堪忍袋の緒は切れて

「あのね…柊。子供のことなんだけど…」
唐突に話を切り出した千尋に、柊は目を丸くした。
「もしや、我が君…?」
「あっ、違うの。出来たとかじゃなくて……その可能性は皆無じゃないんだろうけど、それはちょっと脇に置いといて……風早が…」
慌てて柊の期待を萎ませて、千尋はポツポツと風早との会話について話し始めた。

「千尋に子供が生まれたら、名前はやっぱり千早(ちはや)が良いですね。ほら、柊とでは組み合わせるの難しいでしょう?だから、親代わりの俺から一字とって、千早にしましょう」
「もうっ、風早ったら、気が早いよ。まだ出来てもいない子供の名前とか考えてどうするのよ。大体、柊とだって組み合わせようと思えば何とかなるじゃない。つくりだけ取って千冬(ちふゆ)とか…」
「冬生まれじゃなかったらどうするんですか?その点、『千早』なら季節を問いませんよ」
「だ…だったら、つくりの季節繋がりで『千春』とか『千夏』とか『千秋』とか……柊だけに由来して、『椿』とか『榎』もありだよね」
再び風早の勢いに押されて、千尋もまだ存在すら感じられない我が子の名前を必死に考え、何とか自分や柊の名前に由来するものにしようとした。しかし、風早は押し切ろうとしてくる。
「椿って、首がポトリと落ちるんですよ。王族の名前としては縁起悪いと思いませんか?他の季節だって、解りにくいですし…やっぱり『千早』が一番ですよ」
胸を張って言い切る風早に、負けじと千尋は言い返した。
「それなら、冬に生まれるように計画出産する!冬生まれなら、『千冬』で問題ないもん」

「…という訳で、柊の協力が必要なの。風早のあの勢いだと、他の季節に生まれたら絶対に『千早』でごり押しして来るよ」
「協力と仰いますと……まさか、他の季節に生まれそうな時期はお預け、なんてことでは…?」
こちらの世界に基礎体温計などはない。計画出産に協力となれば、その方法はほぼ決まっている。
「最初はそう思ったんだけど……やめた。風早にはああ言ったけど、私もそんな面倒なことしたくないもん。だから、今から季節を問わず風早の押しに負けないような名前を考えて欲しいの。親代わりの名前を撥ねつけられるくらい、周りが納得してくれそうなのが良いんだ。字画とか響きとかも文句なしのを考えてくれない?私も考えてはみるけど、柊の方が得意そうだから……お願い」
甘えるように請われて、柊は懸念が晴れた安堵と千尋に頼られた喜びに破顔した。
「はい、お任せください。その時の為に、良い名を沢山考えておきましょう」
そう答えて、柊は千尋に断って寝室を後にした。
子供の名前を考えて欲しい、そのような願いをされたことは喜ばしかった。発端となった風早の暴走も、その点では反って柊にとっても悪いことではなかった。しかし、『千早』には我慢がならない。
「人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んじまえ、という言葉があると聞きますが……そう唱えた者も、よもや邪魔する馬が居ようとは思わなかったのでしょうね」

風早の部屋へと押し入った柊は、驚いた顔で出迎えた風早目掛けて無言で拳を繰り出した。
「何するんですかっ!?」
いきなり殴りつけられて、風早は訳が解らないと言った顔をする。
「私は、『千早』なんて名は絶対に認めませんからね」
一言毎に柊は風早を殴りつけた。これまで溜まっていた鬱憤がついに爆発したのだ。
「『千早』の何処が悪いんですか!?良い名前じゃないですか」
「ええ、あなたさえ居なければね」
柊も、それが悪い名だと言ってる訳ではなく、ただ風早に由来することが許せないだけだ。
「誰が、あなたから名前を付けたりするものですか」
殴り合い掴み合いの大喧嘩が始まった。
距離が開いたと見るや風早は柊の死角を狙って蹴りを放つが、柊は勘の良さとその大きな動きからどうにか見切る。そして逆に大きく開かれたその懐に飛び込むようにして攻撃に転じるが、風早の頑丈さは並大抵のものではなかった。
「ちょっと、何の騒ぎ!?」
隣室から聞こえてきた大きな音に驚いて千尋が駆けつけると、目の前では柊と風早が戦っている。
「二人とも、やめてよ!」
その声を聞いて睨み合いながら、風早が柊に言う。
「千尋がああ言ってるんだから、大人しく引いたらどうです?今なら、”御免なさい”って言えば許してあげないこともないですよ」
しかし、柊は即座に言い返す。
「その言葉を言うべきは、あなたの方でしょう。今ならそれに加えてまともに一撃喰らわせるだけで勘弁してあげないこともありませんよ」
「先に手を出したのは、あなたの方ですよ」
「余計な口出ししたのは、あなたの方が先です。控えるように言っても全く聞く気配がないので、言葉で通じないなら拳で言い聞かせることにしたまでですよ」
そう言うと、柊はまた風早に殴り掛かった。

「何の騒ぎだ!?」
駆け込んで来るなり事態を悟った忍人は、兄弟子達に向って急ぎ警告を発した。
「喧嘩なら外でやれ!建物や調度に傷などつけようものなら、陛下にも累が及ぶことになるぞ」
途端に二人の動きがピタリと止まり、しばし睨みあった後、そのままの体勢で示し合わせたかように蟹のごとく横に歩き出して闇の中へと消えて行った。
その姿に安堵する忍人に、千尋は縋るように願った。
「追い出すんじゃなくて、止めてください!」
すると、忍人は嫌そうに言う。
「…それは、命令か?」
「違いますけど…」
「ならば、その役目は辞退させてもらう。俺は、あの二人の喧嘩を止めに入って、横槍を入れられた所為で勝負が着かなかったと逆恨みされて、後で風早に百叩きにされたり柊に甘味地獄に突き落とされたりしたくはない」
「そんな莫迦な……って、もしかして、それ…実体験ですか?」
千尋は笑いそうになってハッとした。忍人の言葉には、何やら実感が篭っていたように感じられたのだ。それは錯覚などではなく、あっさり忍人から肯定される。
「その通りだ。しかも、あの時の喧嘩の原因は、君の作った花冠の取り合いだった」
忍人にとっては、あまりにも下らない理由でとんでもない目に遭わされた、屈辱の記憶である。
「うぅっ……ご迷惑をお掛けしました。ごめんなさい」
そもそもの原因が自分の花冠で、忍人に危害を加えたのが当時から侍従だった風早と今は夫である柊なので、千尋は謝らずには居られなかった。
「それでも止めろと命じられれば仕方がない。王命になら従うが……どうする?」
「…命じません。そんな話聞いて、それでも止めろと命令するなんて……そんなこと出来る訳ないじゃありませんか」
「そうか、それを聞いて安心した。では、部屋まで送ろう。顔色が悪いぞ、早く休んだ方が良い」
頼みの綱の忍人にあっさり断られた挙句に、千尋は問答無用で部屋へと送り届けられてしまい、どうしていいか解らないまま一人寂しく床に就き、遠くで誰かに名を呼ばれたように思いながら眠りに落ちて行ったのだった。

翌朝、千尋が目を覚ますと柊は何食わぬ顔で隣に寝ており、千尋には昨夜のことは夢だったのだろうかとさえ思えた。
しかし、身支度を整えて前の間へと出ると、差し込む陽光の中で柊と風早の顔に痣があるのが見て取れる。やはり夢ではなかったのだと再認識した千尋は、恐る恐る訊いてみた。
「えぇっと……昨夜の喧嘩ってどっちが勝ったの?」
すると、二人は互いに目を反らしながら答えた。
「勝負はつきませんでした」
「実は、突然目の前で風早が大量の水に押し流されまして……文字通りの水入りです。あれは、遠夜の『響渦流撃』ですね」
それを聞いて、千尋は昨夜の眠りに落ちる直前のことを思い出した。
「う~ん、それじゃあ、あの誰かに呼ばれたような感じって遠夜が近くで術を使った所為だったのかなぁ」
「ええ、恐らくは…。風早の方を押し流したのは、我が君にとって私の方が大切さの比重が上とでも思ったのでしょう。何しろ私は姫の”最愛の人”なのですから…。おかげで私は、このように大した怪我もなく我が君の隣でゆっくりと休むことが出来ました。風早もちょっと気を失っただけで、大事は有りませんのでご安心ください。あれで少しは頭が冷えたなら良かったのですが……まったく、このお邪魔馬と来たら性懲りもなく…」
「はは…お邪魔馬で悪かったですね。でも、千尋がそんなに嫌がるなら、『千早』をごり押しするのは控えます。嫌じゃなくなったら、その時は、いつでも遠慮なく名付けてあげてくださいね」
どうやら殴り合い自体には勝負がつかなかったとは言え、問題の方は解決したらしいと察して、千尋は安堵した。柊も風早も、ブツクサ言ったり軽口を叩きながらも、昨夜の遺恨はないようだ。これなら遠夜が逆恨みされることもないだろう、と思ったものの、千尋は念の為に釘を刺しておくことにした。
「二人とも…喧嘩に横槍入れられたからって、逆恨みで遠夜を苛めたりしちゃダメだからね」
何を言われたのかとキョトンとした後、先に思い当たった柊が口を開いた。
「はて……遠夜を逆恨みするつもりなど微塵もございませんが……もしや我が君は、忍人から何かお聞きになられましたか?」
「う、うん…えぇっと……二人を止めてって頼んだら、逆恨みされるから嫌だって言われて……あっ、私に余計なこと吹き込んだとか言って忍人さんを苛めるのも無しだよ。逆恨みや八つ当たりや言いがかりで遠夜や忍人さんに危害を加えたら許さないからね。当分、口きいてあげないよ」
慌てて千尋が言い募ると、柊と風早は表面上は言われずとも解っているという態度で、しかし心の中で小さく舌打ちしながら渋々とその言に従ったのだった。

-了-

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