仏事には何か意味があるだろう、と、それが了解できないと無意味だ、と思っている人は多いでしょう。儀式に流されて、意味がわからん、と怒っている人もいるでしょう。ここでは、これら仏事全般について、簡単に、南福寺流で答えさせて頂きます。

 仏教は、ご存知のようにインドで興りました。2570年ほども前の事です。開祖のお釈迦様によって広められたこの教えは、インドの風習を持っています。そこには、インドの価値観があります。例えば、お盆のそもそもは、インドの乾季と雨季の境の行事です。だから、お盆は、7月か8月です。さあ、それから、仏教は、シルクロードを旅して、中国に入りました。そこで、仏教は、位牌を持つようになります。つまり、中国化された仏教になるのです。儒教の影響だと申します。そもそもおシャカさんが、お位牌を持って御先祖様を祭りなさい、と勧めてはないのです。そうやって、日本に仏教がやってきます。しかも、漢文のままで翻訳作業もされないまま、日本は仏教を受けとめていきました。
 そうやって考えますと、仏教の意味自体どこに本当があるのでしょうか。2570年前が本当で後は嘘なのでしょうか。そうではありません。なぜなら、国境を超え時代を超える事で、仏教が世界宗教となりうる包容力をつけ、普遍性の教えを作っていったのですから。
 ここでは、
仏事の意味付けは、変わっていくもんだ、というあいまいな姿勢で今の南福寺の考えを述べさせて頂きます。
 では、そういうけど、ホントの事はなんなの? となりますよね。
それは、
あなたの心です。あなたの心次第です。当てこすりのような、非科学的な内容でも、あなたの魂にうったえる事があったなら、それが真実です。誰にも奪われない、何にも比べられない、非難される事もない宝を持ちましょう。
 この秘伝帳の五では、そのところも含め、話を進めて行きたいと思います。

       目 次

一、仏事そのものの意味。       ― 生きる意味、死ぬ意味 ―

二、日常のお勤めの意味。       ― 仏壇の中から ― 
     
三、お葬儀の意味          ― いかに別れるか ―
       
四、お年忌法要、法事の意味     ― 追慕する ―       

五、最後に。  
                             以上         




 
一、仏事そのものの意味  ― 生きる意味、死ぬ意味 ―
           
 南福寺の宗派は、高野山真言宗といいます。広くは、真言密教、密教といわれる仏教なんです。そこで、密教の他の仏教と異なる点は、神秘性といわれます。 例えば、お釈迦様は、自分の心を自分で制御でき、状況によって流されない自分を作る事を大きな目的としました。そのために、戒律を厳守した修行を課して自身を見極める事を第一義としてゆくのです。ですから、その修行の途中で得た不思議な力、神通力を否定しています。その当時、主流であったバラモン教のように、供物を供え、お祈りの見返りに、祈願を成就させる事を出家者に禁止しています。唯一、歯痛を直す呪文だけ、使用を認めていたようです。しかし、この呪文等の意義を昇華させ、不思議な力といわれる事を積極的に認め、表現したのが、密教、真言宗なわけです。  でも、急にこの密教が誕生したわけではありません。原始仏教のお釈迦様滅後、600年ほどたって、お釈迦様の伝えたかったことは、「慈悲」ではないのかと、とらえ、その慈悲には、さまざまな手立て、「方便」をもって、あらゆる人々に分かち合おうとする動きがでます。大乗仏教というものです。仏像一つにしても、お釈迦の像だけでなく、観音様、阿弥陀様、文殊様、地蔵様、大日様と各々の性格をもった仏様が現れます。そして、救われる対象にしても、だんだんと、女性でも、子供でも、どんな罪を持った人でも、救われてゆくのだ、と範囲が広まります。以前は、救われるのに戒律を守り、布施をして、と条件があったのが、あなたが、この世に生まれて来たこと、そのこと自体が、あなたに仏の種があり、救われ成仏できるんだ、というように変わっていきました。すると、密教では、さらに人間だけでなく、森羅万象・宇宙全体は、同じ魂で通じ合い、全ては仏の世界として「慈悲」のあふれる世界であるといいます。例えば、東大寺を建立した行基菩薩というお坊さんが、こんな歌を読んでいます。

「ほろほろと 鳴く山鳥の声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う」

これは、修行中に生駒の山で詠まれたともうしますが、山鳥の声を聞いた時に、「あれは、父ではないか、母ではないか」と偲ぶ思いを詠じたものです。鳥の声に、父母を感ずる感性は、密教といわず日本古来の感性であるのかもしれません。 お大師様は、甥であり弟子でもある智泉大徳が亡くなった時に

「阿字の子が 阿字の古里立ちいでて また立ち帰る 阿字の古里」

と詠じています。阿字とは、生命の泉、宇宙の根源、大日如来ですが、私たちの生命は、すべてこの阿字から生まれ出でる魂を因とし、父母を縁として、この世の中に誕生するのです。しかしながら、縁の集合である肉体が滅んだとき、魂は、再び古里である阿字に帰ってゆくのです。決して、私たちは、ぽつんと生まれてきたわけでなく、一人行く当てもなく死ぬのでもないというのです。すると、この世の中にあるもの全ては、この阿字から生まれてきたものであり、形、姿、などなど違っても、全てが通じ合っている仏の国の出身だというのです。密教とは、このように森羅万象に仏性を見出し、その仏性を以って互いに働きかけ合いこの世界、宇宙があるのだという宗教なわけです。 【大地、海、水、火、風、空、光、山、、樹木、など】の大自然、【鳥、魚、動物、など】の生物、【文字、声、文章、など】の意図して願いをもって創造された物、全部の造形物も同じく阿字の古里から出てきたものであるのです。

 このように、私たちは、父母から生まれてきました。これは、事実です。しかし、私たちは、生命の根源から生まれ出だしたものであり、大日如来を古里とするのです。死もまた、肉体が滅びたら死滅するのですが、魂は、大日如来の古里へと帰って行く身であるのです。私たちに人間という生物は、仏という大きな慈悲の現れであると知ってください。密教の生と死の考え方をまず理解してほしいのです。

 話が長くなってます。そこで、仏事です。私たち人間が、そういう意味合いでこの世にあるのです。では、仏事はどうかというと、やはり、同じことなのです。仏事の器具、作法、用品、全てが、仏の現れであるのです。密教では、
即事而真(そくじにしん)といういい方で、この世の現象は、すべてが真実である、と説くのです。お大師さんは、このことを強調されていました。

ですから、私たち活動の表現である身口意をただ、欲望にまかせているのではなく、仏の身口意の活動の表れなのだ、と思えば、他人のこと、自分のこともずいぶんと見方が違って来るものです。この身口意が、人間の欲どおしい活動の面からいえば、三業(さんごう)といい、仏の活動の面からいえば、三密(さんみつ)といいます。同じ活動の表現である身口意ですが、使い方、心根次第で違うのです。

身(しん) = 行動、行い、立ち居振舞い、手で結ぶ印(合掌など)
口(く)  = 言葉、語ること、お経を読むこと、
意(い)  = 思い、念ずること、思い浮かべること、

ここから即身成仏の教えも出てくるのですが、今回のテ―マからすれば、私たちが、感じる感性、行う意識を変化させることで見るもの、聞くもの、行うこと、しゃべることが、仏事となって行くのです。
最初に言いましたように、私たちの心次第、で仏事は成り立つのです。
「いわしの頭も信心から」と申しますが、そういいきれることが仏事であっていいのです。
ほんとも、迷信も、非科学的なことも、全部ひっくるめて仏事となって行くのです。



二、日常のお勤めの意味  ― 仏壇の中から ― 

 「仏事秘伝帳 その一 おまつりのし方」もご参照ください。


仏壇 お寺の出張所です。仏様、御先祖様との交流の場です。交信するところです。 仏様やご先祖様が、霊界から降りてきて宿ってくださる場所です。
位牌 魂の依りしろです。魂が頼るところとしてあります。名前が書いてある「さお」の部分が特に大切です。
仏様 仏壇にある仏様は、そのお家を守り、仏壇の位牌などの霊魂を鎮めます。お寺にいるように仏に対して礼拝します。
お水 布施をすることです。布施とは、金品のお供えだけではありません。水の徳であるあらゆる命を育むことから、親切な心を養うことを言います
お茶 霊魂や仏は、香りを食するともうします。そこで、お茶の香りを供えます。お盆などは特に、お茶を湯気の出ているうちに速く取り替えて香りを供えるようにするものです。
お花 忍耐を表します。お花を供えるとこの上に霊魂がのかっているともいいます。花が拝む人側を向いているのは、花の姿を見て笑顔で忍耐強く生きることを意味します。花は、自分で咲く所を選べませんが、だれからもほめられもせず、自ら一生懸命に咲きます。そのいのちをお供えし自身に潤いを与えるのです。
線香 コツコツとした努力をいいます。線香は、急に燃えません。仏の食する香りをじわじわとお供えするのです。また、お香の清涼感が、私たちの心のざわめきを落ちつかせてくれます。
ご飯 落ちつきある精神をいいます。ご飯の湯気を、仏が食すると申します。食事をいただくことで神仏や作ってくださった方に感謝申し上げることもあります。それと、欲望にまかせたがつがつした生活より、今頂ける事に感謝しましょう。
灯明 光は、道しるべです。智恵を表します。迷いある生活ですが、そこに何らかの光明があればそれだけで安心するものです。その光は、足下を照らす光。将来の光であるより、自分自身の足下を照らし、自分は今、どこに立っているのか、誰のお蔭で立っているのか、を知るためのものです。己を知るための光であり、己を知ることで生活の工夫=智恵が湧いてくるものです。


以上の「お水&お茶 お花 線香 ご飯 灯明」は、お釈迦様が説かれました私たちへの修行、六波羅蜜(ろっぱらみつ)といわれるものです。布施の行、智恵の行、などを仏壇でさせて頂くのであります。


お勤め 朝のお勤め、夕のお勤め、寝る前のお勤め、など日に一回はしたいものです。でも、仏壇の前でお経を読んでどうなるのでしょうか。お勤め自体は、私と仏や先祖とが交流するものです。あなたの心をお供えしているのです。仏や先祖が、見て感じているのはあなたの心の想念です。心の思っていることが伝わるのです。ですから、お供えを整え、お経と唱え、雑念をなくし、自分の正直な心をお供えするのです。お勤めでお願いをすればいいし、怒ればいいし泣いてもいいし、ざわざわした心でも構いません。それをそのまま解ってくださいますから。悪いことではないのです。心の置き場所であることを解ってください。
念珠 これは、仏の誓願を表しています。私たちを救うんだ、という願を表しています。大きな珠は、阿弥陀様。108の小さな珠は、煩悩を表してます。そして、この煩悩を昇華して、仏に救われる段階をも意味します。そもそもは、真言の唱えた数を数えるためのものです。
袈裟 お坊さんの黄色の装束を見たことあるでしょう。150センチ×120センチ広さの布です。これは、お釈迦様が定めた仏教徒の印なんです。ところが、中国で廃仏毀釈(仏教弾圧)があったとき、当時のお坊さんは還俗(俗人にもどること)をさせられましたが、袈裟だけは捨てきれず、細長く折りたたみ、マフラ―のようにして首にかけたのです。それが、今ある輪袈裟のはじまりです。首にかける袈裟なわけです。


手と手を合わすことを合掌と言います。「手と手のしわを合わせて『しわあせ』」と言うのはどこそかのCMですが、何がしかの意味がありそうです。そもそも、手の指には大きな意味があります。

父さん指 = 空(束縛のない大空のようなもの)

母さん指 = 風(自由な活動性や動きあるもの)

中指   = 火(熱があり燃焼するもの)

薬指   = 水(無垢にしてものを育むもの)

小指   = 地(骨子となる固い性質のもの)


また、右手と左手とで意味があります。

右手    = 仏さまの仏界
左手    = 私たちの衆生界


このような両手の意味から次のような歌があります。「 右仏 左は我と 合わす手の 仲ぞゆかしき 南無の一声 」かくして、合掌と言うのは、仏と我等が一体となっていることを表しているのです。心して手を合わしてみましょう。一体感を得られるものです。また、指のそれぞれの意味合いから仏像が結んでいる手の形ができているのです。これらの結んでいる手を印といって、その印は、仏で各々違っていて、救済の誓願を表しているのです。注意してみると、それぞれの仏様の手の形が違うのが気づくでしょう。
合掌
礼拝 お勤めの前に三度礼拝します。これらのし方は、「仏事秘伝帳 そのニ お勤め、お参りの仕方の巻」をご覧下さい。三回するのは、「一に仏様 二に仏さまの教え 三に教えを信ずる人々(信仰の友)」に対してだといいます。インドの習慣で、尊い方に合った時、その人の前でぬかずき、その方の足を自分の両手に頂いて礼拝したと申します。その形が伝わっています。
お供え さまざまなお供えがありますが、これは、仏や故人が召し上げって下さる、という気持ちで致します。眼前に故人がいますが如くにお供えすればいいのです。
打ち金 これは、仏や先祖を驚がくするものです。仏や御霊は静かに仏壇内に座っています。そこでいざ、お勤めをするときは、金を鳴らし、驚かして、これから行うことを知らせるのです。また、お経の区切り区切りでも金を打って区切りをつけます。
読経 声を出してお経を読みます。読経は、経典を開き、文字を見ながら読むと意味も解っていいですよ。暗誦するにしても、声を出すことに意味があります。逆にいえば、読経は、観想をする瞑想のように無言ではいけないと思います。声は、自然の響きです。仏の言葉です。ゆっくりと大きな声でお唱えすれば、無心の境地が得られるものです。
 


三、 お葬式の意味  ― いかに別れるか ―

 この部分は、「仏事秘伝帳 その三 お葬式の心得えの巻」にもございますのでもう一度ご覧下さい。
 
葬儀 先にお大師様の歌でご説明しましたように、私たちの生命は、古里を持ち、古里に帰る身の上です。そこで、死という厳粛な場において行われる葬儀というのは、「別れ」と「旅立ち」を意味します。死は、この世から肉体とあなた自身がなくなるのですから、その別れをします。もう、この世とさよならするのです。それから、あなたの本来の生命となって、旅立ちがはじまるのです。このように、仏の国への旅立ちであるのですが、古来より、死ぬ人への恐怖感、黄泉の国への畏怖感があり、この死を遠ざけたいと、する風習もあり、考えようです。
引導 葬式中、導師が行うことは、引導です。この引導は、やはり、故人に対して、もう死んだのだから、この世へ未練を残さぬよう、また、本来の魂に気がついてもらうようにお祈り致します。そのために、生前の名前と違う名前=戒名を授けます。また、おこぞり(剃髪=坊主にする)をして、お坊さんのようになって、心静かに、自分の心や魂をつかんでもらう、ことをするのです
白木位牌が二本 このように戒名は、葬儀中に導師が故人に渡します。そこで、白木のお位牌が二本あります。一本は、お家にもって帰るもので、もう一本は、野辺位牌と申しまして、以前土葬の時代に、埋めた土饅頭の上に位牌を置いていた風習の名残です。現代では、一本は、家の祭壇へ置いて、一本は、お寺がもって帰ります。
死に装束 これは、あの世に行くための服装です。主に、白衣を用います。経帷子(きょうかたびら)といいます。仏の国に行くのですから清浄な服装にします。しかも、旅姿です。手甲、脚半、わらじを使用するところもあります。でも、今は、浴衣や故人の一番似合う服になっていますね。白衣は、左前にしますが、これは、普段と違う死を忌む気持ちの風習です。あと、足袋を逆さにしたり、裏返しに着せたりすることもその現れです。三角の頭巾をするところはもうないですね。これらには、実際上、こだわらなくていいです。
六文銭と
(ずたぶくろ)
 
頭陀袋
死装束の一つです。六文銭は、お釈迦様の定めた私たちの六つの修行(布施・戒・忍耐・精進努力・精神統一・智恵)を表します。この修行をしてきましたよ、ということで、三途の川の渡し守にこのお金を渡すといいます。このお金を入れるのが、頭陀袋です。托鉢して行く時にいただく金銭(喜捨)をいれる袋です。
神棚をふさぐ これは、死を神様が嫌うといったところからあるようで、神棚に白紙を張って目隠しします。神様のことだからわかりませんが、やはり、死を忌み嫌う現れです。
北枕 これは、お釈迦様が、最後お亡くなりになったとき、北に頭を向け、右脇を下にして休まれたため、この故事に習い、北枕なのです。
枕経 なくなられてすぐに伺い、となえるお経のことです。魂が、死んだことを理解できてなく、迷うことを防ぎ、先祖、御仏ぼご加護がすぐにいただけますように、早口でお祈りします。
お通夜 ともに過ごす最後の晩です。夜伽(よとぎ)といいます。ですから、家族親族で故人との別れを偲びます。
葬儀のお供え 魂には、まるで感覚器官によって認識できるような性質があります。ですから、死んだばかりの人の為に次のようなお供えをするのであります。これらを枕飾りともいいます。
お茶…魂は、湯気を食しますから、熱く湯気が出るように気をつけます。
線香…これも、香りを食しますから、切れないようにします。
灯明…ここに遺族の私たちがいるよ、という合図ですから消えないようにします。
饅頭…これは、白玉で49作る地方があります。博多では、今、あまりされていません。これは、死後49日間かけて旅する魂が、毎日あの世でお会いする仏様にお供えするように、49個の白玉を持ってあの世に行くのです。
お花…一輪挿しの、白菊をお供えします。花の功徳を、故人一人に向わせる為に一本です。だいたい菊ですね。
ご飯…これも故人は、香りを食するのです。しかも、香りが故人一人に行くように、箸を一膳立てまして、香りが一人に行くようにするのです。
焼香…これは、式中、別れの焼香といって、一回だけします。普段は、三回です。
焼香…これは、式中、別れの焼香といって、一回だけします。普段は、三回です。


出棺の釘打ちと茶碗 出棺の際、お棺のふたを釘で打ちます。今はしないようになってきてます。これは、やはり、別れの儀式かと思います。それと、霊柩車が出るときに、故人の茶碗を割る風習があります。これも今はしません。こらは、死後の世界から戻ってこないように、という忌む気持ちでしょう。釘打ちもその気持ちかもしれません。
拾骨
(骨ひろい)
この時、渡し箸というやり方で、一人の人が、長い箸で骨をつまみ、それを箸から箸でつまみながら順に骨を運び、最後に、骨壷に入れます。みんなで死を悼み、その人の意思を継承する意図があると思います。
清めの塩 火葬場から帰って、家に入る前に、塩を撒き、手を洗う風習があります。これも、死を忌み嫌い、死の気を家中に入れないようにする習慣です。前もいいましたように、死は、仏の国への旅であり、忌み嫌うものではないはずですので、別にこだわることはありません。やたら、塩を撒くことはありません。
七日七日の法事 初七日、二七日、三七日、〜七七日の法事を言います。一週間おきの法事です。昔の人は、時間を掛け算で言ってました。四六時中というのは、四×六で、二十四時間、つまり、一日中ということをいってます。このように、初七日も、一×七日です。四七日は、四×七日でニ十八日目を意味します。こうして、七七日の四十九日まで、一週間に一度法事をします。これは、死後の魂は、四十九日をもって次の生に生まれ変わるというからです。
そもそも、阿字の古里である浄土へ行くことは、輪廻解脱(りんねげだつ)といいます。同じ苦しみをしないことです。葬儀は、この故人の輪廻解脱を祈るのです。ところが、死後に、自分の生き方が業(ごう)となって、さらに生まれ変わってしまうことを輪廻といいます。この世に生まれている、今の私たちは、つまり、輪廻しているのです。



このような輪をぐるぐる回って姿を変えているのが魂の有り様でもあります。四十九日目になりますと、この六つの門が現れまして、私たちは、自分の意思でこの六つのうちのどれかを選んでしまうのです。しかし、四十九日までに本来の生命に気がついたときに、浄土へ行くわけです。この本来の命に気がついてもらうために、裁判官と仏様がいらっしゃいます。その裁きと説法が、一週間ごとにあるのです。法事は、このためにあります。

日にち 裁判官 仏様 状況
初七日 七日目 秦広王 不動明王 黄泉の真っ暗な路をとぼとぼ歩く
二七日 十四日 初江王 釈迦如来 裸にされ三途の川を渡る
三七日 二十一日 宗帝王 文殊菩薩 邪淫を調べます
四七日 二十八日 五官王 普賢菩薩 行いと言葉を調べます
五七日 三十五日 閻魔王 地蔵菩薩 閻魔帳で生前の行いをチェック
六七日 四十二日 変城王 弥勒菩薩 さらにチェック
七七日 四十九日 泰山王 薬師如来 六つの門が現れて選ぶ
 
このようなことから、最初の初七日と最後の七七日のご法事大切です。

中陰 七七日のことを中陰(ちゅういん)といいます。これは、魂の姿の様子から言っているのです。


この繰り返しも輪廻の言い方です。本有に、先の六っの世界(地獄。餓鬼など)があるのです。 
そこで、ここで有と言うのが出てきますが、これは、色・受・想・行・識の五つをいいます。般若心経にも出てきますね。これらは、外界を認識することをいってます。これらを五蘊(ごうん)とも五有とも五陰とも言います。魂だけの間の、中有は、中陰ともいわれ、この四十九日を中陰というのです。特に、四十九日目の法事を満中陰というのは、四十九日が満ちましたよ、という意味で使います。





四、お年忌法要、法事の意味  ― 追慕する ―


これも、秘伝帳のその四 お年忌法要心得の巻 を合わせてご覧下さい。

お盆 お盆は、初盆としては、その方のみを祭る行事です。普通のお盆は、御先祖様が、実際に、我家にお帰りくださるお祭りです。盆踊りも、帰ってくる精霊を慰めるための踊りであったのです。
角提灯 これは、お盆の時に、私の家はここだよう、と精霊に知らせる印です。
迎え火・
送り火
れは、本来お墓に灯明をつけ、その火を提灯にいただいて、仏壇のロ―ソクにつけて、御霊が起こし下さった、としたのです。しかし、今は、玄関先で麻がらを燃やして、魂を招き、そして、その炎で線香やロ―ソクをつけて、迎え火とし、逆にして、仏壇の火で麻がらを燃やし送り火にします。送迎の意味ですね。
お年忌法要 この年忌法要は、一周忌、三回忌、七回忌とありますが、なぜそうなのかは、解りません。七回忌以降はは、日本で作られた風習です。しかしながら、故人のために集まり偲ぶことは、今ある自分を省み、先祖・故人への感謝の気持ちを持ち、生命が連綿と流れる営みに、仏への感謝の念を養い、私たちの人生の糧となることかと思います。
おりょうぐぜん
お霊具膳
お年忌法要には、そんなに取りたてたお供えはいりません。特には、お霊具膳をしつらえます。ままごとのようなお膳です。これは、故人、先祖に食べて頂くものです。いますが如くに、食べられるものをお供えします。お好きなものならいいのではないでしょうか。
お墓参り  お墓や納骨堂をお参りします。なぜ、お墓にお参りするのかは、世界でも日本や朝鮮半島に有る文化で特別です。そもそも魂といえば、浄土いると観念していますが、実際に、その魂を偲ぶ時、故人そのものである遺骨を礼拝することで、一層の追慕の念がおこります。墓参りをして、故人に語りかけ、今の自分の状況を考えるのは、仏壇と違って、より身近な感覚でできるのでないでしょうか。お墓参りは、自身の依り所として、意味付けできるものの、とても感覚的なものが理由であります。
お墓 お墓自体は、単に遺体の収めたところという印では有りません。というのも、お墓に収めることで、さらに故人が、満足し、後生が安楽であるように意図されているからです。そこで、吉相墓というお仕事も出てきますが、こだわることは有りません。大きくは、遺骨が大自然に抱かれて、自然に帰りこれが、御霊にも安楽であるように意図されています。例えば、五輪墓というのがあります。墓の考えを一番表したものです。



このように、お墓は、宇宙を表す表示でして、この中で遺骨が休まれることをもって、この世に残した遺骨が、崇高な宇宙観と一体となることで、骨もまた真実として、私たちの魂もさらに安らかであることを念ずるのです。
(とうば)
塔婆
法事の際に、塔婆でおがみます。この塔婆は、先の五輪墓を木に形どってまして、成仏の糧とするのです。
ただ、塔婆には、地水火風空の5つの文字を表に書き、識を裏に書きます。これらの文字は、梵字(インドの文字)で墨書しています。
 これもまた、真言宗の大きな特徴でしょうが、最初に言ってましたように、即事而真(そくじにしん)の教えは、ここに根拠ができてきます。地水火風空の五つは、地上世界の物質です。しかしながら、そこには、識という魂がこもっていると、いうのです。ですから、人間が魂を感じるように、無機物の物質にも精神があるのです。心があるものも、ただの物質も共に、大切な仏の表れなんです。だから、肉体の手の指にも地水火風空の五つが宿っているから、指を合わせ合掌すれば、仏と通じ合えるのであります。
 このようにして、塔婆で法事をしたり、施餓鬼法要で供養したりすることで、御霊に本来の生命を察知してもらうのであります。
焼香 葬儀もそうですが、仏事には、焼香がつきものです。神事には、榊の奉納があるようにです。これは、霊魂が香りを食する、という教えからきています。お香には、いろいろな効用がありますが、霊魂をくようするのに実際に使用しています。むろん、お線香でもよいことです。



五、最後に

 
 ところで、行儀の悪い話なんですが、扇風機がありますよねえ。あの扇風機のスイッチを入れたり切ったりするとき、どうしてます? 私は、しゃがむのが邪魔臭いものだから、ついつい足の指で、パチンとしてしまいます。なんか扇風機に悪いなあ、と思います。
 別の話で、まだ、小僧なり立ての時です。これまた、行儀の悪いことでお恥ずかしいのですが、お寺の便所でですね、私は、小便しながら痰を便器に吐いたんですな。いままで躾もなにもないので、何も恥らってなくやってました。すると、兄弟子から、ギャフンとやられまして、まあ、その後、便所掃除をせっせとさせられたのですが。兄弟子の曰く、「便所の神様を知らんのか。小便大便を取ってもらっている上に、痰まで吐くとはなにごと!」としかられました。その時、私は、ポカ〜ンとしてました。何言ってんだろう、と。しかし、便器は何も言わないけど、まじまじと掃除をしていると、唾を吐く気になれなくなりました。

 どうでしょうか。この世にあるもの、全てが仏様。曼荼羅浄土は、この世のこと。それを知らずに、我欲を充満させて、物質の浪費、食事のグルメ、ブランド志向の価値観、自分を満足させるためだけの自然界、というふうに無節操になっている気がします。
 また、ひるがえって考えますれば、このような欲望を持つに至るのは、人間の魂が傷ついているからです。疲れて、被害者の気持ちが一杯なんです。そういう感情に歯止めと転換をもたらさないと、自らを結局傷つけることになるのです。いや、すでに、自分を傷つけてしまっているのではないでしょうか。
 
 ユ―ミンという歌手がいます。彼女の歌に「目にふれる、すべてのものはメッセ―ジ」という歌詞があります。心の窓を開いて、家族、知人、自然、環境に接すると、あなたに何かのメッセ―ジが送られてきている、というのです。そうですね。即事而真(そくじにしん)。今の現象には、全ての真実からのメッセ―ジがこめられています。仏からの思いが、あなたに届いて欲しいと思います。
 仏事は、まさに、そういう世界であると思います。お大師さんの教えは、かくも壮大ですな。
どうでしょうか、今までの説明で、少しは、仏事に対する気持ちが変わって頂けたでしょうか。
 長くなりましたが、これではまだまだ不充分ですね。儀式の意義解説を通して、お大師さんの教えにふれてもらったのですが、お経、真言の解説ができていません。

◎ お経・真言の意味はまた後ほどに

 
                   仏事秘伝帖 その五
                           仏事その意味の巻                                           終わり


 2002年秋彼岸中日法要のために記す。南福寺伝なれば、他見を好まず。よくよく質疑問うべし。
誤記、誤解釈、一人よがりの越三摩耶の罪に恐れるのみ。本尊倶利伽羅不動明王、末資が微意を照覧したまいて、これを目にする人を導き給わんことを。
                                              南福寺住職 渡辺弘敦  合掌         


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