第6回 三芳にもあった製鉄のムラ、俣埜遺跡 |
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現在、藤久保俣埜(またの)交差点から北西へ向かうと下り坂になりますが、この交差点付近に、鉄くずが拾えることから「カナクソ山」とよばれる場所がありました。また、坂の下には、かつて「丸池(まるいけ)」という池がありました。このあたりを川が流れていた名残りです。 今回取り上げる遺跡は、そうした場所に広がる俣埜遺跡(またのいせき)です。
町内で初めて見つかった製鉄遺跡 平成17年の発掘調査では、今から約1,300年前、奈良時代の鉄を作っていた作業場跡や住まいの跡(3軒)などが見つかりました。 ところで、鉄を作るためには、砂鉄と木炭のほか、製鉄炉や鋳型(いがた)を作るための粘土も必要になります。調査では木炭を作るための炭焼き窯、粘土を採るための大きな採掘抗(さいくつこう)のほか、製鉄炉に風を送るための羽口(はぐち)、鉄製品を作るための鋳型も見つかりました。 砂鉄はすぐ近くを流れる川から集め、木炭はこの場所に生えている木を伐採し、粘土は地中を掘って採取する。鉄製品を作るための一連の作業が、この地で計画的に行われていたことが明らかになりました。
太古と現代を結ぶもの 俣埜遺跡では「カナクソ山」、「丸池」という現代に残されたヒントが、発掘調査の成果と見事に結びつきました。 太古の暮らしの痕跡は、実は私たちの身近なところに、今も息づいているのです。 |
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~~~~~~~~~~ 深掘り解説 ~~~~~~~~~~ |
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製鉄のムラならではの工夫 奈良時代、人々は住まいの中にカマドを作り、煮炊きなどに使っていました。カマドは、丈夫に作るため、芯の部分に大きな川原石などを使い、そこに粘土を張り付けて全体を形作りました。 俣埜遺跡の調査でもカマドが見つかりましたが、その1つには、芯材として川原石ではなく、壊れた製鉄炉の壁が使われていました。製鉄炉の壁は、溶けた鉄がびっしり付いていて頑丈ですので、カマドの芯材に使えると考えて再利用したのでしょう。まさに、製鉄作業を行っていたムラならではの工夫です。
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(『広報みよし』令和2年9月号掲載分を加筆修正) |