「ラジオから生まれた歌」
――少國民のうた特集――
2005年2月10日(木) 19:00〜/東京文化会館小ホール

ピアノ:榊原 通子
お取り扱い:オフィス小野寺 050−7511−8457

春の唄 (喜志邦三/内田 元)

海ゆかば (大伴家持/信時 潔)

空の神兵 ―― 落下傘部隊に捧ぐ (梅木三郎/高木東六)

朝だ元氣で (八十島 稔/飯田信夫)

僕らの團結 (勝 承夫/信時 潔)

子を頌ふ (城 左門/深井史郎)

空の父・空の兄 (輿田準一/名倉 晰)

僕は空へ君は海へ (サトウハチロー/佐々木すぐる)

兵隊さんよありがたう (東京・大阪朝日懸賞人選歌/佐々木すぐる)

勝ちぬく僕等少國民 (上村数馬/橋本國彦)

山小舎の灯 (米山正夫)

想い出は雲に似て (米山正夫)

緑の牧場 (松坂直美/江口夜詩)

さくら貝の歌 (土屋花情/八洲秀章)

砂山の花 (保科義雄/八洲秀章)

チャペルの鐘 (和田隆夫/八洲秀章)

リラの花咲く頃 (寺尾智沙/田村しげる)

さざん花の歌 (寺尾智沙/田村しげる)

美しい時の流れに (藪田義雄/團 伊玖磨)

花の街 (江間章子/團 伊玖磨)

時代と音楽 ―少國民の歌によせて―

 戦時下の歌をうたうようになって初めて「少國民」という言葉を知った。 「少國民」については、次のように、國民学校で軍國教育を受けた児童との説明が多かった。
 「少國民」とは、昭和16年に児童文化統制機関「日本少國民文化協会」が設置された際、児童に代わる呼称として考え出された。 「少國民」は国家主義的な「國民学校令」に基づき、兵士予備軍として扱われた。
 ところが、明治28年にはすでに『少國民』という雑誌(東京学齢館/明治24年発刊『小國民』を改題)が出ていた。はたして本当に昭和16年に考え出されたのだろうか。
 また朝日新聞社の『週刊少國民』は昭和17年2月〜21年9月、小学館の『月刊少國民の友』は昭和17年5月〜22年4月まで発行されていた。 戦後も出ていたとなると、必ずしも「少國民」は軍國主義と結びつけられていたわけではなかったのかも知れない。
 多くの日本人が「少國民=軍國主義」とのイメージを持つに至ったのは、昭和16年12月23日に創立された社団法人「日本少國民文化協会」の存在が大きかったのではないかと思われる。 同協会は機関誌『少國民文化』を毎月(昭和17年6月〜19年12月)発行し、舞踊・遊具・紙芝居・童話・演劇・音楽・文学・絵画・映画・ラジオ・出版の11部会で戦時下の児童文化に関与していたという。
 たとえば、「放送により全國の少國民をして同一歌曲を同一時に唱和せしめ音楽を通して少國民の團結を強化し大東亞建設推進の意氣を旺盛ならしめ併せて歌唱力の向上に資せんとす」との趣旨で『ミンナウタヘ』大会を日本放送協会と共催し、課題曲として《日本のあしおと》《鍛へる足》《進め少國民》《朝日は昇りぬ》《愛國行進曲》の5曲を選んでいる。 中でも《日本のあしおと》(文部省検定・情報局推薦)は、日本少國民文化協会作詞作曲(作詞・作曲者不明)による同協会制定歌でもあった。
 《少國民進軍歌》も日本少國民文化協会の制定歌で、同協会が陸軍省・軍事保護院とともに歌詞を公募し、約 17,000篇の中から選ばれた國民学校訓導の長坂徳治の詩に佐々木すぐるが作曲したものだという。
 こうしてみると、日本放送協会が制作したラジオ番組『國民歌謠』が、古関裕而、古賀政男、服部良一、江口夜詩ら昭和初期のレコード歌謡のヒットメーカーや、官学系の信時潔、山田耕筰、橋本國彦、中山晋平、小田進吾(高階哲夫)といった作曲家を動員したのに対し、少國民の歌では佐々木すぐるや河村光陽といったレコード童謡のヒットメーカーが起用されていたことがわかる。 佐々木はすでに3曲の『國民歌謠』(《おゝ大和撫子》《金塊集より「山はさけ」》《航空日本の歌》)を手がけていたが、昭和19年に『國民合唱』として発表された《僕は空へ君は海へ》《お山の杉の子》の印象が強い。
 なお、当時、日本放送協会は平日の午前10時から『幼児の時間』を、午後6時30分から『少國民の時間』を放送していたという。 したがって、「少國民」とは、年齢的には児童にあたると解釈してよさそうだ。
 すると(私事で恐縮だが)、私の父は昭和7年生まれなので「少國民」世代ということになる。 入浴すると必ず『父よ、あなたは強かった』(朝日新聞社懸賞入選歌/愛國歌「皇軍將士に感謝の歌」)を歌う父に、「どうしていつも同じ歌なの?」と訊くと、「学校でこの歌しか教わらなかった」と言う。 いま思うと、早くに死に別れた父親の記憶の糸をたぐり寄せようとしていたのかも知れないが、幼少の私には何もわからなかった。 ただ子供心に、この歌に文句をつけると父の人生を否定してしまうような気がして、黙って毎日『父よ、あなたは強かった』を聞いた。
 歌には、その時代を生きた人にしかわからない何かがあるのだと思う。 かといって、その時代を知らない人に演奏する資格がないとも思わない。 モーツァルトやべートーヴェン等、いわゆるクラシックの音楽作品が時代や民族の枠を越えて演奏されていることでもわかるように、歌には時代背景や世相を反映した側面と、純粋な音楽作品として享受できる部分があるからだ。
 しかしながら、わが国における戦時歌謡への過剰反応には凄まじいものがある。 「今さらあんなひどい時代の歌を聞いて当時を思い出したくない」「戦争賛美の歌を歌うのは怪しからん」と全否定されるかと思うと、逆に、「あの時代は物資は不足していたが、皆が肩を寄せ合って懸命に生きていた」「家族や友人の思い出がつまった作品をぜひ歌って欲しい」と楽譜を送って下さる方まで居る。 中でも「少國民」世代の反応は両極端で、戦時歌謡を忌み嫌う方に出合うと、私はいつもカボチャやサツマ芋が食卓に並ぶだけで顔色を変えた父を思い出す。ちなみに、母の実家は農家だったため食べ物には困らなかったそうで、そうしたアレルギー反応は見たことがない。こうなると、歌もカボチャも一緒くただ。
 人が歌を自分の人生と重ね合わせて捉えれば、歌の解釈は人の数だけ存在することになる。 だが、自分にとっての歌という捉え方だけでは、歌が歴史の中で占める位置や、後世への影響といった客観性に欠ける恐れがある。日本の歌はとかく個人的な思い入れや好みで語られがちで、楽曲分析や楽譜校訂に興味を示す人は少ない。 それが日本の歌が使い捨てにされてきた最大の理由ではないかと私は考えている。 しかも、日本人は最初に聞いた印象に左右され、創唱者の演奏に固執しがちだ。 この気風も日本の歌がドイツ・リートのように民族や国家を越えて演奏されることを阻んでいるのではないかと思わせる。
 戦時歌謡一つとっても、これが誰の手で作られ、どんな役目を負わされたのかを再確認し、戦後の詩人や作曲家がそれをどういう風に越えようとしたのかを検証する以前に、ヒステリックに戦時歌謡を演奏することは戦争賛美だと騒ぎ立てる人が出るのだから困ってしまう。
 こうした情念の問題はさておき、私は毎年2月の『ラジオから生まれた歌』、8月の『古関裕而を歌う』コンサートを継続する中で、戦時中に出版された楽譜における歌詞表記の混乱に気付いた。 当時の楽譜を見ると、歌詞表記は必ずしも歴史的仮名遣いで統一されていたわけではなかった。 それに気付くまで、私は日本語は戦後の現代かなづかいの施行でおかしくなったとばかり思っていたが、現代かなづかいは戦時中の混乱に拍車をかけただけだった。 國民学校の音楽教科書における歌詞の改作(文語体→口語体)も、アジア諸国で歌わせた《アイウエオの歌》も、日本語簡略化の意図があったと考えれば合点がゆく。
 そこで私は、昨年4月に新聞のエッセイで國民学校の教科書で改作された“春の小川はさらさらいくよ(原詩は「ながる」)”の発音は“ユクヨ”だと書いたら、翌日、他紙で“いく”は“イク”だと批判された。 では、文部省はいつ発音を“イク”と定めたのか。 現代かなづかいの施行で書き言葉が“いく”になっても、発音の問題は未だにクリアできていないはず。 その新聞記者は何を根拠に“行く”の発音を“イク”と決めつけたのか。
 そもそも書き言葉としての“いく”と“ゆく”は古来より両方あったとはいえ、平安時代以降はずっと“ゆく”が優勢だ。 古語辞典では“行く(いく)”は「うまくはかどる」、“行く(ゆく)”は「去って他へ移る」と区別され、国語辞典では“いく→ゆく”となっている。 なお私は“行く”を“イク”と歌うよう教わった経験はないが、語感は教師の世代や意識によるところが大きいため、“イク”と指導する人もいるのかも知れない。
 ともかく“いく”の表記が戦中から混乱していたとなると、大正末期から昭和初期にかけて国民的童謡歌手として活躍された平井英子さんにお尋ねするしかない。
 「戦時中の《僕は空へ君は海へ》の歌詞が“いかういかうぞ、きっといくぞ”と表記され、《兵隊さんよありがたう》では“けふもがっかうへいけるのは”と書かれているのですが、実際の発音はどうでしたか?」
 「“イク”“イカウゾ”って何です? いつから日本語がそんな風に変わったのですか?」
 「昭和19年にNHKが出した楽譜にそう書かれています」
 「じゃあ、作曲した方は地方出身者なのですか? 私は東京でそんな発音は聞いたことがありませんよ」
 「では“ユク”“ユコー”と発音していいんですね?」
 「私はそのように発音してきましたが……」
 さらに後日、お電話を頂いた。
 「妹も童謡歌手でしたので確認したところ、やっぱり“ユク”と歌いましたよ。 念のため五十代の姪にも歌って貰いましたが、“ユク”でした」
 何と有り難いことか。 八十七歳の現在もなお、お声もお姿も凛々しく、美しい生き方を貫いておられる平井英子さんのお蔭で、私は戦前の発音を知ることができた。
 日本語の乱れが加速する今日、歌が作られた頃の発音を知りたいなどと考える人間は変人扱いされかねない。だが、歌い手として、大正時代や明治時代に日本の歌がどう歌われていたのか、江戸時代のわらべうたの発音はどんな風だったのか、私の疑問は尽きないのである。 今後も詩が書かれた時代、作曲された時代の日本語発音に近づくべく研鑽を積みたいと思う。 皆々様からの変わらぬ御指導、ご助言、資料提供をお待ち致しつつ。


「ラジオから生まれた歌」
――橋本國彦生誕百年記念コンサート――
2004年2月2日(月) 19:00〜/東京文化会館小ホール

ピアノ:榊原 通子 入場料:5,000円(全席指定)
ペア券 8,000円/学生券 3,000円
お取り扱い:オフィス小野寺 050−7511−8457

椰子の實 (島崎藤村・大中寅二)

心のふるさと (大木惇夫・江口夜詩)

愛國の花 (福田正夫・古関裕而)

海ゆかば (大伴家持・信時 潔)

出征兵士を送る歌 (生田大三郎・林 伊佐緒)

空の神兵――落下傘部隊に捧ぐ (梅木三郎・高木東六)

雲のふるさと (大木惇夫・古賀政男)

やすらいの歌 (百田宗治・古賀政男)

勝利の日まで (サトウ ハチロー・古賀政男)

空の父・空の兄 (與田準一・名倉 晰)


母の歌 (板谷節子・橋本國彦)

大日本の歌 (芳賀秀次郎・橋本國彦)

學徒進軍歌 (西條八十・橋本國彦)

戰ふ花 (深尾須磨子・橋本國彦)

勝ちぬく僕等少國民 (上村數馬・橋本國彦)

朝はどこから (森まさる・橋本國彦)

乙女雲 (藤浦 洸・橋本國彦)

アカシヤの花 (松坂直美・橋本國彦)

  ――六代目菊五郎の娘道成寺によせて (深尾須磨子・橋本國彦)

 今年9月14日に橋本國彦(1904-49)は生誕百年を迎える。同年生まれの作曲家に、古賀政男(1904-78)や、未だ現役の高木東六らがいる。ただし私は、古賀政男の生誕百年を昨秋とし、それまでにオリジナル編成で古賀メロディーを録音してヨーロッパで発売するという計画を立てた。生誕百年というと、わが国では、西欧文化系は満年齢を、伝統邦楽や歌舞伎など日本文化系は数え年を用いることが多い。それで同い年ながら、昨年は古賀作品、今年は橋本作品の再評価に挑むことにした。
 私はすでに国内盤で『橋本國彦歌曲集』を出しているが、昨年、橋本の『四季の組曲』中で欠けていた曲が発見されたため、その全曲演奏に取り組みたいと考えた。けれど、橋本作品に興味を持たれる方はまだまだ少なく、個展を企画する勇気が出なかった。ともかく、日本人は有名人が好きだ。橋本がどれほど才能に満ちた作曲家であっても、名前を知らないというだけで無視されてしまう。私自身、『四季の組曲』の全曲演奏を完全に諦めたわけではないが、実現は難しそうだ。そんなわけで、まずは毎年2月に開催している「NHKラジオから生まれた歌」の中で橋本作品を特集することにした。
 とはいえ、歌曲作曲家として橋本がもっとも充実していたのは昭和初期だ。多くの詩人にとっての処女詩集のように、橋本もまた、作曲を始めた当初に、のちに代表作となる才気溢れる作品を多く書いた。大正末期に始まる橋本歌曲の頂点が昭和4年に作曲された『舞』であることは、日本歌曲の世界では定説となっている。
 さて、昭和9年からヨーロッパやアメリカを遊学していた橋本は、戦争の足音を聞いて12年に帰国。その後は指揮活動や管弦楽曲の作曲に重きを置くようになった。もちろん、当時の日本作曲界には、まともな管弦楽曲を書ける作曲家は数えるほどしかいなかったわけだが、中でも橋本の才能は群を抜いていた。橋本は、音楽的才能の上でも、時代背景的にも、瀧廉太郎や文部省唱歌の作曲者たちとは土俵が違っていた。
 そして、戦時中、彼は東京音楽学校の花形教授として活躍した。橋本は、もはや自分の芸術を追究するだけではすまされなくなっていた。彼の作品は「東京音楽学校作曲」とされる曲の中にも含まれているという。
 橋本が帰国する前年、NHKラジオは家族みんなで歌えるホームソングを作ろうと、新しい歌番組『國民歌謠』を立ち上げた。当初は《心のふるさと》《椰子の實》《ふるさとの》といった抒情的な歌が多かったが、昭和12年7月7日の蘆溝橋事件あたりから社会情勢と無縁ではいられなくなった。NHKラジオからは、軍部が制作した歌や、東京日日・大阪毎日新聞公募作品の《露營の歌》、朝日新聞公募作品《父よあなたは強かった》などが放送され始めた。
 昭和12年10月13日からNHKの『國民精神總動員強調週間』で発表された《海ゆかば》も、『國民歌謠』で再放送されている。作曲者の信時潔は、東京音楽学校卒業後、ドイツに留学し、大正12年から昭和7年まで同校教授をつとめたが、紀元二千六百年奉祝カンタータ《海道東征》や《海ゆかば》を作曲したことで、橋本と同じように、戦後は作品演奏の機会に恵まれず、作曲家としての評価をも歪められた感がある。
 他方、パリでヴァンサン・ダンディに師事した高木東六の作品には《ヒュッテの夜》(國民歌謠)や《あまんじゃくの歌》(ラジオ歌謡)などがあるが、もっとも親しまれているのは《空の神兵》であろう。これまでこの歌を演奏できなかったのは、メロディー譜しかなかったためだが、昨夏、やっとピアノ譜が見つかった。
 実際のところ、私は日本音楽を毛嫌いし、「その昔、五体の満足でなかった、主として眼の不自由な琵琶法師や検校たちによって作られたはなはだ個人的な音曲は、みんな陰々滅々型であり〜」(高木東六『ぼくの音楽論』)と書く作曲家の作品など歌いたくはなかった。《水色のワルツ》なら歌わない。だが、《空の神兵》の洗練された和声と楽想の新鮮さに驚かされ、息をもつかせぬ展開に魅力を感じて演奏しようと決めた。
 それにしても、高木東六は前掲『ぼくの音楽論』に、TV番組で「邦楽と洋楽の根本的相違をピアノで説明」しようとしたと書いているのだから恐れ入る。もし私がその場に居合わせたら、即座に「平均律のピアノで邦楽の音階を弾けるはずがない」と抗議するだろう。
 昭和2年に東京音楽学校を退学した高木は、当時の同校のあり方を全否定し、翌3年パリに留学したわけだが、少なくとも橋本は大正14年に《なやましき晩夏の日に》を、昭和3年には《お菓子と娘》や《斑猫》といったフランス印象派ばりの歌曲を書いていた。橋本が、留学前に、フランス留学組の西條八十や深尾須磨子が書いた詩に近代フランス音楽の書法を生かして作曲していたのは見落すことのできない事実である。
 《空の神兵》と同じ楽譜集に、古賀政男の《雲のふるさと》と《勝利の日まで》が入っていた。いずれも有名曲だが、それまではピアノ譜を見つけられなかった。
 《雲のふるさと》は、昭和42年の美空ひばり芸能生活20周年のために、古賀が新しい詩を関沢新一に依頼してプレゼントした《思い出は遠く哀しく》の元歌だ。私はこういう演歌調でない古賀メロに出合うと、つい意外性を感じてしまうのだが、そろそろレッテルで判断することを慎みたいと思う。初めて《やすらひの歌》を歌った時も、にわかには古賀の作曲と信じられなかった。『國民歌謠』として取り上げられることを期待して唱歌調に書いたらしいと聞いてやっと納得した。しかし《やすらひの歌》は、結局、戦後の『ラジオ歌謡』で放送されるまで採用されなかった。
 その後、古賀の最初期からの作品を研究し、私は彼がいかに柔軟な感性と多彩な音楽的抽斗を持っていたかを知った。今では、日本人の多くが「古賀メロ=演歌」と決めつけてその多様性を認めようとしない上、オリジナルを尊重しないことに憤慨する始末だ。そして古賀も、当時の軍部や放送局の姿勢に憤っていた。
 《勝利の日まで》のピアノ譜を入手したので歌ってみたら、どことなくおかしい。オリジナル音源と照らし合わせてみると、サビの部分のメロディーとリズムが全く違っていて、よくよく楽譜を見直すと、「山田榮一編曲」と書かれていた。そこで『古賀メロディー誕生70年記念古賀政男大全集』の解説を見ると、「僕は霧島盤のように作曲したのに、放送局の審査会かなんかで明るい感じに改めたのだと思う。あの時代はそうした事が平気で行われていたから……」と書かれていた。
 たしかに山田榮一編曲版は「元気一杯で」(曲想表示)、勇壮な感じがするが、音楽としてメロディーそのものの座りが悪い。「燃えてくるくる心のほのほ」と音階がドレミファソと上昇してきて、「われら」がソソド〜ではブレーキがかかる。そこをラシド〜と突っ走る古賀のメロディーの方がずっと自然だ。しかも、古賀がマイナーコードで書いたフレーズはメジャーに変えられた。さらに、「勝利の日まで」の一回目、古賀はソーラソミと揺らしていたのに、編曲版は無味乾燥にソーソミとした。それまでの音楽的エネルギーを受け止めるためにも、「勝利」という言葉に思いを込めるためにも、ラソという揺りは絶対に必要だ。よって、本日は古賀のオリジナルのメロディーで演奏することにした。なお、もともとNHKに委嘱された《勝利の日まで》は、昭和19年3月にレコード発売された後、翌20年1月の東宝映画『勝利の日まで』の主題歌としても使われた。
 《空の父 空の兄》は『國民合唱』の時間に放送された、いわゆる少國民ものの歌である。私はこれまで《僕等の團結》(われらのうた)や《子を頌ふ》(國民合唱)を取り上げてきたが、もっともリクエストが多い《父母のこゑ》はピアノ譜がないため演奏することができない。しかし、佐々木すぐる作曲の《僕は空へ君は海へ》(國民合唱)のピアノ譜を入手できたので、次の機会に取り上げたいと考えている。
 後半の橋本作品は、帰国後はじめて書いた『國民歌謠』の《母の歌》から、「東京音楽学校作曲」として書いた《大日本の歌》へと続く。それらの歌は、歴史の証人でもある。昭和18年10月21日に明治神宮で行なわれた「出陣學徒壯行會」に合わせて作られた《學徒進軍歌》や、女性の勤労動員を謳った《戰ふ花》、学童疎開の子供たちがよく歌った《勝ちぬく僕等少國民》。
 戦争を知らない世代の私は、古関裕而の作品研究のために《嗚呼神風特別攻撃隊》をはじめとする戦争末期の作品を歌い、こうした作品を知るに至った。そして実際には、敵と向かい合うことなく命を散らせた人が少なくなかったことをも知った。
 今さら仮定などしてもはじまらないとわかってはいるが、もし戦争がなければ、橋本は《舞》の路線で日本の歌の可能性を切り開けたのではなかろうか。戦後の橋本が昭和3,4年頃の冴えを取り戻せないまま病に斃れただけに、私はせめてそう信じたい。

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