第7回 古代の墓ではなかった、宮前遺跡 

 前回の俣埜遺跡では、「カナクソ山」「丸池」という、現代に伝わるヒントが発掘調査の成果と結びついたことを紹介しましたが、今回紹介する宮前遺跡(みやまえいせき)にもまた、古くからの伝承が残されていました。

 
宮前遺跡の広がり

「穴観音」=古代の墓?
 北永井稲荷神社を北へ100mほど進んだ、交差点西側の崖沿いに宮前遺跡はあります。かつてこの崖には道に面して穴が開いており、中に観音様が祀られていたという「穴観音(あなかんのん)」の伝承がありました。それを裏付けるように、崖下の道を拡張工事した際、崖を掘り込んだ横穴が見つかっていたことから、ここには古代の墓があるのではないかと考えられていました。

床には厚く積もった炭
 平成15年に発掘調査が行われ、まさに崖を掘り込む大きな横穴が発見されました。しかし、調査を進めると、穴の床には炭や焼けた土などが厚く積もっていました。こうした状態や、壁の一部に地上とつながる煙出し用の穴が掘られていることなどから、これは古代の墓ではなく、木炭を作る炭焼き窯であることが判明しました。炭の科学分析結果から、8世紀頃(奈良時代)に作られたと考えられます。
  「穴観音」は墓ではありませんでしたが、それは間違いなく古代の遺跡でした。この地に残る伝承も俣埜遺跡と同じく、古代と現代をつなぐ重要な架け橋だったのです。


かつてこの地に立っていた標柱



穴の内部。床だけでなく、天井や壁にもたくさんの炭が付着していた
  
~~~~~~~~~~ 深掘り解説 ~~~~~~~~~~


大規模な製鉄遺跡へつづく崖
 宮前遺跡の木炭窯が見つかった崖線を東へ2kmほど進むと、ふじみ野市の東台遺跡という奈良時代後半から平安時代にかけての大規模な製鉄遺跡があります。
 東台遺跡では、砂鉄と木炭を燃やして鉄を作る製鉄炉が7基、木炭窯が10基のほか、第6回の俣埜遺跡でも紹介した粘土採掘坑や鋳物の型となる鋳型などが見つかりました。なかでも、羽釜の鋳型は直径60cmもある大きなもので、この場所で大規模な製鉄作業が行われていたことがわかります。詳しくは下記ページをご覧ください。

東台の製鉄工場 -奈良時代-(ふじみ野市HP)

 鉄を作るには大量の木炭が必要です。宮前遺跡は東台遺跡と同じ崖線上にあることから、宮前遺跡で作った木炭を東台遺跡へ持ち運んで使っていた可能性もあり、関連性が注目されます。



 (『広報みよし』令和2年10月号掲載分を加筆修正)


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