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●毎月15日に発行されていた「教育だより」掲載 『ぶらりふるさと歴史探訪』 からの転載です。
●ホームページに掲載にあたり、一部加筆訂正している場合もありますので予めご了承ください。




 4月 木ノ宮地蔵堂  5月 畦畔茶  5月 新開遺跡の碑
 7月 天王様の夏祭り  8月 川越街道  9月 寺子屋/伴完翁寿蔵之碑
10月 竹間沢車人形 11月 三芳に残る長屋門 12月 自然の恵みと落ち葉掃き
 1月 鎌倉街道  2月 竹間沢の稲荷社など  3月 旧池上家・旧島田家住宅













ふるさと 歴史探訪 4月 木ノ宮地蔵堂

木の宮地蔵堂の縁日

縁日で賑わう木の宮地蔵
(左手の建物が木ノ宮地蔵堂)

木の宮地蔵堂の縁日  
 私たちの身のまわりには、三芳町の歴史を物語るたくさんの文化財や風景があります。しかしその中には、普段の生活を送る中で気づかないものも多いのではないでしょうか。 そこで今回から、町内に残る文化財を見所を交えながら紹介していきます。さあ、身近な歴史を探す旅に出かけましょう!
 今回紹介するのは、上富にある木ノ宮地蔵堂です。子授け・安産にご利益があるとされ、昔から「富の地蔵様」坂上田村麻呂と結びつけて伝えられていますが、真相については明らかではありません。江戸時代には何度かの荒廃や焼失などの記録があり、現在の本堂は安永6(1777)年に再建されたものです。その本堂内には木造の地蔵菩薩半伽像が安置され、天井には江戸時代に描かれた107枚の植物画がされています。 また、本堂の裏へまわると、石の地蔵尊が祀られた奥之院があります。この石地蔵は、入間東部地区に現存する石地蔵の中でのものであり大変貴重です。 4月24日は木ノ宮地蔵堂の縁日で、露店が多く立ち並び、たくさんの人が集まって大変にぎわいます。皆さんもぜひ出かけてみてはいかがでしょうか。

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ふるさと 歴史探訪 5月 畦畔茶

畦畔茶

畑に残る畦畔茶
(上富地区にて撮影)

畑に残る畦畔茶 (けいはんちゃ)
  三芳町はいわゆる「狭山茶」の産地です。三芳町でお茶の栽培が始まったのは江戸時代の中頃と伝えられています。昭和4年に編さんされた『三富開拓誌』によると、多福寺の開山洞天和尚が境内にお茶をまいたところ成長して繁茂したので、それを三富各戸に分け与えたとあります。その後江戸時代後期に、蒸し煎茶の方法を取り入れた入間郡域では、お茶の生産が盛んになりました。
 三芳周辺の農家では畑境にお茶の木を植えました。これを畦畔茶( けいはんちゃ )と呼びます。5月と7月の2回お茶摘みをし、摘んだお茶の葉を自家で製茶して問屋に売ることで収入を得ました。特に5月の新茶(一番茶)は「ネイリ(根入)の金を生む」と言われ、金肥を買うための貴重な現金収入となりました。  また、三芳周辺の畑の土は細かくて軽く、乾燥すると風に吹き飛ばされてしまうので、お茶の木を帯状に植えることで畑の風よけにしました。このように、畦畔茶は
畑の境界・風よけ・現金収入とさまざまな役割をもっており、農家にとっては一石二鳥どころか三鳥・四鳥だったと言えます。  昭和40年代以降、畦畔茶を摘む家はほとんどなくなってしまいましたが、町内の畑では、今でも帯状に残るお茶の木を見ることができます。

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ふるさと 歴史探訪 6月 新開遺跡の碑

新開遺跡の碑

新開遺跡の碑
(みよし台地区にて撮影)

発掘調査と新開遺跡之碑
  みよし台地区の唐沢公園の北側にある雑木林の中に、「新開遺之碑」( しんかいいせきのひ ) という石碑が建っています。この石碑は、みよし台地区の開発に先立って行われた、新開遺跡の発掘調査の成果を永く後世に伝えとして、昭和55年に建てられました。 発掘調査は、土の中に埋まっている昔の生活の痕跡を、土を丁寧に掘り返して調べます。新開遺跡の発掘調査では、約1万8千年前の旧石器時代の石器や須恵器(すえき)という器を焼いた平安時代の窯跡などの遺構や遺物が発見されました。
 普通、発掘調査が終わると土は埋め戻されます。そして、遺跡の上に建物や道路ができてしまうと、そこが遺跡であることを知る機会はなかなかないものです。 しかし、新開遺跡之碑のような記念碑は、私たちにいつでもそこが遺跡であることを教えてくれます。また、発掘調査で出土した石器や須恵器などの遺物は、歴史民俗資料館で収蔵・管理し、その一部は展示という形で公開されています。 昭和51年に始まった新開遺跡の発掘調査以来、三芳町で本格的な発掘調査が行われるようになって30年が経ちました。この間、町のあちらこちらでたくさんの発見があり、大昔の三芳町の歴史が少しずつ解明されてきています。

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ふるさと 歴史探訪 7月 天王様の夏祭り

天王様

天王様の神輿
(上富地区にて撮影)

天王様の夏祭り
 梅雨が明けて暑くなるこれからの季節は、昔から疫病が流行しやすい時期でもありました。そこで、村中をお祓いして悪疫を防ぐ夏越(なごし)の祭りが、旧暦の6月中旬(現在の7月中旬)に各地で行われてきました。この祭礼の1つが「天王様(天王祭)」です。  天王様の「天王」とは除疫神の神格をもつ「牛頭天王(ごずてんのう)」のことです。牛頭天王を祭神とする八坂神社・八雲神社が全国各地にありますが、この八坂神社・八雲神社は天王様と呼ばれることが多く、いつしかその祭礼も天王様と呼ばれるようになりました。
  三芳町でも竹間沢・藤久保・北永井・上富の各地区に天王様がまつられています。天王様の祭日は同じ町内でも各地区によって異なります。現在、祭日には各地区でお囃子が奉納されていますが、このほかにかつてはどの地区でも「子どもみこし」が各戸を巡りました。
 ところで、天王様の祭日は農作業の目安でもありました。それまでに麦の脱穀等を済ませておき、祭日の2、3日間は
農休日としました。皆さんも、今年は近くの天王様を見に行って、のんびり過ごしてみませんか。

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ふるさと 歴史探訪 8月 川越街道

川越街道
川越街道
(藤久保地区にて撮影)

川越街道
 竹間沢と藤久保を通る川越街道は、江戸時代の寛永年間(1624〜43)に江戸と川越を結ぶ約44kmの街道として整備され、主に中山道の脇往還としての役割を果たしました。江戸時代には「川越道中」「川越往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになるのは明治時代に入ってからのことです。 ほぼ江戸時代の経路を踏襲していると考えられる現在の経路ですが、中央分離帯によって上り車線・下り車線2本に分かれている所が三芳町内で2カ所あります。江戸時代から2本に分かれていたわけではなく、下り車線は昭和初期に新たに整備されたものです。江戸時代の道筋は現在の上り車線にあたります。
 ところで、その上り車線を東京方面に向かって進むと、藤久保の木宮稲荷神社の前あたりで不思議な光景を目にします。神社に面する中央分離帯の中に、「奉納」と書かれた幟立ての石柱が1対立っています。これは、下り車線を新設する際にやむなく神社の境内を通すこととなり、幟立てが中央分離帯の中に取り残されてしまったものです。本来の役割を終えひっそりとたたずむ幟立てですが、そこに川越街道がたどってきた歴史の深さを実感することができます。

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ふるさと 歴史探訪 9月 寺子屋と伴完翁寿蔵之碑

伴完翁寿蔵之碑

伴完翁寿蔵之碑
(上富地区にて撮影)

伴完翁寿蔵之碑
  現在では、小中学校へ通って勉強をすることは国民の義務とされています。しかし、江戸時代には国民皆学という制度はなく、幕府や諸藩の開設した学校には限られた身分の者しか通うことはできませんでした。そのため、庶民を対象とした「寺子屋(てらこや)」と呼ばれる初等教育施設が各地の町場や農村に開かれました。 三芳町内では、現在のところ7ヵ所の寺子屋と11名の師匠の名前が確認されています。
 その中の1つに、上富の島田伴完(ばんかん)師匠が開設した寺子屋「玉泉堂(ぎょくせんどう)」があります。玉泉堂は天保元(1830)年頃に開設され、明治7(1874)年に近代小学校としてスタートするまでの約45年間に、275名以上の門人(生徒)が伴完師匠の下で「読み」や「書き」などを習いました。 その門人たちが、明治12(1879)年に伴完師匠の長寿を祝って建てたのが「伴完翁寿蔵之碑」です。碑文には伴完師匠の略歴や学問に対する信条が、背面には伴完師匠の詠んだ和歌が刻み込まれています。その1字1句に師弟関係を超えた強い絆を感じる碑です。 なお、寺子屋として使用された母屋は、「旧島田家住宅」として農業センター脇に移築復元されています。 。

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ふるさと 歴史探訪 10月 竹間沢車人形

竹間沢車人形

竹間沢車人形
(傾城阿波の鳴門より)

竹間沢車人形
 三芳町にはさまざまな伝統芸能が伝わっています。中でも、竹間沢の前田家に伝わる「竹間沢車人形」は、全国的に見ても大変珍しい人形芝居です。  車人形の特徴は人形の操作方法にあるといえます。車人形の操り手は「ろくろ車」に座り、人形の頭・手・足を1人で操ります。これにより、3人で1体の人形を操る文楽(ぶんらく)人形に比べ素早い動きが可能となります。
 竹間沢の前田家に車人形が伝わったのは、江戸時代末期の安政年間(1854〜1860年)のことです。明治時代には各地で興行され人気を集めた竹間沢の車人形でしたが、大正時代になると映画などの大衆娯楽の影響を受け、次第に衰退していきました。  
 再び竹間沢車人形が脚光を浴びるのは、昭和46年に埼玉県教育委員会が実施した人形芝居緊急調査によって発見されたことによります。翌年の昭和47年には車人形の再演を望む声が高まり、前田家や地元の有志の努力によって、半世紀ぶりに竹間沢車人形が上演されました。
 昭和50年には車人形の道具一式が埼玉県有形民俗文化財に、平成14年には車人形の技能が三芳町無形民俗文化財に指定され、現在でも「竹間沢車人形保存会」の方々を中心に、竹間沢車人形の上演や継承活動が行われています。 10月22日(日)に開催される「資料館まつり」や12月の文化会館コピスみよしの催しで、竹間沢車人形の上演があります。ぜひこれらの機会に、三芳町の伝統芸能をご覧になってみてはいかがでしょうか。

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ふるさと 歴史探訪 11月 三芳に残る長屋門

船津家の長屋門

船津家の長屋門

三芳に残る長屋門
  三芳町内には「長屋門」と呼ばれる表門が2棟残されています。1棟は上富の島田家に、もう1棟は北永井の船津家にあります。 上富の島田家は、三富新田の開拓にあたって亀久保村から移住し、上富村の名主役を勤めました。北永井の船津家は、江戸時代には北永井村の名主役を、明治時代になると藤久保村連合戸長を勤めました。両家とも地元での重職を担った家であり、その象徴ともいえる長屋門は、重厚感があり威風堂々とした造りになっています。
 ところで、長屋門とは江戸時代に作られた表門の1形態です。本来は武士階級や限られた階層の家しか持つことができず、また身分によって大きさや形が制限されていました。武家屋敷には瓦葺屋根の長屋門が多く見られますが、農村ではほとんどが茅葺屋根でした。現在では瓦葺になっている島田家と船津家の長屋門も、昭和50年代までは茅葺屋根でした。 かつては権威の象徴でもあった長屋門。
 今では、秋になると島田家長屋門が面するケヤキ並木通りにはサツマイモ直売の幟が立ち並び、北永井の船津家長屋門の前にはソバの花が咲き乱れ、人々の生活と歴史の調和を感じさせる風景となっています。

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ふるさと 歴史探訪 12月 自然の恵みと落ち葉掃き

ヤマ掃き
クマデとハチホン

上段の画像:ヤマ掃き
下段の画像:クマデとハチホン


自然の恵みと落ち葉掃き
 私たちの住む三芳町は、町の面積の約11%を雑木林(ヤマ)が占めています。雑木林は防風林の役割を果たし、薪や建築材を供給するなど、人々の生活に多くの恵みを与えてきました。 そしてもう1つ。「1反の畑に1反のヤマの落ち葉(クズ)が必要」と言われるように、火山灰土(赤土)に覆われたやせた土地に営まれる三芳町の畑作農業にとって、雑木林の落ち葉は欠かすことのできない肥料となりました。
 また、落ち葉は三芳町の特産品であるサツマイモの栽培にも大きな関わりがあります。サツマイモの苗づくりのために、その温床となる苗床に敷き込む大量の落ち葉が必要となるのです。 「ヤマ掃き」とか「クズ掃き」と呼ばれる落ち葉掃きは、農家にとって冬の間の重要な仕事でした。クマデを使って落ち葉を掃き集め、ロッポンハチホンと呼ばれる竹製の大きなカゴに詰めます。落ち葉を目一杯詰めたカゴの重量は70kgにもおよび、一家総出で1反の雑木林からカゴ7〜8杯分(500kg以上)の落ち葉を掃き集めました。
  現在では畑に化学肥料を使う農家が多くなりましたが、一方で、改めて有機農法が見直され、有機肥料を使った伝統的な作物栽培を進めていこうとする活動も行われています。 。

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ふるさと 歴史探訪 1月 鎌倉武士の息吹を感じる鎌倉街道

鎌倉街道

鎌倉街道

鎌倉武士の息吹を感じる鎌倉街道
 三芳町内に「鎌倉街道」と呼ばれる道が2つあります。1つは柳瀬川の台地崖線に沿って通る道で、新座市中野〜三芳町竹間沢〜富士見市針ヶ谷と続きます。舗装・拡張されて昔の面影をとどめる所が少なくなってきた中で、竹間沢の古井戸地蔵のあたりは、人家と崖のわずかな間を抜け、往時の雰囲気をよく残しています。 もう1つは、川越街道に並行して藤久保を通る道で、「鎌倉通り」という愛称で地域の生活にとけ込んでいます。この道の南限は、現在では工場で途切れてしまっていますが、かつては竹間沢小学校の付近まで延びていました。また、北はふじみ野市大井へ続いていきますが、そのルートは直線ではなく、一旦、浅間神社の方向へ曲がると考えられます。
  三芳町内の鎌倉街道は、鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ御家人(ごけにん)たちが、鎌倉へ向かうために利用した主要道の1つ「鎌倉街道上道(かみつみち)」へ通じる枝道とされています。ここを通って「いざ鎌倉」と馳せ参じたことでしょう。 近年では区画整理や道路の付替え等によって、昔からの道がなくなってしまうことも珍しくありません。多くの先人たちが歩いてきた歴史ある鎌倉街道を、皆さんも歴史を感じながら歩いてみませんか 。

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ふるさと 歴史探訪 2月 竹間沢の稲荷社初午の稲荷講

藤森稲荷

藤森稲荷

 稲荷信仰は作物神である稲荷大神を祭神とするもので、屋敷神として個人の敷地内に祀る「屋敷稲荷」や、地域の氏神として祀る「稲荷社・稲荷神社」などの祭祀形態に分かれます。
  町内の竹間沢には、京都の伏見稲荷を勧請(神の分霊を迎え祀ること)したと伝える稲荷社が6つあります。主稲荷(つかさいなり)・藤森稲荷・北側稲荷・本村稲荷・木下稲荷・二社稲荷の6つの稲荷社には、それぞれ10〜20軒ほどの氏子がいて講を組織し、祠を管理しています。
 この稲荷社のお祭りとして、2月11日(かつては3月の初午の日)に「オビシャ」と呼ばれる稲荷講が行われます。当日は、それぞれの稲荷社の前に氏子が集まり「稲荷大明神」の幟旗を立て、夕方になると宿(その年の担当の家)に集まって飲食をします。  現在では仕出しで済ませますが、かつては宿とその年のお勝手当番が協力して料理を作り、うどんを打ってもてなしていました。また、子供たちが稲荷社の境内に小屋を作って一夜を明かす「お籠もり」も、昭和30年頃まで行われていたそうです。 初午の稲荷講は、その年の無病息災と作物の豊作を祈願するものであり、同時に講中の強い連帯感の表れであったとも言えます 。

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ふるさと 歴史探訪 3月 旧池上家住宅と旧島田家住宅

旧池上家住宅
旧島田家住宅

旧池上家住宅(上)
旧島田家住宅(下)

  三芳町内には移築復元された茅葺きの民家が2軒あります。竹間沢の「旧池上家住宅」上富の「旧島田家住宅」です。両民家とも三芳町の有形文化財に指定されており、現在では見ることの少ない伝統的な建築技法と、懐かしい農家の雰囲気を後世に伝えています。

  旧池上家住宅は竹間沢にある歴史民俗資料館の敷地内に移築復元され、昭和63年から展示公開されています。桁行11間・梁間6間、居室部は9間取り(9部屋)の大型の家屋で、今から140年ほど前の建築と推定されます。当時の農家の中でも大きな家屋は、藍玉の生産によって得た経済力によるものと言われています。

  旧島田家住宅は上富の農業センター隣に移築復元され、平成8年から展示公開されています。桁行11間半・梁間4間半、居室部は古い建築様式を残す4間取りで、建築年代は今から180年ほど前と考えられています。江戸時代の寺子屋としても利用され、たくさんの子弟がここで教えを受けました。 この時期、両民家とも歳時記展示としてひな人形が飾られています。また、旧島田家住宅の庭には、三芳町の特産品であるサツマイモの苗床が設けられ、秋の豊作に向けて苗の栽培が始まります。この機会にぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか 。

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