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私の父の記憶

〔1999年3月記〕

雪解けの川の流れを聞き、日の光が日々その力強さを増して、次第に目に眩しい季節がまたやってきた。
山は新緑の濃さを増し、所々に蝦夷桜の力強い薄紅色が散っている。

春が近づくたびに、思い出してしまう光景がある。

ちょうどその年、
いつもと同じ景色の中で、私は父の命の短い事を確信したのかもしれない。
その時すでに父は、病室のベットから起き上がる気力を失いかけていた。

-----父は、何よりも山歩きが好きだった。

休みを取って父の看病のために病室に泊り込んでいた私は、
自分の気晴らしと、
そしていくらか父を喜ばせようと、
病室の窓から見える新緑の山に入り込んだ。

-------------タラの芽を摘んできた。

それほど長い時間ではなかったつもりだったが、病室に一人残されて不安だったのだろうか、私が病室に戻ると、父は額に手を当てて何か考え事をしているようだった。

「タラの芽でてたよ。」

　------私も東北ってそんなものだろうか。
　自分の感情を表わすのは下手だ。

　それでも両手いっぱいに採れたその木の芽を見て、父は本当に嬉しそうな笑みを見せてくれた。

　山近い病院だし、看護婦達も、その木の芽の美味さを知っている。
父のベットの周りには、何人かの看護婦達が集まり、しばらくの間華やかな声が満ち溢れた。

----------やがて一人になった父は、私の持ち帰ったその木の芽を一つ摘み上げると、横になった自分の目の上に持ち上げて、あかずにその木の芽を眺めている。私にとってそれは長い時間に思えたが、
父はその木の芽を、角度を変えては、ずっと眺め続けていた。
父の目はたのしげだったが、しかし、ほんの少しだけ潤んでいたように見えた。

どうして良いのか判らなくなった私は、父に、たのしげを装って声を掛けるしかなかった。

-----------「早く良くなってくれないと、今年のタラの芽採りに間に合わないなあ。去年行ったとこ、もうだめかな。まあ、来年良くなって、行こう。」

父は、力なく私を見て微笑んだだけだった。

-----------その前の年のいつの頃の事だったろうか。

父の病気も小康を得て、久しぶりに家族と、嫁に出ている姉夫婦もそろった頃だったような気がする。
　その年は、父にとっては久しぶりにうれしい事の多い年だったのではないだろうか。すでに父は自らの墓所を決め、そうして自らの入る墓も建て終えていた。
いつまでも苦労をかけどおしだった私の結婚も終え、初めての男の孫をその手にするという希望もあった。姉の子供の結婚も決まっていた。
　そうして長い父の闘病生活を支えた兄の仕事は、一層順調だった。

------------帰京を前にした一時、私は兄と父の前に呼び入れられた。
目の前に差し出されたのは、一枚のワープロ打ちの書類だった。
　父は私に、自分が指示してその書類を作らせたものである事を告げ、その内訳と理由を諄諄と説いた。

-----------------------------それは父の「遺言」だった。
おそらく今も兄の手にあるだろうその書類が、
父の私たちに残した最後の教えだったような気がする。
父の目は、すでにその時遠く自らの死の後を見つめ始めていたのかもしれない。

--------------- 「人は死ぬために生きている。」
　一見逆説的に聞こえるこの言葉は、しかしながら深い意味を持っているように思える。単に人の死が避けられ得ないものならば、人が一人、全く気ままに生きるに何の不都合はない。どう生きようとかまわないはずだ。

自らだけを大事に。嘘なんて方便だ。
　しかし、そうしてやがて迎える死は、「人の死」にはならない。

人は自らの死が祭られることによって、「死」人となるのだ。
自らの死を人に「見取られ」、そして自らの死後も自らの死が「祭られる事」によって「死」を迎え入れられるのだ。

一人野辺に身体をさらし、そうして朽ち果て忘れ去られるなら、
それは「人の死」ではなく
何か別のものの死だ。
人以外のものどもは
否、むしろ地球上のものは、全てそうして変化しうつろうて行く。

しかし、人がが「人」たるのは、まさにこうしたものどもとは違う何物かを信じて、かつ営み続けうるからに他ならないだろう。人は人に見取られ、祭られる事を確信して、「死」を安らかに迎える事ができるのであり、そうしてその事によって逆に「生」き続けるのだ。こうして人は、生と死を言わば表裏の関係によって捉える事によって、人の世・社会、文化や規範といったものを形作ってきた。何故ならそこに生と死を、そして生者と死者を、さらに単なる利得関係を超え出でた生者間のその輪･和をつなぐものが発生するからである。

生者も死者も、人はあくまで、人に支えられての「人」である。
支え合うために道徳や倫理が生まれ、法が生れる。だからであろうか、古代から日本では、この祭祀が社会的にも政治的にも重要な課題とされた。血脈による家制度は何も戦前の遺物ではない。「祭祀」によって死を超えて生き続ける事によって、死は「人の死」たりえ、そうして人は規範や文化を生みだし、「人の世」を営んでいくのである。何らかの意味で死を越え出でたものを考えなければ、社会を繋ぎ止める規範が発生しない事は、ただ日本やアジア圏だけでなく、ヨーロッパも同じである事は、J・ロックの言を持ち出すまでもないであろう。

私がここに書き記しておきたいのは、こうした道徳や倫理・法と言った規範の発生の事ではない。父が当にこうした「人の死」を見つめ、そうして自らの死の将来を見詰めていた事を、今になって、すこしずつ、私が気づかされたからだ。

-----------自分に死が訪れる事が避けられぬ事である事を、最近ようやく私も実感してきた。しかし、父のように自らの死を順容として受け止め、
そして自らの死後の事まで冷徹に計算し考えられるだろうか。
設計を施工する者の能力や誠心を疑い、そしてその不実を恐れたり、そして何よりも自らの死そのものを恐れるものではないのか。

------------私の父は、大工の「棟梁」だった。
　墓所を完成させ、遺言を済ませ、とりあえずの血脈の存続を確認した父は、あまつさえ自ら仏具の購入のために店舗まわりまでするほどだった。

家族を連れた父の後を、私たちはただついて廻るしかなかった。
父と一緒に、皆で仏具の善し悪しまで話していたのは、不思議だと言うしかない。父は、もう既にその時から冥界の彼方にいたのだろうか。

----------父の死ぬことになるになる前年の正月、
父はか細く痩せ衰えた手で、からだに孫を抱き、懸命に何か笑いかけていた。
何度かの闘病を経て、何年かぶりで父の笑い声が家中に広がり、
そして母が、兄が、家族中に本当の笑みがあふれた。

その頃から、父は一切の飲食物を絶つようになった。

---------------------------------------

病院での点滴を除いて、父がその口中に何がしかの水や食物を入れる事は次第に少なくなっていった。
そうして、あのタラの芽の出来事から、いっそう父は食事を、いや水さえも絶つようになり、そうして衰弱していった。

父はその後、初節句に私の子供と一緒に撮った写真をしばしば眺めていたらしい。しかし、私が六月の後半に帰省し、かれこれ十数度目の入院をした後には、ときおり時計を見つめ考え事をしている風だった。

あの連休から、私は父と正対しなかった気がする。

私が死に行く父を避けたのかも、否もう少し正直に言うなら、私が死に行く父から逃げたのだろう。

父の最後の入院に付き添った時、私は無理にでも父の喉に水を流し込もうとした事がある。父は私を睨んで、絶対にそれを許そうとはしなかった。私には、強く私を叱責する父の目から視線を逸らし、手元に抱えた書物に目を落とすしかできなかった。

父は自らの死を決意していたのだろうか。
私は決意していたと考えている。

-----------------------

自らの死が何時であるかは、まさに天や神の意志であり、自らの死後の事がどうなるかは、結局は自らの指名する後継者や周囲の人間の意志に任せる他はない。
死に行く本人にすれば、自らのやり行く事をすれば、
後は運を天に任すか、あるいは自らの後嗣を信じて後を託すしかないであろう。

父はその全てをやり遂げたのである。
墓所を決め建設し、自らの財産の行くえと祭祀を決定し、
後の家名と祭祀の存続を指示する事以上に、死に逝く者ができる事は何だろう。

-----------------------

時を得て、父は死んだ。

仁ある者は山を好み、勇ある者は海を好む。
智恵ある者は河を眺めて、人のうつろいを黙考する。

何処で目にした言葉だったろう。私の記憶におぼろげにある言葉だ。

確かに父に
勇は･･･、蛮勇など無かった。

山を好む父は、仁ある者だったのだろう。
時に純粋な正義を振りかざす者を非難しながらも、不正を憎む父の言葉を私は忘れない。
小利口な馬鹿を笑いながらも、実直さを愛した父を私は忘れない。

夜中に起きて、一人、家族や自分の仲間・会社の将来を考え込む父の姿を私は忘れない。

山は河の源である。
将来を遠望し万難を廃そうとする父は、どんな賢人よりも智恵ある者ではなかったか。
自らの死に向かって粛々と準備を進め、決定を行使する者は、真の勇気ある者ではないのか。

-------------------------

父が歳を経て生れ、その後十数年にして父の下を離れてすごした私に、父を語り得る思い出は多くはない。
また物心ついた時に壮年を迎えていた父の記憶しか持たぬ私には、
若かりし頃の父の夢も辛酸も語る事はできない。

ようやく世の中の様々な経験を重ねつつある私の思いを、もはや父と語らう事もできない。
壮年も半ばにして父の死を迎えた兄や姉を、その意味で羨ましく思う事もある。

私には、亡き父の背を追って歩み続ける事だけしか、父と語らうすべが無くなってしまった。

今は春。父と行った最後の山歩きを思い出している。

---------------------

遠い山上への一本道を、父は力強く歩んでいた。
その後を父の荷物を担いだ兄が続いている。
私は、少々へばりながらその後を歩んでいた。
私の背の籠には、春の山菜が強い香りをかぐわせていた。

やがて山頂に程近い日だまりで三人が休憩を入れた時、
青々と芽吹く山波の所々に、
うす紅色の桜が散りばめられていた。

その時父はこう言っていた。

「山で食う飯が一番うまいな。また来年も一緒に来たいな。運転手と荷物持ち付ければ、何とかなるか。」

父さん、今、少なくとも僕はこう答えるよ。

「家族だから美味いんだよ。父さんの後を追うしかないけど、大勢の家族を連れて、みんなでまた来よう。」

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私の知り得る父の略歴

私たちの父は、第一次世界大戦後の混乱覚めやらぬ大正八年、西暦では１９１９年、朝鮮の民族独立問題やシベリア出兵からの撤兵問題に日本が揺れている九月二七日、山形県北村山郡大石田町に、その生を受けた。
父の名は笹原亀吉、母の名はヨシエといった。

大石田町は、山形県のほぼ中央部、奥羽山脈沿いの雪深い盆地にある。
最上川が作る平野とその河岸段丘に、寄り添うように広がっている。近くには紅花の生産で有名な尾花沢や、将棋のこまの天童、すでに古い記憶だが「おしん」の話で脚光を浴びた銀山温泉などがある。

山形の冬の雪は深い。
降り続く雪は軒を圧し、二階家の屋根に届くほどさえであったという。
今でもこの地では、一階の軒下を雪がこいで厳重に囲む。
それは寒さのためでもあるが、それ以上に降り積もる雪の重みを家の壁やガラス面に受けるのを防ぐためなのであろう。
　夏は一転して酷暑に見舞われる。盆地特有の風の無い暑さだ。
この地が、今や全国の中でも珍しい外国産の野菜の生産拠点になっているのは、このような寒暖の大きい気候が理由なのだろう。

私自身古老に話を聞き、系譜といった資料に目を通したわけではないが、笹原家はこの地で士分格の庄屋というから、裕福な家柄だったのだろう。何人かの放蕩者を出しながらも、この家は相当の実力を貯えながら、江戸から明治の時代を耐え抜いてきたらしい。
　奥羽本線と言えど、もうこの地まで来ると今でも単線である。その鈍行列車しか止まらない無人駅を降りると、すぐ目の前の段丘の下に「慈福寺」の森木立が広がっている。
　曹洞宗の寺格の高い寺と聞くが、その本堂入り口の紋章は、笹原家の家紋「笹竜胆」である。笹原家がその縁起･維持に深く関わり続けているからだと言う。その寺を正面に見て、左河岸段丘の上に笹原本家が今も建っている。
　父の父、亀吉はその家に生れ、やがてその近くに別家を構えた。寺や本家のある地域からその地域の墓所に向かう道は、今では幹線道路が通り、かえって家々が立ち並んだその途中に、今でもその笹原家は続いている。かつて一間の土間に、小さな二間の蹴上がりからなったその家は、その地域、いや東北地方の田舎には、何処にでもある貧しい茅葺農家だった。母、私たちから見れば祖母のヨシエをめとり、亀吉は大工として生計を立てていた。貧しい山村にあって、土地を持たぬ住人にとって生計を立てるための仕事は数少ない。その中で大工と言うのは、今と違い当時では花形の職業であった。

何年も風雪に耐え威風を保ち続けるような建築物を建てられるようにあるためには、ただ道具を使いこなし木を組むだけではならない。材料を見極め、完成後の構造を思い浮かべながら、緻密に細部に取り組む創造力が無ければならない。しかも棟梁ともなれば、単に大工仕事だけでなく、計画から完成までの施工主から関係業者全てを調整すると言う仕事を負うのである。

雪深い里の仕事は限られるから、当然に仕事は全国に及ぶ事になる。
一本気な男集団を率いるのだから深慮は当然の事、男伊達を気取らねばならぬ時もあったろう。

私達の父は、そんな父亀吉の八男二女、１０人兄弟の長男として生まれた。

私自身は、父の幼少の頃の思い出をあまり聞いた事はない。
ただ山菜を採り食した事、時折食べる蕎麦料理が好きだった事を、父は折りに触れて話していた。

やがて父は、「亀井田村立尋常小学校」に入学する。何人かのその頃の友人の話を聞いたような気がする。
しかし故郷を遠く離れて暮らす父の友人に、私は会った事が無い。
成績は優秀だったそうだ。
自分の成績が「全甲」だった事、そして当時山里では進む者の少なかった中学への進学を熱心に勧める教師のいた事を、父が笑いながら語っていたのを覚えている。

しかし、父が進学する事はなかった。そうして卒業式の総代答辞は、その町からただ一人進学する医者の息子だったと言う。成績で決まる答辞を直前になって変更された父は、その一晩を泣き明かしたという。
私の覚えている父の一番幼い頃の記憶は、この事だ。
今もその小学校は、たたずまいこそ変えたが、同じ場所に立っている。

何と言う名前だったろうか。
父は義務教育の尋常小学校を卒業すると、近くに住む同級生とたった二人の集団就職で上京した。
　和服に西洋帽をかぶり、カバン一つに荷物を抱えて、草履履きだったらしい。
父としては、精一杯のおしゃれだったのだろう。
　上京を控えて、押し入れの奥から西洋帽を見つけた時の喜び、
同じ押し入れの中に籐で編んだバスケットを見つけた時、そして古びたそのバスケットを一生懸命掃除した事を、
しかし上京する日、同じく上京する友人の手に皮のカバンが握られ、ゴムの草履を履いていた事が羨ましかった事を、少しばかりの晩酌で上機嫌な父は、時に大笑いをしながら私に話してくれた。

--------------東京はその頃「大正」から「昭和」の時代を迎え、やがてきたり来る大陸侵攻に大きく動き出す、そのさなかだった。
　一緒に上京した友人と二人、父は神田明神前「天野屋」で丁稚奉公を始める。今も神田明神前に「天野屋」はある。小さな茶房を開き、土産物と甘酒と抹茶を供するだけだが、当時は大きな作り麹屋だったらしい。麹菌加工のための地下室もあり、作られた麹を都内･帝都の要所に卸し、店頭でも販売するような所だったらしい。勢い何人もの職人や売り子を抱え、父とその同郷人は一番年下の丁稚として下働きをさせられたのだろう。朝明け方と共に店の掃除に始まり、閉店後に後片付けで終わる。育ち盛りの父にとっては、苦しい生活だったらしい。店の掃除をしながら、箒をつっかえ棒に立ちながら居眠りをしてしまった事があると話していた。当時その店には父よりわずかに年下の子供があり、そのこの御守りをしながらも店の主人達には可愛がられた事、そして、「むろ」で働く職人達の思い出を父は時折懐かしそうに話してもいた。
　やがて父は、麹配達の外回りの仕事を任されるようになる。東大の赤門、駿河台から水道橋そして三田へ。
時には早稲田の辺りまで、リヤカーを曳いてまわる父は随分と向学心を煽られたらしい。
しかし時代的にも苦学の学生なんて事は許されなかった。
　やがて政党政治が腐敗し、恐慌やら大陸侵攻の本格化の中で、父はただ自らの配達や帳簿つけに追われながらも、その工夫だけは忘れなかったらしい。効率の良い配布先のまわり方、帳簿の付け方。そんな事を考えながら、東京のほとんどを歩きまわったものだと話していた。

-----------さてどう前後するのか私には判らないが、やがて父は「天野屋」を辞め、父・亀吉の下で大工修行を始めたらしい。その間には立川の辺りに滞在した事もあり、高尾山や八王子の市街を散策した事もあると話ていた。

当時まだ甘党で下戸の父は、
高尾山参りをすると八王子の市内で電車を下車し、そこで饅頭を買っては宿舎に歩いたという。
　電車賃を節約し歩いて帰っても八王子で饅頭を買うのは、立川で買うよりも美味くて数が多かったからだと笑っていた。
　父の死の前年、私の結婚式で上京し、姉の家に滞在した父は、
こんな都会になるとは夢想だにしなかったと述懐している。
その当時の友人は、身体に障害のある人だった。お金を節約してはその辺りの土地を買い込む友人に、父は投資の話を聞いてもいたようだ。だが父が都会に定住する事はなかった。

----------やがて父は、第二次大戦に応集し、「山砲」を扱う一兵士となり満州の地を転戦した。
　やがて一等兵となり善行賞を受けた。
この間の話を、私はあまり聞いた事が無い。この時代に特有の経験を、私達の父もまた重ねたのだろう。
　戦後しばらく立ち、時の内閣が発した従軍証と今も残る当時の善行賞だけが父の戦争を語っている。
　しかし、戦争は確実に父の体を蝕んでいた。満州転戦中、父は胸を病んで傷病により帰国した。後年食道癌で長時間に及ぶ摘出手術を成功させた父だが、その後の療養に最大の障害となったのは、実はこの時の傷病で受けた肺の機能障害だった。一方でこの傷病は、父に生涯最大の贈り物をももたらしている。
　治療のためには振り分けられた「国立一関療養所」で、父は私達の母と出会う事になる。
昭和２１（１９４６）年５月　　日、まだ終戦の混乱やまぬ占領下に、父と母は成婚した。長男である父は母を連れ、山形に帰った。
翌昭和２２年（１９４７）１０月３０日、父と母の間に長女が産まれる。

だが、この辺りでは比較的貧しい地域ながらも、当時の村の中では篤農家であり、村の要職をも務めるような家に生れ、女性としては当時進歩的な技術職であろう看護婦であった母には、せまい小屋に兄弟姉妹と両親の十数人が起居する環境は堪えられぬものだったのであろうか、あるいはよくある姑との問題であろうか。
おそらくは幼い父の兄弟と自らの娘の養育との衝突に疲れたのであろう母は、長女を連れてその家を出る事になる。

父と母、母の父と父、そして父の親族をも巻き込んで何度かのやり取りが行なわれたらしい。

結局父は故郷を捨てる事になる。
三人は父の実家を出ることになり、父は山形県新庄市のある炭坑会社に就職した。
どういうつてだったのだろうか、父はその会社の建築部門担当の責任者となって、三人はその会社の社宅に住む事になる。
　社宅とはいえ当時の田舎の社宅である。何件も続く酷い長屋作りであったらしい。朝あまりの寒さに目を覚ますと、布団の上に雪が積もっていたと母は当時の事を話すことがある。そんな時に父は、ただただ煙草をくゆらすばかりだった。

さてここから先の父の経歴は、私が記すよりは母や姉、そして兄が記した方が良いだろう。私は、兄弟の仲で年離れて生まれた子。
　私の知る父は、兄弟の仲でもほんの少しでしかない。だから、私が記す父の経歴は、できるだけ客観的な事実のみを記して、後は私の思い出ばかりとなる。

昭和２４（１９４９）年４月２４日頃から、二人は長島村に居を定めた。
最初は、母の実家の離れを借りた暮らしだったらしい。
　母は、すぐに資格を生かして保健婦として地域の家々を廻る仕事を始めた。
　父は手慣れた大工仕事を始め、時に荒れる事も合ったらしいが、次第に棟梁として自ら人を集め仕事をこなす様になっていく。

昭和27（１９５２）年、笹原組を設立。同年八月二十二日、待望の長男が誕生した。
父の死の少し前まだ元気な頃に、私はその頃の父の夢を聞いた事がある。

父の答えは意外にも、ある種社会的・政治的なものだった。
父は私に当時の大工と言う職業の社会的な地位の「地域的な差異」を話してくれた。

雪深い山形での土地を持たぬ者の一種技術職として確立した地位を有する「大工」「建築業」と、この岩手の両磐と言う地域での差異である。
　父が仕事を始めた当時、その落差＝地域差は激しいものであったらしい。
岩手では、なかば「ヤクザ者」と同視され、賃金の滞りすらまれではなく、ましてこの地域の棟梁の下に雇われている者にとっては、働いた分の賃金すらまともに払われる事が少なかったと言う。この地に住み始めた父は、最初その落差に驚いたらしい。
　そして自らが仕事を始めるにあたって誓った事は、従業員として自分の下にある者の生活の安定であった。
自らの家族の生活はもちろんのこと、しかしそれ以上に、父は「大工」と言う職業に誇りを持ち、「笹原組」一家の安定やその職業の地位向上に夢を賭けたのだった。

その後佐々木組の二代の社長と出会った事は、父の夢をはるかに前進させる切っ掛けとなった。
当時の一代目二代目と、二人の社長と父は馬が合ったらしい。
　父よりも年上の社長に、父は教わる事多きを感じ、その子とは信頼関係を築いて行った。父はその「佐々木組」の工事下請け業の一人となり、その業者組合である「東会」の副会長を長期にわたって勤めた。
それは「笹原組」一家の安定と、業界の地位の向上に努めたかった父の意志の現われではなかったと思う。

晩年に至るまで、現役時代の父は、夜家族が寝静まると一人起きて何事かをしていた。それはその時々により、会社の帳簿の時もあれば、業者組合のノートの事もあり、何物かを前にしながらの考え事である事もあった。

----------私は何度か夜中の父に聞いた事がある。
　「何してんの。」
「まあ先（将来）の事だ。責任があるからな。いろいろ先を読んで、準備しとかないとな。」その時私は、随分と心配性だとしか思わなかった。いくら先々計画した所で、実現する保証など無いではないか。

　しかし、今は違って父の苦労を知る。単なる雇われ人ではなく、一つの集団の指導者だからこそ、そして周囲に責任を持つ人間だからこそ将来を「予見」し、「計画を立てる」のである。
一個の人間の姿としても、周囲に流されるよりは、たとえ実現せずとも計画し努力する姿は美しい。

----------父の業績を大成功と言えば、世の中の広さを知る父は、照れるだけかもしれない。しかし、父は決して周囲の期待を自ら裏切る事のできるような人ではなかった。

父の会社が法的に完備したものになるのは、もう少しの時間を要したが、それは規模のせいではない。
名前よりも実質を優先する業界や、東北人と言う気質のせいであろう。景気の変動を受けながらも、二十人から五十人以上と言う規模で、会社は順調な発展を遂げていった。
　忘れたような期間が過ぎ、兄の誕生から十年を経て、私次男が生れた。
もっともその間一人の嬰児が生れ、そのままに早世した事を記しておかなければならない。
　歳離れて生れた私を父は本当に目に入れてもおかしくないほどに可愛がってくれた。私にすればやっかみでしかない兄や姉の話も、ある意味では言われてもしょうがない話だと思う。父が帰ると私の指定席は、父のあぐらをかいたその真ん中だった。冬の寒い日は父の背が寒さを防いでくれたし、夏暑くてもその中にいる事の方が幸せだった。

------------父はこの頃何人かの弟子を家に置いたりもしていた。
私の記憶には、その中の英治さんと言う人と、兄が幼い私のもっぱらの御守り役だったようだ。物心つく頃には、姉は上京していたのだろうか、あまり記憶に無い。ただ幼稚園で教育実習をしていた時であろうか、自分の姉に私以外の子供がなつくのを、私は非常に不満に見ていた事を思い出す。私が小学校に入る頃、高校になった兄は下宿を始めた。休みの日は、国体選手としての活動が忙しく、兄は帰省する事の方が希だった。
　もう既に体力の限界を感じていたからだろうか、父と一緒に遊んだ経験も私にはあまり無い。ただ久しぶりに帰省した兄とキャッチボールをしていた時に、帰宅した父が、後にも先にもそれが始めて一緒に遊んだ時の事は良く覚えている。私達は、三人で庭に三角の大きな形を書いた。
　三角ベースボールだな。
父は、野球などした事が無かったのだろうか。
兄の投げるボールを受けるのはもちろんのこと、守りをしてもボールを打っても、お世辞にも上手かった記憶はない。
ただ、その時父は、本当に少年のように良く笑っていた。

会社が順調に発展をし、時代的にも税制上もきちんとした対応を迫られ出したのは、この頃からだろうか。
それまで裁縫や編み物が好きで、人の集まる事の好きだった母が、帳簿を目の前に広げて苦しみ出したのはこの頃からだった様に思う。

私が中学に進みだす頃、父に説得されたのであろうか、高校を卒業した兄が父の仕事を手伝い始めた。

家に車が来て、そして一台二台と増えると共に、仕事は飛躍的に拡大していった。五十代に入り普通のサラリーマンであれば定年を考えるこの時期に、兄を迎えた父の気力の充実ぶりは目をみはる物だったに違いない。

当時高校生となり、あまり家族との話もしなくなって行く事の多いこの時期に、私と父は夜中の時間を共有する事もあった。あまり話をした記憶はないが、それでもコーヒーを飲んだり、私が作った夜食を二人で囲んだりもした。先に書いた夜の父の姿を知るのは、この頃の事である。

----------平成３年父と兄は、笹原組を笹原工務店として有限会社化した。
同時に、平泉の町内に広い加工場と資材置き場を設けたのもこの頃のように記憶している。しかし同時に、病院とはしばらく縁の無かった父が、久しぶりに関係を持ったのも、この頃からのように記憶している。

盲腸や軽い交通事故で入院したのは、この前後だったのだろう。振り返れば、もう既にこの時期の父は七十を超えていた。しかし兄と時に対立しながらも、父が一線を離れる事はなかったし、家族の誰もがそういう時期が来るなどとは、夢にも思っていなかっただろう。

不幸は突然に降りかかる。

平成４（１９９２）年３月、その歳の正月から時折激しい咳をし、食べ物の飲み込みに違和感を訴えていた父を、家族が半ば強引に一関病院に連れていった。診断は、食道癌罹病の疑いだった。すぐに検査入院となり、診断が下った。

その診断からその後十度に渡る各病院での闘病生活を、私はまた別の角度から記したい。
ここでは簡単に事実の経過だけを記しておく。
診断は手後れの食道癌であり、余命は一年、長くても二年の診断だった。
その診断は、さらに詳しい検査のため転院した仙台の病院でも同じだった。

薄暗い病院の一室に、家族がそろっていたその日の事を、私は薄ら寒い気分と共に忘れる事はできない。

しかしその後父の病状は、奇跡的な一新を見せる。
仙台の母方の親族のつてをも頼り、父の身は甥の勤める東北大学医学部のある医師の手に委ねられた。

病根は一掃され、その後一時胆嚢に異常を抱えたが、結局は完治した。
病状を脱した父は再びバイクにまたがり、時折現場を廻り、山菜を追って山に分け入った。

だが父の気力は再び往時に戻る事はなかった。
考えれば、年齢や長時間の、しかも二度に渡る摘出手術が、父の体を想像以上に蝕んでいたためかもしれない。
しかしそれ以上に、若い頃の戦争に虫食まれた傷の影響も大きかったようだ。
誰よりも早かった煙草をくわえての父の山歩きは、息をこらえながらの早足に変わった。
外出から帰ると父は、倒れるように寝込む事が多くなっていった。
実はもう既にこの次期、父の片肺は機能しなくなっていたのだ。
それとともに、父は病気と闘う事の気力の衰えを口にするようになってもいた。

癌摘出から三年が経過し、病気騒ぎも過去の話になって笑い話と花が咲き出した頃、父の肺に癌の転移が発見された。初め暗い表情だった父の顔も、新装なった胆沢病院に転院し放射線治療が効果を上げ、私の婚礼が決まって新しい孫への期待が高まると同時に明るくなっていった。

自らの死への準備を本格化させたのもこの次期だったような気がする。父はあらゆる事を差配し、実行した。私の婚礼の際には、無理を押して上京し、姉の家での何日かも過ごし、しばしの東京を楽しんでいた。

平成九年の正月を父は自宅で過ごした。
姉を含め家族が勢揃いし、私の子供をか細い腕で抱き、かつての私のように膝の上においては懸命にあやしていた。しかし、その頃の父には、孫を抱き上げるだけの力は残されてはいなかった。ただただ自らの膝に孫を抱えるだけ。

-----------------------------------

正月の休みが過ぎると、父はまたその頃入院していた衣川の病院にもどった。冒頭のタラの芽の話は、その病院での、この歳の春の事である。

その後小康を得た父はいったん自宅での療養となる。
しかし一切の飲食物を拒絶するようになっていた父の様態が快方に向かう事はなく、その後６月末に様態が変化し、一ノ関の中央クリニックに最後の入院となった。

その後も父の決意とそれに伴う様態の変化はなかった。

平成九（１９９７）年七月二一日早朝、父は午前六時に永眠した。
享年七八歳、正確には七十七年と十カ月、大正から昭和そして平成を駆け抜けた生涯だった。

父は看病する母の傍らで、しかし一人で、子供が寝入るように、ことりと永眠した。
考える事の全てを考え、できる事の全て指示し、済ませた上での死であった。

仁者は山を好み、智者は川を好む。

父はこれから、北上川を望み、観音山に抱かれた墓所に眠り続ける。

父とたばことの思い出

父はいわゆるヘビースモカーだった。

私の思い出に残る父のにおいは、タバコのにおいである。
居間に横になってテレビに見入る父の口元には、いつもタバコがくわえられ、紫煙が漂っていた。

もちろん子供の頃に父に言いつけられる買い物は、タバコだった。
記憶の最初にあるタバコは、｢いこい｣というものだった。

その後少しばかり大人の真似をしたかった私は、父のタバコを最初に試したことが会ったが、辛いばかりで、今になってみると父は相当強い煙草を吸っていたようだ。

最初の入院のときガンが発見されて、父は禁煙を言い渡された。

入院から二・三日目に私が病院を訪れたとき、何気なく父は、私を廊下に連れ出した。

父の後についたまま、二人して病院の廊下のはずれにある階段の踊り場に行った。
飾りガラスに飾られたその踊り場には、晴天の外の明かりが満ちていた。

父は、｢タバコ持ってるか？｣と私に切り出した。

｢持ってるけど、禁止されているんだろ？｣と私。

｢バカ、内緒だろ。それに、何が嫌かって、タバコが吸えないくらいなら、死んだほうがましだ。｣
そんなふうなことを父は言ったと思う。

当時、父親がガンであるということを知っていた私は、鼻の奥が少しばかりつんとなりながら、煙草を取り出した。
明るい日差しに満たされた、階段の踊り場のベンチに二人並んで、灰皿代わりの穴のあいた灯油缶を前に、二人で二・三本の煙草を吸ったろうか。

帰りに父は、タバコを置いていくように僕に言った。
さすがに置いていく事はできなかった。

｢また来た時に、一緒に吸おうよ。｣

その後も何度か、父とは病院の廊下や階段の踊り場でタバコを分け合った。
その後、一度目の入院から退院後は、やっぱりタバコを復活させた父だったが、さすがに二度目の入院から退院すると、完全に煙草を止めた。
それでも私が煙草を吸っていると、もの欲しそうにすることもあった。
だから、今でも二人で吸ったタバコのことはよく覚えている。

葬儀の入棺時に、タバコを持たせたのは私だった。
父がタバコを好きだったことが、どうしても忘れられなかったからだ。

煙草をくゆらす父の姿。

それだけの話。

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