「古代のうたと神話」探訪-2

御崎神社 (佐多岬)
 2014年2月5日。突然思い立って本州最南端の佐多岬へ。そこにある本州最南端の神社御崎神社の祭神が玉依姫と書いてあったからです。
 ところが、境内にある由緒書きの看板を見たら、祭神はイザナギ・イザナミ及びその御子神六神とありました。なぜでしょう? 佐多の御崎祭りは、「佐多岬御崎神社の妹神(玉依姫)が、郡近津宮神社の姉神(豊玉姫)に、新年の挨拶に行くというお祭りです」と書かれていますが?
 またしても課題が増えました。玉依姫を理解するために、どれほどのエネルギーを費やさなくてはならないのでしょう。日本の神話は手強いですねぇ。
 御崎神社は太古より佐多岬海岸の磐屋に鎮座していたとされ、708年(和銅元年)に御神託により磐屋に浜宮が設けられたとあります。現在の御崎山中腹に移されたのは1609年(慶長14年)とされています。
 薩摩藩の大将 樺山久高(1558-1634)は、1609年の同藩の琉球侵攻にあたり、浜宮に渡海して戦勝祈願をしたそうです。樺山は首里城を落とすなどの武功を立てて島津氏の琉球支配に貢献し、帰国後、琉球國鎮護のため浜宮を現在地に遷座させました。島津家久の代に家老に任命された久高でしたが、その後は家久に無視され、跡取り息子にも先立たれて失意の晩年を送ったと伝えられています。
 


吾平山上陵 (鹿屋市吾平町)
 2014年2月6日、今回の旅のメインとなる吾平山上陵(あひらのやまのうへのみささぎ)へ。なにしろ鹿児島空港から佐多岬までは車で約4時間の道のりですから、行きに立ち寄ると日没に間に合わないため空港への帰途立ち寄りました。例によって予習せずに出掛け、帰宅後、鹿児島には吾平上山陵のほかに可愛山陵(ニニギノ命の陵墓)、高屋山上陵(ホホリノ命の陵墓)の比定地があって、「神代三山陵」と呼ばれていることを知りました。なお、こうした伝承地は宮崎県や鹿児島県に数ヶ所あるそうです。
 明治政府が1874年(明治7年)に神武天皇の両親 ウガヤフキアヘズノ命とタマヨリビメノ命の陵墓に治定したのは鵜戸山を流れる姶良川に開いた岩窟「鵜戸窟」内の2つの塚で、現在は宮内庁書陵部が管轄しています。その後、1896年(明治29年)には宮崎県の鵜戸神宮背後の速日峰山上が「鵜戸陵墓参考地」に定められました。
 神話の登場人物の陵墓を国の予算で調査・管轄するのって意味があることなのでしょうか? まぁ、『源氏物語』の登場人物の墓を作ってお参りする民族ですから!? 私の考えの方が日本的でないのでしょう。
 しかし、私は、古墳には思い入れがあります。たしかにその土地に存在し、そのクニを治めた「国主」やその一族であったことが確実なので。そして、ここは、これまで足を運んだどの土地よりも自然の素晴らしさを感じさせてくれました。雨だったこともあって、貸し切り状態でゆっくり森林浴でき、心身共に蘇生した感じ?!
 ちなみに、東京ドームが約4.7ha、吾平山上陵は9.35ha、隣接する大隅広域公園が約96haとのことで、このまま自然が守られてゆくことと思います。
 


鵜戸神社 (吾平町麓)
 2014年2月6日。吾平山上陵から鹿屋航空基地資料館を目指す途中、目の前に出現したので、車を降りてみました。どうやら、かつて吾平上山陵から川を隔てた参拝所の東にあったとされ、747年(天平19年)に「勅令によって六所大権現と号した」鵜戸六所権現が遷座・改称した鵜戸神社のようです。現在の吾平町役場南隣に移転したのは1871年(明治4年)だそうで、その時にあった八幡神社は同年、遷座したとか(その八幡神社の前も通ったような気がしますが、僅か24時間の滞在なので確認できず…)。
 鵜戸神社の境内は真ん中がポッカリと空いていたので不思議に思い調べたら、もともと八幡神社があったことがわかりました。やっぱり研究者は現地に足を運んでナンボ?!…です。
 画像左が鵜戸神社、右は招魂社でした。雨が降っていたので、麻のコートの上からカッパ着てます…。
 


東臺神社 (新居浜市)
 2014年2月14日。雪で岡山行きの「しおかぜ号」が運休。というわけで、新居浜へ。本来、宇多津で岡山からの「しおかぜ」と高松からの「いしづち」が合体して、松山行きになるわけですが、この日は高松からの「いしづち号」のみでの運転となりました。数度の新居浜行きの中で、毎回通る、高速の新居浜インター手前にある神社が気になっていたので、雪の中、立ち寄ってみました。幸い、雪がやみ、拝殿の前が濡れていなかったので、奉納演奏をさせて頂きました(いつチャンスがあるかわからないので移動時には必ず倭琴を持参しています)。
 東臺神社社伝によれば「東臺三所大権現は紀伊國熊野三所大権現と同体也」、鎮座年は未詳とのことですが、境内には樹齢千年以上の大楠などが群生していました。
 同地区の東田太鼓台は有名な新居浜太鼓祭りに参加しているそうで、わがふるさと宇多津も太鼓台の町なので、是非拝見したいです。ともに10月ですが、たぶん新居浜の方が宇多津より一週間ほど早いと思います。
 


浅間神社 (富士市入山瀬)
 2014年2月24日。富士から身延線に乗り、入山瀬で下車。入山瀬浅間神社へ行ってきました。このところ赤と白の社殿をよく目にするような気がしないでもありませんが、当社も紅白に塗られたコンクリート造りの社殿でした。
 かつては、現富士市にある下方五社の一社として「正三位浅間御子明神」と目される古社だったそうです。下方五社は『東泉院御由緒書』に、806年(大同元年)に再建されたとあり、創祀年代は不明。再建された806年、「平城天皇から唐本大般若経や行基作の本地仏が寄進され、のちに嵯峨天皇から空海作の五大尊不動明王が寄進されたとありますが、すでに散逸してしまったとか。
 また、嵯峨天皇のころ始まった年二度の勅使下向は、南北朝のころ一時中断したものの、駿河國主 今川範國が勅使代として復活させて明治まで続けられたそうです。もっとも現在は、駿河國總社(静岡浅間神社)から國方奉幣使が参仕していたなんて信じられないほどの規模の違いがありますが(但し自動ドア付きトイレ有!!)。
 


浅間神社 (伊豆市小下田)
 2014年4月7日。前回の伊豆半島行きでは烏帽子山雲見浅間神社へしか行けなかったため、再訪を決め、まずは修善寺から小下田へ向かいました。溜め池まで車で行き、頂上まで登ると書かれていたので、その通りにしてみましたが、分岐で迷いました。まったく何の案内もありません。適当に方向を定めて道なき道を歩いていたら、岩に囲まれた石の祠がありました。それが浅間神社だったのでしょう。
 小下田最古の神社とのことでしたが、石碑が無惨に倒れていたり、倒木がそのままだったり…で、非常に驚きました。ただ、雲見浅間神社と同じく、木々のあいだから富士山がきれいに見えました。
 


姫宮神社 (南伊豆町一色)
 2014年4月7日。小下田から石廊崎へ向かう途中にある雲見浅間神社に立ち寄って升本のお弁当を食べ、地図を見て、途中にあるらしい姫宮神社へ行くことに。
 祭神が伊波比唐ナ、『伊豆国神階帳』に「従四位上 いはの姫の明神」とあり、式内社「伊豆國賀茂郡 伊波比当ス神社」に比定されている古社と知り、行ってみたら、扁額もなく、拝殿の中が伽藍堂に見えました。最近は公民館や集会場として地域で使われている神社もあるようで、こちらはちゃんとお掃除されていました。
 


王子神社・八幡神社 (南伊豆町大瀬)
 2014年4月7日。石廊崎の遊覧船乗り場に有料駐車場があるとのことで行ってみたものの、車から一歩おりたら物凄い風!! 寒いし、この風では石廊埼灯台を目指して歩いても、その先の石室(いろう)神社、岬の突端の熊野神社へは行きつけまいと判断してホテルへ向かう途中、宇多津の宇夫階神社&塩竈神社と同じように、鳥居が二つ並ぶ神社があったので立ち寄ってみました。どちらの鳥居をくぐっても、拝殿が並んでいて見通せます。
 風の強い地域だけに、石廊崎の桜はもうほとんど散っていましたが、両社の真ん中にあった桜はまだ花びらが少し残っていました。
 


石室神社・熊野神社 (石廊崎)
 2014年4月8日朝8時半過ぎの石廊崎。前日とは打って変わって穏やかな快晴!!
 遊覧船乗り場の駐車場から、いくぶん急な上り坂を1.4kmほど歩いて念願の岬の突端へ行きました。海の色も空の色も本当にきれいで夢のようでした。諦めずに再訪した甲斐がありました。
 石室(いろう)神社は、社伝によれば、文武天皇4年(700)に大地震があった折、龍が現れてこの巌を守り、白鳥が岸を守ったことで、大宝元年(701)に創建されたとか。熊野神社ともども、巌を削って一体化させていないとすぐに吹き飛ばされてしまいそうですね…。
 熊野神社は「縁結び」が強調されていましたが、浪音の高さから「祓」の要素を感じました。右の画像は、これまでの人生で、ベスト3に入る絶景です。
 


軽野神社 (伊豆市松ヶ瀬字神田鍵取免)
 2014年4月8日。石廊崎から修善寺へ戻る途中、駅の手前約4kmに狩野(かの)に面した軽野(かるの)神社がありました。古代歌謡をやっていれば、「かるの」ときけば記紀歌謡の「枯野」を連想します。

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の 海石に ふれ立つ なづの木の さやさや

 「ふれ立つ」を『日本書紀』の応神紀五年(274)十月条にある「伊豆國に科(ふれおほ)せて船を造らしむ」に関連づけると、完成した長さ十丈ほどの船を試しに海に浮かべると軽やかに走るように進んだので、その船の名を「枯野」にしたこととつながります。さらに、その船が古くなったので塩を作るために焼き、それでも焼け残った固い櫓杭の部分で(中国の焦尾琴の伝承により)鵄尾琴を作って掻き鳴らすと、由良の海峡の岩礁に振れ立っている海藻がさやさやと揺れるように遠くまで音がよく響いたと解釈されている、あの歌。楽譜は現存していないようですが、「志都歌の歌返」なので、いつか『琴歌譜』の楽譜を参考にしつつ歌ってみたいものです。
 「かれの」「かるの」「からぬ」「かの」…は、「しか」「しこ」「しき」の例に倣えば同じ語と解釈できます。初めに発音ありき。後からつけられた漢字に惑わされないようにしなくては。
 


勝浦神社 (まんのう町勝浦本村)
 2014年4月9日。私の故郷「宇多津町」は「綾歌郡」に属しています。「綾歌郡」は、阿野(あや)鵜足(うた)を一つにした際の名称で、現在の「宇多津町」には両郡が含まれます。「宇多津」の古い表記の一つに「鵜足津」があり、その「津の郷」に旧石器時代の遺跡があります。今回、古くから「鵜足大明神」と称ばれていた神社があると知り、行ってみました(右は歩いている画像)。想像以上に山深く、清々しさは格別でした。
 『香川県神社誌』に「弘仁8年(817)邦内に大旱あり。僧 空海 勝浦の御門淵に来たりて雨を祈る。時に一老翁淵より現れ、我は讃岐國造神櫛王八世の孫、篠目親王小高命の勝浦大神なり、我此の淵に入りて久し、今師に遇ふ幸ひなるかなと宣ひて忽ち見えず。しばらくして大雨沛然として至り人皆蘇生の思をなす。ここに於いて空海神託に任せ社殿を造営して勝浦大神と奉稱すと云ふ」とあり、『寶暦~社帳』には「勝浦大明神」とあるそうです。
 


宇閇神社 (旧綾歌町岡田下)
 2014年4月9日。明治まで伊福部氏が神官をつとめていた宇倍神社から祭神を勧請した宇閇神社が「綾歌郡」にあったことを知り、行ってみようと思い立ちました。しかし、「綾歌郡綾歌町」は既に丸亀市と合併していました!?
 当社の創建は1185年(嘉永4年)で、現宇閇(うのゐ)神社から宇倍神社の祭神を勧請したとか。また往古岡田上村廻池の畔に鎮座していた天満宮を、池の改修に伴い、当社へ遷したことから、上の八幡又は岡田八幡とも称ばれたそうです。社名は、「ウヘノ」と傍訓のある本、「ウヘ」または「閇」に「へ」と傍訓のある本が見つかっていますが、現在は因幡國一宮と同じく「ウベ」神社と呼ばれています。左の画像は境内社新田神社らしい。
  


宇閇(うのゐ)神社 (旧綾歌町栗熊西)
 2014年4月9日。岡田の宇閇神社から車で数分の宇閇(うのゐ)神社へ。延喜式神名帳に「讃岐國鵜多郡小宇閇神社」とある古社で、讃岐國式内24社の一つ(第11番 宇閇神社)だそうです。 仁寿・貞観の填神階(貞観6年)清和天皇(御代)には「正三位」と伝えられているとか。
 案内板には縄文時代の遺跡、古墳時代の石室があると書かれていました。古墳ときくと、古墳時代に使われていた五絃を弾きたくなります。ちゃっかりと古代歌謡を練習させていただきました。私の全く知らなかった「鵜足郡」、「鵜の井」、少しだけ故郷を知ることができました。
 山中からの眺望がすばらしい勝浦神社、古墳のある宇閇(うのゐ)神社、また足を運びたい場所でした。
 


若宮神社 (善通寺市中村)
 2014年4月11日。今日は宇多津駅からではなく善通寺駅から特急に乗ることにして、以前木熊野神社へ行ったときに探したけれど見つからなかった空海の若宮神社を目指しました。またしても、タクシーの運転手さんが全くわからず(四国八十八か所のお寺しか知らないと仰いますが、それをつくった弘法大師の若宮ですよ…)、迷いに迷って辿り着きました。「香川県指定天然記念物 若宮神社のイブキ」と書かれていますが、ただそれだけ…(由緒など全くわかりません)。樹齢約500年、鳥居をくぐると右奥に「梛之宮」の石碑がありました。
 左の画像の左端に小さく見えているのが中村の木熊野神社の鳥居です。空海の若宮神社は参道の入り口に建てられたということでしょうか。
 


宇多姫神社 (多度津町北鴨)
 2014年4月11日。善通寺駅から乗ろうとした特急にみごと乗り遅れ、土讃線と予讃線が通る丸亀までタクシーで行くことに。そこで、以前から気になっていた多度津の宇多姫神社を探してみました。たしか古くは「鴨のお大師さん」と呼ばれていた第77番札所道隆寺の近くだったと記憶していましたが、車の入れない路地にありました。「鴨」の地名は、山城國賀茂御祖神社(下鴨神社)の荘園だったからだそうです。表記は、鴨、賀茂、加茂の字があてられ、明治23年までの住所表示は「多度郡葛原郷北鴨村」でした。
 大和國城下郡に比賣久波神社があり、桑の葉を御神体とする「姫桑」なので、もしかするとそこから桑の葉の御神体を勧請して鵜足・宇多(うた)の「宇多姫」にしたのかも?
 


妙見宮 (北鴨・道隆寺)
 2014年4月11日。第77番札所道隆寺は「桑多山 明王院 道隆寺」の名からもわかるように、712年(和銅5年)の創建当時、広大な桑園で、絹の生産地だったそうです。空海の実弟 真雅僧正(法光大師)が第三世を嗣いで23坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)が五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立し、第五世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となったという歴史は、空海ゆかりの讃岐ならではと感じ入りました。
 また、道隆寺境内北の角には妙見宮がありました。仁尾と詫間にまたがる妙見山の妙見宮に大師堂があり、空海が修業したと言われていることから、境内に勧請されたのでしょうか。
 


志波姫神社 (栗原市志波姫八樟新田)
 2014年4月20日。長年行きたかった志波姫神社。東北新幹線「くりこま高原」駅から車で5分ほどでした。
 そもそも、1889年4月1日に姫郷村、白幡村、梅崎村が合併して志波姫村となったのは、「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀る志波姫神社の名にちなんだというのですが、式内社 陸奥國栗原郡 名神大社志波姫神社の論社は当社だけではありません。古川駅の北西3kmほどの古川桜ノ目、同駅北10kmほどの高清水五輪にもあるようです(ともに祭神は天鈿女命)。
 社伝によれば、聖武天皇の御宇(724-749)の創建。延暦年間(782-806)、坂上田村麿東夷征討の折に武運長久・五穀豊穣を祈願したといわれる古社。もとは、伊豆権現と称し、当社から栗原市役所へ向かう途中の築館源光(西が築館伊豆、東が志波姫堀口に隣接)に鎮座していたとされますが、正保年間(1645-48)に焼失後再建されず、石祠に祀られていたそうです。それが、1639年の伊豆野原の開拓、伊豆野堰の開削にともない現社地へ遷座…という説明には年代な矛盾がありますが?
 参道は高い樹に囲まれていますが、拝殿の左には田園風景が広がっていて、神楽殿を見て思わず「農村舞台だ!!」と叫びました。ちなみに、本来、対の神社と考えられる志波彦神社は式内社 陸奥國宮城郡 名神大社で、もともと鎮座していた仙台市岩切冠川畔の境内が狭かったため、明治7年に鹽竃神社の社地に遷座しています。
 


早池峯神社 (花巻市大迫)
 2014年4月20日。こちらも前々から行きたかった早池峯神社。早池峯山(1,917m)の登山口には4つの早池峯神社があるそうです。北の登山口(門馬)には新山大権現、南の登山口(大出)には遠野妙泉寺(持福院)、東の登山口(江繋)には新山堂、そして西の登山口(岳)には嶽妙泉寺(池上院)だった当社。右の画像は三之鳥居です。
 妙泉寺は天台の高僧慈覚大師が斎衡年間(854-857)に開いたとされますが、堀河天皇の寛治年間(1087-94)、宗派が天台宗から真言宗に変わったそうです。
 明治の神仏分離によって早池峯神社は瀬織津姫を祭神とする神社となりました。ただ、拝殿に掲げられた「早池峯山大権現」の扁額を見た時、往時の神仏習合の実態を知りたいと思いました。早池峰山を霊場とする修験山伏によって伝承されてきたことで「山伏神楽」とも呼ばれる「早池峰神楽」は、雪解け水がゴウゴウと音を響かせて流れる岳川のある岳(たけ)と大償(おほつぐなひ)の両神楽の総称なのだそうです。昭和50年(1975)には国指定無形文化財に、平成21年(2009)にはユネスコ無形文化遺産に登録されています。
 


高照神社 (弘前市高岡神馬野)
 2014年4月21日。焼走り温泉に泊まった翌朝、岩木山を目指しました。20年以上前にアイヌモシリというグループと一緒にBSの津軽三味線フェスティバルに出演した際、岩木山神社へ行ったので、今回は手前の高照神社へ。基本的に新しい神社には興味が湧きませんが、初耳の「吉川神道」に基づく社殿構成ということでしたので。
 吉川惟足の門下で「吉川神道」を学んだ弘前藩4代藩主 津軽信政が公宝永7年(1710)に薨去すると、5代藩主 信寿は信政公の遺言通り、翌年、吉川従足を斎主として神葬祭を斎行。さらにその翌年(1712)、本殿を造営して創祀したのが高照神社なのだそうです。一目見て「国宝か?!」と思った拝殿(画像左)は「重要文化財」でした。境内にまだ沢山の雪が残っていて歩ける場所が限られていたのが残念…。
 祭神は高照光媛大神(たかてるひめのおほかみ)だそうで、『先代旧事本紀』に大己貴神と田心姫命の娘、味金且高彦根神の同母妹とあることから下照姫のことかしら? と想像していたら、同書に大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神の同母妹に高照光姫大神命というのもあって訳がわかりません。『古事記』には高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)とあります。
 


大石神社 (弘前市大森勝山)
 2014年4月21日、高照神社から岩木山環状線で北東麓へ向かいました。大石神社(上宮)に行きたかったからです。巨石信仰と龍神信仰の場たる大石神社は、社殿のない時代を含め、遅くとも1,200年以上前から祭祀が行なわれていたと考えられています。せっかくなので雪の上を歩いてみたら、下に空洞ができていて短いブーツがスッポリと沈み込んでしまったため、二之鳥居前で断念。横の赤倉神社へ向かう道路から本殿(中央奥)を撮ってみましたが、遠くてよくわかりません。どうやら本殿の裏に御神体(巨石)があるらしい…。
 社伝によれば、十腰の下居宮(現 巖鬼山神社)が百沢(現 岩木山神社)に遷座した後、大石信仰が高まったため、慶長17年(1612)、越中守 信牧公が赤倉山御祈願所として勧請したのが創祀とされています。
 冬は雪で閉ざされてしまうためか、大石神社から大石川を北東へ3kmほど下った場所に下宮があるそうで、巖鬼山神社から新青森駅へ向かう途中、前を通りました。
 


巖鬼山神社 (弘前市十腰内猿沢)
 2014年4月21日。岩木山神社元宮たる津軽三十三霊場「札所5番 十腰内 十一面観音 巌鬼山(がんきさん)神社」へ。この社名は明治6年(1873)以降のもの。
 延暦15年(796)に岩木山北麓に建立された巖鬼山西方寺観音院を、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷平定祈願のために再建したと伝えられています。文安5年(1448)に野火によって社殿を焼失、慶長9年(1604)には津軽信建が鰐口を奉納していますが、やがて百澤寺に併合されました。それを氏子が元禄4年(1691)に再興したそうです。境内には樹齢千年以上、高さ41m以上の巨大な大杉が聳え立っていました。
 


伊邪那岐神社 (葛城市兵家)
 2014年5月18日。予定より1時間も早く家を出たため、高田市で乗り継ぎ列車を待たずに降り、タクシーの運転手さんに「近くの神社へ行って下さい」と頼んで行ったのが伊邪那岐神社でした。淡路國一之宮は伊弉諾神社なので綴りが違いますが、発音は同じなのでしょう。帰宅後、住所を調べたら「葛城(神武紀に高尾張邑に土蜘蛛がいたので皇軍が葛の網で捕えて殺したことからつけられた地名)の兵家」とのことで、高天彦神社葛城一言主神社に土蜘蛛の墓や蜘蛛窟があったので、皇軍が北上して新しい神を立てて国生みをしたのだとしたら、兵家伊邪那岐神社があってもおかしくないと感じました。何せ神話の世界のことなので、よくわかりません。
 今は社地もさほど広くないのですけれど、かなり手前に鳥居や参道のあと(今は人家が密集していますが、庭に古い道標などが残されていました)がありました。不思議なことに、この周辺の、扁額すらない小さな神社も当社も同じように拝殿より奥が外から見えないように厳重に囲われていました。本殿が見えないほど高い塀に囲まれた神社は初めてだったので印象に残りました。何をそんなに厳重に護っているのでしょうか?
 


葛木火雷神社 (葛城市笛吹)
 2014年5月18日の午後、通称「笛吹神社」へ。実は近くにも「笛吹神社」があり、その末社だった時代があったとか。この日はロープウェイで葛城山に登るところから始める予定が、タクシーの運転手さんに「サツキの季節で、一年で最も混雑する2日間(土日)です。朝から登山口への道路が混んでいて動きがとれません」と言われ断念。手前の葛木火雷神社へ行こうとして、恐らく伊邪那岐神社から5分ほどの距離を1時間近く渋滞に巻き込まれてしまいました。諦めて先に進もうと決めた時には既に交差点のない一本道に入っていてアウト!!
 葛木火雷神社の祭神は、火雷神と、笛吹連の祖天香山命の二座と由緒略記にありました。
 今は「音楽の神様」として売り出しているようで、親子連れ、カップルなどが参拝に訪れていました。一の鳥居をくぐって階段を上がると、なぜか大砲があり、その右手の階段を上がると拝殿と本殿がありそうでしたが、冷房の効かないタクシーに閉じ込められて疲れ果てたので大砲の先にあった境内社でこの日最初の演奏修行をやらせて頂きました。境内社に向かうと右奥が古墳とのことで、禁足地の緑が鮮やかでした。さわやかな風も吹いてきて気持ちよく演奏でき、息を吹き返しました。まあ、どこででも演奏できればよいのです。まだまだ先は長い!!
 


鴨都波神社 (御所市宮前町)
 2014年5月18日。最初に乗ったタクシーはあまりに暑かったのですが、葛木火雷神社へ来て貰ったタクシーは感じのよい女性ドライバーで、クーラーもバッチリ効いていました。この先の行程をお話しし、次に櫛羅の「上津賀茂社」たる鴨山口神社へと言うと、せっかくだから「下津賀茂社」たる鴨都波神社へも立ち寄りましょうと仰って下さいました。祭神は、都味波八重事代主命下照比売命。神名は何種類もあるのでよくわかりませんが、大国主命の子供でしょうか?
 社地は広く、末社もたくさんありましたが、本来「神様」には興味がないため、5分ほどで移動しました。駅に近く、人通りの多い神社では正式参拝以外では(通報される恐れがあって?!)演奏できませんし。
 


鴨山口神社 (御所市櫛羅)
 2014年5月18日。「櫛羅」という地名が(伊福部昭生誕百年記念盤の解説に書いた通り)私にとっては非常に重要で、絶対に歩いてみたい土地でした。山口というくらいで、狭い道なのに葛城山から下山する人が後を絶ちません。葛城賀茂山の東麓は主要な登山口の一つなんですね。ただし、もとは現在地より西の櫛羅猿目上方の通称「岸野山」に鎮座していたそうです。
 この登山道から一歩(山と反対方向へ)入ると参道です。本当に神社があるのかしら? と思いつつ突きあたりまで行き、右手を見ると二の鳥居があり、拝殿や境内社が並んでいました。演奏したかったのですが、あまりに境内社が多く、どこへ座ったらよいのかわからないままタクシーに戻ってしまいました。祭神は、大山祇神大日靈貴命御霊大神天御中尊だそうで、これまたわけがわかりません。
 


葛城一言主神社 (御所市森脇)
 2014年5月18日。「櫛羅」から葛城一言主神社の鎮座する葛城古道を目指します。少し高くなったなと感じたところに「いちごんさん」の看板が?! このあたりでは「ひとこと」でも「いちげん」でもなく、「いちごん」と呼ばれるんですね。一種の御託宣の神として知られていますが、当社は一つだけ願いを叶えてくれる神として有名なのだそうです。そもそも私は人であれ神であれ、何かをお願いするのは嫌な性格なので興味が薄れました。ただ、運転手さんの仰る蜘蛛塚とやらには興味がありました。が、境内には見当たらず、御神木の「乳銀杏」 を撮って階段を降りました。記紀にある一言主大神と雄略天皇の話や、役小角の伝説も、さっぱり訳がわかりません。
 タクシーに戻って、運転手さんに「神武天皇が土蜘蛛を封じこめたという蜘蛛塚はどこにあるんですか?」と訊くと、駐車場の奥からあがらないと行けないと言われたので止めました。「次の高天彦神社には境内に土蜘蛛塚、近くに巨大な蜘蛛窟があると書いてあったので、そちらに期待しましょう」。
 


高天彦神社 (御所市高天)
 2014年5月18日、天上の神々が住んだという高天原伝承地へ。杉の古木が立ち並ぶ参道を通り、境内へ足を踏み入れる手前、左手に「高天原舊跡地」の石碑が?! ここに到着するまでに蜘蛛窟の看板があったはずなのに通り過ぎてしまったようで…(現在、閉鎖中だとか)。でも境内に一歩入った途端、気温が10℃近く低くなった気がした我々では、蜘蛛窟へは到達できなかったでしょう。ここは白洲正子さんの『かくれ里』に代弁して頂きます。

 飛鳥は日本のふる里といわれるが、神武天皇以来、いやそれ以前から開けていた葛城地方こそ、大和文化の発祥の地だといえる。

 ここには、一言主や高鴨より、一そう神さびた社があり、杉の大木の奥に、ささやかな社殿が建ち、神体山を拝む形になっている。

 祭神の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、別名高天彦神は大和朝廷に先行して葛城王朝を築いていた葛城一族の祖神で、社殿後方の白雲峯(694m)、別名高天山を御神体とされているそうです。
 土蜘蛛塚は、この拝殿の左側の境内社の後方にありました!! 何となく要石のような感じ?!
 


高鴨神社 (御所市鴨神)
 2014年5月18日。高鴨神社高天原を下っていったところにありました。一の鳥居をくぐると先ず、左手の池に目を奪われます。この時すでに17時過ぎ。もう少し時間が早ければ、正式参拝と、ここでの奉納演奏をお願いしてみたのですが…(予約が必要かしら)。きれいに整備された参道は重要文化財に指定された本殿へ真っ直ぐに続いています。ちなみに、本殿は撮影禁止です。白洲正子さんは『かくれ里』にこう書かれています。

 鴨都波神社は、国道24号線にあるので、殺風景になってしまったが、高鴨神社には、神さびた雰囲気がある。ことに神社の下の池に、金剛山が影を落としている景色は美しく、万葉によまれた葛城処女を連想させる。その歌にある「高間の茅野」は、今は高天と書き、神社の後方、はるか高い峰の上にある。

 式内社高鴨阿治須岐託彦根命神社四座に比定される古社で、全国に広がる鴨(加茂)社の総本宮。弥生中期前より祭祀を行なってきた日本最古の神社の一つで、一説に京都の上賀茂神社と下鴨神社の元宮とも。
 祭神の味耜高彦根命は大己貴命の子で、大神神社の神の分霊として「葛木の鴨の神奈備」に座して皇孫を守護した神。同じく大己貴命の子である一言主神と同一視される場合があり、雄略天皇の怒りに触れて土佐の高賀茂社に流された高鴨神味耜高彦根命あるいは一言主神とし、764年(天平宝字8年)に加茂朝臣田守をつかわして高鴨神を復祀したのが当社とも言われています。『三代実録』に、859年(天安3年)1月27日に、従二位勲八等高鴨阿治須岐宅比古神と、従三位高鴨神とを従一位にしたと記されているそうです。
 なお、「カモ」を「カミ」と同義語とする説があり、「シキ・シカ・シコ」に照らせばあり得なくはなさそうですが…?
 


大穴持神社 (御所市朝町)
 2014年5月18日。高鴨神社からさほど距離はないのですが、運転手さんが場所を御存知なく、道行く人に訊きながら近くまで到着してもまだ入り口がわからない。ということで、最終的に近くのお寺の御住職っぽい方に教えていただきました。その方の目が「はたして到達できるかな?」という風に感じられて、嫌な予感がありました。
 ですが、山の麓にある一の鳥居を見つけることはできたのです。この時はまだ坂道をズルズルと下降しながら登るというような試練が待っているとは想像だにしていませんでした。
 そもそも地図にものっていない大穴持神社に興味を持ったのは、「式内社だが、本殿がなく、拝殿背後の板囲いの中にカシとツツジの木を御神体として祀っている。元はサルスベリの木であった」との説明を読んだためで、これこそ自然を崇拝する原始信仰に近い形じゃない? と思ったわけです。神話や後付けされた神の名前とかは幾ら読んでも覚えられません。自然崇拝ならピンと来るかも? と思ったら足に来た。というか、自然は厳しいものだとわかりました。もっと身体を鍛えなくては!!
 


八幡神宮 (五條市西吉野町奥谷)
 2014年5月19日。前々から行きたかった吉野三山。和歌山へ移動する前に幾つまわれるでしょうか。
 先ずは、白銀岳を目指す途中に鎮座していた八幡神宮(神社ではない)。草むらに隠れている石段を降りてみると、社殿の位置からさらに石段があって、沢まで下りてゆけるようです。拝殿の奥は施錠されていました。まだ山深いというほどの場所ではありませんが、近隣の方々が氏神様として大切にされている様子が感じられました。きれいにお掃除されていて清々しい空間でした。深呼吸して、先を急ぎます。
 


波宝神社 (五條市西吉野町夜中銀峯山)
 2014年5月19日午前9時、「白銀岳」(しろがねだけ)の山頂にある波宝神社。修復中の鳥居をタクシーで通り抜け、参道が終わるところまで行けました。階段の奥に見える社殿は、奈良県指定有形文化財です。本殿は江戸時代1672年(寛文12年)の建立で、17世紀の特異な形式が重視されているとのこと。
 祭神は住吉大神神功皇后。古くは山麓の古田郷の氏神たる「古田大明神」、「若桜宮」とも称され、また当山で役行者が秘法を行なったとの伝承から「神蔵大明神」とも呼ばれていたそうです。
 さらに、幕末には有栖川宮の祈願所となり、1863年(文久3年)の9月7日〜10日朝にかけての約3日半、天誅組の本陣が置かれたことでも知られています。たしか去年3月に行った丹生川上中社の周辺にも天誅組の看板がありました。歴史というものはその時々で正邪が変わるので、私ごとき人間に善悪の判断はつきません。自然を見ているのと同じように、そうなのか…と思うだけです。でも知ることは大事。
 


小桜神社 (五條市西吉野町八ツ川)
 2014年5月19日午前。白銀岳を下ったところにあるコミュニティ会館の向かいにこんもりと繁った丘があります。反対側にまわったら小さな参道があり、中に入ったらこれが小桜神社でした。何となく、「若桜宮」とも称ばれていた波宝神社と関係があるのでは? と思いましたが、由緒書きなどはありませんでした。
 階段を登ると覆屋の中に小さな本殿が鎮座していました。地元の方が大切にされている場所に勝手に入り込む失礼をお詫びしつつ、次の通称「黄金岳」(526.8m)へと向かいます。
 


波比売神社 (吉野郡下市町栃原)
 2014年5月19日午前。小桜神社のある角を曲がり、ふたたび登りに入ります。中腹に波比売神社一の鳥居があって、そこから山頂まではかなり距離がありました。徒歩だったら、ここだけに絞っても時間的に無理があったと思います。「黄金(栃原)岳」の山頂にはテレビ塔(?)が鎮座していて、波比売神社への道を遮っている感じ。それで社地が狭くなってしまったのか、もともとなのか、右の画像を撮ってすぐ振り向くと左の画像が撮れました。
 境内社もたくさんありましたが、興味が無いので撮りませんでした。だいたいどこへ行っても境内社がたくさんあるのは1906年(明治39年)の神社合祀政策(一村一社)のせいですよね? 南方熊楠氏らがあれほど反対したのに各集落の氏神を一ヶ所に集めててんこ盛りにするなんて。目指せ「呉越同舟」…ですか?
 


阿陀比売神社 (五條市原町)
 2014年5月19日午前。このほどリニューアルしたばかりと運転手さんが仰った通り、拝殿とのギャップが半端でない本殿でした。去年から木花咲耶姫を研究してきた私にとって、同神とされる阿陀(田)姫は興味をひかれる存在でした。しかしながら、後方の、木花咲耶姫が産室に火を掛けて出産したとの神話にまつわる「ヒメヒカケノ森」との間に道路ができていて、すでに禁足地とのつながりはなくなっていました。この神話に基づくテーマパークを管理されている神社があるので案内しましょう、と運転手さんが胸を張って次の神社へ案内してくれました(タクシーにとっては観光地が一つ増えてよかったというノリ?!)。そもそも神社って何のためにあるんでしょうか?
 


御霊神社 (五條市霊安寺町)
 2014年5月19日午前。五條市に幾つもある御霊神社の本宮だそうです。たしかに造りが大きい。こんなに横長な拝殿(?)は見たことがありません。鳥居を入ると左手に稲荷社がありました。本殿を見ようと右手にまわると、使用済み(?)の小さな社殿が地面に置かれていました。ふう〜ん、という感じで数分以内に退散し、荷物を預けているホテルへ。約2時間(18,000円也)で吉野三山のうち二山をまわり、和歌山へ向かいました。ちなみに、残る一山は私有地を通らなくてはならないため、タクシーで行く場合には所有者に許可を得る必要があるそうです。
 


朝貴神社 (串本町出雲)
 2014年5月19日、五條市から串本市に移動。「本州最南端」の碑を目指す前に、駅から10分ほどの朝貴神社に立ち寄りました。午前中はスケジュールがタイトだったため、やっと落ち着いて演奏できそう…と、楽器ケースを開きました。場所は潮岬の反対側(東端)で、社殿に向かって右側の土手にある石段を登ると紀伊大島と熊野灘が見える位置です。独立した小高い丘にあり、岩盤で風が遮られて、とても落ち着ける空間でした。
 演奏中、たぶんいそひよと思われるきれいなブルーをまとった鳥がずっと一緒に歌ってくれていました。友人が撮ってくれた鳥の画像を見ながら、神楽歌の源流はやはり自然の中から生じたんだなぁと感じました。
 また、『紀伊續風土記』巻之七十六に、「一説『日本紀』の熊野御埼は出雲國なりともいへり」とあるそうで、だから地名が「出雲」なのでしょうか?
 


潮崎本之宮神社 (串本町串本)
 2014年5月19日は吉野熊野国立公園内の「本州最南端」の碑を見て、眺望を楽しみました!! 海の見える宿に泊まった翌朝は、潮岬灯台の方へは行かず、串本高校近くにある潮崎本之宮神社へ。本之宮というくらいなので、こちらが潮御ア神社の元宮かと思っていたのですが、違うようですね。
 潮御ア神社は、明治初年に改称される以前、潮御崎大明神御崎観音と呼ばれ、875年(貞観17年)10月の『三代実録』には三前神とあるそうです。いずれにしても「みさき」神と呼ばれていたわけですが、社殿の宝物の中に大般若経六百巻があり、その巻尾に「御埼之寶経永享六(1434)三月十三日と書す 那智山の末社なり」とあるというのです。紀伊大島の権現島に降り立った熊野神が新宮へ遷り、那智山と潮御崎がつながっている。じゃあゴトビキ岩は何なの? よもや我田引水や牽強付会などの類ではありませんよね?
 こうなると、潮崎本之宮神社とは何ぞやと思うわけですが、古社であることは間違いないようです。境内からは弥生式土器などが出土し、この「柏槇(びゃくしん)」の御神木は樹齢1,200年以上だとか。式内社「海神社三座」とあるため、祭神は住吉三神のようです。
 


稲荷社 (串本町伊串)
 2014年5月20日、潮崎本之宮神社から橋杭岩などを見ながら重畳山(かさねやま)に登りました。タクシーに駐車場で待機してもらい、てくてくと頂上を目指して歩いていたところ、曇のち雨(80%)の予報にも拘わらず、かなり湿気を含んだ晴天で同行者ともども蒸し暑さでバテてしまい、目的だった紀伊大島の全景が見えた場所で休憩。ふと上を見ると、小さな社があったので、山道をのぼってみました。歩いてきた道の前方には人家のような神王寺が見え、その先に重畳山神社があることは地図で確認していたのですけれど、頂上まで行くと時間がタイトになるため、見晴らしの良いこの場所で演奏して引き返そうということになりました。
 帰途、検索したら、重畳山は海上で現在地を知るための目印「山あて」の霊峰なので、地元の漁師さんたちが稲荷社を寄進したとわかりました。単なるテーマパークやハリボテでなくてよかった…。日射しは強かったものの、緑に囲まれて演奏していたら、涼やかな風が吹いてきました。本当に空海がここへ来たかどうかは謎。
 

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