会報2000年秋 報告とお願い
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配分金・カンパ・賞金などのこと
  • 今年のボランティア貯金の配分金は下記の通りです。利子が低いため、総額は昨年の半分だそうです。
    ボランティア貯金の配分金 242.8万円
    内訳、劉杖子小学校の建設費 232万円 スタッフ連絡旅費・航空運賃 8.4万円 宿泊費2.4万円
  • 劉寨子中学の女子寄宿舎建設のカンパは、7月末に1891980円になりました。ありがとうございました。カンパ第1号は、大分のTさんからの20万円でした。和子夫人のお香典返しとして当会にお送りくださいました。8月以降お送りくださった方の分は今年の会計に入れます。
  • 日中学院から、本年度の倉石賞をいただきました。 倉石武四郎さんの記念基金によるもので、大変名誉な賞なのです。選ばれた個人としては、Hさん(早稲田大学名誉教授)、中国語教育に生涯を捧げた方です。団体では、当会、中国山地教育への教育支援を賞されましたが、ありがたくお受けすることにいたしました。7月8日授賞式に参列いたしました。賞金として40万円いただきました。当会理事のKさんのご紹介によるものです。学校建設の不足分に使わせていただきました。
  • 建設資金としては、当会から250万円興隆県教育局へ8月上旬送金しました。内訳は、50万円は劉杖子小学校へボランティア貯金の不足分を、200万円は劉寨子中学校の女子寄宿舎建設費用にあててもらいました。
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第4次教育興隆訪中団のこと
 今年も例年のように8月17日から23日まで、興隆行を行いました。東京・福岡発25名、北京からK大学医学部5年生の学生8人と、通訳として北京師範大学のK先生と学生のKさんの2人を加え総勢35名の団でした。4年連続で参加している方、2年の方、3年の方、いろいろいらっしゃるのもこの団の特徴かもしれません。
  K大学医学部ではN交流協会が中医学、中日結合医学を学ぶという目的で、毎年学生を中国に派遣していて今年で16回目を迎えます。北京、長春、西安等をめぐって3週間ほど医学交流を深めているのですが、今年の学生たちは、僻地医療に関心を持って、興隆県への参加を日程に組み込んで、われわれといっしょに行動してくれたということです。 また学生は、他にK大学教育学部、都立看護学校の学生もいて、若い方の関心に感謝したことです。
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今年の旅の特徴

1.病院の見学

  興隆県の病院とモクイ郷の病院を見学することができました。学生たちは積極的に質問していました。病院側も専門医が出てきて誠意ある対応をしてくれました。興隆県には、紅ロウ病という難病があって心配していたのですが、現在では、薬も開発されてかなりへってきているようでした。
  郷の病院も間口より、奥に広く、各科がそろっていて整備されていると医学生たちは感心していました。夕方に着いて、他の人々が以前民泊させてもらった家にお礼に走っている間の見学でしたから、あまり時間もなく、質問事項は紙に書いて院長さんにわたしました。院長さんは、翌朝それにたいする回答を書いてくださいました。
  レントゲンの機械は県に1台だけです。せめて各郷の病院に1台づつ入ればどんなにいいでしょうか。
  学生たちは、いろいろ考えることが多く帰ったようです。

 

  Sさんは、次のように言います。

  興隆に到着した後、各地で診療所を見学しました。診療所は興隆街・モクイと訪れ、どちらの診療所においても最も強く感じたのが、雰囲気が非常にあたたかいということでした。その根底にあるのは、興隆県の医療従事者はすべて興隆県出身者から成り、北京や承徳の大学を出ても地元に帰ってくるということで、人々の地元に対する思い入れと地元の人々との間のつながりの大きさによるものだと思いました。また、興隆県人民医院でもモクイ郷医院でも、医師の給料のみで経営は非常に苦しいにかかわらず、新しい医療機器を購入するという、医療に対する前向きな姿勢に感動を覚えました。都会の病院では待つことのできないどうした雰囲気が、さらに人民の信頼と安心を産んでいるのだと思いました。医療において、私たち医療従事者が生涯忘れてはならない心を改めて感じることができ、大変勉強になりました。

 一方、こうした興隆の人々が地元に対して思いが深いのは、底には、昔日本軍に悲惨な目にあって皆が協力して県を建て直そうという熱い思いがあるのではないかと思います。そうした人々の思いに対し、「中国山地教育を支援する会」の方々は真摯に受け止め、それをまた、まっ直な形で応えているのが印象的でした。それがとても大きな意味を持つことは、興隆の澄んだ子どもたちの笑顔を見ればすぐに分かることでしょう。今後、こうした若い世代が日中間の友好をゆるぎないものとしてくれることと思います。私たちもその一助となれば幸いです。(K大S)

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2.根拠地を見る

 劉杖子小学校

 劉杖子小学校は、万人求を含む行政村です。2年前、任さんというおじいさんが、数え年8歳の時、目の前で家族全員を殺された話をしたその後、ひとりでどうやって生きてきたか、あなたがた日本人には、想像することもできないだろうと泣き出されたところです。ここは五指山根拠地の西の入り口になります。孟副県長の故郷でもあり、劉杖子小学校は彼の母校です。ここにボランティア貯金の配分金232万円と、当会募金50万円を建築資金として、理事Tさんが、目録贈呈しました。鍵盤ハーモニカ、リコーダーも寄贈しました。かわいい校舎がほとんど完成していました。孟副県長のご両親も贈呈式には来ておられました。また団からのお土産はFさんの版画をさしあげました。
  ここは大水泉郷です。前に大水泉小学校で授業をしていますから、その学校の先生から教材の使い方は教えてもらうことを願ってモクイへ急ぎました。

 モクイの夜

 その夜は1年に1度のお祭りのようにかがり火のもとでの交流会が開かれました。小学生は鍵盤ハーモニカの演奏をしてくれました。とても大事に扱っている様子がよくわかりました。歌も踊りも洗練されていました。日本側の合唱は今年はTさんのギター演奏付きでした。千葉の高校が寄贈してくださったギターとマンドリン10台をモクイ中学校にあげることができました。翌朝早く人圏の後を見、殺人抗の跡を見て、古老の証言を聞きました。毎年新しい発見があります。

  河南大峪

 モクイを出て、孫杖子から、右の山奥へ入ります。興隆県の北東の果ての峪に入ります。上ったり、下ったり、ジープでもこわいところです。曲がりなりにも車の通る道ができたのは1986ころのようです。
  村の入り口には京劇風の服装をした村人たちが待っていて、ドラを鳴らし、踊りながら学校に案内してくれました。複式3学級30数名の小さな小学校です。
  ここでは全校生徒を1室に入れて、鍵盤ハーモニカの授業をしました。Mさん、Iさん、Nさんの熊本グループを中心に、東京のKさん、大分のKさん、Sさんらも机間で子どもたちに指導しました。毎年、授業反省の上に教材を選び、指導方法を工夫しているのですが、4年目ともなると、Tさんの授業は冴えていました。緊張していた子どもたちの表情が笑顔に変わっていくのを見るのは楽しいことでした。学年の違う子どもたちの声はうつくしくひびきました。村人は教室の南の窓から、北の窓からのぞきこんでいました。

  お昼は粟のごはんにおとうふをおいしくいただきました。谷あいの貧しい村です。大勢が来て、村の粟をみんな食べてしまっては申し訳ありません。興隆の町で、小麦粉と、大豆を買って持っていきました。また日本から、各自お米2合ずつもっていっておいてきました。

 昼休み、学生たちは子どもたちと、おみやげに持っていったバレーボール、サッカーボールに興じました。

 この小さな谷を1943年1月、7000人の日本軍は包囲したのです。李運昌の部隊は脱出し、隊を整え、長城を越え、南の戦場に向かいました。当時の村はここではなく離れたところにありましたが、八路軍のいない村でも惨劇は耐えません。

  古老たちの話を聞いたあと、学生のAさんは次のように述べました。

  皆さん初めまして。日本のK大学の医学部で医学を勉強しているAと申します。 つらいお話にもかかわらず、つらい関係にもかかわらず、お話くださいましたことをまず感謝申し上げたいと思います。
  僕は中国に来る前に、親しい方から次のような言葉を聞いてきました。「歴史に盲目な者は、現在にも無知である」。僕たちは今日までに人圏や殺人抗を見ましたし、今皆さんのお話を聞いて、僕たちが知らなかった第2次世界大戦の正しい歴史を学ぶことができました。僕たち8名をはじめとして、日本人の多くの人が事実を事実として認識して、その上で中国の方たちとふれあっていくことで、日本と中国のしっかりした友好関係というのができあがると思います。
  次の言葉は団員のひとりのN君の座右の銘ですが、「Where there is a will there is a way.」意志あるところに道は開けるということです。しっかりとした歴史観のもとに、今日一緒に遊んだりした、元気なきれいな目をした子どもたちと一緒に、僕たちは愛と希望に満ちた世界を作っていきたいと思っています。
  最後に、お話くださいました皆さんの、ご健康とご長寿をお祈り申し上げます。(K大A)

 霧霊山

 霧霊山の麓のホテルに泊まって朝早く霧霊山に向かいました。寒くて寒くて、車を降りて、6〜7センチ厚みの綿入れのオーバーを借りてみんなは山の頂まで行きました。風で吹き飛ばされそうでした。下から霧は湧き出るばかり、霧霊山とは、なるほどと合点がいきました。隣の人影も見えなくなります。海抜2116メートル。寺も焼き払われた跡があるだけです。山の木は解放後植林したものだそうです。この半日は山や滝を楽しみました。Kのグループは、ここから、北京へ帰りました。日中友好病院や、首都病院との交流をすませ、一足先に日本に帰りました。

 劉寨子中学校で

 ここでは女子寄宿舎と理科実験室の建築が始まっていました。
  みなさんのカンパ200万円をさしあげました。大黄崖川の真ん中くらいにあります。ここは興隆県の最北西の峪になります。昨年建設した営南峪小学校のある小黄崖川のもうひとつ北になるわけです。ここは、霧霊山根拠地の西の入り口になります。もちろん無人区です。日本軍に見つかれば殺されます。しかし人々は人圏に入らず、山で暮らしました。農民達は民兵になり、家族を守りました。
  ここに集まってくれた老人たちから、当時の話を聞いたのですが、1人の老人から、次のように言われたときは驚きました。「あなたは天皇の子だから言うのだが」と前置きして、「出かける前に隣の人から『天皇の子たちにあったら一発ぶん殴ってきてくれ』と頼まれた。」というのです。「ところが来てみたら、子どもたちのために学校を建ててくれている、こうして私たちの話を聞いてくれる、あの時の日本人と違うんだな」停止した50年前の時間の中で生きてきた山奥の老人のとまどいにぶつかって、わたしどももとまどいました。多分当時のこの人たちの会った日本人は、天皇の子と天皇の軍隊(皇軍)をふりまわして、自分を権威づけていたのでしょう。家を焼かれ、家族を目の前で殺された人々が、日本人を憎いと思うのは当然です。彼らは率直に「今でも憎い」と言ってくれました。私たちはその言葉を100パーセント割引なしに受け止め、日本人の1人としてお詫びし、若い人も2度とこのようなことを起こさせないよう努力する決意を述べました。私たちの友情はここから始まります。

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3.長城の北と南

  今年は戦時中の長城の北と南の違いを理解することをひとつの目的としました。北は五族協和、王道楽土の満州国、関東軍の管轄です。南は中国河南省。北支那方面軍の管轄で戦場です。長城の北の興隆県は当時河北省から、無理に熱河省に入れられ満州国に入れられました。ここではスローガンの手前、戦争を仕掛けるわけにはいきません。陰湿ないじめにも似た人圏や、無人区での管理となり討伐となります。

 潘家峪の惨劇

  長城の南は公然と嵐のようにある日、軍隊が襲いかかります。潘家峪の惨案はこうして起こり、1230人を殺して1日で終わります。そのあまりの惨さにみんな息をのみました。夜明けから村人全員を集め始め、潘という地主の家に押し込めて、火を付け、機関銃掃射をして殺してしまったのです。潘家峪の事件は1970年代に本多勝一さんが「中国の日本軍」のなかに書いておられますが、ここは立派な記念館が新しく建てられていました。記念館に展示される黒焦げの子どもたちの死体の写真など事件の実相を証明する写真は、1941年1月25日の事件の翌日かけつけた八路軍によって写されたものです。案内してくださった 潘さんは当時12歳、事件現場にいた生存者です。若い人がお礼と平和への決意を述べると 潘さんは付け加えて話し出しました。「自分が生きているのは20歳くらいの若い兵士のおかげだ。殺戮が終わり、最後の見回りに来た兵士と豚小屋の隅に居た自分は目が合ってしまった。しばらく見合っていたが、彼は首を振って立ち去ってくれた。もしあの時、見逃してくれなかったら、今の自分はない。」「あの兵士が生きていたら会いたい。」とも言いました。
  その後、遵化のホテルで前遵化党史弁公室主任の陸さんに、魯家峪を中心に 遵化の根拠地について話していただきました。

 魯家峪

  魯家峪は、冀(河北)東の根拠地の中心です。東の腰帯山(潘家峪の北)、西の盤山、真ん中の魯家峪、ここに 冀東軍区指令李運昌はいました。41年から42年にかけて、魯家峪は日本軍に徹底的に剔刔されました。ここは火石洞の多い山で自然の洞穴を利用して、病院も、印刷所も、兵器の修理工場もありました。軍隊と村人はいっしょに抗日をたたかっていたのです。鶏冠山の孤仙洞に入りました。息をひそめて身をかくしていた人々に思いを馳せてくらがりを歩きました。対岸から砲弾が撃ち込まれ人々は折り重なって死んだのです。日本軍は洞窟を見つけると毒ガスを入れて人々を殺しました。当時の証人張さん、かれは審陽の軍事裁判で証言しているのですが、彼は昨年亡くなられたそうです。 北京へ帰る途中、盤山へ寄るはずでしたが、雨が降ってきたので割愛しました。
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Kさんのお話

 北京では宋慶齢故居で前副総理、国連初代大使Kさんご夫妻にお会いしました。若い世代に日中の交流を託される思いを込めて、国際的な視野から率直に2時間もお話ししてくださいました。「歴史の流れの中の当事者として、節目、節目に立ち会われた貴重なお話で、温厚な人柄とお話の重みが私の心にずっしりと残りました。」(熊本U)

Kさんのお話を聞く

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若い人々への期待 ホームページの係から

 

 インターネットでこの会を知った若者たちは、積極的に自分の足で事務局を訪ね、この旅にも参加しました。Aさんが古老に証言のお礼を述べている姿や、Sさんがモクイでトランペット(持ってくるのも大変だったでしょうに)を演奏している姿、みんなでバレーボール、サッカーを子どもたちと楽しんでいる姿を見て、ホームページを作った者としては「こういう形になったか」と嬉しくてしかたなかったわけです。 今回の旅に参加できなかった中にも、ひとりで興隆を訪ねたり、事務局を訪ねてくる若者が大勢います。こういう組織は高齢化しがちだと思うのですが、この会には有望な若者が沢山集まってきます。平和教育や中国との問題は、それなりにきちんと正しい事実を話せば、若者たちは自分の頭で考えて、自分で行動を起こします。そのきっかけを求めていると言っても良いのかもしれません。若者たちのパワーを感じ、見通しは決して暗くないと思っているところです。(千葉A)

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小さな草の根の友好が大きな信頼の芽を培う

  ひとつの集落からひとつの集落への移動は時間がかかった。凸凹の山道を分け入るように訪ねた村々、貧しいけれどのどかな山村、ひっそりと暮らしてきた村人たちの心に宿っている怨念、あるいは深い傷、今でもしっかりと心に焼き付いていることを改めて気づかされた。ある村では1200余名が地主の家に集められて焼き殺されたという。証言した古老は間一髪、死の淵から助かったという。どんな思いで我々を迎えてくれているのか。多くの人たちは私たちを友好的に迎えてくれたのが救いであった。
  古老たちは友好のために信頼と相互理解を深めようと集まってくれた。その真心には感謝せずに入られない。
  その背景には、山地教育を支援する会の高い志が届いていたことも無視できない。小さな草の根の友好が、大きな信頼の芽を培ってきたことの大きさに、真の癒しの姿を見る思いであった。
  ところで証言を聞く度に脳裏をよぎったのは、かつて訪れた平頂山事件の現場であり、南京虐殺記念館での光景であった。中国各地で起こった虐殺の歴史は、各地の抗日記念館にしっかりと記憶され、子どもたちに引き継がれている。それに引き替え日本の戦争体験の風化は恐ろしいほど進んだ。日本と中国との戦争認識のギャップ、これをどうしたらいいのか、重い宿題であった。
  最後に北京でお会いしたK先生の言葉にも、率直な日本への危惧の念が語られていたことに共感した。とりわけ最近の日本の右翼化、一連の戦争責任や歴史認識を巡る一部政治家の暴言への警戒心はことのほか強かった。ドイツと日本の戦争責任の取り方、戦後処理の基本的な認識、これがいかに隔たったものであり、アジアの人民に不信感を生んでいるか。日本がドイツのように経済大国から政治大国へ脱皮するためには、20世紀のうちにしっかりとした戦争への懺悔をすること。そして、新しい時代にふさわしい歴史認識をメッセージとして発言しない限り、アジア周辺の隣国からの信頼は得られないまま孤立するのではなかろうかと思った。(千葉T)
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