オーストリア・ハンガリー2重帝国
普墺戦争の敗北によって、オーストリア帝国はドイツ民族の盟主の座を失い、ハプスブルク帝国は分裂の危機を迎えた。シシィはハンガリーに自治権を認めて帝国の分裂を防ぎ、緩やかな連邦によってハプスブルク帝国を維持すべきだと皇帝に進言した。皇帝は始めハンガリーへの譲歩を渋ったが、帝国保持のためにはハンガリーの自治権を認めざるを得ないと決意した。67年ハンガリー王国の独立を認める。ただし、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ね(つまりフランツ・ヨーゼフひとり)、ハンガリーが独自の国土と首都を持ち、内閣と議会を運営。外交、財政、軍事をオーストリアと共有する「アウグスライヒ」が成り、オーストリア・ハンガリー2重帝国が成立した。オーストリアとハンガリーはライタ川を境界に内ライタニアと外ライタニアに分かれ、ハンガリーの初代首相には穏健な民族主義者ギューラ・アンドラーシ伯爵が就任した。これによって多民族国家ハプスブルク帝国の瓦解は食い止められたが、ハンガリーのマジャール人以外の民族、チェコ人やクロアチア人、ルーマニア人、なお残るイタリア人などには自治は与えられず、オーストリア、ハンガリー両政府が異民族を引き続き統治することには代わりなかった。
67年6月8日ハンガリー国王の戴冠式がブダで行われた。聖シュテファン教会で皇帝は、アンドラーシからやや傾いた十字架を飾ったハンガリーの王冠を受け取り戴冠した。続いてシシィの右肩に王冠が置かれハンガリー王妃としての戴冠が行われた。ハンガリー軍元帥の制服を着た皇帝は、馬に跨り小高い盛り土の上で剣を抜き、東西南北の虚空に十字を切って即位の儀式を行いハンガリーの王位に就いた。シシィが大聖堂を出るとハンガリー人の「エルジェベト万歳」の声が上がった。戴冠のミサ曲を作った作曲家のフランツ・リストは「これほど美しい王妃を見た事が無い、王妃は天の幻のようだった」と手紙に書いた。皇帝はこの日のシシィの肖像画を描かせると宮殿の執務室に掛けさせた。12日皇帝とシシィはハンガリーを後にした。6月、皇帝の従妹マチルダが不注意から大火傷を負ってしまった。マチルダは観劇で出かける身繕いをしていて煙草の火が衣服に燃え移り、火傷に苦しんだあげく7月6日に死去した。
メキシコ皇帝マクシミリアンの最後
6月26日ごろ皇帝とシシィの元へ悲報が届いた。6月19日メキシコ皇帝マクシミリアンが共和派に銃殺されたという。ナポレオン3世のメキシコ帝国建設の野望によって帝位を受けたマクシミリアンだが、メキシコに着いてみると共和派と帝国軍の内戦は凄惨を極め、双方ともに残虐行為を行い住民は恐怖に脅えた。メキシコ帝国を認めない大統領ベニト・ファレスはマクシミリアンの対話要請を拒否してカトリック教会を襲撃し、僧侶・信徒を虐殺した。フランソア・パゼーヌ将軍の率いる帝国軍のフランス外人部隊と現地人のメキシコ国民軍は、僅かな地域と拠点を保持しているだけだった。マクシミリアンは現地の情勢を好転させようとしたが次第に政治への関心を失い。首都メキシコ・シティの宮殿を改築し、クエルナヴァに離宮を建設し豪華な晩餐会やオペラ公演を行わせた。代わって妻シャルロットが宮廷行事や政治問題に取り組む。65年4月隣国アメリカで南北戦争が終わると、アメリカ大統領ジョンソンはメキシコの共和派を公然と支援し、軍事物資を援助した。一方のフランスは軍事費が増大するにもかかわらず、債務の回収は進まず国民議会ではメキシコ介入を打ち切るべしとの議論が交わされる。ナポレオン3世は普欧戦争でオーストリアが敗北しフランスとプロイセンに緊張が強まるとメキシコを顧みる余裕は無くなってきた。66年6月ついにマクシミリアンにフランス軍の撤兵を通知した。8月シャルロットは夫に代わってパリに向かい居留守を使うナポレオン3世に面会を要求した。サン・クルウ離宮でナポレオン3世に面会したシャルロットはフランスの背信をなじり、援軍を求めた。ナポレオン3世は閣議決定を示してもはやメキシコには一兵も1フランも送れないと釈明した、シャルロットはかつてナポレオン3世があくまでマクシミリアンを援助すると記した書簡をかざして背信を責めたが、ナポレオン3世は席を立ってしまった。シャルロットは逆上して精神を病み、夫にナポレオン3世への工作が失敗したことを知らせる手紙をしたためたが、興奮状態で意味を成さなかった。シャルロットはかつて住んだイタリアのミラアマ城を経てローマへ向かい、法皇ピオ9世に会ったが、謀殺の陰謀があるとわめき、晩餐会の食事や飲み物には毒が盛られているとして手を付けず、外へ出て噴水の水を飲み干した。夜間に法皇の元へ馬車を走らせると強引に面会し、出された法皇の分のスープを嘗めて安全を確かめると飲んでしまった。シャルロットは法皇にフランスの裏切りをなじり、教会の威光を守るために十字軍を派遣して欲しいと頼んだ。法皇や側近がなだめたが聞き入れず女人禁制の禁を侵してバチカン宮殿に留まった。ベルギーから実弟が駆けつけ、精神に異常を来したシャルロットをミラアマ城に軟禁した。
67年2月フランス軍2万3千はメキシコから撤退していった。残ったのはヨーロッパからの義勇軍、傭兵といつ寝返るとも分らないメキシコ国民軍だった。マクシミリアンはナポレオン3世の勧めで退位して帰国することも考えたが、シャルロットが帝位に固執し、これまで楽観的な私信しか送ってなかった母のゾフィーからは「おめおめ退位して恥をさらすよりはハプスブルク家の名誉を守って堂々たる進退をするように…」との書簡を受け取っていた。それにマクシミリアンはメキシコ帝位を受けるに当たってハプスブルク家の皇位継承権を放棄していた。マクシミリアンには出生に関してある噂があった。オーストリア皇女マリー・ルイーズとナポレオン1世の息子ライヒシュタット公(ローマ王)との不義で生まれたというものである。ゾフィはナポレオン1世の没落後メッテルニヒによって、ウィーンに軟禁状態にされたライヒシュタット公と恋愛関係を持っていたという。ライヒシュタット公は32年6月24日21歳で病死したが、ゾフィーはライヒシュタット公を献身的に看病し、7月6日にマクシミリアンを産んでいる。事実とするとマクシミリアンはナポレオン1世の孫として、祖父の栄光と軍事的才能を受け継いでいるかもしれない。マクシミリアンは自ら9千のメキシコ国民軍を率いて首都北方のケレタロへ出撃した。共和派は退き、皇帝軍はケレタロに入城した。ケレタロは盆地で守りにくい地形でマクシミリアンはここに留まるべきではなかったが、ファレスに会談を申し入れて空しく待つ内に共和派に包囲されてしまった。首都に援軍を求めに一隊を送ったが指揮官は共和派に寝返った。皇帝軍は補給を断たれ食料・弾薬の欠乏に見舞われる。5月10日マクシミリアンは包囲を破り脱出を試みる決意を固めたが、15日明け方にはメンデス将軍の部下ロペス大尉が内通して共和派軍を市内に入れた。たちまち皇帝軍の兵士も寝返りマクシミリアンは僅かな側近と丘に逃れるが、すでに包囲されていた。マクシミリアンは共和派のエスコベド将軍に降伏し、メンデス将軍は射殺されメキシコ帝国は瓦解した。ファレスは捕らえたマクシミリアンと国民軍のメヒア、ミラモン将軍の処刑を決め、6月12日形ばかりの裁判を行うと3人に銃殺刑の判決を下した。判決に対してヨーロッパ各国、ローマ法皇、共和派を支持したアメリカからも助命の要請がなされたが6月19日、マクシミリアンはケレタロの「鐘の丘」で銃殺された。シャルロッテが精神を病んだまま死去したのは1927年1月19日、89歳であった。
ゾフィーとルートヴィヒ2世
バイエルンのルートヴィヒ2世はワーグナーをバイエルンに呼び寄せ、ミュンヘンに豪華な屋敷を与えた。67年夏の「ニーベルンゲンの指輪」の初演予定に合わせてバイロイトにオペラ上演専門の劇場建設を始める。一方、プフィースターマイスターら閣僚や国民にはワーグナーが国王に取り入り、劇場の建設費、豪華な屋敷や調度品を買い借金の請求書を国庫に回していることに対して反発が生まれた。またワーグナーはビューローの妻コジマと不倫をはたらき、65年4月コジマはイゾルデという女児を生んだ。65年12月10日ワーグナーは駅でルートヴィヒ2世と別れを交わしミュンヘンを去った。67年1月22日バイエルン王ルートヴィヒ2世と、シシィの末の妹ゾフィーの婚約が発表された。しかし、ルートヴィヒはゾフィーにワーグナーのオペラのヒロインとシシィを重ね合わせていた。ゾフィーはワーグナーを理解し、ルートヴィヒはゾフィーのピアノに合わせてワーグナーの曲を諳んじた。ルートヴィヒは手紙の中で自身をヘンリック、ゾフィーをエルザと呼び、芝居の中での出来事かのように恋を語った。だが、ワーグナーを失ったルートヴィヒは次第に現実に関心を失い、自己の世界に逃避するようになった。3月9日ルートヴィヒはワーグナーとミュンヘンで秘密裏に会見し、結婚祝いでもある「ニュールンベルクのマイスタージンガー」の総譜を受けたが「ローエングリン」の再演を話題にした際に配役をめぐって論争となり、2人はけんか分かれをしてしまいワーグナーは再びミュンヘンを去った。7月20日ルートヴィヒは偽名を使ってパリに行くとナポレオン3世夫妻と会見して、万国博覧会を視察し、オペラ座で観劇した。ヴェルサイユ宮殿ではルイ14世やマリー・アントワネットの幻を夢想する。8月になると25日に予定されていたゾフィーとの結婚式が10月12日に延期されると発表され、9月には「結婚するくらいなら湖に身を投げて死んでしまった方がましだ」と秘書官に口走った。ルートヴィヒには同性愛と年上の女性に対しての恋慕があり、現実の若い娘を愛することは無かった。ゾフィーの父親マクシミリアンはルートヴィヒに対して結婚の履行を迫ったが、ルートヴィヒは再延期を願い出た。10月マクシミリアンはついに11月末までに結婚するよう強く要求し、10月7日ルートヴィヒはゾフィーに冷静な離別の手紙を書くと婚約の破棄を伝えた。翌年9月28日ゾフィーはアランソン公フェルディナンと結婚した。68年5月ルートヴィヒはホーエンシュヴュヴァンガウ付近の丘の上「孤立した神聖な世界でもっとも美しい場所」に巨費を投じて築城を始めた、後のノイシュヴァンシュタイン城である。
68年4月22日シシィはハンガリーで女児を出産し、マリー・ヴァレリーと名付けられた。これまで子供を取り上げられてしまったシシィはこの子は自分の元で育て、愛情を注ぎ「やっと子供を持つ喜びを知りました」と話した。後には「この世で私に残された唯一のもの」となる。
普仏戦争とドイツ帝国の成立
イタリア戦争でニース、サボィアを得たフランスのナポレオン3世は65年10月ピアリッツでビスマルクと会談、普墺戦争ではビスマルクとの口約束でライン左岸の割譲を代償に中立を守った。普墺戦争がプロイセンの勝利で終わると、ナポレオン3世は強大なプロイセンの「北ドイツ連邦」の膨張を恐れ、南部ドイツ諸国と同盟を結ぼうとするが、ビスマルクに先手を取られた。次いでナポレオン3世はルクセンブルク公国の買収を企てたがまたもやビスマルクの横やりで妨げられ、ルクセンブルクはロンドン会議で永世中立国となった。その上約束のライン左岸領土の割譲は拒否され、フランスとプロイセンの関係は悪化した。そこへスペインで立憲君主制が成立し、68年の革命でブルボン家のイザベラ女王が追放され、空位だった国王を新たに求められた。候補者としてプロイセン王家のホーヘンツオレルン家の縁戚レオポルトが挙がったが、ナポレオン3世は反対し、レオポルトは辞退した。しかし、ビスマルクは熱心に工作し、70年6月レオポルトは王位を受けた。ナポレオン3世は駐プロイセン大使を通じてエムスに滞在していたプロイセン国王ヴィルヘルム1世にレオポルトを辞退させるよう求めた。フランスとの戦争に乗り気ではないヴィルヘルム1世はビスマルクに相談せず、レオポルトに辞退を勧めレオポルトも7月12日辞退した。ところがフランス外相グラモンはしつこく大使に訓電し再度ヴィルヘルム1世を訪問し、今後レオポルトを候補にしないことを文書で保障するよう要求した。ヴィルヘルム1世はこの要求を断固かつ丁重に拒否し、このいきさつをビスマルクに打電した。ビスマルクは長文の文書を短縮して、駐仏大使がヴィルヘルム1世に非礼な要求をし、国王に追い返されたように書き改めて新聞に公表した。これによって世論は沸騰し、ビスマルクの目論見通り一気に主戦論に傾いた。フランスでも主戦論が高まりナポレオン3世は戦備が整わないまま、7月19日プロイセンに宣戦してしまった。
バイエルンのルートヴィヒ2世は再び戦争に巻き込まれた。すでにプロイセンとの同盟があり中立を取ってもプロイセンが勝てば、バイエルンの独立はない。フランスに付いてもフランスが勝つ見込みはなかった。ルートヴィヒ2世はフランスの文化を好んでおり、プロイセンとの同盟には消極的であったがもはや曖昧な態度を取ることは出来なかった。陸軍大臣フォン・プランクや首相ブライ伯はプロイセンに同盟して、動員の勅令を出すことを国王に求めた。動員令は議会で可決され、ミュンヘンのオデオン広場に集まった群衆はバルコニーに立ったルートヴィヒ2世に歓声を上げた。バイエルン軍はプロイセンの皇太子フリードリッヒ・ヴィルヘルムが指揮する第3軍に配置された。ルートヴィヒ2世と会談し晩餐会の後オペラを観劇したヴィルヘルムは、国王の容貌がひどく変わっているのに気づいた。「顔色が悪く、前歯が抜け、顔はむくみ、贅肉が付き瞳は輝きを失っていた。神経質に話しまくり答えを待ちきれずに次ぎの質問を発し、すぐにまったく関連の無い質問をする」と日記に久しぶり会った国王の印象を書いている。
フランスの宣戦を待ち望んでいたプロイセンは、宰相ビスマルクと参謀総長モルトケ、陸相ローンらが戦争の準備を万端整えており、まさに最高の戦争指導部を作り上げていた。フランスからの宣戦によって挙国一致の戦意が盛り上がり、南部ドイツ諸国もプロイセンに同盟した。オーストリア、ロシアはフランスに味方せず、借りがある筈のイタリアはフランスが法皇領の併合を妨げたので支援をしなかった。イギリスは中立を取ったのでフランスは孤立して戦うことになってしまった。プロイセン軍は同盟軍を合わせて38万。フランス軍にはミュトライユーズ砲(初期の機関銃)が新鋭兵器として装備されており、兵力30万は全部が現役兵であるため早期に攻勢に出れば、プロイセン軍に優勢をもって当たれる勝機があった。しかし、プロイセンは戦場に向かう鉄道がフランスの4本に対し9本と整備されており、続々と動員を開始した。フランスも直ちに動員を開始したが、武器や装備を分散して貯蔵しており、応召した兵士が出頭すべき部隊は反乱防止のため居住地から離れていた。ナポレオン3世は27日メッツに向かいローレーヌ軍集団司令官パゼーヌ元帥にプロイセン軍の集結前に攻勢をかけるよう求めたが、戦備が不十分で不可能であると言われ、8月2日まで攻撃を延期、先制機を逃した。パゼーヌは外人部隊出身でナポレオン3世に引き立てられ、メキシコでフランス軍を率いて撤退後、70年にライン軍団司令官になっていた。ライン川を渡ったプロイセン軍はアルザス北部のストラスブルグとロートリンゲンに集結していたフランス軍を攻撃し、第3軍は仏アルザス軍集団を後退させた。モルトケはアルザスの東にいる仏ローレーヌ軍集団を包囲攻撃すべく第1、2軍を進出させ、8月14日メッツ東のヌイリイ、コロンベイ付近でフランス軍と衝突した。第2軍はメッツの南からフランス軍のベルダンへの退却路を遮断し、18日ローレーヌ軍集団をメッツ要塞に包囲した。ナポレオン3世はメッツ救援のためシャロン軍を新編成しマックマオン将軍と共にランスからメッツへ向かうが、モルトケは第3軍とザクセン皇太子の指揮するマース軍にセダン西南で捕捉させ、シャロン軍を破り残兵をセダン要塞に包囲した。フランス軍のミュトライユーズ砲は有効に活用されず、プロイセン軍の砲兵が装備するクルップ砲に圧倒された。9月1日ナポレオン3世はセダン要塞で降伏する。捕虜となったナポレオン3世はカッセルに連行され、フランス第2帝政は崩壊した。しかしパリでは4日共和制が宣言され、ガンベッタら共和主義者が「国防政府」を結成して抗戦を継続した。15日パリがプロイセン軍に包囲された。10月2日ガンベッタが気球でパリを脱出。27日メッツのパゼーヌが17万3千人の将兵と降伏し、12月28日パリへの砲撃が開始され、71年1月19日パリも降伏した。
プロイセン国王ヴィルヘルム1世は軍がパリを包囲すると、ヴェルサイユの大本営に移り71年1月18日占領下のヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でドイツ連邦の諸国の代表を集め、「ドイツ帝国」皇帝戴冠式を行った。フランス贔屓のルートヴィヒ2世は不満ではあったが、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に推戴する親書に署名した。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・ダルムシュタットの南ドイツ4国と北ドイツ連邦が統一され、ここにビスマルクの悲願だった(オーストリアを除く)ドイツ民族の統一が完成した。ただし、ドイツ帝国はプロイセン主体の連邦の形態をもっており、各国の君主の地位は変わらず国内政府・議会を運営し自治権を持っていた。5月10日フランクフルト講和条約が結ばれフランスはプロイセンにアルザス、ロレーヌ2州を割譲し、50億フランの賠償を支払うことで戦争が終わった。釈放されたマックマオン将軍とフランス兵捕虜はティエールがヴェルサイユに置いた政府に従い、5月末までにプロレタリアートの革命政府「パリ・コミューン」を鎮圧して約3万人の同胞を殺戮した。72年ロシア、ドイツ、オーストリアの皇帝はベルリンで革命勢力とフランスに対抗する3帝同盟に調印した。
皇太子ルドルフの結婚
72年5月大公妃ゾフィーが観劇を終えて宮殿に戻りバルコニーで涼を求めるうちに寝入ってしまい、風邪をこじらせ肺炎にかかった。シシィは旅先のチロルからウィーンに戻る。シシィはゾフィーの枕元で食事もろくに摂らず看病を続けたが、5月28日ゾフィーは死去した。18年に渡り嫁と姑として、皇妃と大公妃としてシシィと事あるごとに対立したゾフィーの死は、シシィにとっては束縛からの解放だったが、なぜあれほどにも敵対しなければならなかったのか後悔を呼び起こした。
73年4月20日シシィの次女のギゼーラはバイエルンのレオポルト公と結婚した。5月1日からウィーンのプラーター公園において万国博覧会が開催された。博覧会は敗戦によって消沈した国威を発揚する場と位置付けられ日本を含めて44カ国が参加し、725万人が来場した。皇帝とシシィは各国の来賓を迎えるためスケジュールに追われた。しかし、建築ブームに沸いていたウィーンの株式市場は5月8日から暴落し、中産階級の投資家は打撃を受けた。さらにコレラの流行により入場者が減少し、万博は赤字を出して終わった。翌74年、1月8日ギゼーラは女児を出産しシシィは36歳で孫を得る。ミュンヘンで孫を見たシシィはルドルフに「子供はギゼーラにそっくり」と手紙を書いた。シシィは周囲の諌止を押し切り病院を慰問しコレラ患者を見舞った。8月シシィはマリーヴァレリーを連れてイギリス領ワイト島に滞在した。75年にはノルマンディー、79年にはアイルランドとシシィは旅を繰り返し、激しい馬術訓練をして側近たちが負傷することもあった。4月24日ウィーンでは皇帝夫妻の銀婚式の祝典が行われた。
80年1月アイルランドに滞在していたシシィは皇帝から帰途にベルギーへ立ち寄るよう手紙を受け取った。皇帝は皇太子ルドルフの妃としてベルギー王レオポルド2世の王女シュテファニーを意中にしていた。3月ブリュツセルに着いたシシィは同地に来ていたルドルフと会い、15歳のシュテファニーを見たシシィはシュテファニーに「ひどく幼く、肥り気味である」と感じ、ましてこの結婚は早すぎると思った。奔放な女性たちを知っていたルドルフは皇帝によって選ばれた幼い妃候補に対して「愛らしく、善良で、機知に富み、しかも品があって良きオーストリア市民となるだろう」と側近に書いた。81年3月13日ロシア皇帝アレキサンドル2世は路上で爆弾を投げつけられ死亡した。5月10日ルドルフとシュテファニーの結婚式がアウグスティン教会で行われた。83年9月2日シュテファニーは長女エリザベート(エルジー)を出産する。ルドルフはシシィの自由な気質を受け継いでいたようで自由主義に傾倒を示し、皇太子といえども政治に矍鑠を許さない皇帝との関係は次第に冷却していった。自由主義者たちと交際し、皇帝の政策とは異なる論文をペンネームで新聞に発表した。宮廷に息苦しさを感じたルドルフは、名門の出である妃シュテファニーとも疎遠になっていった。ルドルフはローマ法王に対し離婚の許しを求めたともされるが、当然許される筈はない。狩猟を好んだルドルフはウィーンの森、マイヤーリンクの修道院の荘園を買収し、宿泊施設を狩猟小屋に改装して利用した。客には狩猟仲間の他に政治的同志や若い女性たちもいた。
ルートヴィヒ2世の死
83年2月13日ワーグナーはベネチアで死去した。ルートヴィヒ2世はワーグナーの遺骸を列車でバイエルンに運ばせると全作品を創作年順に演奏させた。ルートヴィヒは白鳥の城ノイシュヴァンシュタイン、人工の洞窟を造営したリンダーホーフ、ヴェルサイユ宮殿を模したヘーレンキームゼー城と築城に情熱を傾け、莫大な建設費用は国庫を圧迫した。シシィはルートヴィヒと久しぶりにスタンベルク湖上の薔薇島で再会し、ルートヴィヒが肥満して顔がむくんでいるのに驚いたが、長い時間語り合い昔のように手紙で鳩、鷲と呼び合った。しかし、ルートヴィヒの奇行は次第に激しくなっていった。食事の際にはルイ14世やマリー・アントワネットの席を用意させ、肖像に向かってフランス語で語りかけた。86年6月政府の閣僚らはついにルートヴィヒ2世の廃位を計画した。ルートヴィヒの叔父ルイトポルト公を摂政に据えて、ルートヴィヒを弟のオットーと同じく精神病患者として幽閉しようというものだった。フライヤー・フォン・ルッツ首相らはミュンヘンの精神科医師フォン・グッデン博士にルートヴィヒ2世が精神異常で王権の維持は不可能であると診断させるため(診断する前から結果は決められていたが)ノイシュヴァンシュタイン城に委員会を向かわせた。ルートヴィヒ2世はベルク城に監禁された。6月13日ルートヴィヒはグッデンとスタンベルク湖畔で朝の散歩をし午後にも散歩を望んだ、グッデンはルートヴィヒの状態は安定しているとして朝の散歩では付けていた護衛を断り、午後4時半頃「8時には戻る」と告げるとルートヴィヒと2人だけで湖畔へ向かった。しかし、時間を過ぎても2人は戻らなかった。激しい雨が降り出した中で捜索が開始されやがてスタンベルク湖の岸辺でルートヴィヒの上着やグッデンの傘や帽子が見つかった、湖へボートが漕ぎ出されると10時半ごろ上着を脱いだ状態でルートヴィヒの身体が見つかり、間もなくグッデンの身体も発見される。ミュラー医師らは必死に蘇生を試みたが無駄だった。ルートヴィヒの時計は6時54分で、グッデンのものは8時で止まっていた。岸辺には格闘した足跡があり、グッデンの首には擦過傷がみられた。ルートヴィヒには外傷がなく心臓麻痺か窒息による死が推測された。水泳の得意なルートヴィヒがどこかへ逃亡しようとして上着を脱いで湖に入ったが阻止しようとしたグッデンと水中で格闘となり扼殺したが、心臓麻痺を起こして死亡した。入水自殺をしようとするルートヴィヒを止めようとしたグッデンが格闘の後に扼殺され、ルートヴィヒはそのまま湖中で自殺した。謎を残したままルートヴィヒ2世は41歳で死んだ。シシィは「彼は狂人ではなかった、一風変わっていていつも夢見ていたの、もう少し気を遣ってあげていれば、あんな悲劇的な最後にはならなかったはずよ」と悲しんだ。この日シシィはスタンベルク湖畔に滞在しており、軟禁されたルートヴィヒを助け出すためにベルク城前に馬車を向かわせたとする説があるが確証はない。
85年ごろシシィは旅に出て皇帝の側に居ない自分の代わりに、ブルク劇場の女優カタリーナ・シュラットと皇帝の交際を取り持ち、シュラットの肖像画を描かせて皇帝に送らせたり、夫妻一緒の場にも同席させた。 87年シシィは再びウィーンを離れ旅を続ける生活に逃れた。ハンガリーから7月にはハンブルクからイギリスへ渡りヴィクトリア女王を訪問し、バイエルンに戻る。10月には再び皇室用ヨットでギリシャへ向かった。ヨットには新鮮なミルクを得るために乳牛が載せられていた。シシィは体型を維持するため卵とミルクくらいしか食事をしなかったが、旅先で良質な乳牛を見つけると自分用の酪農場に送っていた。宮殿には体操器具が置かれ、美しい髪は毎日3時間かかって手入れされた。身長172センチ、体重46.6キロ(1896年12月の記録による)の体型は60歳で死去する時まで変わらなかったという。コルフ島では古代神殿様式の館を建てるため、用地の物色をした。12月24日シシィは50歳の誕生日を迎えた。88年11月15日、シシィの父親マクシミリアンが80歳で死去する。12月2日、皇帝の在位40年を記念する式典が行われた。この日、マリーヴァレリーとトスカーナ大公フランツ・サルヴァトーレの婚約が発表された。トスカーナ大公は領地が無く名目上の地位だったが、相思相愛の間柄でシシィは2人のために皇帝を説得した。実際の結婚は90年7月31日になる。
皇太子ルドルフの死
89年1月29日ハンガリーへの出発を前にしたシシィと皇帝は家族での晩餐会を行ったが、マイヤーリンクの狩猟小屋に滞在していた皇太子ルドフは風邪を理由に出席しなかった。30日朝、従僕のロシェクはルドルフを起こそうと部屋のドアを何回もノックしたが返事は無かった。ついにロシェクはオヨス伯爵らを呼ぶと施錠されたドアを斧で壊して部屋に入る。そこにはルドルフと女が血を流して横たわっていた。女は17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラで前夜からルドルフと同室していた。2人とも銃弾を頭に受けて死んでおり、弾倉が空になったピストルが床に落ちていた。ルドルフがマリーを射殺した後、自分も頭を撃って自殺した心中と推測された。この事件は死の状況について箝口令が敷かれたため、現在も様々な状況や動機が語られている。 ロシェクは朝まで事件に気づかなかったのではなく、銃声を聞いて駆けつけ部屋に入った。ルドルフはマリー・ヴェッツェラを抱いた状態で片手でピストルを握った状態で死んでいた。マリーは裸だったとも、身支度を整えて化粧をしていたとも。部屋には争った跡があり家具が倒れて床に血だまりがあった。ルドルフの身体には格闘の痕があり、右手は手首から切り落とされていた。部屋にあったピストルはルドルフの物ではなく6発の発砲の跡があった。ルドルフとマリーは遺書を書いていた。ルドルフは何者かに暗殺された。などで、オーストリア最後の皇后になるツィタは晩年の1983年になってから「ルドルフ皇太子は自殺したのではなく、政治的な動機で暗殺された」と語った事もある。ルドルフの死は自殺を禁じるカトリックの教義により病死と発表され、遺体はホーフブルクに戻ると2月5日カプツィーナ教会で葬儀が行われハプスブルク家歴代の地下霊廟に安置された。マリーはそこには居なかった事にされて1月30日夜、死体は馬車に載せて運び出されマイヤーリイクに近いハイリゲンクロイツ修道院の墓地に埋葬された。ルドルフの葬儀には参列しなかったシシィは2月9日、一人で霊廟に下りて祈りを捧げた。皇帝は狩猟小屋を取り壊し跡地に教会と尼僧院を建てた。唯一人の直系男子を失った皇帝は皇位継承者に弟カール・ルートヴィヒの子である甥のフランツ・フェルディナントを就けた。
92年1月26日シシィの母、ルートヴィカが死去し、翌日マリー・ヴァレリーが女児を生んだ。この女児もエリザベートと名付けられた。96年5月2日皇帝とシシィはハンガリー建国千年祭の祝典に出席し、シシィは黒ずくめの衣装で現れその姿は「悲しみの聖母」のようだったという。シシィはルドルフの死後、衣装を女官らに下げ渡し、人前には黒の衣装に扇で顔を隠して現れた。97年5月4日、パリの慈善バザー会場で火災が起き150人の死者が出た。その犠牲者の中にシシィの妹アランソン公夫人ゾフィーがいた、彼女は周りの令嬢や売り子たちを先に逃げさせたが、自らは出口を求めて殺到する群衆に踏み倒されて炎に焼かれ遺体は歯科医の検視によって身元を確認された。
ついにシシィに迫る死
1898年夏の間イシュルに滞在していたシシィは皇帝の見送りを受けて、旅へ出た。9月9日テリテから蒸気船でレマン湖を渡り、スイスのジュネーブに着き郊外プレニーのロチルド(ロスチャイルド)男爵の別荘で男爵夫人らと会食した。シシィはこの料理が気に入りめずらしく食事を堪能すると、女官にメニューを皇帝に送るよう言いつけた。翌10日、シシィと女官シューターレイ伯爵夫人の2人は1時40分発の船に乗るため宿泊先のホテル・ボー・リヴァージュを13時半過ぎに後にした。ホテルではシシィはいつものようにお忍びの旅行であるためホーエネンプス伯爵夫人の名前で宿泊していた。一行は随員など総勢12名だったが、シシィが人数が増えるのを嫌ったため既に何人かは汽車でジュネーブへ向かい、スイス警察の護衛も断っていた。シシィは黒の帽子と衣装に、扇と日傘を持って船が出航の汽笛を鳴らすモン・ブラン埠頭へ向かって歩き出す。そこへ男が2人の前に向かってきた、2人はよけて道を譲ろうとしたが男はシシィをすれ違いざま手で胸のあたりを殴ったように見えた、シシィは無言で崩れるように倒れ、シューターレイ夫人は悲鳴を上げた。通りがかりの者と夫人はシシィを助け起こし、走って逃げた男は反対側から来た通行人に取り押さえられた。シシィは助け起こされると「痛みはありませんか」と聞く夫人に「なんでもありません、あの男は時計を取りたかったのでしょうか」と答えてホテルに戻らず船着き場まで歩き船に乗り込んだ。しかし、シシィの顔からは血の気が引いて青ざめ、夫人が支えると意識を失い上甲板のベンチに横たえられた。夫人はドレスの胸を開き呼吸を助けるためコルセットを開け、酒を含ませた角砂糖を口に入れた。シシィはいったん意識を回復し「私はいったいどうしたの」と問いかけたが、夫人は薄紫のブラウスに血が染み出ているのを見つけ、右の乳の上には傷口が開いていた。夫人は「大変、暗殺です」と叫び、船長にシシィの身分を明かすと出航していた船をベルヴェに着けるよう頼んだ。船長はそこでは医者も馬車も用意できないと考えジュネーブへ引き返した。シシィは再び意識を失ったまま急造の担架で運ばれてホテル・ボー・リヴァージュで医師の手当を受けたが既に脈は無く、神父が臨終の祈りを捧げた。2時40分だった。
シシィを刺したのは25歳のイタリア人ルイジ・ルケーニ。無政府主義者のルケーニは「高位にある人なら誰でもよかった」と供述した。最初ジュネーブ滞在予定のフランス皇位継承者オルレアン公を狙った、しかしオルレアン公は予定を変更したため、次に高位の獲物としてオーストリア皇后を狙った。当日朝の新聞にはシシィが宿泊している事が報道されていた。シシィの胸を突き刺した凶器はヤスリの先端を削って鋭く尖らせた物で、外傷は小さかったが傷は肺と左心室を貫通していた。ルケーニは判事からシシィが死んだことを知らされると「アナキスト万歳」と叫んだ。無政府主義者の会合で皇后の暗殺を命じられたとの容疑もかけられたが、ルケーニは単独の犯行だと主張し謀議の証拠も得られなかった。10月から始まった裁判で「ルケーニは皇族や金持ちは殺しても洗濯女は殺さない」と主張したルケーニは反省や後悔の態度を見せず自ら死刑を求めた。精神鑑定が行われたが結局正常であると判断され終身禁固の判決が下された。ルケーニが殺したのは皇族・貴族の階級にありながらそれを望まず、むしろそこから逃れたいと願っていた女性だった。
ハプスブルクの残照
9日午後4時半シェーンブルンの皇帝は明日、軍事演習へ出発するため準備をしていた、そこへシシィの重傷を知らせる電報を手にした侍従のパール伯爵が拝謁を願い出た。皇帝はよろめくようにして腰を下ろすと「次の知らせがあるはずだ…詳しく知りたい」と話したが、次の電報はシシィの死を伝えた。「この地上ではあらゆる不幸が私を襲う…」しかし、まだ皇帝を襲った不幸は終わったわけではなかった。棺に入れられたシシィの遺体は特別列車でウィーンに運ばれ9月16日葬儀が行われた。 棺がカプツィーナ教会に着くとしきたりに従い侍従が扉を3回たたいた、修道士は「何方か?」と誰何し、死者に代わって侍従は「オーストリア・ハンガリー皇后エリザベートです、中へ入れて下さい」と答える。ハプスブルク家の伝統に則り遺骸はカプツィーナ教会、心臓はアウグスティン教会、内臓は聖シュテファン大聖堂に納められた。
皇帝は「余がシシィをどれくらい愛していたかは、誰にもわからないだろう」と側近に語ったという。14年6月28日演習を視察にサラエボを訪問したフランツ・フェルディナントとゾフィー夫妻はセルビアの民族主義結社「黒手組」の青年プリンツィプによって銃撃され2人とも暗殺された。皇帝は宣戦を勅許し、オーストリア・ハンガリー帝国は7月28日セルビアに対し宣戦を布告。オーストリア・ハンガリーと同盟するドイツ帝国は8月1日、セルビアを支援するロシア帝国に宣戦を布告し、イギリス、フランスが連合国側で参戦。第一次世界大戦が始まった。15年5月にはイタリアが3国同盟を裏切って連合国側に寝返った。大戦さなかの16年11月20日の夜、皇帝は明朝3時半に起こすように侍従に言いつけて就寝したが朝には死亡していた、86歳でありその治世は68年間に及んだ。即位したカール1世は29歳でフランツ・ヨーゼフの弟カール・ルートヴィヒの子で国民にはなじみの薄い人物だった、ブルボン家出身の皇后ツィタとは11年に結婚している。フランツ・ヨーゼフ帝の死は事実上600年以上に及ぶハプスブルク帝国の終焉となった。戦局が悪化する中でカール1世は連合国との講和を求めたが、ドイツ帝国に察知されて皇帝はドイツの戦争遂行に無条件で服従するよう求められ軍隊の指揮権を奪われた。17年にはロシア帝国に革命が起き戦線から脱落したが、4月にはアメリカが連合国側で参戦し、18年ドイツ軍の西部大攻勢が阻まれ10月には同盟国側の戦線は崩壊し、オーストリア・ハンガリー軍の多民族からなる部隊は相次いで戦線を放棄した。チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドなどが共和国を宣言しハプスブルク帝国の領土は解体する。11月3日連合国と停戦条約が結ばれ、11日カール1世は退位表明である国事不関与の声明を出した後シェーンブルン宮殿を去って、エッカルツアウに一家と逃れた、ウィーンにはカール・レンナーを首相に共和国政府が成立。ハプスブルク家の帝政とオーストリア帝国は滅びオーストリア連邦共和国は内陸の小国に転落した。共和国政府はハプスブルク家の財産没収と国外追放を行い、19年3月カール一家はスイスへ亡命。21年の4月、11月とまだ放棄していなかったつもりのハンガリー王位への復辟を試みたが失敗し、スイスへの受け入れも拒否されたためポルトガル領マディラ島に亡命し、翌年4月1日最後の皇帝カール1世はこの小島において35歳で没した。最後の皇后ツィタは財産と皇位放棄に応じず、ハプスブルク家の復興を目指して活動し1989年3月14日に97歳の高齢でスイスで亡くなる。現在のハプスブルク家当主はカール1世の7人の子供の長男オットー(1912年〜)で、オーストリアへの財産、皇位請求権を放棄してオーストリアに居住、欧州議会議員を務めた。バイエルンに嫁いだシシィの娘ギゼーラは1932年死去。マリー・ヴァレリーは財産請求権を放棄して弱者救済に尽力「ヴァルゼーの天使」と呼ばれる、1924年死去。ルドルフ皇太子妃シュテファニーはルドルフの死後ハンガリー貴族と再婚して1945年に死去。唯一人の皇女エリザベート(エルジー)は1902年ハンガリー貴族オットー・ヴィンディッシュグレーツと結婚し4人の子供を産んだが、帝国の解体後に離婚し、貧農出身の右翼社会民主党活動家レオポルト・ペネツクと結婚し「赤い皇女」と呼ばれた、1963年80歳で死去。シシィを暗殺したルケーニは1910年10月16日終身刑で収監されていた独房で首吊り自殺を遂げた。バイエルン王国は18年第1次大戦でドイツ帝国が敗北すると国王ルートヴィヒ3世が退位し、王政を終えた。王室の子孫はバイエルン州で造醸所を経営する。1907年6月7日皇帝フランツ・ヨーゼフは足下に2匹の犬を配したシシィの像を公園に作らせ除幕式を行った。ウィーン西駅にもシシィの石像が置かれている。ハンガリーのブダペストにはエリザベート橋がドナウ川に架かっている。

主な参考文献
「皇妃エリザベート・ハプスブルクの美神」カトリーヌ・クレマン著・田辺希久子訳・創元社
「麗しの皇妃エリザベト・オーストリア帝国の黄昏」ジャン・デ・カール著・三保元訳・中公文庫
「狂王ルートヴィヒ・夢の王国の黄昏」ジャン・デ・カール著・三保元訳・中公文庫
「ハプスブルク宮廷の恋人たち」加瀬俊一著・文春文庫
「皇妃エリザベート・ハプスブルクの涙」マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム著・西川賢一訳・集英社文庫
「ハプスブルク家の女たち」江村洋著・講談社現代新書
「オーストリアの歴史」リチャード・リケット著・青山孝徳訳・成文社
歴史読本ワールド95年2月「ハプスブルク家の悲劇」新人物往来社
歴史読本ワールド94年2月「ハプスブルク家の謎」新人物往来社
歴史群像95年12月号特集「双頭の鷲・ハプスブルク帝国のすべて」学研
「図説ハプスブルク帝国」加藤雅彦著・河出書房新社
大世界史17「自由と統一をめざして」矢田俊隆著・文芸春秋

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