西原つれづれ 04.5

04.4

04.5.31

パソコンのリカバリーが上手くいきません。中国西安に、香積寺という善導大師ゆかりの寺があります。境内におおきば仏塔が建っており、参拝した折りはカギが閉まっていました。

旅行者の人が、チップを渡したらしく、カギを開けて中に入れてくれました。中国の寺院は、有史以来、国家護持が基本です。壇信徒によって支えられることはなく、観光寺院は裕福ですが、通常寺院は、自給自足で相続しています。

私は、僧侶にチップを渡した話を聞いて、お金を大切にする拝金社会で、煩悩を断ち成仏することの難しさを改めて意識しました。社会が煩悩を断つ(お金に振り回されない)事を尊び大切にする事があって、自分のその道に邁進することが出来ます。

自分が煩悩を断つことを大切にしようと思っても、袖の下をよこされたり、そばで美味しいものを食べられては、たまったものではなりません。釈尊が成道する前、悪魔の誘惑があったと記されていますが、悪魔の誘惑の中に身を置き、煩悩を断つことは不可能でしょう。

曇鸞大師の史跡も訪ねてきました。正信偈に「本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつ」とあります。

以前に書いたことですが、この梁の天子と、達磨大師が問答をし、この天子は仏教の器に在らずと、さっさと揚子江を渡って帰ってしまった。達磨の説く仏教は「自分の中に賢さを見ていく」ものです。ところが曇鸞大師の到達した仏道は「自分の中に愚かさを見ていく」仏道です。

自分を愚と見ると、その愚の自分の中に仏の香りがあると、そこに仏の働きありと仰いでいきます。末法の時代には他力の教えが、時期相応の教えであると頷けます。

達磨の話しを転載しておきます。

(02.8.5)
樋口 一葉が5.000円札に登場するという。一葉という言葉が、菩提達磨の逸話から来ていることは有名な話です。

菩提達磨の逸話とは、達磨が乗って川を一葉に乗って渡っていったという話です。

三宅花圃という女性が、ペンネームの由来について桐の一葉ですかと尋ねたら、
「そうじゃないんですよ、葦の一葉ですよ、達磨さんの葦の一葉ですよ、おあしがないから」と答えて、「これは内緒ですよ」と念を押した。参考:『樋口一葉日記』232ページ。

さて達磨が、一葉の葦に乗って飄然と江を渡っていったともいわれる逸話は次の通りです。

達磨大師が印度から中国へ渡り梁の武帝との問答の後、結局、達磨の真意は伝わらず、 仏心天子といわれた武帝でさえこの程度であるなら、この地にとどまっても渡来の目的を達することは出来ないと、揚子江を北に魏の国へ去って行きました。この時一葉の芦に乗って江を渡ったと言い伝えられているです。

この遼の武帝とは、「正信偈」に「本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつる」と示されてある武帝です。面白いのは,同じ頃、隣国の東魏の武帝に、浄土教第3祖、曇鸞大師が、問答をしているという事実です。
  
梁の武帝は南朝の梁の第一代の皇帝で 、501年から549年まで50年近く在位している。武帝は、自ら仏教に傾倒しかつ保護し、同泰寺などの寺を建立し、僧 や尼さんを養成すること10万人といわれる。
 
達磨大師はは、南インド(現代のマドラス近辺)に生まれ、般若多羅の弟子となり、 菩提達磨と改名。師事すること40余年。仏法の布教のため,、風をはらんだ帆かけ船で3年かけて島々を逍遙し、 中国の南北朝時代の広州にたどりつく(520年とも527年説あり)。

曇鸞大師(476年〜542年)は、『大集経』(六十巻ほどある大部の経典)の注釈を思い立ち、事業のなかばで病気になってしまいました。その時、「このようなことでは困る。仏法を学び尽くすためには長寿でなければおぼつかない。何とかして長生不死の法を身につけよう」と考え、仏教の勉強を中断して道教(呪術)を学びはじめ、50才の頃、南方の梁の国まではるばる旅をした、首尾よく道教の第一人者といわれていた陶弘景(とうこうけい)に会い、念願の仙術奥義の書の伝授を受けました。

その阿弥陀仏に帰依し、東魏の武帝から
世俗の君子幸臨し  勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり  なにによりてか西にある

鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず

一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし 鸞師ひとりさだめたり

浄土和讃に示される問いは 東魏が534-550年ですから、534〜542年の間ですから、達磨大師との問答の後の問答となります。

達磨大師の答えは有名な「無功徳」「廓然無聖」「不識」の3つです。そして武帝は仏教の器ではないと帰ってしまったのです。そして一葉の逸話です。


達磨と武帝の問答は下記の通りです。

当時、武帝は「仏心天子」、あるいは「皇帝大菩薩 」などと尊称されていた。そこえはるばるとインドから達磨が来られたと聞いて大い に喜び、これを宮殿に迎え、文武百官のいる前で早速に達磨と問答をはじめたのです。
 
 武帝まず最初、「朕即位已来、寺を造り経を写し、僧を度す。勝て記すべか らず。何の功徳か有る?」と切り出した。「わしは皇帝となって以来、仏教に帰依して寺を造ったり、諸々 の経文を写したり、あるいは僧や尼さんを養成したり、一々数えあげきれないほ ど仏教を保護し興隆につとめた。どうじゃ。何の功徳か有る?」
「大いに功徳がござります」という返答が返ってくる のを予定してが、さにあらず。返って来たのは「並びに功徳なし」「功徳 は全然ござりません」という意味の言葉です。

 肩すかしをくらった武帝は、今度は仏教の教理に関する自らの学識をかざし「如何なるか是れ聖諦第一義」と出した。

達磨はこれに対して「廓然無聖!」(世界中隅から隅まで探しても、 特に有りがたそうで殊勝げなものは何一つない。聖といえばすべてが聖であり、 真実であると言う意味)

またも面目を失してしまった武帝は「朕に対するものは誰そ」(わしの面前に 突っ立っておる色の黒い坊主は一体何者じゃ)と問われた。達磨大師、「はい、西天からやって参りました菩提達磨と申す ものでござります」といわず「不識!」と喝破した。

これをみて達磨大師「機の契はざるを知る」 で「これはまだだめじゃわい。わしが法を説き鍛えるには時期も早いし、その根 器も契わん、これは叩いて本物になる器ではない」と、こう察知して梁の国を去 ることに決めた。そうして小さな舟に乗って潜かに揚子江を渡っ て北方の国、魏に赴いた。その舟の逸話が一葉です。


達磨、梁 の普通元年庚子九月二十一日、南海に達し、十月一日金陵 に到る。武帝問うて云く、朕即位已来、寺を造り経を写し、僧を度すること、勝 て記すべからず。何の功徳か有る。磨云く、並びに無功徳。又、問う、如何なる か是れ聖諦 第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く 、不識。帝 領悟せず。磨 機の契はざるを知り、是の月十九日、潜かに江北に 回り、十一月二十三日洛陽にIく。魏の孝明帝の正光 元年に当たる。嵩山の少 林寺に寓止し、壁に面して坐し、終日黙然たり。人 之を測ること莫し。之を壁 観婆羅門と謂う。
 

さて漢字ばかり並べて恐縮ですが、

達磨は「仏教の器ではない」とさっさと還ってしまった。曇鸞大師は「わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれ」と答えたのです。

当時中国は、特に、鳩摩羅什(401年に長安へ)によって教典の翻訳が進み、南北朝時代は、中国の仏教文化が華開いた時代といわれています。武帝ご自身が仏教の教養をつみ、仏教理解へのおごりがあったとも思われます。そのおごりへの返答が達磨の「無功徳」「廓然無聖」「不識」の3つであり、そして愛想ついて還ってしまった。曇鸞大師は、その教養的な仏教に巻き込まれることなく、「わが身は智慧あさくして」とあくまでご自身の問題として、その場で阿弥陀仏の慈悲を受け入れ、西方と示された阿弥陀仏の慈しみを仰がれたのです。

ここに私は浄土教の骨格とも云うべき「愚者になりて」という視点の大切さ、重要さを思わずにはおれません。

浄土教が教養として、一人歩きするとき、浄土教がその力を失うときなのでしょう。

樋口一葉から、ずいぶん遠くに来てしまったようです。  

04.5.19

まだパソコンを更新(リカバリー)していません。いのちの学び150号アップしました。中国から14日夜帰ってくると、15日までにお願いしますと、原稿依頼が入っていました。これはPOSTEIOS研究会のホームページです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_B227.htm


中国は20年数年ぶりの海外旅行で、すごく楽しい旅行でした。太原・玄中寺で、導綽禅師が感動した、曇鸞大師の碑文がなかったのは残念でした。文化革命以前にはあったとのこと。それ以前に、日本人が碑文の拓本を取ったとのことなので、その拓本を元に、復元すればよいがと思いました。

その拓本が私の手に入ったら、それを実行します。