皇帝を支える皇后の義務
皇帝夫妻の初めての公式訪問はチェコのボヘミアとモラヴィアになった。6月3日プラハへ出発した夫妻は修道院、孤児院、病院、学校を回り大歓迎を受けた。シシィの美しさはついこの前に帝国に反乱を起こしたプラハの人々の心をも熱狂させた。しかし、シシィは気分がすぐれなくなり途中でウィーンへ戻り、皇帝は一人で東ユーロッパの訪問を続けた。ウィーンに戻ったシシィは侍医のゼーブルガー博士の診断を受け、妊娠が分かった。ゾフィーは世継ぎが生まれることに多いに満足だったが、前にもまして細かく干渉するようになる。ゾフィーはシシィに公開されている庭に出て散歩し、国民に世継ぎが生まれるのを見せるように求めた、シシィは民衆の視線に晒される外には出たくなかったがやむをえず庭に出た。それ以外の時間は部屋で犬の世話をしながら過ごした。55年3月5日シシィは女の子を出産した、名前は大公妃と同じくゾフィーと付けられた。ゾフィーはシシィから娘を取り上げてしまい、自分で指名した乳母、医者、養育係に世話をさせた。シシィは決められた時間しか娘に会うことができなかった。ゾフィーには娘はシシィの娘ではなく、オーストリアの王女として自分の手元で育てられなければならなかった。シシィは娘を奪われた腹いせに出産から1月半ほどたったある日、馬を駆って宮廷の人々を驚かした。出産を経験してもなお美しいシシィの姿を見物する市民が押し寄せた。6月皇帝は長期視察の旅に出ることになり、シシィはバイエルンに里帰りした。ポッセンフォーフェンに戻るとシシィは久しぶりに自由を取り戻し、思い出深い景色や自然の中で遊んだ。
56年7月15日、シシィは2人目の娘ギーゼラを産む。ゾフィーはまたもや王女をシシィから取り上げて、手元で養育した。シシィは激しく反発したが、ゾフィーは耳を貸さなかった。しかし、シシィはこれまで嫁、姑の争いには干渉しなかった皇帝をとうとう引っ張り出すことに成功する。皇帝は子供部屋をシシィの部屋の階下に作らせ、娘と会うことをゾフィーに認めさせた。ついにささやかな勝利をつかんだシシィと皇帝は、9月オーストリア南部ケルンテン、シャタイアーマルク地方へ新婚旅行を楽しむかのように視察に出かけた。皇帝夫妻はアルプスの高原や氷河で、馬を走らせたり足で登ったりして自然を満喫する。ゾフィーは手紙で宮殿を出て行くといってよこしたが、皇帝はシェーンブルンに帰ってから返事を書き厳しい調子でたしなめた。
皇帝が心を砕かなければならないのは嫁、姑の確執にもまして政治問題も再び危機をはらんで来た。かつてオーストリア宰相メッテルニヒは「イタリアとは地理的概念に過ぎない」と語ったが、統一国家を求めるイタリアの民族主義はオーストリア領のロンバルディア、ベネチアに緊張を生んでいた。11月17日皇帝はシシィと共に北イタリア訪問に出発する。20日皇帝夫妻はトリエステに着いた、反オーストリア感情は強く歓迎は形ばかりで冷ややかなものだった。トリエステでは火災が起き、皇帝夫妻がアドリア海を周航する予定の船ではマストに飾り付けられた王冠が落下する。25日に訪れたベネチアでも群衆の沈黙と、空席の目立つオペラ会場が夫妻を威圧した。シシィは皇帝にイタリア人の懐柔を進言。皇帝はベネチア、ロンバルディアの総督に忠実な軍人だが強硬策をとっていたラデツキー元帥に代えて、弟のマクシミリアンを充てた。さらに、これまでの反乱暴動への恩赦を与え囚人を釈放し、資産返還を行った。シシィが初めて政治に関与した効果は再び催されたオペラ会場での拍手によって評価された。皇帝夫妻はクリスマスをベネチアで過ごすと57年1月15日ミラノに入った。48年3月に反オーストリアの反乱を起こし「ミラノの5日間」といわれる激しい市街戦を戦ったミラノの反オーストリア感情はより強く、スカラ座の特別公演ではイタリア貴族たちは召し使いに喪服を着せて客席に座らせ、貴族らは欠席した。シシィはミラノでも恩赦と資産返還を行うよう進言し、実現させた。シシィの宥和策に対して政治家や宮廷では「皇妃は革命家の味方になってしまった」と嘆く声もあった。3月2日夫妻はミラノを去り、クレムナに寄って帰国した。
ハンガリーへの郷愁、長女の早世
5月3日、皇帝夫妻はイタリアに劣らず民族主義の高まるハンガリー訪問に出発した。シシィは以前から心引かれていたハンガリーの大地と文化に触れられるのを楽しみにしていた。シシィはゾフィーの反対を押しきって子供たちを同行させる。4日ドナウ河畔の首都ブダペストに到着した夫妻は総督アルブレヒト大公の出迎えを受け、ハンガリー陸軍大将の軍服を着た皇帝が乗馬で、シシィが馬車に乗って現れると歓声が沸きあがった。ハンガリー人はゾフィーがハンガリー嫌いで、シシィがゾフィーとなにかにつけ対立しているのを知っており、シシィをハンガリーの擁護者と見ていた。しかし貴族達は宴席に現われなかった。皇帝はイタリアと同じくハンガリーへの恩赦を発表し、子供たちは郊外のオッフェンに残し夫妻は地方視察を行う。28日子供たちに同行していたゼーブルガー博士から急報が入り、長女ゾフィーが危篤に陥ったという。シシィは急ぎオッフェンに帰ったが、2歳のゾフィーは夜9時半ごろ急逝した。「はしか」ともされたが医師にも原因は分からず治療の甲斐もなかった。ラクセンブルクに戻ったシシィは、誰とも会わずに部屋に引きこもり、食事も取らずにひどくやつれた。ゾフィーに立ち向かってようやく手に入れたささやかな自由は、娘の急死という大きな代償をシシィに要求した。子供を旅行に連れて行くのに反対したゾフィー大公妃の沈黙はシシィを無言のうちに糾弾していた。
ルドルフの誕生とイタリアの戦い
58年8月21日シシィはラクセンブルクで念願の男児を出産した。ハプスブルク家の世継ぎはルドルフと名づけられ、皇帝は胸に懸けていた勲章を生まれたばかりの息子の上に置き、早速軍人として大佐に任官した。ウィーンに101発の礼砲が鳴り響き、男児の誕生を祝う興奮につつまれた。シシィはルドルフを自分の手で育てようとしたが、授乳も許されずルドルフの乳母にはゾフィーの選んだマリアンカが、養育にはカロリーネ・ヴェルデン男爵夫人が任じられた。
イタリアの統一運動は再び、オーストリアに挑戦した。サルディニア国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世と首相カヴールは54年クリミア戦争に派兵してイギリス、フランスとの関係を強化し講和会議の席でイタリア統一への支持と、その障害となるオーストリアの支配の不当を訴えた。イギリスからは積極的な援助は得られなかったが、フランスの皇帝ナポレオン3世はボナパルト家の発祥地(ナポレオン家はコルシカ島の貴族)であるイタリアへの関心と、オーストリアの勢力を殺ぎ、またイタリアのより過激な共和主義の台頭より、サルディニア王政による統一イタリアの成立を望んでいた。58年7月ナポレオン3世はカヴールをフランスに招き、秘密会談を行う。同盟ではオーストリアとイタリアが開戦した場合フランスが20万の兵力を派兵する。オーストリア勢力をロンバルディア・ヴェネトから排除してサルディニア王国が北部イタリア王国を作る。フランスは報酬としてサボイアとニースをイタリアから割譲される。などの条項を含む同盟が59年1月成立した。オーストリアはこれを察知し、軍をピエモンテ国境に派兵し、サルディニアも動員を開始した。イギリスはオーストリア、サルディニア、フランス3国の同時撤兵を仲裁したが、ナポレオン3世はこの場に及んで国内のカトリック勢力の反発を恐れ、イギリスの提案に沿ってカヴールに撤兵を説得した。単独でオーストリアに対抗するのは困難と踏んだカヴールは、やむおえず撤兵を受け入れた。しかし、オーストリアでは主戦論が優勢で、4月19日皇帝は弟のマクシミリアンを更迭してイタリアの統治を強硬派のギウレイ将軍に命じた。さらに、メッテルニヒは諌止したが、ブオル外相は4月23日サルディニアに3日以内に撤兵しなければ攻撃するという最後通牒を発した。サルディニアは拒否。29日オーストリア軍は進撃を開始した。カヴールは開戦の大義名分を得てフランスは同盟に従いオーストリアに宣戦、ナポレオン3世自ら北イタリアへ出陣した。オーストリア軍のギウレイ将軍は、いちはやく南下してサルディニア、フランス両軍の連絡を阻止して各個に撃破すべきだったが、緩慢な進撃を行い戦況を悪化させた。皇帝はついに5月29日に自らオーストリア軍の指揮を執るべく、イタリア戦線へ向かった。
戦場へ赴く皇帝
シシィは同行を願ったが、戦闘への同行を許される筈も無く専用列車を途中駅まで見送り、教会で祈りを捧げ、それでも気持ちが耐え切れないときは乗馬で気を紛らわせた。6月4日ロンバルディアのミラノを目指すフランス・サルディニア軍はマジェンタ周辺でオーストリア軍の守備する鉄道駅を攻撃した。マクマオン将軍のフランス第2軍の外人部隊2個連隊はオーストリア軍の主防御線を攻撃して駅を占領したが、オーストリア軍が再び反撃して激しい白兵戦となり、外人部隊指揮官のエスピナス将軍も戦死した。戦いは夜まで続いたが日が暮れるとオーストリア軍は撤退し、ミラノ防衛は失敗した。3日後ナポレオン3世はミラノに入城した。11日オーストリアの専制政治を支えてきたメッテルニヒが死去。皇帝は無能なギウレイ将軍を解任して、アレクサンダー将軍と共に自ら前線を指揮する。北部へ後退したオーストリア軍18万は兵力に優りソルフェリーノという村に布陣、海抜200メートルほどの小高い丘の上の塔から周囲を監視していた。24日フランス・サルディニア軍は当初、優位を占めるオーストリア軍に苦戦したものの、長射程の旋条砲の砲撃と外人部隊の銃剣突撃によって血路を開き、丘の頂上まで攻め上った。オーストリア軍はミンツィオ河を渡って撤退。ソルフェリーノ戦の戦死者はフランス・サルディニア側1万7千。オーストリア側2万2千に上り、負傷兵が放置されたり捕虜が殺害されるのを見たスイス人アンリ・デュナンの著作は、国際赤十字設立運動のきっかけになった。
ロンバルディア、ヴェネト地方の大半からオーストリア軍は駆逐され、イタリアの統一は成し遂げられたかに見えた。しかし、ナポレオン3世は戦闘で勝利したものの兵力の損失が大きく、国内のカトリック勢力の反発、プロイセンが軍隊をライン地方に動員し、フランス攻撃の姿勢を取ったのを見て、サルディニアに無断でオーストリアに有利な条件で講和をもち掛けてきたのである。7月11日グィラフランカでフランツ・ヨーゼフと会見しオーストリアはロンバルディアを放棄。ヴェネトにはオーストリアの主権を認めるがイタリア連邦に参加する。パレルモ、トスカーナ、モデナ公国の復活。等でオーストリアとフランスは合意し、サルディニアに承諾を求めた。エマヌエレ2世はやむなく条件を認め、失望したカヴールは辞職しラタッツィが首相に就いた。しかし、イギリスはフランス、オーストリアを牽制するため中部イタリアの併合を支持し、パレルモ、トスカーナ、モデナ公国の旧君主は復位することができなかった。ナポレオン3世はサボイア、ニースが割譲されるならこれら中部をサルディニアに併合してもかまわないと提案。ラタッツィはサボイア割譲に難色を示し、カヴールが復職した。カヴールはサボイア、ニースをフランスに譲る替りに中部イタリアの併合の同意を得て、パレルモ、トスカーナ、モデナ、ロマーニャで国民投票を行いサルディニアに併合した。ジュゼッペ・ガリバルディはサルディニア政府の援助の下、赤シャツの義勇軍「千人隊」を組織して60年7月両シチリア王国のシチリアを占領。8月にメッシナ海峡を渡りナポリを攻略した。
シシィの妹マリーは59年1月8日ナポリ公国(両シチリア王国)のフランチェスコ・ド・カラーブル公に嫁ぎ、フェルディナンド2世の死去のためカラーブル公は59年5月に即位し、フランチェスコ2世妃となった。ガリバルディは60年9月7日ナポリを占領。フランチェスコ2世はイタリア統一に反対し国民から支持されておらず、フランチェスコ2世とマリーはナポリ北西ガエダの要塞に逃れた。9月サルディニア軍はローマ教皇領を進撃し、10月26日ガリバルディ軍と合流した。ガリバルディはエマヌエレに占領地を献上し、11月7日エマヌエレ王と共にナポリで入城式を行い、自らは隠棲した。サルディニア軍はガエダを攻略、シシィは皇帝に救援を願うがオーストリア軍は敗戦の痛手から立ち直っておらず、皇帝は派兵を断った。61年2月にガエダが陥落。フランチェスコ2世とマリーはローマの法皇に保護された。カヴールはナポリ公国を国民投票でサルディニアに併合。マリーが王妃となるナポリ公国は無くなってしまった。2月14日ヴィツトリオ・エマヌエレ2世はイタリア国王の称号を得て、首都をトリノとするイタリア王国が誕生した。しかし、ローマ教皇領とオーストリア領ヴェネト地方は統合が出来ず、カヴールは教皇領の統合を法皇と交渉したが6月6日急逝し、教皇領の併合は70年まで実現しなかった。
旅に逃れて
シシィは皇帝が戦地から無事に帰還したことに喜んだが、皇帝の威信は傷つき大臣や将軍の多くが敗戦の責任を問われて解任された。シシィは過度のダイェットのため食事が細り咳が止まらなくなった。診察したスコダ博士は 肺の炎症という診断を下し、温暖な地方での転地療養を薦めた。皇帝はアドリア海沿岸を薦めたがシシィは大西洋のポルトガル領マデイラ島に向かう。陰鬱な宮廷を離れて旅をするシシィは生き生きとして60年11月17日出発し、バムベルクで皇帝と別れた、皇帝は別れが長くなるのを思い誕生日とクリスマスのプレゼントを渡した。イギリスのビクトリア女王のヨットでアントワープから出港しマデイラ島のクィンタ・ヴィニャ宮殿に入ったシシィはイレム・フニャディ伯爵、ルドルフ・リヒテンシュタイン公爵、ラズロ・シュパザーリ伯爵らの廷臣を従えていたが、社交を嫌い一人で散歩に出たり馬を乗りこなした。咳は収まったが食事の不規則や心理面での不調は続いていた。ビクトリア女王はシシィに大型のテリア犬を送り、シシィはシャドー(影)と名づけそばに置いた。61年4月28日帰国の途に就くが途中スペインに寄り、公式の歓迎から逃れつつ闘牛を見物、マジョルカ島からマルタ島を経て5月コルフ島に着いた。コルフ島の温暖で明るい太陽はシシィの心をとらえた。迎えに来た皇帝と船上で再会した二人はイタリア・トリエステ近郊の海を見下ろすミラアマ城に皇帝の弟マクシミリアン夫妻を訪問した。マクシミリアンは57年7月17日ベルギーのレオポルド1世の皇女シャルロットと結婚し、北イタリア総督を解任されてからトリエステの海岸沿いに作ったミラアマ城に住んでいた。シャルロットは教養が豊かで学問好きな反面、感情が激しく独占欲と義務観念が強い女性だったとされる。シシィはゾフィーに可愛がられているシャルロットとは肌が合わず、シシィの飼い犬シャドーがシャルロッテのプードルを噛み殺したことも緊張をはらんだ。5月19日半年ぶりにシシィはウィーンに戻ったが4日目には咳と発熱に見舞われた。29日皇帝と共にラクセンブルクに移るが、症状は良くならない。シシィの妹マチルダとナポリ公国フランチェスコ2世の弟ルイジ・トラーニ王子の結婚式がミュンヘンで行われたが出席できなかった。医師はシシィに当時は死病とされた結核の診断を下し、6月21日にシシィは皇帝の見送りを受けて再び療養のためコルフ島に向かった。
27日、シシィはマクシミリアンに伴なわれてコルフ島に着いた。島に来るとシシィの顔色は良くなり、外で遊ぶほど健康を回復する。8月に島を訪れたヘレーネはシシィの病は心の病で、宮廷でのゾフィーや皇帝との不和に有る事に気づいた。ヘレーネから話しを聞いた皇帝はコルフ島へシシィを迎えに行く決心を固めた。10月13日皇帝は島を訪れてエステルハジイ夫人の解任を約束してシシィを連れ帰る、10月26日ベネチアに戻ったシシィは子供たちを呼び寄せ、まもなく皇帝もやってきて2人の時間を過ごしたがすぐに皇帝はウィーンに戻らねばならなかった。次ぎの年の4月ベネチアを訪れたルドヴィカはシシィの健康が再びすぐれないのに気づき、バイエルンのフィッシャー医師に診断させウィーンには帰らずバイエルンのキッシンゲン鉱泉で静養させた。やや回復したシシィは思いで深いポッセンフォーフェンに戻る。7月皇帝がバイエルンにやってきてシシィに帰国を懇願し、8月14日シシィは14カ月ぶりに市民の歓迎の中、ウィーンに戻ってきた。
9月23日プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世はオットー・ビスマルクを宰相に任命。11月21日皇帝の弟カール・ルートヴィヒ大公がナポリ公国王女マリア・アヌンツィアータと再婚した。63年6月から7月末シシィは再びキッシンゲンでの鉱泉治療を受ける。7月31日皇太子ルドルフは木から落ちて頭部を打ち、一時意識を失った、この事故を皇帝はシシィには知らせなかった。12月にはルドルフは高熱に見舞われチフスを疑われたがクリスマスには回復した。12月18日カール・ルートヴィヒ夫妻に男児が生まれフランツ・フェルディナントと名づけられた。64年3月9日バイエルンではマクシミリアン2世が死去。12日シシィの幼なじみでもある18歳のルートヴィヒがルートヴィヒ2世として即位した。「軽く波打つ豊かな髪とうっすらとした口髭は、古代ギリシア彫刻の男性美を具現していた」「オリンポスから降り立った神のようだった」と称えられた。
対デンマーク戦争
64年1月プロイセンはオーストリアを誘ってデンマークに侵攻した。これは1460年デンマークがドイツ民族の多いシュレスウィヒとホルスタイン2州を併合。ナポレオン戦争時デンマークはフランス側に付いたため、ナポレオン没落後ウィーン会議でノルウェー、ポンメルを失った。 シュレスウィヒとホルスタイン2州のドイツ民族にもデンマークから分離を求める気運が高まり、1848年から50年の3回に渡って戦闘が行われたが52年英、露、仏、オーストリア、プロイセン、デンマークの6カ国がロンドン議定書に調印し、結局2州はデンマークにそのまま公国として残されたが、ドイツ系住民の自治権を保障した。 63年9月デンマーク王フレデリック7世は憲法を定め、シュレスウィヒとホルスタインを分離して、デンマークとドイツ人が半々の人口を構成するシュレスウィヒをデンマークに併合した。10月ドイツ連邦はこれに反対し、ザクセンとハノーバーは軍隊をホルスタインに侵攻させる、11月ビスマルクは憲法がロンドン議定書に反すると声明、11月15日フレデリック7世が急死。王には子が無く、相続がもつれ16日クリスチャン9世がホルスタイン公国の王。フレデリック8世がデンマークとシュレスウィヒ、ホルスタイン公国の王として即位。12月31日プロイセンとオーストリアは憲法の破棄を求める最後通牒を送った。
64年2月プロイセンとオーストリア連合軍5万5千は6日シュレスウィヒ市に入ったが、3月ジッペル陣地の要塞攻略に手間取り4月18日ようやく同陣地を攻略し、ガブレンツ元帥のオーストリア軍は5月ユトランド州を占領した。プロイセンの参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケは短期決戦を進言したが、ウランゲル元帥はこれを無視した作戦を行い。デンマークは戦闘を長引かせその間に列国の干渉を得て有利な交渉条件を得ようとする、5月12日イギリスの仲介で休戦したが、シュレスウィヒとホルスタイン2州の割譲を求めるプロイセンとオーストリアにデンマークは譲らず、6月26日再度戦端が開かれた。デンマーク軍はアンセル島のゾンデルブルグ要塞に篭もり抵抗した、プロイセン軍は2度ほど上陸に失敗したが、6月29日島北部に上陸してゾンデルブルグ要塞の側面を衝き全島を占領し、ゼーランド島の首都コペンハーゲンに圧迫を加えた。 クリスチャン9世はついに和議を請い10月ウィーンでガスタイン条約が結ばれ、シュレスウィヒ、ホルスタイン2州とラウエンブルグをプロイセン、オーストリアに割譲した。プロイセンはシュレスウィヒを、オーストリアはホルスタインを勝ち取り、ラウエンブルグはいったんオーストリアに渡され、代金を支払ってプロイセンに売却され、キール港はドイツ連邦の領地になった。これによってプロイセンはドイツ連邦への発言権を強め、北海へ出る航路を確保した。オーストリアはプロイセンの強大化を恐れ、シュレスウィヒ、ホルスタイン2州を独立させて自国の勢力下に収めたかったがこれは成らなかった。シシィはラクセンブルクに病院を開き負傷兵の手当に献身した。
マクシミリアンとシャルロット
4月10日イタリアのミラアマ城で戴冠式を行った皇帝の弟マクシミリアンとシャルロット夫妻は14日メキシコの帝位に就くべく、戦艦「ノヴァラ」号でメキシコの港ベラクルスに向かった。メキシコでは61年大統領ファレスが対外債権の支払を停止、債権を持っていたイギリス、フランス、旧宗主国スペイン3国は62年1月共同して出兵した。しかし内戦で荒廃したメキシコの債権の回収は不可能で、4月にはイギリス、スペインが撤兵してしまい、中米進出に執念を燃やすフランスのナポレオン3世のみがメキシコのカトリック勢力を土台に新政権を樹立して影響下に置くべく、兵力を増強して送り込んだ。ナポレオン3世はヨーロッパ王室の血統をメキシコの帝位に付けて帝政を樹立しようとした。ナポレオン3世は利権の回復を狙うメキシコ外交官ギテレス・デストラーダ、ホセ・イダルゴらからヴィージェニイ皇后を通じて、盛んに干渉を要請されていた。マクシミリアンは兄にイタリア総督を解任されて以来、無為な時間を過ごしており妻シャルロットは、皇后になれるかもしれないこの話しに大いに乗り気であった。フランス軍はメキシコシティに入城すると国民議会を招集してマクシミリアンを皇帝に推戴する決議を行った。マクシミリアンはシャルロットの父レオポルド王に相談すると、メキシコ国民から要請をうけて帝位に就く、英仏に支援を約束させる、なら受諾すべきだとの返答を得た。シシィとゾフィーは遠い異郷の国へ行く事には反対した。皇帝は最初マクシミリアンを翻意させようとしたが結局即位に同意した。しかし、メキシコの帝位に就くなら皇位継承権とハプスブルク家大公の地位を放棄するよう要求する。マクシミリアンは激怒し、ゾフィーは皇帝をとりなそうとするが皇帝はついに応じなかった。ナポレオン3世はマクシミリアンに、現地軍を編成するまで2万5千の軍を駐留させる、外人部隊8千の8年間駐留、軍費調達のため国債の発行。を約束した。マクシミリアンは隠遁的な生活を続けるか、メキシコでの帝位かを大いに悩んだがついに決意し、皇位継承権を放棄する書類に署名し翌日、メキシコ国民会議代表団を謁見した。メキシコ皇帝戴冠式の後、マクシミリアンは謁見室からひとり姿を消し、シャルロットは祝宴で「これからは皇后と呼んで下さい」と振れ回った。6月12日メキシコ皇帝夫妻はメキシコシティに入り、義杖隊と群衆の出迎えを受けて宮殿に入った。
バイエルン国王とワーグナー
バイエルン国王に即位したルートヴィヒ2世は64年4月秘書官長プフィースターマイスター男爵を呼び出すと、リヒャルト・ワーグナーの居所を突き止めるように命じた。男爵は政治がらみの用件での話しがあるのかと思っていたため「ワーグナーとは何者でしょうか…」と尋ねた。国王の説明でワーグナーが作曲家であることを理解した男爵は早速、ミュンヘンの滞在者を調べたがワーグナーは見つからなかったためウィーンへ向かった。ワーグナーの捜索は秘密裏に行い、国王の元に連れてくるようにとの命である。男爵の任務は困難だった。ワーグナーは1813年ライプチヒに生まれ音楽を学び、38年には初めてのオペラを上演、43年「さまよえるオランダ人」を上演、ドレスデンの王室劇場首席指揮者に就任したが49年の革命騒ぎに関わったため逃亡し、警察の手配を受けている。スイス、フランス、イタリア、オーストリアを転々とし各地で作品を作り61年パリで「タンホイザー」を上演。翌年のウィーンでの公演ではシシィの拍手を浴びたが、熱狂的に支持する者もいる半面、酷評も多く公演は赤字続きで借金に追われ、絶望して3月末ミュンヘンで自らの墓碑銘を記していた。5月3日シュツットガルトでワーグナーを探し出したプフィースターマイスターはルートヴィヒ2世からの伺候を求める親書と贈り物を渡した。貧窮していたワーグナーにとってはまさに奇跡のような出来事で、王に感謝の電報を打つとさっそくミュンヘンへ向かい、4日ルートヴィヒ2世の謁見を受ける。芸術と美を追求する若い青年王と、30歳も年長で挫折と栄光の人生を送ってきた音楽家、2人の初めての会話は1時間半にわたった。「王はあまりに美しいので、夢のように消えてしまわぬか心配だが、彼こそ私の幸福の全部であり、もし彼が死ねば私も次ぎの瞬間には死ぬ」とワーグナーは記した。ルートヴィヒはワーグナーの借金を肩代わりし、城から程近いスタルンベルク湖に面した屋敷を与える。ルートヴィヒとワーグナーは作品の上演計画を作った、65年「トリスタン」「ニュールンベルゲンのマイスタージンガー」70年「パルシファル」。ワーグナーは計画の実現のため指揮者のフォン・ビューロー夫妻をバイエルンに呼び寄せた。ビューローの妻はハンガリー人の作曲家リストの娘コジマである。6月末ルートヴィヒはキッシンゲンに静養していたシシィと皇帝夫妻を訪問した。
普墺戦争の敗北
対デンマーク戦でオーストリアと同盟したプロイセンのビスマルクはドイツ民族の覇権を狙い、オーストリアを挑発しガスタイン条約でいったん危機は回避されたものの、ビスマルクは何としてもオーストリアとの開戦を欲していた。まず、フランスのナポレオン3世にライン左岸の割譲を取り引き材料に、対オーストリア戦での中立をもちかけ密約を結ぶ。66年4月にはイタリアに勝利の際ベネチアを与えることで同盟を結んだ。6月プロイセン軍はシュレスウィヒからホルスタインに侵攻した。ワイマール、メクレンブルグはプロイセン側。ハノーバー、ザクセン、ヘッセン、ウェルテンベルグ、バイエルンがオーストリアに立って参戦した。プロイセン軍66万は軍備拡充と訓練に務め新型武器を装備し、参謀総長モルトケの作戦下、鉄道を使った高速の動員と移動が出来たのに対し、オーストリア軍60万は装備が旧式で動員が遅く、イタリア方面にも兵力を割かなければならなかった。オーストリア軍は初めから守勢に回り、イタリア方面ではオーストリア南方軍15万がイタリア軍を破った。ベネデックのオーストリア北方軍24万とバイエルン・カール親王の同盟軍12万が西部ドイツとベーメンの2方面から侵攻したプロイセン軍30万と戦った。オーストリア軍はオルミュッツに集結し、プロイセン軍がベーメンに進むかシュレジェンから西南進するも、いづれの場合にも対応できる配置を取った。6月14日プロイセン軍はハノーバー、ヘッセンに侵入。15日プロイセンのエルベ軍はザクセンに侵攻し18日ドレスデンを占領。オーストリア軍主力はオルミュッツからエルベ河畔ヨセフスタットに前進したが、大兵力の移動には時間が掛かりザクセン軍の救援には間に合わなかった。オーストリア軍は6月27から28日にプロイセン第2軍がリーゼン山脈の隘路から進出しようとするのを攻撃したが、積極的戦意に欠けプロイセン軍を各個撃破する好機を逃し、プラハ北東100キロのケーニヒグレーツ西高地に撤退した。モルトケはギッチン付近で1、2、エルベの3軍に連合を命じ、28日第1軍はザクセン軍をミュンヘングレッツで撃破し、第2軍とベーメンで連絡に成功する。第1軍とエルベ軍はケーニヒグレーツに向かって前進した。7月2日夜、ケーニヒグレーツ付近でオーストリア軍がエルベ河西岸にまだ陣地に付かないままいるのを知ると、第1軍は直ちに攻撃することにし、第2軍に敵背面を攻撃するよう伝令を出し来援を頼んだ。3日朝、第1軍は第2軍の到着を待たずに攻撃を開始し、不意をついてオーストリア軍北面の森を占領した。態勢を立直したオーストリア軍は奪還のため、正面の第1軍団に加えて陣地の右翼で配置に就いていた第2、4軍団を投入してプロイセン軍に反撃し、砲250門の砲撃を浴びせられたプロイセン第1軍は苦戦に陥った。戦況を見ていたウィルヘルム1世やビスマルクは焦慮の表情を浮かべたが、モルトケは平然として第2軍の戦場への到着を待った。果たして、午後1時ごろプロイセン第2軍が東から現われ、オーストリア2、4軍団が出撃して空になった右翼を襲った。これによってオーストリア軍の戦線は崩壊し、2万4千の損害を出してエルベ河東に壊走した。プロイセン軍も損害と疲労が多く2日後までオーストリア軍を追撃しなかったため、オーストリア軍は包囲を免れた撤退したが、このケーニヒグレーツの敗戦は戦争の帰趨を決定付けた。4日バイエルン軍もキッシンゲンで降伏。7月20日フォン・テゲトフ少将のオーストリア艦隊はリッサ島付近の海戦でイタリア艦隊を破るが、すでに戦局を覆すことはできない。
18日プロイセン軍はあと2日前進すれば首都ウィーンに入れる所までやってきた。ウィーンでは市民がプロイセン軍の入城を恐れ逃げ出し始める。シシィは負傷兵を見舞い、そばにいてくれるよう懇願する負傷兵の手を握って手術に立ち会った。しかし、ビスマルクはモルトケにウィーン進撃を中止させた。オーストリア軍主力を破った以上ウィーン占領は簡単だが、それによってオーストリアがドナウ河やハンガリーで抵抗を続けた場合、長期戦になる。その場合フランスが介入するとプロイセンは挟撃されることになる。決戦で勝利し、ドイツ連邦の覇権を手中にした以上はオーストリアと講和してフランスに備えなければならない。と考えたためである。戦争は7週間で終わり、8月にプラハで講和会議が開かれた。オーストリアはイタリアに残る最後の領土ベネチアを失い、賠償金を支払う。プロイセンはシュレスウィヒ、ホルスタインを得て北ドイツ連邦が成立した。

(第3章)(第1章)(表紙)