆寺の建設地を探していた時に白髪の老人に化身した龍田大明神に会い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地で、私はその守護神になるだろう」と言われて法隆寺を建立し、鎮守として龍田大明神を祀る神社を創建したとの伝承があります。ところが、後に龍田大社から天御柱命・國御柱命の二神を勧請したことで、元の祭神が忘れられてしまったのだとか。現在は天御柱命と國御柱命を主祭神とし、龍田比古神と龍田比女神が配祀されています。明治の神仏分離で法隆寺から離れ、三郷町立野の官幣大社龍田神社(現・龍田大社)の摂社となった後、大正11年3月に独立して県社に列せられました。
 


福安寺・伊弉册命神社 (五百井)
 2015年2月3日。地図上に「五百井」の名を見つけたので検索したら、明治まで白山神社と称していた伊弉册命(いざなみのみこと)神社の本殿と拝殿のみが、福安寺(廃寺)の敷地内に保存されていると書かれていました。どちらも現役じゃないって、どういうこと? これは、足を運んでみるしかありません。
 北に大塚古墳があることを地図で確認して行ったのに、近くを通り過ぎても社叢も鳥居も見えません。この辺りは道幅が狭く、住宅が密集しています。運転手さんが「ナビがここを指しています」と仰る場所で車から降りると、旧福安寺と思われる建物の右の道しかない?! 砂利が敷き詰められた道を進むと、右側に拝殿、奥に本殿がありました。鳥居はありません。社殿左側の細い道は、たぶん大塚古墳に続いているのでしょう。すると、古代から「五百井」の地を治めていた豪族の古墳と菩提寺の鎮守ということになりますよね。
 保延2年(1136)の『法隆寺金光院灯油田畠注文案』によれば、福安寺には本堂以外に東之坊、西之坊、観音堂、羅刹女堂、湯屋があったそうです(現在は釈迦堂のみ)。寛保2年(1742)に現在地より少し西から移遷されたという福安寺の鎮守白山神社には、白山大権現と刻まれた安永6年(1777)銘の石灯籠がありました。本殿は桃山時代に建てられた一間社春日造の桧皮葺で、昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
 


平山神社 (宇多津町平山)
 2015年2月4日。5日が母の通院日なので3日に帰省すると、母はインフルエンザA型と診断され、外出禁止令が出ていました。そこで私は、天智天皇の六世の孫 理源大師聖宝の有力な生誕地たる沙弥島へ行くことに。
 ふと、これまで行った神社から学習したことを郷里に当てはめると、私の産土は宇夫階神社ではなく平山神社じゃないかという気がして立ち寄ってみました。3日に行った龍田神社も、去年7月に行った久多彌神社も、明治に合祀などされたものの、地元住民の強い請願によって単独の神社に復したと書かれていました。
 慶応4年(1868年4月5日)から同年の明治元年(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達などの総称としての「神仏分離令」(神仏判然令)や明治39年(1906)の「一村一社」の神社合祀政策によって日本の神社はずいぶん変わったんですねぇ。今更こんなことを書いて無知を曝け出すこともないのですが、生まれてこのかた「平山神社は宇夫階神社の摂社」と信じていました。子供時代から、春になると平山神社の祭があると知っていましたし、地元住民が氏子として交替で掃除などをしていることも知っていたのに…。
 改めて平山神社を見ると、御神体山は番の州臨海工業団地への道路を造るために切り崩され、社地もかなり狭くなっていました。祖父母が大切にしていた神社ですが、宇多津の場合、宇夫階神社そのものが遷座1,200年を超えている古社ですから、その摂社にされたからといって事を荒立てる人はいなかったのでしょう。
 


三宝荒神社 (沙弥島)
 2015年2月4日。平山神社から車で5分ほどの沙弥島へ。ほんとうは縄文時代から製塩文化があったとされ、縄文式土器やサヌカイト製石器が出土しているナカンダ浜へ行きたかったのですが、案内図も道標もなく道がわかりません。ナカンダ浜は、『天の夕顔』(1938)や『雪に飛ぶ鳥』(1971)で知られる坂出出身の小説家 中河与一氏が昭和11年(1936)に「柿本人麿碑」を建てた場所でもあります(現在は人麻呂岩のあるオソゴエの浜に移設)。
 沙弥港に入ると地図にあった海沿いの道が行きどまりだとわかり、港の入口にドッカと腰をおろしている「えなが石」をぼんやりと眺めていました。案内板によれば、理源大師聖宝(832-909)の母が瀬戸内海を航行していた時、沙弥島(讃岐國鵜足郡狭岑島)の沖で産気づいたため、島の龍の口にて大師を出産して胞衣(えな/へその緒)を港に埋め、上から石で蓋をしたと伝えられているそうです。
 しばらくすると、ご近所の方がお客様を見送りに出てこられたので「この島には神社がありますか?」と訊ねてみました。「すぐ上にありますよ」と案内して下さったのが三宝荒神社でした。縄文の島の小高い丘の上にあり、祠の周囲に石が並べられていたので古代祭祀が行なわれていたのかしら? と想像を逞しくしました。対岸の、と言っても見えませんが(もしかして「えなが石」の右?)、東山魁夷せとうち美術館へは何度か足を運んでいたのに、島のことはよく知りませんでした。次回は最北端まで行って瀬戸大橋や鷲羽山を見たいと思います。
 

@2012/4-10 A2012/11-2013/3 B2013/4-6 C2013/7-8 D2013/10-11
E2013/11-2014/2 F2014/2-5 G2014/6-7 H2014/7-10 I2014/10-11
K2015/2-4 L2015/4-5 M2015/5-6 N2015/6-7 O2015/7-10