エリザベート
バイエルンの薔薇
1837年12月24日、バイエルン王国(現在のドイツ連邦南部バイエルン州)の首都ミュンヘンでヴィッテルスバッハ公家に女の子が誕生した。父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵はヴィッテルスバッハ分家の長。母ルートヴィカはバイエルン王マクシミリアン1世の王女。クリスマス・イブに生まれたこの第4子は、ルートヴィカの伯母であるプロイセン王妃から名前をもらいエリザベートと名づけられた。
当時のバイエルン王国はルートヴィヒ1世の治世で、国王はミュンヘンにローマ風の建築物を作ろうと、工事を急がせていた。バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家の血統は、芸術家肌の奇行を行ったり、精神異常を来す人物が生まれることでも知られていた。マックス公と呼ばれたエリザベートの父マクシミリアンも異常者ではないが、奇行の多い人物だった。ミュンヘンの宮廷や社交界にはあまり顔を出さず、狩猟や釣りを好み馬に乗って山や森を駆け巡り、村々を泊り歩いた。旅行を好みギリシャ、トルコ、エジプトへ渡り、カイロでは黒人奴隷4人を買い入れ自分の使用人にした。集中力があり、楽器のチターに凝り、エジプトのピラミッドの上に登り音色を奏でた。また、文芸にも秀でペンネームを使って戯曲や詩作を書いた。経済観念には乏しく、財政は窮乏していたが教養、知識があり貴族でありながら共和主義的な自由人であった。この気質はエリザベートにも遺伝した。
マクシミリアンは8人の子供をもうけた。長男ルードヴィヒ・ヴィルヘルム、次男ヴィルヘルム、長女ヘレーネ、次女エリザベート、3男カール・テオドール、3女マリー・ゾフィー・アマリエ、4女マチルダ・ルドヴィカ、4男マクシミリア・エマヌエル。ルートヴィカは分家の気軽さから当時の習慣に反して、子供たちを手元で育てた。兄弟姉妹は冬期は首都で、夏季はバイエルン高原ポッセンフォーフェンの館(通称ポッシ)で、美しい自然の中で時を過ごした。「シシィ」と呼ばれた次女エリザベートは家庭教師のルイーズ・ヴェルフェン男爵夫人を付けられたが、シシィは馬や犬と戯れ、絵を描き、父と同じく詩作に没頭した。マックス公もそんなシシィの性格を愛し、開放的な教育をさせた。やがて運動神経に優れたシシィの乗馬技術は上達し、山野を駆け巡る。勉強とピアノは不得意であったが、興味を持った事には高度な集中力を示した。
ポッセンフォーフェンにはルートヴィヒ1世の孫、シシィより8歳年下の後のバイエルン国王ルートヴィヒ2世も訪れてシシィやカール・テオドールと遊んでいる。48年夏ルートヴィカはヘレーネ、シシィを連れてインスブルックに妹ゾフィーを訪れた。ゾフィーはハプスブルク家のオーストリア皇帝の弟フランツ・カールと結婚し、大公妃になっていた。フランツ・カールとゾフィーの長男フランツ・ヨーゼフ・カールは30年生まれの18歳で、10歳のシシを気に留めたのは33年生まれ、15歳の3男カール・ルードヴィヒだった。ルードヴィヒはシシに手紙を書き、贈り物を贈った。シシも返事を書き、やはり贈り物を送る。シシの手紙には森や湖の事、母にもらった羊の話や旅芸人に会ったことが書かれていた。
揺れるハプスブルク帝国
48年はヨーロッパ19世紀の中間で「狂瀾の年」と言われた。フランス大革命からナポレオン没落を経て、ウィーン会議で革命前の体制に戻ったが、再び共和主義と民族意識の高まりは各国の王政を揺さぶっていた。2月フランスで革命が起き、30年7月の7月王政から王位に就いていた、ルイ・フリップが王座を追われ共和制が成立。3月オーストリアのウィーンでは共和主義者の暴動により、14年のナポレオン戦争からウィーン会議体制で辣腕をふるった宰相メッテルニッヒが辞任、ロンドンへ亡命。市民・学生・兵士の公安委員会が実権を握った。7月憲法制定議会が開かれ、農奴制の廃止が決められた。オーストリア支配下のイタリア、ハンガリー、ベーメン(チェコ)でも各民族の自治権を求める要求や蜂起が起きた。広大な版図を誇り「日が沈むことはない」と言われたハプスブルク帝国は多くの異民族を抱えた国家だった。宮廷はウィーンからインスブルックへ逃れた。しかし、オーストリアの軍事力は強力で保守派は武力で革命を弾圧、各地の民族蜂起もお互いの連携がなかったため各個に鎮圧された。6月ヴィンディシュ・グレーツ将軍によってベーメンの暴動が鎮圧され、政府とスラブ民族会議が解散される。イタリアでは7月ヨーゼフ・ラデツキー将軍が、イタリア統一を図るサルディニア軍を破り失地を取り戻す。10月再びウィーンに暴動が起きると、宮廷はモラビアのオルミューツに逃れる。11月ヴィンディシュ・グレーツ将軍はクロアチア人部隊を率いてウィーンを包囲して砲撃を加え奪回。11月メッテルニヒの後継者を任ずる保守派フェリックス・フォン・シュヴァルツェンベルクが宰相に就く。12月病弱で「温和な皇帝」と呼ばれたオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位する。フェルディナント1世には子供がなく皇位継承順は弟フランツ・カールなのだが、ゾフィーの夫フランツ・カールも兄に似て平凡な人物で帝国の難局に当たるのはとても無理だと思われた。ゾフィーは宮廷に権力を振るっており、自分が皇后になるより、皇帝の母として息子の聡明なフランツ・ヨーゼフを帝位に就けた。12月2日、18歳と3カ月のフランツ・ヨーゼフはオルミューツの大司教館で即位。ゾフィーからあらかじめ皇帝になるべく帝王学を授けられたフランツは、精神的に不安定な所は無く、几帳面、勤勉で真面目な人物で軍隊式の規則正しい質素な生活をしていた。軍人として同年5月には実戦を経験している。美男でもあり、スマートで整った顔立ちは女性を騒がせていた。「ViribusUnitis(一致協力して)」を標語に掲げたフランツ・ヨーゼフは多民族国家ハプスブルク帝国の切り札として、皇帝の威信を回復しなければならなかった。49年3月フランツ・ヨーゼフは憲法を発布。オーストリアのみを単一国家とし、ハンガリーを直轄領。イタリアのロンバルディア、ベネチアを州として民族主義を押え込んだ。シュヴァルツェンベルクはクレムジールに逃れていた憲法制定議会を解散させる。10月独立を求めるハンガリーをロシア軍の援助で鎮圧。ロシア皇帝ニコライ1世はポーランドに民族主義が波及することを懸念してオーストリアを助けた。
48年の動乱はバイエルンにも波及し。舞踏家を名乗りすでに、スキャンダルにまみれていたスペイン女性ローラ・モンテスに入れ込んだルートヴィヒ1世は、豪華な屋敷と爵位を与えて貴族、国民の不満を買っていた。やがて政治にまで口をはさみ出したローラに国民の不満は募り、国王に追放を迫った。群衆はローラの屋敷を襲撃し、ローラを追放しても騒ぎは収まらず、ルートヴィヒ1世は3月11日退位。37歳の長男マクシミリアンがマクシミリアン2世として即位した。マクシミリアン2世の妻マリアはプロイセン王家ホーエンツォレルン家の出身だった。
帝国領内の民族運動を武力で押え込んだオーストリアは、他国と姻戚関係を結んで帝国を強化しなければならない、政略結婚はハプスブルク家の伝統的な政策である「戦は他人にまかせておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」。ゾフィーはフランツ・ヨーゼフにめぼしい皇妃を物色し始める。ゾフィーが最初に目星をつけたのはプロイセンの王女だったが、ビスマルクの反対やプロテスタントであり、更にヘッセン・カッセル国王子と婚約していたことで実現しなかった。ビスマルクはオーストリアはドイツ民族の盟主の座をめぐる競争相手であり、姻戚関係を結んで共存を図るのは考えられなかった。ゾフィーは実家のバイエルンのヴィッテルバッハ家の姪のヘレーネを思い出した。バイエルンはオーストリアと同じカトリック国で、ヴィッテルバッハとハプスブルク家の縁組みが再び実現すればプロイセンとの対抗上も都合が良い。ヘレーネは美人でおとなしく洗練されていて、皇后にはうってつけと思われた。53年8月16日ゾフィーはルートヴィカとヘレーネをウィーンから200キロほどのイシュルに呼び出した。ルートヴィカはヘレーネの妹で、おてんばなシシィも社交儀礼でも学ばせるつもりで同行させることにした。
政略結婚
ルードヴィカ一行の馬車はオーストリア・ホテルに時間より遅れて着いた。ルードヴィカは大急ぎで娘たちに身支度させた、木帳面な皇帝は時間には正確であった。皇帝は公務から短い休暇を過ごすつもりでここへやってきた。午後4時、ヘレーネとシシィの姉妹は皇帝に紹介された。ヘレーネは儀礼にのっとり美しく挨拶し、次いでシシィもうまく挨拶が出来た。しかし、皇帝の視線を独占したのは本命のヘレーネではなくシシィだった。額を出して髪を中央から分けうるんだ瞳を持ったシシィは、美人で洗練されているが型にはめられた印象のあるヘレーネよりも飾り気がなく、かえって自分にない闊達な性格が皇帝には魅力的に映った。皇帝の一目ぼれに慌てたゾフィーはシシィはまだ15歳で、礼儀も知らないしわがままに育てられた。皇妃としての準備も出来ていないと欠点をあげてヘレーネを推した。しかし、これまでは母への従順を通してきた23歳の皇帝は、はじめて自分の意見を強硬に述べたのだった。皇帝は妃は自分で決めると言い出した。翌日の昼食会でシシィは隣室に締め出されていたが、皇帝はシシィを呼び出させた、部屋に入ったシシィは勝ち誇ったように乱暴に一礼する。周囲は好奇と非難の視線を浴びせたが、皇帝はますますシシィのとりこになってしまった。夕食会では皇帝の隣に座っていたのはなおヘレーネで、シシィは母の隣で周囲の雰囲気を察して食事もほとんど取らずに目を伏せて、頬を染めていた。皇帝は夜の舞踏会ではぜひシシィを招きたいと言った。舞踏会では通常、皇帝自身は踊らないのが作法だった。シシィは元々出席の予定がなかったので姉の白のサテン・ドレスに対して薄いピンクのドレスを着て不安げに、一礼するかわりに皇帝の握手を求めた。オーケストラが演奏を始め45組のペアが踊り始めた、皇帝はシシィと踊る侍従のヴァクベッカーに「次ぎのポルカでエリザベートを誘うように」と言い含めた。皇帝は慣例を破って最後のダンスをシシィと踊る、皇帝はシシィから目を離さずに次のステップを教えながら踊り、花束を捧げた。これは結婚の申し込みを意味した。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの一目惚れ
次の日8月18日は皇帝の23歳の誕生日だった。この日なおゾフィーは乗り気ではなかったが、皇帝はシシとの結婚を決意していた。昼食会ではヘレーネに代わってシシが皇帝の隣に座っていた。午後、ゾフィーは皇帝とヘレーネ、シシィを伴なって馬車でザンクト・ヴォルフガングの町まで散歩に出かけた。散歩から帰ると皇帝はついにゾフィーを説得した。政治的には姉でも妹でもハプスブルク、ヴィツテルスバッハ両家の政略関係には同じ事である。しかし、ゾフィーは従順だった息子の皇帝が、初めて母の意志を退けた事が不愉快であった。はるかに年下である15歳のシシィに嫉妬さえした。しかし、ハプスブルク宮廷を支配しているのはゾフィーである、田舎者で勝手気ままなシシィには、これからハプスブルク宮廷の儀礼や作法、皇妃としての教育を施さなければならないと考えた。まず、姑としての威厳をもって皇帝に「シシィはきれいだけど、歯が黄色い」と言った。歯並びが悪いのはヴッテルスバッハ家の血統で、自由勝手なのもまたしかりであるが、ゾフィーは既に実家の娘よりもハプスブルク家をささえる女傑であり皇帝の母、シシィの姑である。シシィは夕方、当事者として最後に結婚を告げられた。涙を流しながら「あの方を愛しています。でもあの方が皇帝でさえなければ…」「私はまだ幼いし、あの方をしあわせにしてさしあげられるのでしたら、何でもします…。けど、私にできるかしら」と運命の急転に一晩泣き明かした。
19日、早朝にゾフィーとルードヴィカは婚約を文書にして確認した。待ちきれない皇帝は早起きしてルードヴィカの元へ駆け寄り挨拶をする。母の部屋の前にいたシシィを抱き寄せ、かるく口付けをし、さっそく侍従や客にシシィを紹介した。噂はホテルから街に広がった。教会のミサに出席した皇帝とシシィは共に歩き、司祭に婚約者を紹介し祝福を願った。噂を聞きつけた群衆が教会を出る二人に花びらを降らせた。皇帝とシシィはハルシュタットへ婚約後初めての外出をする。グリュンネ伯爵が御者をつとめ、皇帝は軍服に軍帽、シシィはブルーの日傘をさし、薄い色の服で無蓋馬車に乗った。この場面は後に想像して描かれた絵に残っている。ハルシュタットからの帰途イシュルの街には蝋燭が灯され、二人のイニシャルが浮かんでいた、シシィは涙でこの光景を見た。皇帝は画家を呼びシシィの肖像を描かせるが、やんちゃなシシィはじっとしていない。出来上がりは皇帝が満足するものではなかった。皇帝が「生涯でもっともしあわせな数週間」と述べた8月の休暇は終わり、皇帝はシシィをザルツブルクまで送ると、政務の待つウィーンへ戻った。シシィは皇后になるはずだった姉ヘレーネとともに出発し、自身が未来の皇后としてバイエルンに戻った。9月7日ウィーンの宮廷に戻った皇帝は公使を呼び、婚約を承認したバイエルン国王マクシミリアン2世へ感謝の意を伝えた。婚約者を得た皇帝は首都の戒厳令を解除し、ハンガリーの反乱者に対する死刑判決を強制労働に減刑する恩赦を与えた。
10月皇帝はミュンヘンに向かい、マクシミリアン2世夫妻を訪問し、ポッセンホーフェンのシシィの元へやってきた。伸びやかで、嫁入りの支度もろくにしていないシシィは6週間会わない間に一段と美しくなっているように見えた。15日ミュンヘンでバイエルン王妃マリアの誕生日を祝うオペラ座の公演に、2人はいっしょに初めて公式行事へ出席した。出席者から拍手と興味深い視線が注がれ、こういった場に慣れてないシシィは戸惑った。好奇の視線と公式の場の儀礼的雰囲気にシシィは生涯慣れることは無かった。皇帝は2日間でウィーンへ戻る。ロシアとトルコが4日に開戦しており、政務に追われていた。シシィには外国語の教師が付けられた。バイエルンとオーストリアは同じ民族で方言こそあれ、同じドイツ語だが多民族国家のオーストリアには幾つもの言語と民族文化がある。シシィはフランス語、イタリア語の他にオーストリアと同時にハンガリーの言語と歴史を学ばされたが、シシィは特にハンガリーの文化に興味を持った。12月のクリスマスはシシィの16歳の誕生日でもある。皇帝はこれまでいっしょにクリスマスを過ごした母に代わりに、シシィと過ごすため、20日夜ミュンヘンに到着した。皇帝はバラの花とオウムのプレゼントを贈った。54年3月4日結婚証書の署名がミュンヘンで行われ、持参金、年金の取り決めが行われた。結婚式は4月24日に行われる事に決まった。シシィは不安から憂鬱になり、心配したルートヴィカが結婚の延期を願い出たほどだった。
4月20日シシィとマクシミリアン公ら近親者一行はミサを終えると、沿道の市民に送られてバイエルンを後にオーストリアへ向かった。シシィは幼い頃から仕えてきた召し使いに贈り物を渡し、握手で別れた。これからはオーストリア皇妃として作法により握手などは出来なくなる。同日夕、婚約者を待ちきれない皇帝もウィーンを発った。翌日シシィの一行はドナウ河畔のバイエルン・オーストリア国境の町パッサウに到着した、パッサウでも歓迎の飾りと人波が満ちていた。一行は船に乗り換えドナウ河を下りリンツに向かった。オーストリアのリンツでは予定になかった事だが、皇帝が待っていた。翌日一行は皇帝の名前を冠した大型汽船フランツ・ヨーゼフ号に乗り込み、ウィーンへ向かう。シシィは疲れていたがバラのアーチが飾られた甲板に上がり岸辺に群がる人々に姿を見せた。午後、スッスドルフに着くと皇帝はピンクのロングドレスに白いコートに着替えたシシィを埠頭で抱きすくめ、2人は拍手につつまれた。シシィはゾフィーにお辞儀をするとレースのハンカチをひかえめに人々に振り「エリザベート万歳」の歓声が起きた。ホーフブルク宮殿に着いたのは夜だった、シシィは疲れきっていた、全ては予定された儀式で周囲が勝手に自分を引っ張りまわしていた。シシィは宮殿の前庭に集まった群衆の前にバルコニーから姿を見せなければならなかった。これからはもうオーストリア皇妃として国民の前で、自分の意志などとは無関係に模範を演じなければならない。23日朝早くからシシィは4時間をかけて女官達に正装させられ、ホーフブルグへ馬車行列で向かった。ハプスブルク家の伝統に従って行列は夏宮テレジウムから出発し、エリザベート橋と名づけられた橋の渡り初めをした。行列の先には貴族の子女が花びらを撒いていたが、シシィは馬車の中で泣いていた。馬車はホーフブルク宮殿に到着し、シシィは馬車から降りようとして頭の宝冠をひっかけてよろける。皇帝はシシィの手を取り馬車から下ろした。ゾフィーは苦々しい視線でシシィの失態を見ていた。皇帝はシシィを伴なって宮殿に入り、宮殿の聖堂で正餐式をすませ皇帝は宮殿の2人の新居に案内した。新居には26部屋が用意されていた。
4月24日ついに結婚式の日が訪れた、招待者は7万5千人。結婚の儀式は夕方からおこなわれた。シシィは金銀糸の縫い取られたサテンの服にレースのベールの裾を引き、王冠を被り胸元から腰まで白バラのブーケを飾った輝くような美しさである。行列は王室の結婚が行われるアウグスティン教会へ向かう。まず皇帝が一人で教会に入る、その後ろにゾフィーと皇帝の叔母がシシィに付き添って続く。70人の司祭を従えたラウシャー枢機卿が2人の前で説教を始めた。枢機卿は「おしゃべり」と渾名されたほど口数が多く、この時も延々と説教を続けた。2人は誓いの言葉を交わし、シシィはやっとのおもいで「はい」と小さく誓いを立てた。7時ごろ教会の鐘が儀式の終わりを告げ、礼砲と歓声が街に響いた。皇帝の馬車に乗った皇帝とシシィはホーフブルクに戻り、儀式の間で二つの王座に座って王侯貴族、各国外交官の祝辞を受けた。シシィはそれらの人々に作法に従って、差し出した手へのキスを受けていたが、親類の女性たちを見ると親しく抱擁したい思いにかられたが、既に皇后としてのしきたりに縛られていた。やがて気分が悪くなったシシィは人のいない広間に入って泣いた。従兄弟を見つけたシシィはその首に抱き着いた、あわててゾフィーが儀礼に反すると飛んできた。
厳格な宮廷儀礼
結婚式の翌朝、シシは逃げ出したかったが、朝食は家族全員が揃うことになっていた。しかも、皇帝に促されやっとゾフィーらの好奇の視線に耐えていたシシィを置いて、皇帝は政務を執るため去ってしまった。夜には皇帝夫妻の主催する大舞踏会が開かれ、着飾った皇妃と皇帝は最後のダンスで共に踊った。翌日、大体育館でエルネスト・レンツ一座のサーカスが行われ皇帝夫妻もショーを見た。シシィは馬を使った曲乗りやアクロバットに目を輝かせ、レンツを謁見して質問を浴びせた。
ウィーンの宮廷作法は長い歴史を誇るハプスブルク家らしく16世紀からの重厚な儀典を伝えるもので、何事にも堅苦しく定められおり、自由に育ったシシィには我慢のならないものばかりだった。その日の日程は朝、侍女が持ってくる書類に事細かく記されている。また、靴は1度しか履いてはならないとか食事の時も手袋をはめなければならない、などの決まりもあった。
皇帝の結婚に際し、恩赦の勅令が発せられ各地から恩赦への返礼使節がやってきた。皇帝とシシィはその使節団に合わせて衣装を変えて謁見したが、シシィは初めてハンガリーの使節を迎えるため民族衣装を着て現れ、拍手で迎えられた。皇帝はハンガリー使節団に訪問を約束し、皇妃を歓迎してくれるよう求めた。夏が近くなると皇帝とシシィはウィーンの南にあるラクセンブルク城に移り、蜜月をすごしたがここでもゾフィーの干渉から逃れることは出来なかった。皇帝は好きな狩猟に出かけてしまい、シシィを置き去りにすることも度々だった。皇帝は朝にウィーンに出かけ夕方にはラクセンブルクに帰る日課だったが、シシィは一人にされるのが不満で、皇帝をウィーンまで見送りたかったがゾフィーはとんでもないことだと禁止した。ある日、シシィは皇帝について隠れてウィーンに一緒に行くことに成功したが、戻った2人はゾフィーの激しい怒りにさらされた。