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インターネット上の規範形成に関する法哲学的/法社会学的一試論

第4校(もちろん、まだ変わりますなあ・・・。概念が曖昧なままの議論があるし)

1 本稿の狙いと射程

2 インターネットにおける規範形成分析

(1)    インターネットにおける「秩序」

(2)    インターネットにおける「規範」と「法」

3 結語にかえて

とりあえず検討事項は、

    規範形成と法形成の区別が曖昧/ない 

    → 規範形成理論を論じるのが、本稿の目的のはず

    ルーマン理論に理解に誤解があるのではないか 

    ↑ 特にルーマン理論批判点について

    冒頭の本稿の目的が不鮮明

 

1 本稿の狙いと射程

 

本稿は、近時発達する「インターネット」とそれを用いたコミュニケーション過程、いわゆる「サイバースペース」に、基礎法学の規範形成に関する理論を用いて分析した場合に、独立した内在的な秩序や規範が存在し得るかどうか、あるいは生成しうるかどうかについて、そしてその過程と現状がどのように把握でき、そしてサイバースペースと法理論のあり得べき方向性にいかなる提案をなし得るのかといった事柄を検討するものである。

インターネットやサイバースペースに関する法学的業績は、初期のその全くの独自性を主張するものから(神谷1997参照)、既存の実定法の解釈適用が可能であることを論じるもの、あるいは一定の独自性を認めつつ新たな立法の必要性や解釈の方向性に関して提案するものまで、すでに数多く存在している。本稿での筆者の関心は、まず現実社会/リアルスペースと仮想空間/サイバースペースを仮説的に分断し、サイバースペースにおける内的な規範形成を、基礎法学的な枠組みを用いて分析し、それがどのように把握し得るのか、そしてそれが如何なる意味を有するものであるのかを検討することにある。少なくとも本稿で明確になることは、月並みな指摘かもしれないが、「インターネット法」などという場合のその独自性の意味が明確になることであり、ネットに内在的には規範の性質が変化する可能性のあることなどであろう。

伝統的な法学理論が、それ以外の、言わば「社会」と一括りにされるような、現実世界との相克の中で形成されてきたものであると考えるならば、少なくとも法哲学も「法」と「社会」に対する原初的な問いかけを続けるべきものであり、そのためには、現に行われている人々の行動を、まず社会現象として把握し、これに社会科学的分析がほどこされるべきだと筆者は考える(千葉19804参照)。しかし、現象を観察するにあたって「当為色眼鏡(Llewellyn1931:1237)」が侵入することは避けられない。筆者は本稿において、伝統的法学理論という色眼鏡を通してインターネット空間における規範形成を見ようとしている。しかし、その事に自覚的である限りにおいては、対象と自らがかけている色眼鏡の色の違いに気づくことは可能であろう。真に法哲学的な議論や、あるいは伝統的法理論が前提とする規範形成の場であった「社会」と、インターネット空間が作り出した「社会」との相違点に対する本当の理解は、そしてもちろんあるとすれば、法理論に対する新たなフィードバックも、まずはそこから始まるものであろうと考えている。

その際に筆者が配慮していることは、インターネットの新奇性に悪戯に引きずられないようにすることであり、また従来の法理論や法概念を無条件でサイバースペースに持ち込むことによって、それに対する反省の契機を失わないようにする事である。新奇性に引きずられる事は、何がその新奇性であるのかを十分に検討しないままに伝統的理論の有効性を誤ることになるであろうし、そうする事でサイバースペースと現実空間との関連性を検討する機会を失うからである。同時に、現実の空間とは別種のサイバースペースという社会を仮定し、そこでの規範生成を検討する事によって、従来まさに理論的仮説として打ち立てられた基礎法学的な規範生成理論を、リアルな現実との比較で検討するという可能性を検討したいが為である。

もとよりこれらは可能性であって、本稿がこれらの可能性を実証するためのものではない。本稿は、これらの可能性を検証するための試論という位置付けを持っている。本稿の試みによってさらに課題が生じるのであろうが、筆者にとってそれらは、さらにこのような試みを続けるための問題の具体化になるであろう。

 

本稿では以下、「二 インターネットにおける規範形成分析」において、インターネットの歴史とそこに見られる幾つかの事例を、幾人かの法理論家達の枠組みと接合し、どのような可能性が導かれるものかを検討していく。そこでは、まず本稿で使用する「インターネット」あるいは「サイバースペース」とそれに関係する諸概念を定義し、さらに分析枠組みとして用いる法理論家達の枠組みの、本稿にとって必要な限りでの位置付けを試みながらネットの現状と接合してゆく。分析枠組みとして借用した理論家は、ハート(H.L.A.Hart)、ハイエク(F.A.Hayek)、ウェーバー(Max Weber)、ルーマン(Niclas Luhmann)そしてレッシグ(Lawrence Ressig)等である。そこでは、従来の規範形成理論が共通する前提を有するものであること、サイバースペースに特有の規範形成の可能性があったこと、インターネットの特性が可変的であること、そしてその事によってインターネットに内在的には、「規範」の意味が変化した可能性ある事などが指摘されるであろう[1]

 

 

2 インターネットにおける規範形成分析

 

「サイバースペース法」や「インターネット法」という言い方が一般化しつつあるが、その「サイバースペース」や「インターネット」を定義することは、実は容易なことではない。何故なら、それは何か特定の機械や回線と言う具体物で定義することもできず、特定の利用の仕方で定義することもできないからだ。それらは一種の状態を指す言葉ではあるが、現在の所その内容を固定されたものと考えることはできないようだ。この分野では情報や行為、私的/公的そして規範などの基本的な概念もしばしば混乱する。

本稿はさしあたり、次のような定義の下に考察している。「インターネット」とは、まずコンピュータを中心とする電子データ処理端末が相互に接続されてローカルなネット(Local Area Network: LAN)が形成され、さらにそれらのLANが何らかの手段によって相互に接続されることによって、個々の情報操作端末同士が自由にデータ交換を可能にしている状態と、それを可能にしている環境とを指している。すなわち形態的には、LANと言うネットワーク同士が相互に接続された状態、ネットワークのネットワークが完成した状態であり、機能的にはその状態を利用して個々のデジタル情報の操作端末同士を用いて、デジタル・データを交換している状態を指している(岡本茂監『パソコン用語辞典』などを参照)。従って、このインターネットを利用して行う様々なデジタル・データの操作と交換が、本稿で扱うインターネット上の「行為」と言うことになる。

「サイバースペース」という言葉もほぼ同様の内容を指している。この言葉自体は、SF作家であるウイリアム・ギブソンが『ニューロマンサー』で用いた言葉であり、小説の中では、人間の五感がコンピュータによって制御され、バーチャルな空間とリアルな空間とが交差する空間として用いられている(ギブソン)。このイメージは、『マトリックス』という映画などで視覚化されたように、「スペース」と言う言葉が表象する何らかの「空間」概念を、インターネットに読み取ろうとする場合に多く用いられているようだ。本稿では、引用の場合に限り両者を区別せずに使用するが、筆者自身は、より具体的な定義に近いと考えられる「インターネット」または「ネット」を主に用い、そこでの他者との情報データのやり取りを、現実世界における行為に仮託して述べるような場合に、時に「サイバースペース」を用いていく。

 

1)インターネットにおける「秩序」

 

 インターネットの形成は、1957年に設立されたARPA(Advanced Research Project Agency)とRAND社のポール・バラン(Paul Baran)の「分散型コミュニケーション」というアイデアに始まるとされている(Randell16)。ARPAは、国防総省先端技術計画局(DARPADefense Advanced Research Projects Agency)の研究支援機関であり(白田1996:384)、先のバランのアイデアが「パケット交換通信技術」として確実なものとなった1969年、この技術を採用したARPA NETが開始された(Raymond)。この半ば軍事目的から発したARPA NETは、その全体を通信技術的に単一の管理下に置くシステムを採用せず、極めて開放性の高いネットワークに成長させると同時に、その研究に参加する組織を多様な企業・研究機関に開放し、研究開発に携わるものたちも多様な参加者たちに開くという多重な開放性を有するものであった(ibid.)。より具体的にその開放性は、機械端末を結合し情報のやり取りをする段階での技術的開放性を意味すると同時に、その開発に大学院生や身分不肖のメンバーの参加が許されていたことであり、ネットワークを利用して行われるコミュニケーションも雑多なものであったことが示している。ARPA NETの参加者たちは、本来研究目的としてネットワーク化された端末を利用して文字情報を送りあうメーリングシステムやファイル交換システムで開発情報を共有することになる。同時にそのメーリング・リストを通じて自由なコミュニケーションが生まれていった。そのリストの中で最も有名であり参加者の多かったものが、SFファンのための書評とワインの情報交換だったということは、その運用の開放性を表象するだろう(Randell36、および第5章参照)。

もっともインターネットの起源を一つに絞る理由はない。代表的な同様のネットワークとしては、USENETあるいはUsers Networkと呼ばれるものがあり、こちらは1980年に開始され、同様に研究者間の自由なコミュニケーションの場として展開していった(id.116-117、またRaymond参照)。こうして、このコンピュータ技術に関する情報交換を目的として研究者間を結んだ個々の初期ネットワーク・コミュニケーションは、やがてそれぞれにさらに分野の異なる研究者間を結び付けていくと同時に、参加者間の自由なコミュニケーションの道具として展開していくことになる(Randell126)このようなネットワークは、次第に潤沢な資金を持つARPA NETを中心に結び付けられ、全米科学財団(U. S. National Science FoundationNSF)が、1988年から本格的に稼動させ始めたNSF NETに統合されることになった。これが真にグローバルで自由という意味でのインターネットの始まりであるとも指摘されている(id.:147)。

しかしこのインターネットには、当初のARPA NETの設立目的であった軍事目的と国家による情報管理に行き着くような「電子のパノプティコン」と、個々の研究者が支えた情報の共有と自由な交換という、開放され規制されない自由空間としてのインターネットと言うアンビバレンツが共存していたと指摘されている[2]

『インターネット・ヒストリー』の著者ランデル(Niel Randell)は、このインターネット成立に与えた1960年代のアメリカ国内のベトナム反戦運動やヒッピー文化の「功績」は、インターネットに「オープンでグローバルなコミュニケーション」というコンセプトを与えた事を指摘し、そのような「開放性」を、「インターネットが規制されない開放的なメディアであるべきだとする連中の賞賛する無政府状態という思想自体、世界中の多くの人々にとって文化的にも精神的にもアナテマ(強いのろい:本稿筆者註)」になっていると指摘している(id.45) [3]

このように学術目的で発展し、研究機関やその研究者を相互につないだコミュニケーションのための道具として発展してきたインターネットだが、先のARPA NETに始まり、NSF NETが終了する1995年まで原則的に商業利用は禁止されていた(NSF NETの接続規定、Acceptable Use Policy参照)。このNSF NET の終了によって、インターネットの中継核となるような団体は存在しなくなり、インターネットは個々のLANが、網の目のように相互に結合することによって、ネットワーク間の上下の支配関係であるとか、全体的な管理者や機関の存在しない、極めて水平的な構造が特徴となって展開し現在にいたっている。そのことの一端は、インターネットの運営上に必要なあらゆる技術、研究、情報などが、RFCRequest for Comment 参照という形式で公開され、その採用如何が各ネットワークの管理者に任されていることからも窺える。インターネットの基本的な仕様は、現在のところ、どこかに認定機関や統一機関が存在してその仕様が決定されているものではなく、個々のネットワークの管理者が、自らの管理するネットワークをその仕様に対応させるか否かを決めた、その総和によって、つまりは全体でのその仕様の受容度によって環境決定されている。この意味では、インターネット自体がハイエクの言う一個の「自生的秩序」であろう。

ハイエクの法概念は、『法・立法・自由』に見ることができる[4]。『法・立法・自由』は、彼の言う「自生的秩序」の分析と「設計主義的合理主義」への批判を特徴としている。彼はマイケル・ポラニーから援用した「自生的秩序」の概念(嶋津b53 )の下に、社会そのものを「コスモス」と「タクシス」の二つの秩序に分割し(Hayek:51,邦訳:37)、それぞれに「ノモス」と「テシス」という法概念を対応させている。

「コスモス」とは、「人間の行為や思考」の場となっている「自らの住む社会」のことであり(id.:11,同:19)、「自己増殖的あるいは内生的」に成長したそこでの秩序は、「自生的秩序」と呼ばれ(id.:37,同:51)、その秩序を形成し維持しているものを「ノモス」、あるいはしばしば「自由の法」と呼んでいる(id.:122-3,同:158)。他方「タクシス」とは、「自生的秩序」に対置されるものであって、典型的には会社や軍隊などの「作られた秩序」あるいは「組織」(id.:37,同:51)であり、その秩序を成立させる法が「テシス」である。この「自生的秩序」と「タクシス」との関係は、その具体例として挙げられている全体社会とその中に存在する「組織」との関係に見ることができる。目的や特定の意図をともなった立法によって「タクシス」は形成され維持されるが、そのような秩序そのものに対置され、かつ全体としてはそれらを内包するのが「自生的秩序」である。このような意味での「自生的秩序」は、「様々な種類の多様な諸要素が相互に密接に関連しあっているので、われわれが全体の空間的時間的なある一部分を知ることから、残りの部分に関する正確な期待、または少なくとも正しさを証明できる可能性の大きい期待を持ちうる事象の状態」を指し、「この意味で全ての社会が秩序を持たねばなら無いこと、またその秩序が熟慮の上での〔意図的な:本稿筆者挿入〕創出なしにしばしば存在することは明らかである」と述べている(id.:36,同:49)。彼は「コスモス」=「自生的秩序」を人間の意図的な活動の産物ではなく、むしろそのような活動とその結果をも含めた「誰もその結果を予見することも設計することも無かった進化過程の所産」であると説明している(id.:37,同:51)。

従って我々に「自生的秩序」の意図的な創出はできず、共同体や社会の存在するところに所与として存在する秩序を仮定し、それを発見する事だけが許される事となるだろう。ハイエク自身も「自生的秩序」の生成過程を描き出すわけではなく、それ自体を構築することの不可能も指摘している(id.:59-60,同:79)。我々が秩序ある社会を感じる時、あるいはそれを捕らえようとするとき、「自生的秩序」は先験的に存在していなければならないことになるだろう。対象に一個の秩序を見る限りにおいて「自生的秩序」は仮定され、しかもその秩序が全体として意図されざるものから成立しているものであるという意味で、現在までのところサイバースペース自体が、ハイエクの言う一個の「自生的秩序」を形成しており、総体としてのインターネットは「コスモス」であると言えるのではないだろうか[5]

しかしインターネットに秩序は無く、「自然状態」であるという見方も存在しうる(酒匂200314)。インターネット利用に起因する犯罪の多発をその根拠とするが、はたしてその事によって、そこが「『犯罪の温床』であり、『無法地帯』とみなされうる」根拠になるのであろうか。確かにインターネットでのコミュニケーションを起点とする犯罪は多発しているようではあるし、それがネットでのコミュニケーションを起点とする以上、「現実世界の観点」から見ればインターネットが犯罪の温床であるとも言えよう。しかし、ネットが現実世界における多様なコミュニケーションの道具に過ぎないという視点を採れば、それはまず現実のコミュニケーションにおける道具としてのインターネットの用い方、あるいは接し方の問題にすぎないとも考えられるのではないだろうか。

サイバースペースをリアルスペースに内包するものと考えるならば、その適切な位置付けを考えて、与えれば良い。それは後述するように、ネットでの商取引に応じた新たな追加情報や情報交換の様式をサーバーコンピューターに組み込むことであったり、それに対する現実世界の法的な規制であったりするだろう。しかし、インターネットが本当にコミュニケーションの道具として新しいものであるならば、そこにはコミュニケーションの新たな様式に則った共同体が有るのかも知れず、その新しさは現実世界へも何らかの影響を及ぼすものではないだろうか。確かに、情報端末を操作する人間は最終的に現実の人間であり、インターネットも現実の物理的な世界の一部であるとは言っても、人はそこに「遊ぶ」ことができ、コミュニケーションという行為をすることができるのである。身体を欠いた人間と身体を有する人間との関係性が、そしてそれぞれに成立しうるその共同体の相関関係がどのようなものであるかを脇に置けば、サーバースペースでは確かに現実の人間にまとわりつく属性に囚われない行為が可能である。ネット上では、国籍や職業や社会的地位や、さらには性別や年齢などの身体的特質を捨象しても、あるいは偽っても、コミュケーションの継続が行われているのである。だとすれば、そこに秩序を仮定し、共同体を仮定する可能性は否定できないのではないだろうか。手紙や日記から「法」を探る試みが許されるならば、ネットにおけるメーリング・リストや掲示板などのコミュニケーション過程からは、単一の人物の視点を越えた秩序や規範が読み取れるはずである。しかもそこでは、例えばロールズの言う「無知のヴェール」を様々に条件設定することをも可能なのである。

その場合、当該秩序を成立させる規範としてのルールは、どのようなものと認識すべきであろうか。ハイエクに拠れば、「コスモス」と「タクシス」に対応する規範は、「ノモス」と「テシス」である。彼によれば、ノモスは、「人間の行為や思考が自らの住む社会の中で淘汰の過程を通じて進化を遂げ、かくして数世代の経験の所産となっているルール」(Hayek 1973:11,同:19)と定義されている。ハイエクのこのルールは、現実の人間がそれぞれに自由な目的と行動選択の下に行動することに対応するわけであるから、必ずしも特定の目的や効果に結びついているわけではなく、その目的は単に全体として規制される行為の範囲を示し、責務を課すことにあり、「正義の法を犯さぬ限り、各人は各人の方法で自己の利益を完全に追求できるよう完全に放任」されており、「ルールで禁止されていないところでは、すべての事に自分の意志で従う自由」があることになるとしている(id.:56,同:74)。従ってハイエクの「自生的秩序」におけるルールは、一定の抽象的なレベルで禁止される行為の範囲を現すものとなり、「一定の事象の継起の規則的な繰り返しを叙述するルール」とは明白に区別された、「そのような継起が生じる『べきである』と言明する規範的ルール」(id.:79,同:104)として把握される。なお具体的行為のルールとしては、意図された組織維持のための「テシス」的ルールも存在するが、最終的にその秩序である「タクシス」が、「ノモス」に依拠する以上、最終的に有効なテシスとしての行為ルールも、「自生的秩序」の一部になると考えられる。

このような原初的な行為規範という概念は、『法の概念』で法に関する「記述社会学」(Hart: v, 同:B)を試みたハートにおいても共有されている。彼の場合、「ルール概念」は「法概念」を記述説明するためのものであり、法体系を二つの異なったルールの集積と見ている。一つは「ある行為をなしたり、あるいはさし控えることを要求」し、「義務を課する」「責務の第一次ルール」であり、もう一つはその第一次ルールに「公的または私的な権能を付与」して、「新しいルールを導入し、古いルールを廃棄あるいは修正したり、・・・その範囲を決定」する「第二次ルール」である(id.:79,邦訳:90)

第二次ルールは、以下の三つからなる。「変更のルール」と呼ばれる、「新しい第一次的ルールを導入し、古いルールを排除する権能を個人または人々の団体に与えるルール」(id.:93,同:105)、「裁判のルール」と呼ばれる「第一次的ルールが破られたかどうかを権威的に決定する権能を個人に与える」(id.:94,同:106)ルール、最後に「責務の第一次的ルールを確認するための権威ある基準」(id.:97,同:109-110)として「権威の印を与える」「承認のルール」である(id.:93,同:105)。この二次ルールの存在によって、第一次ルールは法的なルールとなり、全体としての「法概念」を形成する。

「第一次ルール」は、個々人に対して一定の行為を要求し責務を課すのであり、一体として行為規範を形成することになる。同時に彼は、「血縁、共通の心情、信念の絆で密接に結び付けられており、安定した環境に置かれた小さな社会のみが、」このような第一次的ルールと言う「公的でないルールの制度だけでうまくやっていける」と指摘して、第一次的ルールだけによって成立する共同体の条件を示している(id.:89,同:101)。

個々の行動ルールや全体としての行為規範が「法」であるかどうかを決定するのは、第二次ルールの存在である。この二次的ルールの存在が、血縁や共通の信念によって結び付けられた「原始的な共同体」と、法を備えるに到った高度な社会とを別つメルクマールとなる。これは第二次ルールを、現代社会におけるより具体的な対象へとそれぞれ類推してみると一層明らかになろう。「変更のルール」は「立法」権を司る議会のアナロジーであり、「裁判のルール」は「裁判」権を生み出し、「承認のルール」は所与としてすでに存在する「法体系」つまりは実定法秩序であって、その「文書や碑文を権威あるものとして」解釈するのは裁判所の任務である(Hart:92-94、邦訳:104-105)。第一次ルールのみによって成立する社会が原始的な社会とするならば、この裁判所と議会と法体系を備えた共同体は、より複雑な近/現代社会であり、現代の法秩序を整合的に記述し説明する事が可能となるだろう。

本稿における筆者の仮説に拠って検討を進めるならば、次の課題は今紹介したようなルールや法がインターネットの中に存在しうるのかどうかという事になるだろう。そのための素材を「ネチケット」に求めて検討してみよう。検討のポイントは、何らかの具体的な行為規範が存在するかどうかという事と、何らかの意味で「法」がインターネット世界に成立するかどうかという二点である。

 

2)インターネットにおける「規範」と「法」

 

「ネチケット」とはネット上のエチケットを意味し、個々の事例を離れて、サイバースペースで一般的にやって良い事/悪い事を具体的に指示する内容のものとされている。もとより「エチケット」であるから、それに対する制裁はせいぜい道徳的な批判にとどまり、制裁があったとしても本来それは個人的なものに限られている。本稿で検証するのは、その中でその成立初期に見る内容を参照するという点から、つぎの三つである。

一つは、インターネット学会(Internet Society: ISOC)の下部組織であるインターネット特別技術調査委員会(Internet Engineering Task Force:IETF)のネットワーク責任利用作業部会(Responsible Use of Network Working Group:RUN)の成果としてサリー・ハンブリッジ(Sally Hambridge)がまとめ、1995年にRFC1855として公表した@「ネチケットガイドライン」(Hambridge)と、第二にこのような文書の例として言及されることの多いFAUFlorida Atlantic University)のアーリーン・リナルディ(Arlenee H. Rinaldi)が、学内のコンピューターネットワークの利用綱領として、1996年にまとめたA「ザ・ネット:利用者の指針とネチケット」(Rinaldi)、そして最後に我が国における例として、少し年代は下がるが1999年に電子ネットワーク協議会(現在の財団法人インターネット協会)がまとめたB「インターネットを利用する方のためのルール&マナー集」(電子ネットワーク協会)の三つである。

三つのネチケットを概観すると、インターネットには@では「インターネットの文化」、Aでは「了解事項」と指摘されるような、既存の慣習あるいは規範が存在する事が述べられている。「ネチケット」は新規参加者へのそのような規範・慣習の紹介とネット社会へのスムーズな導入を意図したものである事が述べられ、しかも両者が提供する規範は、@「最小限の組み合わせ」(Hambridge)であり、A「標準を目指したもの」(Rinaldi)であって、各自の接続ゲートとなるネットワークにはそれぞれに規則が存在し、それを知らねばならないと述べている。メーリング・リストなどインターネット内部の個々のコミュニケーションを行う際にもそれぞれに雰囲気のようなものがあるので、発言という参加行為の前にはしばらく様子を見る事を薦めていることも興味深い。そのような姿勢はBでは、各自が自らの接続ゲートとなるネットワークの利用規定を知ると同時に、その個別のルールだけでなく、他のネットワークとその利用者に対して「社会的な考慮」をすべきと一般化している。行為責任の所在はAで、「ネットワークのサービスにアクセスして行った行為は、最終的には各利用者に責任がある」と自己責任原則として現われ、その内容はBにおいては、ネットワークを利用して行う行為が、単に接続ネットに対する責任、つまりは私人間契約に対する責任だけでなく、「社会的責任や法的責任を自身が負う」ものであると明記される。そして違背行為に対するネット上の制裁として指摘されるのは、個々人への「フレーミング」と呼ばれるネット上での個々人からの非難であり、さらには管理者によるネット利用行為の禁止である。

以上を本稿での筆者の関心から分節化すると、次の二つの段階が存在する。一つは、ネットの利用者の増大に際し、それまでの利用者に意識され共有されたものがネチケットとして定式化され提示されたという事実であり、それに反するものが「違背」として認識されていて、そうであるが故に何らかの反作用が存在していることである。二つめは、それが単なるネット利用に伴う利用者の自己責任あるいは個人的責任から、次第に社会化し法的責任の性格をも帯びていることである。利用者の拡大という要因については後に検討するが、ここで注目すべきは、ネット空間において何らかの一定の行為を指示する規範と意識されるようなものが存在し、それが意識されていることである。このことは先に検討したハイエクとハートの秩序としての「原始共同体」や「自生的秩序」の規範としての行為規範に対応する。

では具体的にどのような内容がサイバースペースの行為として指示されているのであろうか。筆者はそれを次の二つの次元に分かれるものと見ている。一つはインターネットの主としてハード的な側面から来る制約であり、他の一つはそれを使用する人間の社会的なあるいは共同体的な側面から生じる制約である。

ハード的な側面から生じる制約とは、ネットワークを構成するコンピュータやそれを繋いでいる様々なシステム上の制約からそれを使用する人間に対して加えられている制約である。例えばそれらは、電子メールのインターフェースを左右するソフトの仕様や結節点となるサーバーコンピューターの処理能力、ネットワークの回線速度の問題などが原因となる。具体的には、電子メールにおけるタイトルや署名のつけ方、本文の一行文字数の制限、添付ファイルなどを含めた送信メールの容量への配慮などである。もう一つはいわば黄金律とでも言うべきものであり、他者への配慮として現われるものである。それは、直接的に他者への誹謗中傷を禁じたり、誤った使用や誤解を生む表現に対しての寛容を勧めるものであったりする。しかしこの二つの側面は全く別のものであるというわけでもなく、ハード的な制約が、全体としてネットの情報の流通量を抑えることでネット内の円滑な情報交換を目指したものであったり、相手の接続環境への配慮に根ざしたものであったりもする点では、他者への配慮の側面をも有している場合があることはもちろんである。筆者がここで指摘しておきたいのは、ネットのコミュニケーションにおいても一定の行為への志向があり、規範として意識され、何らかの違背に対する制裁が予定されているという事だ。現在でもそのような例は、時にネットにおけるコミュニケーションの無秩序の例として挙げられ「2ちゃんねる」サイトでも存在している(2ちゃんねる「使用上のお約束」参照)。そうであるとすると次の課題は、それがいかなる意味での規範であり、はたして法と言いうるものであるかどうかという点が検討の課題となるだろう。筆者は以下本稿で先のハートの視点に加え、ウェーバーとルーマンからその理論的枠組みを借りてそれを検討して行く。

ウェーバーは規範形成の段階を「習俗」「習律」「法」という三段階と見ている。「習俗」とは、その行動自体が単なる慣れや模倣によって選択され、他からの要求によらないで行われる「大量行為」であり、無自覚的かつ無反省的に伝統的に保たれている類型的な行為の一態様である。「習律」とは一定の行為をするようにという周囲からの働きかけは存在するが、それがその行為者特有の一定の範囲を構成する人々の是認/非難というもので維持されているものであり、それ以外の何らかの強制によらない場合を指している(Weber1295:29)。習律秩序と法秩序が識別されるのは、その秩序維持のために「強制装置」という一定の保障、具体的には目的維持のための人が存在しているかどうか(id.:6)、そしてそれによる「法強制」が存在しているかどうかどうかである(id.:8、44)。従って習俗・習律を合わせた慣習と法は、形式的には「強制装置」の存在によって区別されるが、それによって実行される法の強制が、慣習に逆らう事によって失敗する可能性は指摘されている(id.:30-31)。しかしこのことは、法強制の失敗という事実によって「強制装置」の存在や「法」という存在が否定されるということではなく、事実上の結果の問題であって、慣習と法の識別基準として「強制装置」の有無があるという事になるだろう。それは慣習法の存在が、強制装置が働くであろうというチャンスの問題であって、習律にはこの強制装置が欠如されていると把握されている事で推測できるよう(id.:29-30)。なおこの場合、「習俗」と「習律」の区別は曖昧であって、「流動的」であるとも把握されている(id.:31)。

さらに彼の理論で重要であるのは、規範によって維持される秩序の妥当性を決定しているのは、秩序が遵守されているという事実ではなく、それが「志向していると言う事実」なのであって(id.:6)、その指し示す意味内容が「回避」されたり「侵害」されたりするという認識の生ずる事自体が秩序の存在を意味していると指摘している事である(id.:13)

現在でも個々人がネット接続するプロバイダーやLANにはそれぞれに利用者規定がおかれており、その中には何らかの形でネチケットが取り入れられている。それらはネットの初期利用者がまさに志向し、回避させようとした行為の類型であった。ネット内の個々のメーリング・リストや掲示板にもそのようなものは存在しており、そこがコミュニケーションの成立しない無秩序と考えるのは一面的であろう。もっともその中では、誹謗・中傷でさえもが一定の定型句を獲得し、遊びのように繰り返される事もあるのであるが(鈴木:35参照)。内容に対する評価を別として、一定のやり取りが継続する以上、そこにはまず何らかのコミュニケーションが成立しており、何らかの規範が成立していると見なければならないだろう。ではその形成のメカニズムはどうなっているのであろうか。

規範生成のメカニズムに関して理論的な枠組みを提供していると筆者が理解するのは、ルーマンである。彼は「人間は意味的に構成された世界に生きて」おり、「それゆえ世界は、人間に体験と行為の極めて多数の可能性を示す」という世界観を提示する(Luhmann197237)。しかし、我々がその世界を知覚し情報を処理する能力は極めて限られており、「明白に与えられている体験内容の中」にさえも、「複雑かつ不確定なもろもろの可能性が含まれ」ていると指摘する(id.38)。我々はそれを制御するような「体験加工の構造」を持つが、それは人それぞれが有する以上、個人的な知覚の場とそれぞれの体験加工の場という「二重の不確定性」にさらされる事になる(id.38)。ルーマンはその「複雑性の軽減」(id.:44)の過程を「予期の予期」という概念で詳述する。予期は、予期に反する事実、「違背」に対しどのような対処を採用するかで次の二つのものに分類される。一つは違背に遭遇し、その違背という現実に則した対応を採用する「認知的予期」であり、他方は予期を固持し予期の抗事実的な存在を保持しようとする「規範的予期」である(id.49)。

ルーマン理論では、この認知的予期と規範的予期の相互関係と法規範との関係が必ずしも明確でないと現在の筆者は考えるが、今のところ以下のように理解している。

二つの予期は、それに反する事実の存在を前提としており、規範形成にはもっぱら規範的予期が関与する。予期自体を形成する認知的態度によって、予期自体に反する事実つまり「違背」に対し、そこから学習する用意のあるものが「認知的予期」とされ、「規範的予期」はそこから学ばないという決意を特徴とする(id.:50)。規範を予期自体で語ろうとしても、形成された規範自体は学習後の改変が可能であり、学習しないで従来の規範を強化する事も可能である。筆者が二つの予期と規範との関係、特に法規範における認知的予期と規範的予期との関係性が曖昧であると感じるのはこの点であるが、同時に以下のような考察から、規範自体はもっぱら規範的予期によって成立するであろうと考えている。それは二つの予期を支える態度の相違である。認知的予期を支える態度を、筆者は予期の違背に対する自然科学的対応と理解している。自然法則を予測する命題を立てようとする時、違背の存在は直ちに命題の誤りの可能性を意味し、違背的事実を生み出す様々な条件や命題を精査した後には、新たな命題がたてられるであろう。そうであるが故に、対象のコントロールは、違背を許さないものとなる。それに対し規範的予期を支える態度は、違背の存在を前提としながらも、それを違背と位置付け、予期の維持強化を図るものであって、予期構造によって形成された規範自体に変更は起こらない。認知的予期が、多数の体験とのそれに伴う違背的事実との遭遇によって自らを変化させてその安定性を高めるのに対し、規範的予期は多数の体験とそれに伴う違背的事実に対し、さらに現にある規範を維持強化すると言う抗事実的な事実によってさらに予期を強化し規範の存在を強める。しかしこの場合でも、予期自体は違背を前提としており、法規範が認知的予期の構造を取り込むことによって自身の安定性を高める可能性は残されているだろう。

ルーマンによれば、規範的予期から法へと移行するためには、個人的な予期の一般化と考えられる「匿名化」(id.;43)の後に、「制度化」と内容的には「規範的予期の整合的一般化」が図られねばならない。

「制度化」とは、規範的予期を「実効を伴うように管理」するメカニズムであり(id.76)、社会的な予期の縮減作用の維持を簡易にするものであって(id.79)、具体的には規範を第三者として呼びかけうる存在、例えば「裁判官」の創出である(id.76)。「規範的予期の整合的一般化」は、時間的、社会的、内容的な三つの次元で行われる(id.72)。時間的次元の一般化とは、規範的予期に対する違背に対して「制裁すなわち予期の実質的貫徹による違背処理の規範」の存在によって示され、これが社会的かつ内容的な整合化への足がかりを提供するとされる(id.113)。社会的次元での一般化とは、すなわち予期構造の制度化であって、それは予期の相互的な確認と限界付けの連関の分化であって(id.108頁)、具体的には「予期連関の同定原理としての人物、役割、プログラム、および価値」の分節化であり(id.114115)、「制度化する働きが特別の役割において制度化されることを前提」としたものである(id.108)。内容的次元の一般化とは、「意味の外面的固定」であり、固定される事によって「相互的な確認と限界付けの連関」に組み込むことが可能になる(id.108)。ルーマンにおいては、このような諸特性によって「法」が形成され特定される。そして最終的に、これらの特性は「優先的な違背処理の様式」としての「物理的実力」によって担保されるのである(id.121122)。それはウェーバーの言う「強制装置」と同様のものと考えられる。

以降の検討のためにここまでの検討によって得られる理論的な枠組みを整理しておこう。ウェ−バーに拠れば、規範は「習俗」「習律」「法」の三段階に分けられている。それぞれを分かつのは、まず「是認/批難」であり、次に「強制装置」による強制である。ルーマンに拠れば、「規範的予期」によって規範は形成される。それが法への過程をたどるのは、「匿名化」と「制度化」そして三つの次元での「整合的一般化」である。そして最終的に法は、「物理的実力」によって担保されたものである。先の「ネチケット」の検討によって、インターネット上には何らかのルールや規範の存在を確認しておいた。その前提に立つならば、次の検討はこの理論的な枠組みを用いて、それがいかなる意味の規範であり、法への段階を歩んでいるのかどうかであった。

ネット上のエチケットとしてであれそれが意識され、個々の規範からの逸脱行為に対し「フレーミング(flaming)」と呼ばれる他者からの非難が予定されているならば、それがは匿名化され一般化された習律となっていると筆者は考える。問題はどのような一般化がなされ、それが成功し、強制装置による物理的実力によって担保されているかどうかであろう。

一般的な個人がインターネットに接続することが可能になるのは、1988年以降のことであり(サイバースペース法研究会、国際商事法務vol.26,No.2,p145-6,1998)、1990年にはすでに複数の商用プロバイダーが存在していた(Randell:299[6]。わが国においては、インターネットの企業普及率は、統計開始時の1995年の11.7%が、2000年ですでに95.8%に増加しており(IT本部「ベンチマーク集」参照)2004年末における利用人口は7,948万人、人口普及率で62,3%に上っている(情報通信白書:28)。1995年以降の利用者の増大の背景には95年の商業利用の本格化と、94年のMosaic Communications社の、よりグラフィカルなHTLM文書の表示を可能にした新しいWebブラウザーであるNetscapeの登場(Randell:216)、さらには95年のMicrosoft社による新しいコンピュータ・オペレーティングシステム(OS)であるWindows95の登場が指摘できるだろう(Randell: 224)。我が国のインターネット利用状況を示す統計では、企業普及率で95年の11.7%が、96年には50.4%に跳ね上がっている(「ベンチマーク集」参照)。その利用形態は、初期のネット・ニュースやメーリング・リストによる情報交換、ファイル転送サービスを利用した利用者相互のデータ交換に始まり、文字中心の電子メールとホームページ閲覧を中心としながらも、現在では写真や動画/音声データの交換、あるいはそれらの配信サービスまでが一般化しつつある[7]。今後はコンピュータに接続されたあらゆる電気機械の遠隔操作までが可能になるとされ、およそデジタル変換可能なデータの介在するものであるならば、その展開可能性に不可能なものはなく、様々な社会的課題が「ユビキタスネット社会」の下で解決されることが期待されている(情報白書:4頁以下参照)。

特に我が国においては、インターネットへの接続端末として、パーソナル・コンピュータに加えて携帯電話の利用率が高い。携帯電話・PHSを含めた携帯情報端末からの利用者は2004年で5,825万人であり、2001年から04年にかけてのパーソナルコンピューターからのネット利用者が僅かながら減少するのに対して、二倍以上の伸びを示している(情報白書:29)。このように携帯電話の利用は急速に拡大しており、内容も電子メールの交換に始まって、各種チケットの予約や商取引、商取引に伴う銀行の決済などが携帯電話を使用して行われ、さらには動画配信技術や衛星を利用した位置確認システムなどと結びつき、携帯電話を持つことがネットに接続されているという状態も生まれつつある。携帯電話利用の拡大は、そのままにネット利用者の拡大であり、そのことはインターネットが現実生活の中で一般化し、日常生活の中に溶け込んでいく過程なのかもしれない。

デジタル・データ操作端末によってどこでも自由に情報操作ができ、さらにそれと繋がった機器を自由に操作できる。これがユビキタス社会といわれるインターネットの提供する明るい未来像である。他方このような社会状況の中で、携帯電話の利用をも含めたインターネットに起因する法的な紛争は、増加していると認識されている。インターネットは、出会い系サイトに起因する犯罪や掲示板での誹謗・中傷、さらには迷惑メールやネット上のオークション・サイトを利用した詐欺など、新たな犯罪形態を生み出す元凶であると指摘されてもいる[8]。先に見たように、こうした状況を指してインターネットの無秩序が指摘されているのである。

「インターネットの光と影」としばしば形容される、こうしたアンビバレントな状況を、吉田は『インターネット空間の社会学』で次のように分析している。インターネットの大衆化以前には、「規範的自立性と高度な技術的リテラシーの共有とによって特徴付けられる」「ハッカー文化」が存在していた。「それは「啓蒙主義の立場」にたち、「近代的な個人の自由選択―自己責任の原則」に基づくヴォランタリー・アソシエーションを形成するものであり、従ってそこで発言する個人は匿名ではなく必ず実名で登場した」(吉田200041)。しかし次第にインターネットが大衆化するに連れ、ハッカー文化のエリート主義的な原則は希薄化した。それを表象するのは、「かつての実名性の原則が薄れつつあること」であると指摘する(同:42)[9]。こうした匿名的参加者の増加が「フレーミング」と呼ばれるネットワーク上での感情的な非難や個人への誹謗・中傷、不正アクセスにコンピュータ・ウイルス、個人情報流出や著作権侵害といった「逸脱現象の増加」をもたらしている(同前)が、これは同時に「ハッカー文化の根底にあった情報民主主義の理念」を拡大する可能性を含んでいるのであり、「こうしたアンビバレンス」は、「既存社会のアンビバレンスを含みこむ形で増大化・多様化してきた」のであって、今後も増大化・多様化するであろうと指摘している(同:44)。筆者は、この様々な問題を生み出す要因が、匿名的参加者の増大であるという指摘を手がかりに以下の検討を加えていきたい。

先に見たインターネット利用者人口の増加によって形成された新しいネット利用者を、ネット上の市民層と捉え「ネチズン(Netizen)」と呼ぶ事がある。彼らは必ずしもコンピュータによる情報操作とそのデータ転送の仕組みやプロトコルに精通しているわけではなく、まず始めに個々の端末の利用能力と、さらに個々人の接続するLANの管理者のデータの取扱方針というデータ処理の物理的な仕様に制約されている。そうしてこのような新規参入の利用者に対して、ネットの管理者が、「インターネット上のルールやマナー」あるいは「利用規範」「行動指針」と言う名称で提示したもの、それまでのインターネット利用者の一定の規範が、先に検討したネチケットであった。そのネチケットと総称されるものの規範的性格は、先の項で検討した。従ってここでの課題は、それが上手く機能したのか、つまりはインターネットに内在したと考えられる規範の一般化と維持がはかれたのかどうかということである。

結論は明白だ。第一にインターネットに起因する紛争の増大が、何よりもそれを物語っている。インターネットに内在的な規範の維持が成功していれば、紛争そのものがネット内在的にしか存在せず、従ってその中で処理されるはずである。第二に先に紹介したネチケットの内容にその敗北を予見させるものを、すでに見る事ができる。それは、ネチケットの中に次第に法的責任が取り込まれていくことである。「プライバシー」の保護やその侵害に対する警告、そして肖像権や商標、著作権に関する注意、ウェブ上での猥褻物の取扱に関する注意にはじまり、オンラインショップなどの商取引に関する注意が加わるその過程は、もはやネットが現実世界とは架橋の無い独立したサイバースペースではありえなくなっていく過程である。現実空間における規範である法規範が、ネチケットにおいて次第に明確に意識されるようになっている。それはインターネット先進国であるアメリカでも同様であり、その新規利用者が増大するとともにそこに起因する法的問題が多発し、それが裁判という形で解決されていった結果にみることができるだろう。アメリカの1990年代は、インターネットへの法適用が開始され、判例法を発展せしめた時代であった(Samuelson1999158169、白田1996参照)。

インターネットに起因する様々な問題が法的紛争解決手段を必要とする事は、サイバースペースの内的規範の共有化と維持に失敗した事を実証すると筆者は考える。なぜなら、内的規範が有効に維持されているならば、紛争解決の手段として法規範は必要とされないであろうからだ。サイバースペースに新規に参入する人々に、インターネットという独自のコミュニティーに属しているなどという、独特な共同体意識の無い人々が多いことは当然である。そういう人々には、コンピュータとネットを通じて遭遇する社会もまた、自らが属する現実の世間である。そして現代の現実の社会空間において、現実に人々を強力に拘束する規範の代表が法であることは疑いない。違背説明の可能な仕方が多種多様であっても、それらの中から何が選択されるかということは、全くの任意であるわけでなく、それが認知レベルでのその説得力の源泉に依存していると考えるならば、多様な価値観に支えられている現代社会であるならば、より一層の説得力を持つものは「法」ということになるのであろう(cf. Luhmann66)。あるいは自らが属する日常の共同体の規範に従うしかない。かつてネチケットでは簡潔な表現が推奨され時候の挨拶などは無く、名のりは文頭、文意のまとまりで一行あけなどと指導したものだったが、いつしか手紙文と同じような表記が一般化しつつある。特に携帯電話を利用する電子メールが一般化し、あるは新規参入者のほとんどがそこからの利用を開始することとなっている現状では、それもまたうなずける変化であろう。

同様にインターネットに起因する様々な紛争の現実の世界の解決に当たる法学者が、それを既存の法学的な概念の操作を用いて解釈しようとする事は、当然である。何故なら、現実の世界に視点を有する法学者の、法学的な考察方法とは、現実世界に存在する法として概念的に妥当するのは何であるのかということを問題としているのであり(cf. Weber3)、規範を上位規範によって基礎付けていくのは、法解釈理論として単純なやり方だからである(Luhmann51)。それらはサイバースペースをリアルなスペースに内包化して行くのを促進するだろう。

インターネットに内在的な規範の萌芽が見られたとしても、その維持に失敗することは、ハート理論からも跡付ける事ができよう。インターネットの利用者の増大は、ハートの言う第一次的ルールの動作条件を破壊したと考えられる。ハートは、「血縁、共通の心情、信念の絆で密接に結び付けられており、安定した環境に置かれた小さな社会のみが、そのような公的でないルールの制度だけでうまくやっていける」と指摘している(Hart:89,邦訳:101)。新規参入者の増加が、このような条件を崩壊させるのは必然的であろう。

もっとも何が共通の心情や信念として維持されるのかは、ネチケット教育がどのように行われるのかも重要な要素であると筆者は考えるが、新規利用者に対して、少なくとも日本の現状で、十分なネチケット教育が行き届いているかは疑問であり、さらにはインターネットを取り巻く技術的環境が、規範の形成維持に必要な安定した環境を提供していないと筆者は考える。その事はインターネットに実装されつづける付加的サービスの増大と、情報教育と呼ばれる内容を省みて理解する事ができるだろう。そこでは、何をどう教えるのかが問われている。

我国におけるその現状を一例にすれば、2001年に政府主導で始められた「IT基礎技能講習(いわゆるIT講習)」では、文書作成やメールの送信、そしてHTML言語で書かれたいわゆるホームページを、ブラウジング・ソフトを使って閲覧することなど、コンピュータ機器の操作が中心であって、使用するテキストに若干「インターネット利用上気をつけるべき」行為として、幾つかの事柄が触れられるが(日本教育工学振興会テキスト、神奈川県および群馬県高崎市でのテキスト参照)、筆者の周囲の人々に確認したところ、機器操作の習熟に追いついて行くのが精一杯なようで、少なくともルールやマナーとして触れられた記憶すら残っていないようだ。

新規参入者に、いきなりその規範を教育してもその実効性が上がらないであろう事は、理論的にも理解できる。ルーマンに拠れば、予期が純粋に規範的な様式を取るためには、体験と予期文脈との最小限の抽象性が前提とされており、あまりに抽象的な体験加工は、無関心をもたらすだけだと指摘されている(Luhmann:97)。機器の操作をこれから覚えようとする人たちにとって、その行為の先にある規範は抽象的にすぎるだろう。

わずか十数時間に限定された「IT講習」が以上のような現状であるとすれば、例えば大学においてはどうであろうか。筆者も参加したことがある少なからぬ見聞をも元にすれば、やはりネット上の規範の維持/形成という観点からは、評価できない講義が多いようだ。科目の名称は様々であろうが、「情報処理」関連科目として文書作成やウェブ・ページ作成、あるいは写真加工などのソフト・ウェア習熟にとどまるか、あるいは上級編としてのプログラム作成をする講義は多いのではないだろうか[10]。インターネットに新規参入者が増大するにつれて、少なくともその既存の規範の共有化と維持という観点からは、それに失敗した事は間違いない。

さらに指摘しておきたいことは、わが国においてインターネット利用の多くは情報収集と電子メールの利用であり(情報白書:33)、共同体を形成するような多様なコミュニケーション利用者は限られている上に、通信環境の急速な改善は、その中で活動するものにとって、もはやインターネットのハード的な側面から生じる制約のほとんどを感じすらしない環境になりつつある。このように構成員と言うレベルでも、その環境と言うレベルでも安定しない共同体に合っては、ルーマンの言う整合的一般化の足がかりすらないであろう。

以上の現状認識からも明らかであるとおり、筆者は、現時点においてサイバースペースにそれに成功し、特殊内在的な意味でのサイバースペースの法なるものは存在していないと考えている。その意味で「サイバースペース法」も「インターネット法」も現実世界に視点をおいた「に関する法」と言う意味しか持ち得ないと考える。しかし固有な意味でインターネットやサイバースペースに内在的な法の存在も考えうるはずである。そのことを以下に論証してゆきたい。

先に紹介したようなネチケットに相当する規範の残っているものを、個人的にメーリング・リストやネット上の掲示板を利用した経験から思い至る人もいるだろう。メーリング・リストの話題に合うものの投稿を心がけたり、掲示板の表示の仕方を考えて改行を変えたりすることはもちろん、議論を停滞させないような投稿に配慮したりする。それらは、現実の世界における規範というだけでなく、現実の操作をする人間とネット上での存在を断ち切ってしまうならば、やはりネット上の規範が存在していると見なければならないだろう。そういう意味では、ネット上には確かに規範が存在する。規範から法への段階が如何に進展するかという問題を脇に置けば、ハートの言う二次的ルールやウェーバーやルーマンの言う「強制装置」や「物理的強制」が存在していれば、それが民主主義的かどうかとか、近代的かどうかなどという評価軸を越えて、そこでの法と考えうるのではないだろうか。

その意味で、例えばそのメーリング・リストや掲示板の管理者が、一定のルールの下にその管理を徹底させれば、それはその場の法という事になるだろう。インターネットやサイバースペースの全体としてそのようなものがあり得るとすれば、それがサイバースペース法やインターネット法という事になろう。個々の場における物理的強制の最たるものがその場の利用停止であるとするならば、ネットに固有の法のそれはネットの利用禁止であろう。そしてネットにおける行為そのものが、ネットへの接続を前提としている以上、その管理を徹底すれば物理的強制は有効に機能しうる。ネット接続が根本的にIPアドレスに依存しているとするならば、その管理を徹底することは物理的強制として有効であろうし、あるいはプロバイダーへの間接的強制を強化し、強制装置として機能を強化することでネットやサイバースペースに内在的な法の出現を見ることはできないのであろうか。あるいは他に何らかの可能性があるのか。

サイバースペース法の第一人者と紹介されるレッシグ[11]は、「インターネットの特質」と言うような設定そのものがナンセンスであり、それが人工的環境の特質にすぎないことを指摘している。彼はその環境を構成する様々なレベルでのハードやソフトを総称して「コードとアーキティクチャー」と言う概念を提示し、インターネットが、より自由度の少ないものへと変化しつつある現状を指摘している。彼はその変化の要因を「法」、「道徳規範」、「市場」そして「アーキティクチャー」という四つの要因に分析しているが、最終的に彼は、サイバースペースでの従来の自由主義的な「アーキティクチャー」つまりは環境を、現実の世界の「法」によって、より限定的にはアメリカ憲法の修正一条によって、保持しようとする試みを展開していると筆者は理解している。

インターネットは、個々のコンピュータが物理的に繋がることによってのみ成立しているわけでなく、個々の情報端末はもちろん、そのデータ転送を制御するさまざまなプロトコル/規約によって成立している。個々の情報端末内では、データに応じたソフトウェアがデータ処理を行うわけだが、そのデータは個々のソフトウェアによって文字や画像・動画・音声としての意味性を付与されている。レッシグはベンクラー(Yochai Benkler)に依拠しつつ、これを「物理」層、「コード」層、「コンテンツ」層に分けている(Lessig200123、邦訳:45-46)。つまりデータ通信を操作するプロトコルとソフトウェアや、さらにはPC内部の様々な機器を操作するのが「コード」であり、それによって成立するコンピュータを代表とする各種情報処理端末機器とインターネットの環境全体を「アーキティクチャー」と言うことになろう。「コード」は、インターネットの「物理」層を制御すると同時に「コンテンツ」層を制御することで、サイバースペースでのデータの取り扱い、本稿で筆者の言う行為を制御し、サイバースペースにおける環境的制約を課す事のできるものとなる[12]

彼は典型的な二つの例を挙げてそれを説明する。一つは構内どこでも自由にネット接続でき、しかも匿名利用が可能なシカゴ大学の例である。もう一つは、ネット接続には登録が要り、ネット上のあらゆるやり取りがモニタリングされるハーバード大学の例である。後者の場合、ネット接続の機器のデータのやり取りは追跡されうるし、それを接続ネットワークの管理者がコントロールする事も可能であるid.:46-47,同:26。この二つは典型的なネットワークの管理のあり方を示している。

前者であれば、ネットワークに接続する機器を持つものは自由にネットに接続し、そこでの行為に規制をかけうるものがあるとすれば、そこでの規範は先に検討した「習律」や「一次ルール」であって、そこには「法」は存在し得ないことになるだろう。しかし後者であれば、そこには「法」が存在する可能性が生まれる。なぜなら、そこでは単に構成員からの非難やクレームというレベルにとどまらない管理の可能性があるからである。それは管理者による規範の確認と、最終的には接続拒否という制裁である。これを「物理的実力」によって担保された「強制装置」の存在と見るならば、少なくともそこには外形的な法存在の可能性が生じることになるだろう。

先に見たように、初期インターネットの設計者達の思想の中には自由主義的な要素があり、インターネットの設計そのものに対しては、その社会的なコントロールの強化よりは、ネットワークの効率化に関心があったので、基本的なインターネットのプロトコルから複雑な部分は除かれ、個別のサービスが必要とされる高度な部分に関しては、アプリケーションあるいは個々の末端機器に任せてしまう事となっていたid.:56-58,同:32-33。その結果は、個々のネットの管理者の強制装置、あるいは規範の有権的解釈と変更、そして保持者としての可能性を生むだろう。その事は、そのままその管理のあり方の多様性に結びつく。しかしネット接続の可能性が限られるようになれば、強制を実質的に担保する物理的強制力、つまりはネット接続への拒否は有効に作用するだろう。

しかし現状、接続ゲートとなるネット、つまりはインターネット接続サービス・プロバイダーの増加は、商業サービス・プロバイダーの増加も相まって爆発的であり、その管理の態様は様々であった。さらに接続した先のコミュニケーション・コミュニティーの管理の多様性が存在する以上、この二つが相まって実に多様な様相を呈する事になったと考えられる。しかしその場合であっても個々の管理が厳密の行われうるならば、そこにはその場の「法」存在の可能性があり、さらにそのようなネットが階層化されネット全体の管理十分に行われるようになるのならば、そこにはサイバースペースの「法」の存在する可能性が生ずるだろう。

しかし、プロバイダーの増加や一時的なコミュニケーションの場の増加によって、ネット全体の強制装置が上手く機能しない状況では、「法」の存在の可能性は消え去ると言う事になるだろう。何故なら、単一の管理者が存在しない以上、ある特定のネットへの接続を拒否されても、利用者は自らの好む他のプロバイダーを通じて、自らの好むコミュニケーションに入り込む事ができるからである。インターネットの環境の多様性は、その接続のゲートとなるプロバイダーの管理者の方針の他に、その中における小さなコミュニケーションの共同体の多様性という二重の困難を抱えているのである。

さらに規制されない自由空間としてのサイバースペースという初期の呪縛は、ここのコミュニケーションの内部でさえも規範形成の上で問題を抱えるのである。先のレッシグの挙げる例をもとに考えていこう。

それはサイバースペースのLamdaMOOというチャット・スペースで起こった。インターネット上のあるコミュニケーションサイトで、本来の利用者が作り上げてきたキャラクターを、別の利用者がそれに成り代わって操作することで、その場におけるキャラクターの人格をレイプしたと指摘される事件である。その経緯は何ら現実の世界に接点を持たずに終始した点で、サイバースペースの内的な規範形成に関する典型的な実例を提供していると言えそうな事例である(Lessig1999a:74-78,邦訳:133-141)。

事件の概要はこうだ。あるチャット・スペースには誰でもが自由に出入りでき、いつしか常連と呼ばれる人々の一団が形成されることがある。その一団の周囲には、自らは会話に参加しなくともその常連達の会話の一部始終を読むだけの集団(Read Only Member: ROMと呼ばれる)が付随し、潜在的にはさらに大きな集団が形成される場合もある。個々のキャラクターは現実の操作者によって操作されるわけだが、それが現実の性別や年齢を反映しているとは限らない。しかし一定のネームで会話が継続するうちに、個々の常連には一定の尊敬とか、あるいは逆に軽蔑とか、何らかのキャラクター認識が生じるものである。ある時、その内の女性キャラクターの操作が、一時的にその所有者の操作を離れ、他の者の手に委ねられると同時に、他のキャラクターからの性的刺激を受け、そして反応する様子がそのチャット空間に流れ続けたのである。これを「サイバー・レイプ」事件と言う(cf. Dibbell)。それが本当のレイプであるかどうかは、筆者のここでの関心ではない。筆者の関心は以下の規範形成に関してだ。

当然のことながら、レイプ事件に対しまず非難の声が起こった。しかし現実空間では実に奇妙な話なのかも知れないが、このサイトで引き続いて現われたのは、犯人が罰せられるべきか否かに関する議論である。というのは一方で、この事例がレイプ犯のコンピュータ操作能力の高さを示すものでもあるからである。その議論の白熱する渦中、犯人はサイトの管理者の一人によって抹殺された。つまりは利用停止である。するとそのサイトでの議論は、その制裁の可否に関するものに変化した。その議論の渦中、管理者は、この空間にハートの言う二次的ルールの一つである「変更のルール」を導入した。どんなことでも投票で決めることができ、賛成票が反対票の倍以上ある議案は、全てこの場での「法」となると。

しかし、このルールの導入自体が、そこでの参加者たちによる決定を受けたものではなかった点で非難され、次にはさらにこのような多数決による秩序形成自体が疑問視されたというのである。やがてこのルールを受け入れない者達はこの空間から去って行った。この事は、以下の点でネット上の規範形成が如何に難しいものであるのかを表す典型であろう[13]。サイバースペースでは、ある行為が現実社会の通常の感覚で違背行為と思えるものであろうと、その行為の違背性自体が問題となる可能性があるということである。この問題は、引き続き、それが制裁を必要とするものかどうかに関連し、その事自体とその根拠付けが争われるのである。その過程では、多数決の導入という民主主義的な集団による自己統治の導入さえ疑問視される。集団による規範の形成と維持を拒否し、参加者個人の全くの自立的規範、あるいは自己制定的規範のみによって規制される空間、何らかの他律的な規範による規制を前提としない空間すら視野に入るのである。それは果たして規範によって秩序が保たれている状態と言い得るのであろうか[14]

この集団での規範形成を拒否した一団は、筆者の前項で検討した規範形成の諸理論からは逸脱しているように見え、従ってその事からインターネット上に独自の規範形成自体が起こることを否定できそうな気がする。しかし、この集団的規範形成を拒否し、全くの自己定立的な規範を志向する態様もまた、それがネット全体を支える「自生的秩序」の一部であると考えられ、「第一次ルール」を形成していると言い得ることは不可能だろうか。それが「規範的予期の整合的一般化」の結果であると言い得る可能性は存在しないだろうか。規範の具体的内容が特定されず、その具体的なメカニズムが明確にならない以上は、サイバースペースに固有の規範の有無を問う事はできないのだろうか。

しかしレッシグの指摘するインターネット環境自体への変更圧力を認め、さらに彼の指摘するように、その変化がネット自体の管理を強化するような方向で進んで行くその過程とその帰結を考えると、固有の規範の存在しないサイバースペースを創造することも可能だろう。以下そのことについて検討してゆきたい。

レッシグは、インターネットの規範形成にその環境を限定するものとして、コードとアーキティクチャーという、ネット自体を成立させる各種プログラムを指摘し、それが従来の自由主義的な設計思想に替えて、より管理しやすい構造を生み出す要因として、商業的な必要性を背景とした市場の、より具体的には商業組織の圧力を指摘している(Lessig1999a:30,邦訳:53)。彼が指摘するように、商業的な要請からそれに適合するようにネット自体の構造が変化していく事ができるとするならば、それは法規範や他の規範からの要請であっても可能であるはずだ。その事は彼自身も認めている。つまり、ネット自体の行為の様態が、法や他の規範に合致しないような場合には、その規範を適用しやすいような行為の形態しか許容しないようなネットの環境を作り出してしまえば良いのである。現在構想されている、ネット上の個人認証システムや捺印システムなどは、その一例であろう。CDDVDを利用する機器を例にすれば、かつて全く制限のなかったその機器の利用が、閲覧しようとするソフトの許容する地域という制限を受けたり、複製の制限を受けたりするようになるという変化がそれである。これは一定の規範が存在すれば、それが適合可能な行態しか許容しないシステムを構築することもまたサイバースペースでは可能だということを現している。

この場合、「規範」の性質そのものから重大な問題が立ち上がっている可能性がある。それは「違背」と「規範」との関係であり、そしてインターネットを構築するコード/プログラム自体が、ルーマンの言う二つの予期構造のどちらによって構築されるのかという問題とその帰結である。先に紹介したように、彼の理論によれば規範は規範的予期の整合的一般化の産物である。そして筆者の理解では、インターネットのコードやアーキティクチャーは、認知的予期あるいはそういう態度の産物である。それは違背という予期に反した現実に適合する対応を採用し、違背の存在を許容しないものである。インターネットのコードが、何であれ特定の規範に基づいて書かれるとするならば、その帰結は違背する事実を許さないコードの成立する可能性がある。その結果インターネット上では、もはや違背行為をする自由すら存在しない結果となるであろう。

その内の幾つかは、すでに現実のものとなっている。例えばかつてメールを送信する場合、一行の文字数は30数文字程度でなければならないとされていた。しかし、今はメール送信ソフトが自働に改行してくれるので、利用者はそのような事を考える必要すらない場合がある。匿名メールを送信しようと発信元を空欄にしても(もちろん従来のネチケット違反である)、送信ソフトが勝手にアドレスをふってくれる。また別の例では、かつてインターネット上には、そのサーバーを経由しさえすれば、相手に対しこちらの接続元を特定させないようにそのデジタル・データを剥ぎ取るようなサーバーが存在した。現在ネット自体からそのようなサーバーの存在がほぼ一掃された現状では、ネットを匿名で歩き回る自由すら消失してしまっている。ネットの「有害」情報に対してはフィルタリングが存在する。代表的な検索エンジンである「Google」を例にとれば、その「イメージ」検索を日本語のサイトで利用した場合、ある種の画像はもちろんまだ完璧ではないが、あらかじめ除外されている[15]。ある種の単語を送信しないメールシステムはすでに存在している。このような事柄はそのようなネット上の行為を是とする規範を持つ人々からは歓迎すべき事で終わってしまう事なのであろう。しかし、それは本当に「規範」なのであろうか。

少なくとも本稿で使用した法理論家たちの規範形成理論においては、規範の存在は遵守の現実という事実ではなく、あくまで行為が規範を志向しているという事実に基づいていたはずであり(Weber6)、違背の存在に対して抗事実的に存在を保つ事のできるものであった(Luhmann50)。即ち、インターネットが何らかの規範的要請を受けて、それをネット上の行為を規制する環境として実装した場合、その内部で行為する者にとって規範に違背する行為は不可能なのであるから、それはもはや「規範」ではない。サイバースペースという環境で不可能な行為は、不可能となる現実が生じる。しかし現実空間では、規範は抗事実的に存在するものであり、その意味で違背を前提として存在している。違背行為を行う事自体は、どのような規範を定立したとしても依然として可能だというのが現実なのである。

ネット内でコードによるアーキティクチャーの改変が行われ、ある種の行為が不可能になった場合であっても、そのアーキティクチャーを破る行為を行うことは可能である。しかしそれは環境の改変であって、あたかも現実空間で人が空を飛んだり透明人間と化したりすることと同じだ。そういうことができる人間は、少なくとも現実の世界には存在せず、仮に存在するとしてもごく少数に過ぎないだろう。更にコードを書くという行為そのものが現実空間での行為であることを考えれば、ネットの環境を改変することは現実空間での問題であって、特定のコードを書け、あるいは書くなということはサイバースペースの「法」ではなく、現実空間での「法」の問題ということになるだろう。

そこで我々は再び「法」の問題に立ち返ることになる。

 

 

3 結語にかえて

 

 本稿で筆者は、既存の基礎法学理論の中から規範の生成に関する部分を取り出し、それをインターネットにおける規範形成に接合して、そこから生じる幾つかの問題や可能性を指摘してきた。その意味で本稿は、基礎法学的議論をインターネットに具体的に応用した初の試みであるというささやかな自負を筆者は有している。しかし、その可能性の指摘の試み自体が有効なものであるのか、あるいは指摘した問題や可能性が、はたして本当に問題であり可能性を論理的に十分に指摘したものであるのかについて自信はない。それは、本稿がその前提においても幾つかの仮定を残したままであるからである。

しかし筆者は、本稿を冒頭述べた試みの試論であると位置付けており、まずその可能性を俯瞰してみる事を目的とした。その結果以下の二つの可能性は指摘し得ているのではないかと考える。第一に「サイバー法」や「インターネット法」「情報法」という場合のその意味内容である。現在のところインターネット内在的な「法」は存在しえていない。その意味でこのような表現は、「・・・に関する法」という意味以上の内容を持ちえていないと考える。しかし筆者はそのことによって、その将来の可能性をも否定するわけではない。本稿で検討した幾つかの条件が整えば、その可能性は十分にあるということになろう。第二にインターネットにおける「規範」の変質の可能性を指摘できよう。本稿で指摘する規範の変質を可とすれば、それは従来の法学的概念との整合性の問題を生じさせることになる。否とするならばインターネットにおける「規範」とは何かという問題が生じるであろう。

それらは反射的にやがて現実世界における「法」の決定や他の社会規範と法規範との関係性の再考に進んでいきそうである。その過程では、もちろん本稿の積み残しているいくつかの課題を検討する必要があるだろう。それらの内の幾つかを本稿の課題として近いものから挙げれば、それは規範形成における動態的な過程の検討であったり、最終的に形成される規範と法との関係性の検討であったりすることを自覚している。本稿で借用した理論家の規範形成に関する理論を、筆者はまだ動態的に検討しているとは言いがたい。その理論から抽出された要素を事象に当てはめてみたというにすぎない段階かもしれない。

しかしそれらは今後と課題として自覚した上で、本稿の検討からさらに指摘できる可能性を示して本稿を終える事としたい。それは他律的な規範によるのではない、自立的な規範のみによって成立する共同体の成立の可能性であり、ネットの共同体の規範からの現実の共同体の規範への影響力の行使である。

サイバー空間において様々なコミュニケーションの条件を設定可能であることを本稿の中で見てきた。それはもはやネット全体に及ぼすべくものでないことはもちろんであるが、現状でもメーリング・リストや掲示板などの限られたコミュニケーションの場で行うことは可能である。ある種の規範条件を設定して、その共同体のコミュニケーションが上手くいくかどうか、あるいは匿名性などの条件を設定することでその共同体にどのような規範が形成されるかなど、規範形成を実験的に検証できる可能性は無いだろうか。

あるいはまたネットの影響力が増すと指摘される現在であるならば、そこでの規範形成が一種の常識として現実の世界に影響を及ぼすと言うことも考えうるだろう。それは例えば匿名性に隠れた議論が、身分や地位や社会的な実力などの現実世界の足かせにこだわる議論を変える可能性である。

それらはネットのもたらす明るい未来として言い古されたものではあろうが、それらもまた検討の余地あるものであろう。

 

2005916日脱稿

 

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引用は(著者・年号:ページ)で統一してある。

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[1] 我国におけるコンピュータ・コミュニケーションを含む、情報社会における包括的な秩序問題に関しては、2001年日本法哲学会が統一テーマとして取り上げ、検討を加えている(法哲学年報2001『情報社会の秩序問題』参照)。遅まきながら本稿は、その会場での筆者の発言の責を負う第一歩でもある(服部:110頁参照)。

[2] コンピュータとインターネット技術自体が、二つの相反する思想の相克の狭間に生成したことを喜多氏は『インターネットの思想史』の中で興味深く描いている。特にその第二章を参照のこと(喜多:77120頁)。

[3]  なお、サイバースペースが法にさえも規制されない自由な空間であるべきだと考える「ハッカー倫理」は、この時期に形成され始めたとの指摘がある(白田1996386、同じくRaymond参照)

[4] 以下本稿におけるハイエク理論の分析の多くを、その紹介者である嶋津aおよびbの論稿に拠っている。

[5] IANAInternet Assigned Numbers Authority)やIAHCInternet International Ad Hoc Committee)、あるいはICANNThe Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)によるドメインネームの管理が、現在のインターネットを制御し、全体を管理しているとの認識が成立するかもしれない。しかし、これらは現在までのところドメインネームの管理、つまりはその適切な振り分けをするところであり、その業務はネットの秩序維持ではない。少なくともインターネット全体の意図的な統制あるいは「設計」はできない。

[6] インターネット・ショッピングモールというコンセプトが登場するのは、1993年から94年とされる(Randell295)。

[7] このような状況を支える技術を従来わが国ではITと呼んでいたが、2004年からは政府は諸外国に倣ってICTと統一している。ITとは言うまでもなく Information Technology であり、ICTとは Information and Communication Technology の略称である。

[8] その新奇性が、犯罪の契機となる道具の新しさなのか、犯罪類型の新しさなのか、論者によってその姿勢は、しばしば混同が見られると筆者は受け止めている。

[9] インターネットに起因する「犯罪」の増加を、その特質としての匿名性に求める見解が存在する。吉田の指摘するように、その利用可能な場所が限られ、少数の管理者の下で管理されるかつてのネットワーク構造においては、そこで行われるコミュニケーションが実名で行われるにしろ、あるいはニックネームで行われるにしろ、個人の同定は現実の生活と同等に、あるいはそれ以上に容易であったと考えられる。しかし、匿名性が犯罪の温床か否かは、別の検討を要するのではないだろうか。現在のように利用者の本人確認とネットへの接続記録が厳格に管理されるようになっていく現状では、利用者個人の認識する匿名性は、表面的なものでしかないだろう。それでも犯罪が増加するとすれば、要因は他にあるか、あるいは「匿名性」というその条件や内容によるということだろう。それらは、別に検討するしかない。

[10] 筆者はそのような講義の必要性を、全くに否定しているわけではない。一定のニーズがある限り、それに見合う教育を提供する必要があることも理解できる。しかし、情報処理機器に関する教育が小学校の段階から導入され、すでに高校段階での教育を終了した学生が多数を占め始めること、少なくとも情報処理系以外の学部における情報処理教育が、コンピュータ・プログラミングを目的とする技術者の養成ではないだろう事などを勘案すれば、その内容を総合的に再検討する必要性は、火急であると認識する。さしあたり大学教育における、情報処理教育の問題については原田のものを、法学部の情報処理教育については先駆的なものとして武士俣のものを、ごく最近のものとして門、斎藤のものを参照のこと。

[11] レッシグの現在の主張は、『コード』(Lessig1999a)と『アイデアの将来(邦題は、コモンズ)』(id.2001)に展開されているが、後者は前者で展開された一般的理論を、特に知的財産の分野で詳細に展開したものである。本稿がその多くを依拠した前者は、インターネットそのものの構造が、実はその構造を設計する様々なプロトコルやプログラムに依拠する事を指摘し、それが従来のインターネットやコンピュータ産業を支えた自由な発想を阻害する方向で規制が進みつつあることに懸念を示しているものである。

[12] 「コード」は多義的であり、法学の世界では「法典」あるいは「規範」「慣例」を意味するが、情報処理の世界では、データの取り扱い様式を指す事が多い。レッシグは時にこのような多義的な用語を用い、あるいは巧みな比喩を用いて大胆な議論を展開する。

[13] この利用停止されたキャラクターは、記事によれば後に「復活」する。それをもってそこに規範形成が行われていない、あるいはその強制に失敗したという見方が成立するかもしれないが、筆者はそのような見方に反対する。なぜならそのキャラクターは、同じ名前で「復活」したわけではなく、さらに非難の結果として一次的にせよ本人の意思に関わらずその接続を管理者によって遮断されたという事実は、物理的強制が有効であったということだからである。

[14] 大屋はこの問題を「主体の論理」と「他者配慮」の問題として論じ、特に主体が選択する自由の内容の問題であると指摘している(大屋2004:特に224頁以下を参照)。

[15] ちなみにもちろんアメリカからのサイトでは、デフォルトではフィルタリングが設定されているが、利用者の選択的な解除も可能である。

 

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