興隆旅のアルバム2000年

 

2000年8月17日〜23日 興隆県を訪ねた授業交流団の写真集です。

詳しくは会報2000秋を御覧ください。

CONTENTS

 

劉杖子

劉杖子小学校入り口 。
劉杖子

小学校の校庭に子どもたち、村の人たちが集まり贈呈式。
建築資金としてボランティア貯金の配分金232万円と、当会募金50万円を贈呈。

劉杖子

理事Tさんが代表して目録を贈呈。

劉杖子
劉杖子小学校は、孟副県長の母校でもある。孟副県長のご両親も贈呈式には来ておられた。
劉寨子
劉寨子中学校入り口。
劉寨子は興隆県の最北西の峪。
劉寨子
女子寄宿舎と理科実験室の建築が始まっていた。
劉寨子
贈呈式には村の人たちや、子どもたちがたくさん集まった。
劉寨子
贈呈式に集まった劉寨子の子どもたち。
劉寨子
建築資金として会員のカンパ200万円を贈呈した。
劉寨子
団からのお土産はFさんの版画をさしあげた。
劉寨子
リコーダーの贈呈。
K大学教育学部のMさんが演奏。
劉寨子
ラジカセの贈呈。
都立看護学校のMさんから 。
河南大峪
河南大峪は興隆県の北東の果ての峪
上ったり、下ったり、ジープでもこわいところ。
河南大峪
京劇風の服装をした村人たちが待っていて、ドラを鳴らし、踊りながら学校に案内してくれた。
河南大峪

鍵盤ハーモニカの授業。
Mさん、Iさん、Nさんの熊本グループを中心に 。

河南大峪
最初は子どもたちもちょっと緊張気味。
窓の外から村の人たちがのぞいている。
河南大峪
教室の中では、机間に入って指導をした。
河南大峪
Mさんも興隆で授業をするのは今年で4年目。
指導にも熱が入ってきた。
河南大峪
緊張も解けると、教室には笑顔が広がりました。
河南大峪
大分県の小学校から、
中国のお友達へ、おみやげ。
河南大峪
昼食後、
日本の先生の周りに子どもたちが集まってきた。
河南大峪

昼休み、
子どもたちとなわとび、
なわとびは初めてのようでなかなか上手くいきません。

河南大峪
K大学の医学部の学生はバレーボールとサッカーボールを持ち込んで、子どもたちと遊んだ。
モクイ

モクイでは、もう恒例になりました
キャンプファイヤー 。
年に一度の村祭りのよう。

モクイ
あざやかな女の子たちの踊り。
モクイ
キャンプファイヤーの炎に映える。
モクイ
小さな女の子たちの元気で軽やかな踊り。
モクイ
男の子たちの力強い武踊。
モクイ

日本側はTさんのギターにあわせて合唱。
ギターは寄贈した。

モクイ
K大学のSさん
トランペットの音がモクイの峪に響きわたった 。
モクイ
日本側演芸隊長はNさん
今年も汽車ごっこ
中国語歌詞を用意。
モクイ
汽車ごっこは、日本人と中国の子どもたちが輪になって楽しんだ。
興隆街

興隆県人民医院

今年は医学部の学生、看護学校の学生が興隆県の病院を見学した。

興隆街
興隆県人民医院の応接室で座談会
学生たちは積極的に質問 。
モクイ
興隆県人民医院の施設見学。
モクイ
こちらはモクイ郷の診療所、
誠意ある対応 をしていただいた。
モクイ

モクイの朝、

殺人抗跡で古老の証言。

モクイ
モクイ人圏惨案碑、
通訳のKさんが訳してくれている。
モクイ
モクイの馬道付近で古老の証言、
モクイでの証言は今年で4回目だが、毎年新しい発見がある 。
河南大峪
河南大峪での古老の証言
この小さな谷を1943年1月、7000人の日本軍は包囲した。
河南大峪
河南大峪で証言をしてくださった古老たち。
河南大峪
古老たちの証言を聞いた後、K大学のAさんは「しっかりとした歴史観のもとに、子どもたちと共に愛と希望に満ちた世界を作りたい」とお礼を述べた。

潘家峪

証言へ

潘家峪は長城の南
石灰岩のなだらかな谷の続く、一番奥にある。
1941年1月25日、1700人の村民のうち1230人が殺された。
潘家峪

日本軍は、凍り付いたこの池に村人を狩り出し、追い込んでいった。

その後、近くの地主の家に村人を移動させる。

潘家峪

村人が集められ殺された地主の家。
村人は、この中に押し込められ、火を付けられ、機関銃掃射で殺された。

潘家峪
証言をしてくださった潘さん、
当時12歳 。
潘家峪

池の脇に残るアカシアの木
当時の火災で、焼かれ、枯れてしまったに見えたが、後に生き返った。

「村の悲劇のすべてを見たこのアカシアも、村人の力を象徴するように、不屈の意志を持って再生した。」と立て札に説明がある。

潘家峪
潘さんは、殺戮の後、この豚小屋に逃げ込んだ。
見回りに来た日本兵と目があったが、日本兵は見逃し、生き残れたという。
魯家峪
カルスト地形、石灰岩の山の上、
冀(河北)東の根拠地の中心、
ここに 冀東軍区指令李運昌はいた。
魯家峪

記念碑の下の洞窟に入る。
中は真っ暗で、隣の人も見えない
50年前に戻ったかのようだった。

魯家峪
軍隊と村人はいっしょに抗日をたたかった。
対岸から砲弾が撃ち込まれ人々は折り重なって死んだ。
魯家峪
小高い丘の上にある魯家峪の記念碑の下。
宋慶齢故居

北京では宋慶齢故居で、

K氏夫妻と。