西原つれづれ04.4月

3月

04.5.19

まだパソコンを更新(リカバリー)していません。いのちの学び150号アップしました。中国から14日夜帰ってくると、15日までにお願いしますと、原稿依頼が入っていました。これはPOSTEIOS研究会のホームページです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_B227.htm


中国は20年数年ぶりの海外旅行で、すごく楽しい旅行でした。太原・玄中寺で、導綽禅師が感動した、曇鸞大師の碑文がなかったのは残念でした。文化革命以前にはあったとのこと。それ以前に、日本人が碑文の拓本を取ったとのことなので、その拓本を元に、復元すればよいがと思いました。

その拓本が私の手に入ったら、それを実行します。

04.5.15

昨夜、中国から帰ってきました。色々の都合で、このパソコンをリカバリーします。もしかすると、ホームページは、最初からやり直すことになるかも知れません。

04.4.26

築地の都市開教本部が出版している小冊子、「阿弥陀仏は慈しみの如来さま」が、以前から品切れになっているので、この度、増刷しました。3回目の印刷ですが、この印刷に際して、秘話が1つあります。

この冊子は、私が書いたものですが、文中たとえ話の差し替えが一つありました。これを最近の法話では話しの種にしています。

差し替えた譬喩の主旨は「願いが大切」というものです。では不可となった話しを披露します。

徳川家康の逸話でこんな話しがあります。家康が初め、三河に兵を挙げたときは、負けてばかりで、とうとう数人の兵となり、菩提寺である大樹寺に逃げ込み、家康公は自害を覚悟する。しかし、住職の登誉上人にかくまってもらい難を逃れた。その時、家康が礼を言うと、上人は「お前さんは、たいそう苦労して戦いをしているが、何の為に戦いをするのだ」と聞かれた。

すると家康は、「敵を滅ぼし、領土を広げ、わが力を示すことは男子の本懐と思います。そのために私は兵を挙げて戦っているのです。今は惨敗していますが、また、兵を集めて戦うつもりです」と申し上げた。

その時、登誉上人は、「あんた、それだから負けるんだ。敵の国をとるというのは泥棒じゃないか。なぜ志を改めて、もっと立派な志をたてんか」。「それはどういうことでしょうか」と家康が尋ねると、「天下が乱れていては、国の全ての人が安んじて日暮らしができん。それで天下を平らげて、万民が安心して暮らせることを願って戦争をおやりなさい。神仏は泥棒をまもりません」といわれた。省略

その時、登誉上人が書いて下さった旗が、かの有名は「南無阿弥陀仏」「厭離穢土」「欣求浄土」という旗です。

冊子では、どんな願いを持っているかによって、力のいれ具合も異なるという落としで終わっています。

以上が大略称冊子の内容です。

ある説によると、

永禄3年(1560年)、上洛の途中にあった駿河の今川義元を総大将とする今川軍は、劣勢の織田信長の奇襲に遭い大敗北を喫した。世に云う「桶狭間の戦い」である。その時、若き日の徳川家康公(松平元康公)は今川軍の先陣を勤めており、義元の戦死を聞くとすぐさま手勢をまとめ先祖の菩提寺である大樹寺に逃げ帰った。追撃する織田軍は間もなく大樹寺を囲み、家康公は自害を覚悟する。しかし、住職・登誉上人より、乱れた世の中を救い、平和の時代を作れと言う、「厭離穢土、欣求浄土」の言葉で諭され再起を決意、大樹寺の僧と共に織田軍を迎え撃った。この時、大樹寺衆の中でも七十人力の豪僧・祖洞坊が総門の貫木(かんぬ き)を振り回し織田軍を大いにけちらし、公の窮地を救った。後に家康公は、この貫木の働きに感謝し、立志開運の貫木「貫木神」として奉った。現在も大樹寺に残る「貫木」には、公がはやる気持ちから付けたと言われる刀疵が三ケ所あるという。

さて、ペケの理由は、何でしょうか。「平和のために」が、アメリカと重なるというものです。言われてみてもっともだと思った次第です。

04.4.24

下記原稿を掲載しようと思ったのですが、多すぎて省略します。全部で25本ありました。ほとんどいつもの話しですが。

次に来る四季社刊「これからの真宗のしきたり全書3」が、明年発行のようですが、不得手のことばかりの内容です。
着付けの心得とか、抹茶のことや、書道など僧侶と寺族のマナーに関することばかりです。かえってこちらの方が勉強になるのだと思います。しかし当面は執筆から開放されたので、好きなことを書きます。



04.4.22
依頼されていた原稿を、やっと送りました。送ったその日に、監修のため他の原稿を見てくれと、宅急便が来たので、仕事が重ならないでセーフでした。一応、掲載原稿コーナーに添付しておきます。

04.04.20

トップページのデザインを少し変えました。世田谷の白川さんが提案して送ってくれたので便乗しました。マンネリには気になっていました。

中学の頃、水泳部に入部しており、当時の作文に「運動は好きだが、クラブ活動の運動はあまり好きではない」という類の文があったのを思い出しました。どうも、その当時から今と共通した価値観があります。事を起こすのに、その動機付けが好きか嫌いかで左右されると言うことです。

中学の折、英語と数学だけが、優劣によってクラス替え学習でした。数学は、優の教室で、英語が劣の教室であったことを思い出します。五段階評価で数学が五で、英語は二でした。事をするのに偏りがあるのです。好きだったらそればっかり。そんな傾向があります。

築地本願寺奉職中、仕事が政界財界の窓口担当で、夜の会食場探しが仕事だったことがあります。鞄持ちですが阿部晋太郎さんや警視総監等々と、会食の席を多く持ちました。ある年、飽きるほどフグばっかり食べたことがあります。お陰で今は、山口やフグをよく食べる地域の人と同様、あれば食べるというところに落ち着きました。

なぜこんな話しになったのか、そうそう、運動部の話しです。好きだからやるが私のパターンのようです。書くことも、好きなので筆が進みますが、これが仕事になると、本当に筆の進みが遅い。改めて、自分の性格を知りました。これは沢山抱え込んだ原稿の筆のすすみ具合が遅いと言うことからの反省です。

4.16 

カレンダーを見て、びっくりしました。明日はもう17日、今月上旬は、寺の予決算、年度計画等の総代会、ビハーラ総会、組の婦人会の総会と、全て資料作り等、関わったので、走るように過ごした感があります。

寺報「清風」53号アップしました。