娘を風早に預けてのデートから戻って来た千尋と柊は、部屋の片隅で膝を抱えてシクシクと泣いている風早の姿を目にして「ああ、またか」と思った。最近、風早は幼い姫から何かと邪険にされて、こうして落ち込むことが多くなっていた。
しかし、こんな風早の姿は珍しくなくても、辺りに姫の姿がなく声も聞こえないとなると話は別だ。
「ただいま、風早」
千尋の声に風早が顔を上げたところへ、柊がすかさず問い質す。
「ちぃ姫はどうしたのですか?」
「……某所に預けました」
「某所?」
「この橿原宮で一番……いいえ、この世界で一番安全なところです」
「ああ、忍人のところですか」
「……はい」
幼い姫は、忍人のことがお気に入りだ。それも、剣を振るう姿や兵達を扱く姿が大好きらしく、そんな忍人を見つけると風早の手を振り解いてでも駆け寄って行く。忍人の方は迷惑に思っているのだが、相手が世継ぎの姫とあっては無視する訳にもいかず、その場は無愛想な態度で一応の相手はしておいて、後で柊や風早の元へと怒鳴り込む。
「それで、忍人さんに子守を押し付けて、風早はここで心置きなく大泣きしてたの?」
無責任だよ、と非難するような声音で千尋が言うと、風早はグシグシと涙を拭いながら言い訳する。
「忍人に押し付けた訳じゃなくて、姫に追い払われたんです!」

散歩の途中で訓練場に立ち寄った姫は、忍人が良く見えて訓練の邪魔にならないようなところに自分の場所を確保すると、「バイバイ、風早」と手を振った。それでも風早が立ち去らないで居ると、今度はその手の振り方を変えて「シッ、シッ」と追い払うような仕草をする。
「姫…そんなに俺は邪魔なんですか?あんまりですよ~」
風早が泣きそうな声で訴えても、姫は態度を変えてはくれなかった。それどころか、いつまでも動こうとしない風早に、ちょっとお冠のようだった。終いには、忍人が怒ったように言い放つ。
「泣くな、鬱陶しい。そんな様相で居られたのでは訓練の邪魔だ。とっとと失せろ」
そこで風早は、泣きながら部屋まで駆け戻り、以来ずっと抱えた膝に顔を埋めていたのだった。

「ちぃ姫も、随分と知恵が付いて来ましたね」
「そう言う問題?ちょっと甘やかし過ぎたんじゃ…」
忙しくてついつい世話を他人任せにしてしまっている千尋としては、娘が悪いことをした時くらいはビシッと叱らなくてはと思ったのだが、柊はそうは考えなかった。
「ちぃ姫を育てたのは、主に風早ですよ。私達から奪い取るようにして何くれと手出し口出しして、四六時中ベッタリと張り付いて……ですから、ちぃ姫の教育に問題があって今風早が泣いているのだとしたら、それは自業自得というものです。第一、あの忍人が何も言わなかったのなら、我が君がお叱りになられる必要はないものと存じます」
「あっ、そっか」
「納得しないでください、千尋!」
そうは言ってみたものの、確かに風早もあの時忍人が姫を叱らず自分を追い払った事実は認めざるを得なかった。
忍人は、相手が幼い姫であろうとも遠慮などしない。悪いことをすれば、すぐさま叱りつける。表面上は諫言を為すという姿勢を取っているが、その実やってることは容赦のない説教である。
「でも、忍人さんが何も言わなかったなんて不思議だね。人を野良犬みたいに追い払おうとしたら、叱りつけそうなものだけど…」
「ですが、他の者ならともかく、相手は風早ですから……たまには良い薬だとでも思ったのでしょう」
「あっ、そっか」
「だから、納得しないでくださいってば!まったく、忍人ったらいつまであの子の視線を独り占めしている気なのか……もうあれから軽く一刻は過ぎてますよ」
そんなに延々と泣き続けてたのか、よく涙が枯れないものだな、と千尋も柊もそっちに感心するやら呆れるやらだった。
それから、端と気が付く。
「おかしいですね。そんなに時間が経っているのなら、とっくの昔に、おやつを寄越せとばかりに騒ぎ出して、堪りかねた忍人に強引に送り届けられて居そうなものです」
「騒がないまでも、喉が乾いて愚図り出すよね。でも、忍人さんが気付いて何か飲み食いさせてくれるとは思えないし…」
「奇跡的に忍人が気付いたとしても、やることは騒いだ場合と同じです。何かあったのか知れません。急ぎ、見て参りましょう。行き違いになった時の為に、姫はこちらでお待ちください」

「忍人!ちぃ姫は無事ですか?」
「無事か、とは失礼な…。疑うなら、その目で確かめてみろ」
駆け付けた柊が忍人の視線の先を見てみれば、姫は遠夜の膝で果物を食べていた。
「ああ…そういうことでしたか。道理で、忍人がちぃ姫を送り返してこないはずですね」
遠夜が面倒を見てくれているなら、姫が忍人を困らせるようなことはない。おまけに差し入れの果物まであったとなれば、おやつに戻って来なくても不思議はなかった。
近くを見れば、何やら地面に下手くそな文字が沢山書かれている。
「……”栞”(しおり)?」
「あいっ!」
”栞”は姫の名前だ。当然のように、自分が呼ばれたと思って返事をする。しかし、柊が当惑していると、姫はまた果物に齧り付いた。
「忍人、これは…?」
「ああ、遠夜が文字の復習の為に自分が持って来た果物の名を書き連ねたら、姫が興味を示したので、試しに自分の名前を書かせてみたんだ。ほら、その辺りなどかなり形が整って来ているだろう?随分と夢中になって練習していたぞ」
柊が忍人の指差す方を見遣ると、最初に目に止まった文字に比べてかなり形の整った文字が目に入った。その向こうには、”柊”の文字もある。
「あれも、ちぃ姫が書いたんですか?」
「そうだ。その形が自分を表すものだということは理解したらしいのだが、文字というものを理解出来ていないようだったので……二文字以上の名前の書き方を教えるのは危険だと思って、書き飽きたところで次はお前の名前を教えてみた」
「はぁ…お心遣い、感謝します」
力なく溜息交じりに柊は礼を言った。まさか自分達が知らない所でこんなに熱心に娘が書き取り練習を積んでいたとは、柊ですら思いも寄らない事態である。これを見ると、ますます風早よりも玄武二人に面倒を見ていてもらった方が娘の教育には良いのではないかと思えてならなかった。
しかし、遠夜はともかく忍人の方は子守をさせられては堪らないと思っている。
「感謝する気持ちがあるなら……いや、この際、感謝なんかしなくても良いから……頼むから、姫をあんまり俺に近づけないでくれ」
元より忍人は子供好きという訳ではないが、それとは関係なしに、この姫には大変困ったところがあるのだ。
「陛下が俺を”忍人さん”と呼んでいるのを真似しながら、舌が回ってないだけなのだというのは解ってるんだ。だが、小耳に挟んだ者は、そうは思ってくれないんだぞ。姫が俺に呼びかける度に、俺はあらぬ疑いをかけられるんだ。表立って言えば陛下の不貞を疑うことにもなるから、面と向って何か言うような者はいないが、あちらこちらでこそこそと……早く何とかしろ」
これは、忍人にとっては切実な問題だった。勿論、柊にとっても他人事ではない。忍人が困っているならもっと困らせてやりたい、というのが柊の基本スタンスなのだが、これに関しては話は別だ。
「言われなくても、鋭意努力中です。私だって、気持ちの良いものではありません。ちぃ姫は私と我が君の娘なのに……私が”とおしゃま”で、あなたが”とぉしゃん”では、あなたまで父親みたいではありませんか」
両親の髪が揃って淡い色なのに姫が黒髪であるところも、忍人へのあらぬ疑いに拍車をかけていた。
「おかげで、俺は周りから誤解されるわ、風早からの風当たりも強くなる一方だわで、まったく堪ったものではない」
「風早の風当たりが強いのは、呼び方の所為だけではありませんよ。ちぃ姫が、あなたを気に入っているからです」
柊の言葉に、忍人はげんなりとした。
「この様な発言は不敬かも知れんし、お前であっても実の親の前で言うのはどうかとも思いはするが……俺は、格別に気に入られたいとは思わない」
「確かに、一般的には問題発言かも知れませんが、それがあなたの掛け値なしの本音であることは良く解っています。ですが、諦めてください。何しろ、ちぃ姫は私の子ですから……あなたを気に入ってしまう性質を色濃く受け継いでいるんです」
そう言い切られて、忍人は天を仰いだ。
「道臣が以前、子供というものは変なところばかり親に似るんですよ、と言っていたが……脱走癖まで親に似ないことを切に願うぞ」
両親のどちらに似ても有りそうなことだ。故に、忍人は将来に多大なる不安を覚えながら、兵達に更なる訓練を課したのであった。

-了-

《あとがき》

一ノ姫は忍人さんがお気に入り。
両親のことも大好きで、遠夜にも懐いています。
そして、干渉しすぎる風早には反抗的(^_^;)

堪忍袋の緒は切れて」で千尋は柊に名前を考えてくれるように頼んでいましたが、千尋もいろいろ考えました末、「千早」で書いてるように、結局は千尋が考えた名前を付けたことになっています。
”千”と”木”を組み合わせて”栞”。厳密には”千”ではなく”干”だけど、そこは千尋なので細かいこと(?)はさて置き、見た目と想いで付けました。

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