私は高校受験で1度失敗しています。失敗といっても、熱心に勉強をしなかったので失意はありませんでした。
 ただその時のことで、強く心に残っている記憶があります。合格発表の日のことです。学校関係者から、不合格であった旨の通知を頂きました。不合格とはいえ、合否を自分で確かめようと、受験した学校に向かいます。電車を乗り継ぎ駅を降りる。徒歩で学校に行く道すがら、同じ学校から受験して合格した女生徒とすれ違いました。不合格を見に行く私は一人。合格を確認した彼女は家族との3人ずれ。そのコントラストが残像として心に焼き付いています。
 なぜその場面だけが、記憶に強く残っているのか。ここ数日、そのことが常に念頭にありました。どうもその正体は「体裁の悪さ」であったようです。体裁の良し悪し。この思いは、今日に至るまで、自分の行動指針の大きな部分を占めていました。そのことを今、先の思い出と共に理解しました。
 体裁ではなく、自分の深い願いに基づく行動。残りの人生をそう歩みたいと思います。
 子供は、よい点数をとるとほめられます。ほめられると、身体中に快いバイオリズムが生まれる。そしてもっとほめられようと勉強をします。そこに弊害も生じます。他人の評価によって、おのれの満足度を測っていくことです。体裁を大切にするという体質です。
 先月、教育改革国民会議の最終報告が発表されました。気になった部分は奉仕活動です。いわく「思いやりのある心を育てるためにも奉仕活動をすすめること」。これはくせ者です。奉仕活動を否定はしません。しかし思いやりは自発的な感情です。その思いやりを強制される。また奉仕活動はそれだけで善人顔をしています。だから奉仕活動イコール善いこととなりがちです。個人の思いを離れて、政治が善いことを決めていく。その善いことが、受験合否の参考なるとなればこれは最悪です。まずはボランテイア精神を育み、自発的に行動できる環境を整えることが先決です。

産経新聞 夕刊コラム 「語る」(1996年7月より連載

01年1月17日 タイトル「受験」 サブタイトルー体裁でない自発的な行動をー 

2000年1月〜12月 コラム

01年2月13日 タイトル「光る海」 サブタイトル 物から光が失われたとき

 私は島根県に生まれ、幼児期より千葉県に育ちました。記憶の最初にある海の思い出は、六歳の頃行った館山(千葉県)です。
 その時の思い出は、数枚の写真のように場面だけが残っています。遊んでいたビーチボールが、沖合に流されました。途方に暮れていると、ひとりの青年がきて、タイヤチューブの浮き輪に乗り、ボールを海から取り戻してくれました。ボールを追いかける青年の姿が、光る海の中に、だんだん小さくなる残像として残っています。ボールがそのまま沖に流されていたら、あのビーチボールは、私の記憶には残っていないのだと思います。そう価値のないビーチボールを、沖合まで追いかけてくれた。光る海と共に、印象的に私の心に焼きついています。
 小学校低学年。あの頃は一つ一つの物が不思議と脳裏に残っています。父が使っていた上から覗く式のカメラ。初めてわが家にきたテレビの形。自転車。仏壇等々。一つ一つの物が、光りを放っていたようです。
 物から光が失なわれたのは、いつ頃からでしょうか。それは昭和何年ではなく、比べて物を考える知性が身についた頃からだと思います。おそらく青年に見えたあの人も、ビーチボールに光を感じとれる年頃だったのかも知れません。
 子どもにとっていい経験とは何でしょうか。二〇年前、次のような統計を読んだことがあります。それは名をなし功をおさめた百人の少年時代の統計です。その半数ほど人が恵まれない境遇でした。同時に、刑務所に入所している百人の人の統計も紹介されていました。結果は同様に半数が恵まれない境遇でした。境遇の良し悪しより、もっと大切なものがあるようです。
 子どもの頃の体験は、どんな体験であっても貴重な体験です。その体験に関心を寄せてくれる人がいる。それが重要です。これは子どもだけの話にとどまれません。ありのままの自分に評価することなく関心を寄せてくれる。あのビーチボ−ルに関心を寄せてくれた青年から、もっと学ぶ必要があるようです。

次回は 01年3月13日 タイトル「石畳」 サブタイトルー尊い行為を尊いままにー

「関西風水害罹災学童碑」解説

昭和9年9月21日早朝、四国室戸に大型台風「瞬間最大風速60m」が上陸。室戸台風」の名で呼ばれているこの台風は、室戸岬から近畿地方を縦断して日本海に抜けたが、京阪神を中心に死者行方不明者あわせて3066人、負傷者15361人、建物の損害475634棟に及ぶ惨禍をもたらした。

特に大阪府を中心に小学校や中学校の校舎倒壊があいつぎ、このため小学生を中心に多数の死傷者が出たが、同時に児童生徒を助けようとした教職員にも犠牲者が続出した。大阪府豊能郡豊津尋常高等小学校「現・吹田市立豊津第一小学校」でも、木造2階建ての校舎が一瞬のうちに倒壊し、51人の生徒が死亡、200人が重軽傷を負い、二人の女教師が殉職するといういたましい状況となったが、このとき殉職した女教師の一人、横山仁和子先生は、京都女子大学の前身である京都女子高等専門学校の卒業生で、数えの26歳の若さであった。

横山先生は、轟音と共に崩れ落ちる校舎の中で、逃げ遅れた三人の学童をかばって咄嗟に抱き寄せ、自らの命と引き換えに、身をもって三つの幼い生命を守ったのであった。

この室戸台風でとおとい命を失った児童生徒および教職員を悼んで、翌昭和10年9月21日には大谷本廟で一周忌の追悼法要が営まれ,あわせて「関西風水害罹災学童碑」の除幕式が行われた。この碑は、日曜学校関係者を中心にひろく寄金を募って建立されたものです。


産経新聞夕刊コラムは01年4月より宗教のページが週1度となりました。
コラムがどうなるのか、現在のところ不明です。01年3月30日現在

 大谷本廟は京都・東山五條にあります。浄土真宗の開祖・親鸞聖人の廟所です。
 山門をくぐり、めがね橋を渡り、石畳の坂を上っていくと、右手に小さなレリーフがあります。そこには二人の子どもを抱え込むように抱きしめた女性の姿が刻まれています。
 昭和九年九月、四国室戸に超大型台風が上陸しました。近畿地方を横断し、死者行方不明者三〇六六人。特に大阪府を中心に小学校や中学校の校舎の倒壊があいつぎ、特に小学生を中心に多数の死者を出しました。現・吹田市立豊津小学校でも木造二階建の校舎が倒壊し、五十一名の死者を出しています。
 レリーフの主はこのときに殉職した横山仁和子先生の姿をうつしたものです。轟音とともに崩れ落ちる校舎の中で、逃げ遅れた三人の学童をかばい、とっさに引き寄せ、自らの命とひきかえに三つの幼い生命を守った。数え年二六歳。本願寺の学校出身者であったことから、ここにレリーフが設置されたと聞きます。
 さて、ここまで書いてきて筆が止まりました。美談を素直に喜べない何者かが私の中にあるようです。これは時代の変転の中で美談を利用されてきた日本人のトラウマか、マスコミに扇動され続けている社会への不信なのか、美談を善い行為とレッテルを貼ってしまうことへの危惧です。
 先の横山先生の尊い行為だと思います。尊い行為なればこそ善悪の土俵におろさず、尊い行為のまま大切にしたいという気持ちがあります。
 過日、ジャータカという仏教説話集を読みました。動物たちの自己犠牲によって他を救う慈しみの行為が幾編ともなく登場します。本を読みながら、ふと慈しみこそ仏の正体であるという思いを持ちました。仏は過去、無数にこの世に出現したとお経にあります。慈しみこそ仏さまの正体だとすると容易に頷けます。
 横山先生の行為は、ジャータカのように善悪の手垢を付けず、事実を伝えることが大切です。人はその逸話に、頭の下がるものを感じていくのでしょう。

関西風水罹災学童碑 レリーフ

左側が頭部です

1999年 1998年 1997年

 

「脱常識のすすめ」
(探求社刊)800円
として出版されました。